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共同親権制度導入までやるべきこと [家事]



1 共同親権は既定路線であるが内容は不確定

世界の流れであるし、法務省の審議会の自然流れに沿った
法務大臣の発言でもあることから
共同親権制度が導入されるということは
既成の事実です。

しかし、共同親権制度の内容は
諸外国においていろいろ変化があるので、
その内容については不透明だというべきでしょう。

一部では、共同親権制度にさえなれば、
離婚をしても、子どもたちを養育することができる
と考えている方々がいらっしゃいます。

また一部には、共同親権制度となっても
何も変わらないという人がいます。

私はどちらも極端な考えであると思います。

離婚後の子どもの養育が形はともあれ
両親によって行われるということは
子どもにとって、
離婚によるマイナス影響を軽減する大きなチャンスです。

これまで単独親権制度の下で、
子どもが別居親から養育を受ける権利が
大きな制約を受けて、
離婚によるマイナス影響を
子どもたちが無防備にかぶっていた状態でした。

共同親権ということで、
離婚後も、子どもは両親から養育を受ける権利がある
ということを国が制度化することによって
多くの子どもたちが
別居親からの養育を受けるチャンスが広がるでしょう
ここは軽視してはなりません。

但し、離婚した両親が憎しみあい、嫌悪しあっていれば、
同居親は別居親に
子どもを合わすことすらしない状態が続きますから、
共同親権を宣言しただけでは、解決しません。

例えば、ある国の制度は、
子どもが生まれた時から、
それぞれ個別に固有に親権を有し、
離婚をしても親権は影響を受けない
という共同親権制度があります。

これだけでは、相互憎しみ事例において、
子どもが別居親から養育を受けるきっかけが
生まれません。

そう、
これは、離婚する前の
一方が子どもを連れて別居している
現在の日本の共同親権制度の状態と
何も変わりません。

これだけでも共同親権制度ということだけで
相互憎しみ事例は今と同じこと
ということになるでしょう。

共同親権制度をチャンスです。
私たち大人が、子どもたちのための
よりよい在り方を提案し実現していくことが
大切だと思います。
大きなチャンスであることを
軽視してはいけません。

2 子どもの権利を基本に据えよう

日本は、もともと尊属殺人が通常殺人よりも重く処罰されていた
という歴史があります。
子どもが親の付属物であった歴史が長くあります。

もっとも、付属物と言っても、
悪い側面だけではなく、
それだけ親と子の結びつきが強かったという側面もあり、
親が子どもを責任をもって育てた
という歴史もあるようです。

ところが、
ゲダモノ未満のような親が出現し、
子どもの利益よりも自分の利益を考えて行動するが
日本社会の中で一定割合に達してきたため、
子どもを親から守るために
「子どもの権利」という概念で、
国等が私的生活に介入する必要が生まれた
と考えてみるとわかりやすいかもしれません。

分かりやすく言うと
「親がしあわせでなければ子どもも幸せではない
 だから子供のために離婚する。」
等という安易なフレーズをよく聞きますが、
実際は子どもの将来などを考えていません。

離婚をして、
子どもの健全な成長を考えず、
子どもを別居親に会わせない親が
つまり自分の幸せのために
子どもの幸せを考えない親が
かなりの数に上るようになりました。

ところで
自由に離婚ができる国は、
先進国では日本だけです。
通常、離婚は
離婚後の子どもの養育計画が確立して
初めて許可されるようになっています。

親子断絶防止法の真の不十分点
http://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-31

離婚は自分たちが勝手に決めておいて、
子どもたちの意見も聞かないくせに、
どちらにつくかということだけ
子どもたちの発言を許すという
傲慢な論理の人たちが大勢います。
子どもは自分の利益のために利用しようとしている
と感じることが少なくありません。

離婚に当たっては、
子どもに権利がある
健全に成長する権利があるのです。

このことを多くの大人たちが理解するべきです。

共同親権制度には、
子どもの権利が確保される制度や運用が
セットになっていなければなりません。
子どもの権利があるということを
きちんと大人たちが自覚する
これが共同親権制度を実質化する基本中の基本
大原則です。

ここを放置して形だけ制度が作られようとすると
かなり中途半端な抜け穴だらけの
子どもにとって迷惑なだけの制度となる心配もあります。

3 何が足りないのか(実質的な問題の所在)

現状からみて問題は、
離婚をした父と母に
一人の子どもを共同で育てるための
最低限度の信頼関係さえ成り立ちにくい
ということが最大の問題だと思います。

会いたくない、話したくないは良いとしても
電話やメールすらかわしたくない
という重症なケースは現実に多くあります。
こういうケースの中には、
居場所を知られること自体が不安だとして
住所も分からないため、手紙も出せないことが多くあります。

妻と夫が逆のパターンもありますが、
話をイメージしやすいように表現すると

妻は夫を嫌悪して、憎悪しているのです。
でも、なぜ嫌悪して憎悪しているかについて
妻は説明できないし、原因もはっきり自覚しない
夫も理解できないし、どうして妻がそうなったかについて
原因が分からない。

本来であれば、その状態と原因を理解し、
嫌がる原因を薄める行為を共同で行うべきなのですが、
分からないものだから
妻が自分を嫌がることを強める行為を延々繰り返してしまう。
そんな悲惨な状態をよくみています。

4 妻の恐怖、嫌悪の問題を克服させるための3要素

それは当事者夫婦だけが解決することではなく、
第三者の関与がなければ
なかなかクリアされないと強く感じています。

つまり、
1)妻の夫に対する嫌悪感、恐怖感を低下させる工夫、
2)夫の妻に対する怒りを低下させ、葛藤をさらに高めない工夫
3)面会を具体的に進めるための第三者の援助
が必要だということになります。

5 理解を浸透させるべき要素としての 
連れ去り別居をする妻の心情に対する理解による
夫への負の感情の低減の試み
 
これは、夫、妻自身、支援者の
3者の共通理解が必要です。

先ずは妻の状態についての理解です。
これが夫にはなかなか理解できないようです。
昨日までうまく行っていたのに
どうして急に別居するのか
という訴えが多くあります。

子連れ別居は、こういうことに対する対処を
全く省略するので、
益々こういう傾向が強くなって行きます。

そうして、どうしても人間は合理化しますので、
昨日まで妻とは普通にやっていた
この子連れ別居は妻の意思ではないのではないか
弁護士や行政にそそのかされたのだ
妻も被害者だし、自分も被害者だ
という発想になることは自然な流れになってしまいます。

しかし、実際の奥さんの言葉を聞くと
「夫と同じ空間で呼吸をしたくない」
「街で後ろ姿の似ている人を見ているだけで息ができなくなる。」
という言葉出てきますし、
実際に家庭裁判所で声をかけられただけで
気を失ったという人もいます。

夫と過ごす家に帰ることが嫌で
うつ病になったという人もいます。

実際はそのくらい嫌われているのですが、
夫は、嫌われる理由に心当たりがないので、
嫌われているということを信じないのです。

心当たりがないことは容易に理解できます。
要するに私もあなたも、
明日には妻が子どもを連れて家を出ていく可能性があると言われて
「ああ、そうだろうな」とは思わないことと同じことなのです。

しかし、妻の言葉を素直に受け止めることが必要です。
自分は嫌われている。
弁護士や行政がどう言おうと
外の多くの妻は子連れ別居をしないし、
そもそも弁護士や行政に相談に行かないのです。

誰が悪いかはともかく、
夫と一緒に生活したくない状態になっている
ということだけは理解しなければなりません。

これは妻自身も理解しなければなりません。
本当に夫に原因があって、
今の嫌な自分があるのだろうかということを
自問自答しなければなりません。

ヒントは、いつから夫と心が通わなくなったのか
ということです。



 産後の変化(脳科学的に)
「妻は、意外な理由で、実際に夫を怖がっている可能性がある。脳科学が解明した思い込みDVが生まれる原因」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-07-17
  産後の変化(ホルモンバランスの変化)
   「もっとまじめに考えなければならない産後クライシス 産後に見られる逆上、人格の変貌について」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2015-10-12
  内科疾患等
   「甲状腺機能障害、産後うつ、月経前症候群の対人関係に及ぼす研究を! 家族再生・崩壊予防学会の創設を訴える。」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-03-08

夫側の事情
   
   存在しない夫のDVをあると思いこむ心理過程 思い込みDV研究
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-12-04

   「正しい」夫の家事、育児が、思い込みDVを感じるまでに
妻を追い込む理由についての考察と、その予防方法と事後的対処方法の検討
http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/omoikomi.html
等多数


6 支援の在り方 あるべき支援

現在の支援の在り方の最大の問題点は、
妻側の事情しか聴かない
ということにあります。

妻側の事情しか聴かないのに
「夫はあなたを殺すかもしれないから直ちに逃げろ、
家に帰るな、居場所を知らせるな。」
ということを言うわけです。

「支援者」も、妻の夫に対する
恐怖感、嫌悪感が、
夫にだけ原因があるという見方をしてはいけません。
現代では、「支援者」こそが、
共同親権の実質化を阻む要因となっている場合もあります。

無責任に妻の不安をあおり、固定化しているという
妻自身の精神面にも悪影響を永続化しています。
子どもの健全な成長を妨げ、
子どもに会えない夫やその関係者を大量生産しています。

事実このような夫に対する妻の嫌悪の状態でも
適切にかかわることができれば、
離婚は避けられないとしても
子どもの両親としてかかわることが可能となったケースが
増えてきています。

もっともっと、
ソフトランディングをする方法を模索して、
相互理解を深めることが大切です。

そもそも、相互に嫌悪感や恐怖感を抱かなくて済む
方法を真剣に模索することが必要だと思います。

このブログの感想をいただいたのですが、
ある女性の方が、離婚を考えて、ネット検索などして、
夫のモラルハラスメントの記事を読んだり、
電話相談などをして
「夫の加害行為があなたの苦しみの原因だ」
等という回答を聞いているうちに、
これらの対応が、自分のメンタルを悪化させているのではないか
と感じてきたそうです。

しかし、実際に面談して相談に乗ってくれた方は、
子どものことも考えて、熟考することを勧めてくれたようです。

ここで「命の危険があるから逃げなさい」
等と言われたらと思うと恐ろしくなります。


出来ればもう一歩進めて、
夫に対して働きかける機関が必要です。

あなたに原因がなくても奥さんは苦しい状態だ。
あなたの行動を修正することによって
家族が安心してこれからも生活できるかもしれない。
今「自分は悪くない」と言い張って
聞く耳もたないというような態度をとると
一生後悔するんだよ
子どもも傷ついてしまうことになるよと
ちょっとの工夫を提案する
という支援です。

仮に妻の精神不安が
夫との対人関係トラブルに原因があるならば、
夫婦の在り方の修正こそ
あるべき姿であることは誰もがわかることです。

現在の問題点の第2は
妻の精神不安=夫の加害行為
との決めつけです。
夫婦の問題を資格も何もない
偏見に満ちた講習を受けただけの
公務員やNPOが
現実の夫婦の個別の事情の吟味も何もなしに
ただマニュアルに従って担当していることです。

夫から事情を聞かない理由は、
マニュアルに書いてあります。
虐待された妻が支離滅裂なことを言うことと
加害者である夫が冷静に嘘を言うことはセットだそうで、
加害者の夫の論理的説明を聞くと騙されて
寄り添うことができないのだそうです。

そんなことも見抜けない相談員によって
子どもの将来は塗りつぶされているのです。

でも本当は、
講習で話されたアメリカの事例を鵜呑みにして
「夫は殺人鬼であり、自分にも暴力が向けられる」
というような怯えがあるのかもしれません。

このような妻の不安=夫の虐待だから妻を逃がせ
というマニュアルを改めることは必須だと思います。


支援の事情
   不安を肯定することによって、
   不安を固定化し、増強する
   「危険なのは面会交流ではなく、別居、離婚の仕方 先ず相互理解を試みることが円満離婚の早道」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2017-05-11

   「支援による子連れ別居は、女性に10年たっても消えない恐怖を植え付ける  女の敵は女2」
   https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2016-12-10



当面は、できるはずの面会交流の実行を増やすことです。
面会交流の場所が無いということが
結構実務的に面会交流を妨げていることがあります。
特に農村部です。

当面は、
妻が安心して、夫と子どもが面会できる施設を
行政が増やすことです。

面会交流施設は市町村ごとに作る必要があります。
図書館や科学館などの公共施設ももっと利用しやすいように
することも考えてほしいものです。
県や政令市では、
宿泊施設を併設した面会施設を作るべきでしょう。

支持的な支援者・企業も増員するべきです。
面会の環境づくりを助けることを主眼とする必要があります。

面会交流を支援する協力テーマパークもあるとよいと思います。
どんどん便宜を図るべきです。

あるべき支援について
   家事相談センター企画書
  http://www001.upp.so-net.ne.jp/taijinkankei/kajityousei.html

  公的面会交流事業の開始を求める
  http://heartland.geocities.jp/doi709/menkaikouryuu.html

共同親権制度は早晩実現します。
事情を知っている人たちが
どんどん実情を広めて、
制度を実質化する提案をするべきです。

その際、子どもの利益に視点を置くことが
実現のカギになると思われます。

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Stanley Milgramの服従実験(アイヒマン実験)を再評価する 人は群れの論理に対して迎合する行動傾向がある [進化心理学、生理学、対人関係学]




スタンレー・ミルグラムのアイヒマン実験は、
認知心理学の文献を見るとよく出てくる。
行動科学の教科書ならばなおさらである。

これは1960年から始められた実験で
かなりのインパクトを与えた。

この実験結果は、いじめ、パワーハラスメント、
あるいは、離婚紛争の特定の類型の場合など、
人間の加害行動を分析し、防止するために
とても有益な事件結果であると思う。

但し、それらに実践にいかすためには、
ポイントについて整理し直す必要があると感じている。

以下、再評価、再構成を試み
実践に応用することを試みる。

1 ミルグラムの服従実験の概要

ミルグラムの実験の概要は以下の通り。

イェール大学教授の実験ということで
協力者を公募した。
一回の実験で応募者は1名ずつ実験に参加する。

実験は、教授と応募による被験者、
そして、仕込みのサクラの3人である。
教授と被験者は同じ部屋にいて、
被害者役のサクラは基本は別室にいる

これは記憶力の強化の実験だと称して、
簡単な確認テストを被験者が出題する。
それに対して被害者役が回答するのだが、
誤答の場合は罰として
腕に巻いた装置から電流を流される。
そして誤答するたびに、15vずつ電圧を強くする
最終的には450ボルトに達し、
その後は誤答するたびに450ボルトが流される。

被害者役には、実際は電流は流れていないが、
役者なので、電圧に応じた苦しみの演技をする。

この実験は10年以上にわたり各地で続けられた。

「多くの被験者は、電撃を受ける人物の懇願がどんなに切実になろうとも、電撃がどんなに苦痛をもたらすように見えようとも、教授に従い続け、最高レベルまで電圧をあげて罰を与えた。」

(ウィキでもよいし、河出文庫「服従の心理」)

最も多くの被験者は、被害者が苦しんでいることを目の当たりにして、
教授に文句を言って、実験の中止を提案したりする。
しかし、用意された説得文句によって電撃を与え続けた。

ミルグラムがした被験者についての分析として、
被験者の多くがサイコパスというよりも、
礼儀正しい人、約束を守ろうとする人、途中でやめることが気まずい人
が、最後まで義務を履行したとしている。

過労死する人の典型とぴったり重なる人物像である
このことは大変興味深い。

2 ミルグラムの服従事件の目的

現在、認知心理学を学ぶ者からすると、
この実験が特定の政治的意図に基づいて行われた
というものではないことは簡単に理解できることである。

ハンナ・アーレントが
「イェルサルムのアイヒマン」を
雑誌ニューヨーカーに連載を始めたのが1963年であり、
ミルグラムの実権は1960年に始まっていることからも
それはわかる。

また、権威を国家権力と同視しているわけでもない。

人間の行動傾向、行動原理の研究であり、
現在で言えばモチベーション研究の草分けともいえるべき
画期的実験である。
純粋な科学であり、
それをどう現実社会に応用するのかは
応用する人々の問題である。

私は、この実験の成果を
パワーハラスメントやいじめの予防に応用できると考えており、
第三者が一方に支援した夫婦間紛争の解決のヒントにもなると
考えている。

ただ、その際は、
使い勝手を良くするために、
実験結果をカスタマイズする必要がある。

2 用語の再評価、再構築

言葉についての再定義をしようと思っている。
その言葉は、
「服従」と「権威」である。

ⅰ)服従

先ずは服従という用語である。
原語は、obedience である。
服従と訳すことに誤りはない。

ただ、日本語の服従とは、
自由意思を制圧されるに足る支配を受けている状態
をいうという感覚がある。
つまり、服従している人は支配者の命令以外の
他の選択肢を持てない状態にあるという語感がある。

しかしミルグラムの実験では
暴力や脅迫その他の不利益の示唆による自由意思の制圧はない。
このため、誤解を与えるのではないかという懸念があるから
「服従」という言葉を使うことには抵抗がある。

こういう場合を表現する日本語は難しい。
実際は誘導に従うだけである。
「迎合」程度の表現が
正確ではないかと思う。

但し、もろ手を挙げて迎合しているわけではなく、
葛藤を抱きつつ、結果として
迎合した行動をとる
ということは留意している必要がある。

ⅱ)権威

次に「権威」の意味を検討する。

ミルグラムの実験では、
権威の象徴として、「イェール大学の教授」という要素が使用された。

優秀なことで有名な大学の教授ということで、
知識、知能が秀逸であることが示されている
また社会的権威がある(多くの人が一目置く)存在である。
社会的に意義のある実験を実施している人だ
という人的属性をもつことになる。

人的属性と同時に、
自分が参加している実験が社会的、歴史的意義のある事件であり、
遂行することが自分の役割だということを感じ易い
ということは異論のないところだろう。
電撃を与えるという危険な行為ではあるがが、
知識や経験に裏付けられて行っているはずだから、
安全であるはずだとか、
これまでも危険が無かったことが裏付けられているはずだ
という安心感もあったと思われる。

権威とは従うことで安心感を得られる存在
であることが必要であろうと思われる。
責任を権威に転化できるということを
ミルグラムも重視していた。

もう一つ重視するべきポイントとして
被験者は、被害者に電流を流したことについて、
被害者の落ち度を指摘することが多かったと指摘している。

これらの事情から総合的に考えると、
私は、被験者が従った「権威」とは
教授に属する評価というような人的側面だけではなく、
その指示による行為の結果を
正当化できる要素があることが必要だという
行為の属性の側面も必要であると考える。

それは例えば正義であり、
または結果に到達するための効率であり、
または実験を進める秩序である。
約束された、あらかじめ定められたルールであったりする。

被害者の落ち度を強調する理由は
自己弁護であるが、
正当性によって、
被害者の身体的平穏を電流で壊すことの
自己の行為を弁護している
ということになると思われる。

そうだとすると、
権威は、正しさや秩序で正当化されていなければならない。

仮に教授が
「被害者が自分に挨拶をしなかったので
 回答の正誤にかかわらず
 どんどん電圧をあげて電流を流してください。」
という指示を出していたら、
被害者の落ち度を理由にすることができないのだから、
抵抗性は増加したことになるはずである。
教授の権威も著しく低下しただろう。

権威とは、
権威者という人的属性の側面と
指示の内容の「正当性」
つまりもっともらしさという行為内容の側面が
要素として不可欠であると私は考える。

3 「権威」を「群れの論理」として再構成する

そうだとすると結局権威は何であり
どこから来るのか。

ミルグラムは、これを
「なぜ服従するか」という服従側の論理として分析している。

これは、人がヒエラルキー的な構造の中で機能してきたことによる
と説明している。
つまり、ホモサピエンスが文明をもつ以前、
戦闘能力も逃走能力もない人間が
厳しい自然環境の中で生き残った理由が
ヒエラルキーのある群れを作ったことにあるというのである。

統一意志の元、
攻撃を加えて狩りを行い、
子育てや植物採集を分担して行い、
それぞれの力を発揮したことによって
生き延びることができたというのである。

人間が群れを作ってきた以上、
群れの意思に従う本能が遺伝子に組み込まれたはずだ
というよう主張だと私は解釈している。

つまり、「権威」とは「群れの論理」である。
それは、行動を支持する権威者であり、
正義であり、ルールであり、道徳である。
個体を集結させる絆のようなものである。

必ずしも権威者である必要はない。
「空気を読む」という日本語がある。
人間が集まっている時に、
一時的に言葉を使わないで
何かの行動をするコンセンサスが生まれる時がある。

例えば、
皆で小さいことは気にしないで
ただバカ騒ぎをしようというコンセンサスが生まれた場合、
哲学的な話を提起しないというようなものだ。
敢えて、バカ騒ぎなどして何が得になるのだ
等と発言しようものならば
「空気を読めない者」と評価されてしまう。

これも群れを優先する論理であり、
群れの理論に迎合している現象だと思う。

群れの論理は、
権威者がいなくても
一時的なものでも
あるいは漠然とした多数であっても
人間は従う行動をとってしまうという傾向がある
ということになると私は考える。

4 迎合に伴うジレンマとは何か

ミルグラムの実験は、
イェール大学の教授という権威者と
意義ある実験の遂行という秩序、正義等の
群れの論理が権威であった。

被験者は権威、群れの論理に従ったのだが
大きな葛藤があった。

これは、被害者役の苦痛に対する共感なのだろうと思う。
決して正義ではない。

実験における正義は実験の遂行だった。
被害者の苦痛や実験停止の懇願は
正義を遂行することの妨害でしかなかった。
人間は、瞬時の(熟考しない)行動決定において、
対立する当事者の
それぞれの正義を評価することは困難である。

被験者が感じたジレンマは、
被害者の苦しみに対する共感だったのではないか
と考えている。

つまり、ジレンマとは
他者に対する共感に基づく行動感情と
群れの論理によっておこる行動感情の
矛盾に対面していたことなのではないかということである。

共感に基づく行動感情とは、
被害者が電撃で苦しそうだから
電撃を流すことをやめようかという感情である。

これに対して群れの論理によっておこる行動感情とは、
実験を遂行するための共同行動を完遂しよう
という感情である。

この行動感情は、両立しないため、
どちらかを選択しなければならず、
葛藤が生じるわけである。

だから、群れの論理よりも共感の方が強まれば
群れの論理ではなく共感感情に基づく行動をすることになる。
これもミルグラムの実験で明らかにされている。

ミルグラムは、実験の条件をいくつか変えた
変種の実験を周到に行っている。
その一つの変種の実験として、
被験者と被害者との距離を変えて実験を行っている。

① 被験者と被害者を別々のスペースに配置し、
  間を曇りガラスで仕切る。
② ①に加えて、被害者の声が聞こえるようにする。
③ ②に加えて、場所を同じ部屋にする。
④ ③に加えて、電撃を与える時に
  被験者が被害者に手を添える。

①から④に行くにつれて、
被験者は電撃を与えることを拒否する確率が増えた。

共感は、相手の置かれている状況を
自分が置かれている状況として認識し、
生理的、感情的反応をすることである。

そうだとすると、
相手に近くなるほど共感しやすくなる。

近づくほど権威に対する抵抗が生じることについての
ミルグラムの分析は、
共感がもたらす合図、否認と知覚の狭窄、相互作用の場
行動のつながりの実感、初期の集団形成、習得した行動傾向
等としている。

主として、共感に基づく行動というくくりでとらえることが可能であろう。

5 ミルグラムは何を発見したのか

私は、ミルグラム実験は、
人間は権威に迎合するという以上の心理を発見している
と考えている。

つまり、
人間は、共感に基づいて行動するという性向があり、
群れの論理に基づいて行動するという性向もある
ということが第1である。

そうして、共感に基づいての行動は
群れの論理によって後退してしまう傾向がある
ということが第2である。

また、群れの論理の正当性については、
瞬間的な行動の場合は、
疑わないで迎合する傾向にあるということが
第2の結論のメカニズムなのだと思う。

これを対人関係学的に表現すると、
人間は、
自分が属する群れの論理に従う傾向にあり、
群れの論理から逸脱した人間は
群れの仲間であると実感しにくくなり、
共感を閉ざす傾向にある
ということになる。

表現を変えると、
群れの論理である
正義、秩序、効率等が働いてしまうと、
それに反する者に対しては
共感を閉ざしてしまい、
苦しみや悲しみ、孤独等の負の感情を示しても
助けようとか、協力しよう
という気持ちになれないということである。

6 効率について補足

「効率」が群れの論理であるということについては、
今回、ミルグラムの分析を受けて
初めて思い当たった。

群れの論理は、
人を機能させるためのツールである
一人ではできないことを
集団で行うというものである。

例えば動物を集団で狩るという場合、
音をたてないで動物に近づくような場合に、
興奮を抑えられなくて声を出す者がいたとすれば、
狩ることのできたはずの動物を
取り逃がすことになってしまう。
群れの目的を達することが効率であり、
正義である。
群れの目的を阻害する者は、
群れの論理に反した行動をする者だということになる。

効率を群れの目的の達成ととらえ直すと
効率は間違いなく群れの論理となる。

もっとも狩猟採集時代の大半は
効率はそれほど問題にならず、
「妨害か推進か」という程度の
大雑把な問題だったのではないか。
文明が進んでいくにつれて、
オールオアナッシングから
より多くの物を獲得する効率が重視され始めた
ということが、
近年の傾向にも合致して実態を反映しているのではないかと
考えている。

7 パワーハラスメントへの応用

パワーハラスメントの典型として、
同僚の面前で、従業員を罵倒する
という行為類型がある。

同僚は沈黙を守り、
当該従業員は孤立する。
誰も自分を助けてくれず、
不合理な罵倒が職場で是認されていると感じ、
自分の存在が否定されているような危機感を感じる。

なぜ同僚が助け舟を出さないかということについて、
その場にいた同僚から事情聴取をする機会があった。
すると、一様に、
「発言ができる雰囲気ではなかった」
という回答があった。
私は、
「ここでアクションを起こすと
次の標的になるからではないか」
と問いかけてみた。
積極的な賛同というよりも、
消極的な肯定だったということが
リアルな評価だった。

しかし、実態は、
同僚たちは、被害者に対する共感よりも
群れの論理を優先させたという側面もあるかもしれない。

つまり、
パワハラ上司という権威者が
企業の利潤追求という目的を基本として、
それに逸脱したということを指摘するわけだ。
(冷静に考えれば言いがかりであることが多い)
企業という群れの論理に対して
人間の行動傾向として
異議を申し立てにくいという側面があったのだ。

同僚たちは、
被害者が精神的に追い込まれているだろうという認識は持っている。
よく聞く言い訳としては
「でも、上司の言っていることは間違っていない」
ということを言うものだが、
それは群れの論理に迎合していることを
明確に示すものだったのだ。

もっと群れの論理が顕著なことは、
パワハラ上司の取り巻きである。
あるいは、パワハラ上司の上司かもしれない。
人を追いつめても一切否定的なことは言わない。
群れの論理が強烈に支配しており、
「責められる被害者が悪い」
ということを言いだす。

もはや葛藤も生じないほど
パワハラ上司との群れの一体性を感じており、
同時に、被害者と同じ群れに帰属するという意識は
実質的に失われている。

パワハラを予防する一つの方法としては、
発言の内容、目的が企業の理念に沿ったものでも、
例えば同僚の面前で叱責してはいけない
長時間にわたって叱責してはいけない
具体的に業務の改善方法を示さなければいけない
等の禁止事項を増やすことが一つかもしれない。

しかし、根本的問題としては、
共感を閉ざさない方法を構築するべきであろう。
一人一人の従業員の置かれている状況を
自分が置かれているものと把握し、
従業員と共同して問題を解決していく
という姿勢が最良である。

そのためには、
部下は自分の仲間だという意識を徹底することと
上司と部下を分断させるような方針を
会社経営者は下に降ろさないということ
上司の上司が、
上司を飛び越えて従業員の置かれている状況を
把握することを可能とすることだということになる。

8 いじめへの応用

子どもたちの間では
つまらないことが権威になる。
ゲームが特異なことや体が強いこと
漫画の知識があること
スマホを自由に操作できること

子どもたちの中では、
物おじしないで他人に指図する子どもが
気がつけば権威をもっていることもある。

一つ一つの瞬間的な友達同士の娯楽の中で
不用意な権威が発生することがある。

権威は簡単に生まれすぐに消滅する。

しかし、不用意な権威者に
取り巻きができてしまうと、
権威は強力かつ持続的なものになってしまう。

明らかに不当な
権威者の被害者に対する要求によって
被害者が苦しんでいたとしても、
取り巻きは権威者との仲間であることを意識するため、
被害者の苦しみに対して共感することができない。

権威者や取り巻きにとって
いじめは群れを守るための正義なのだ。

ここで被害者が
授業について行けず、
あるいは結果として授業の効率を下げてしまい、
群れの頂点に立つ教師から
効率を害する者
という評価が下ると、
群れの論理は被害者を排除するようになる。

はじめから誰かの悪意が存在しないとしても、
仲間からの除外が起こりうるし、
共感を閉ざす対象が生まれてしまう。

その結果、偶然の攻撃が肯定的に受け止められ、
やがて悪意の攻撃が繰り返されるようになる。
積極的な攻撃とともに重大な打撃を与えるのは
仲間はずれという孤立である。

被害者は、自分が毎日通わなければならない学校という人間集団が
自分の味方がいない人間集団であると受け止めていく。
きわめて不気味であり、
時折繰り出される攻撃が
傷口に塩を塗るような刺激となる。
やはり自分には傷口があるということを
いやがうえにも再確認させられる。

いじめが増えている学校に足りないものは何か。

被害者に対して共感して行動を起こすということである。
嫌がっているから、かわいそうだから
止めるということができていない。

いじめを生み出さないためには
逆回転をする必要がある。
せめてクラスメイトにだけは
共感を絶やさないという
教育、訓練が必要だ。

なぜこれができないのか。

それは、学校の中で、
群れの論理が肥大化しているからだ。

正義、秩序、ルール、効率等が
子どもたちの価値観において優先されている。

子どもという未熟な存在は
これらの群れの論理から
きわめて簡単に
逸脱行動をしてしまうものである。

簡単に多数から群れの論理で
排除されてしまうことになる。
これが現場だとすれば理解しやすい。

一人一人の子どもたちの
短期目標によって順位をつけるということを控えめにして、
共感を占めてして助け合うという行動を
積極的に取り入れるべきだろう。

成績についての一喜一憂ではなく、
人に助けられる喜び、安心感
人を助けることの喜び、感謝をされる喜び
というものを体験させる教育こそ
いじめ防止の特効薬になると考える。

我田引水的にミルグラムを改変してしまったかもしれないが、
折に触れて再学習をするべき
素晴らしい研究だと思った。

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「利己的遺伝子」論批判 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 「利己的な遺伝子」が生まれた経緯

利己的遺伝子論は、ドーキンス博士の衝撃的理論である。
比ゆ的に言えば、進化とはDNAの永続性のための営み
ということになる。

人間も他の動植物もDNAを存続させる乗り物に過ぎない
ということを発表し、
認知学者を中心に衝撃を与えた。

あたかも、フロイトが、無意識を発見した時の
ヨーロッパ知識層が抱いたような衝撃なのだろうと思う。
少しずつ、人間の行動、命の営みが解明されていく
人間の真否性のベールが明かされつつあるその途上の大きな出来事である。

ドーキンス博士は、どうして「利己的な遺伝子」を著したのか。
本文に明示してある限り、二つのことが目的とされている。
群淘汰説の論理的な否定と
人間が時折見せる利他的行動の理由を解き明かすことだ。

群淘汰説とは
進化における環境への適応をする主体を
個体ではなく群だとする。
群、即ち種や集団の利益のために
個体が奉仕することが行われ、
そのような構造の集団は強いため
世の中は自己犠牲をする個体集団の群れが多数となる
というような結論になってしまう。

このような「群淘汰説」は、正面切って正当性を主張されることはないが
形を変えて、素朴に主張されることがいまだにあり、
人々の素朴な正義感に合致するので
見過ごされることがある旨ドーキンス先生は指摘している。

しかし、群淘汰説を否定すると、
個体が群れのために自己犠牲の行動をする理由について
遺伝子レベルでは説明がつかなくなるので、
そのような「利他行為」の説明方法が必要となる。
これが、血縁者の利益、近似遺伝子の利益を図る説や
相互互恵説(将来的なギブアンドテイクの期待)を
生み出す要因となっている。

2 考察の前の確認

私は、利他行為、利己行為という二者択一的な考え方に疑問があるが、
どちらかと言われれば、
利己的行為をすることが生物の基本であると考えている。
比ゆ的に見れば、
利己的行動をすることこそ遺伝子の普遍的法則だと言ってもよいと思う。
それでよいと思う。

ただ、利己的、即ち個体が自分の利益のために行動をすることの意味を
もう少し複雑に把握するべきだろうと考えている。
利己行為と関連付けない利他行為がある
と単純に切り離して考える考え方が、
議論を錯綜させていると思っている。

その説明をする前に、くどいくらいおさらいをする必要性がある。
遺伝子は意志を持たないということだ。
遺伝子を共有する種自体が、環境不適合によって滅亡しているのだから、
遺伝子自体が滅亡しているという現象はありふれて起きてきた。
遺伝子は必ずしも万能の間違いのない行動をするわけでもない。

「利己的遺伝子」と遺伝子に意志があるような比喩を使うのは、
長期間かけて生き残ってきた遺伝子の
法則性に対する比喩である。

しかし、人類が子孫を遺してきたのは
あくまでもこれまでの環境に適応してきたという結果であり、
例えば将来を約束するものではない。
むしろ、人類に関して言えば
自らが作り上げた環境によって、
種が滅びる可能性を高めている状態である。
また、環境への適応という一連の現象は
何万年、何百万年と言いう長い営みの中で生まれるのであるから、
その意味では、現在、我々が生き延びているのは、
現在進行形ではなく
過去の適応の結果を著しているに過ぎない可能性もある。
あたかも光り輝いて見える恒星の映像を
地上で観察しているに過ぎないことと同じである。
実態は既に爆発して亡くなっている可能性すらあるのである。

これをくどくどと確認しないと
比喩が比喩であることを忘れてしまう。

さて、では、人間の利他的行動をどのように説明するか
働きアリや働きバチの自己犠牲の行動をどのように説明するか
人間が生きるということはどう言うことなのか。
われわれの疑問は、実はこういう問題であろう。

3 哺乳類における母親の子に対する利他行動

先ず、典型的な利他行動であるところの
親の子に対する犠牲的な行動については
少し独特の視点から説明することが必要だろう。

ここでは群れを作らない動物の、例えば熊の
利他行動を説明する。
熊は、母熊だけが子育てをする。
父親や祖父母、兄、姉は子育てに参加しない。

母熊は子熊を守るために、無謀な闘いに挑むこともある。
子熊を逃がすために、自己犠牲的な行動に出ることもある。

しかし、これは実は利他行動ではない
立派な利己行動である。

母熊にとって子熊は自分の体の一部であり
自分と子熊の区別がつかない。
懐胎期間中は実際に子熊は母熊の体内に存在し、
有機的に母熊とつながり母親の体の一部を構成していた。
自分の体内から生まれてきた子熊だから
自分の一部であると感じることに何ら不思議はない。

だから、自分とは違う個体に愛情を注いでいるというよりは、
自分の体の弱い部分をいたわっている
という感覚が近いと思われる。
私はそれを愛情と呼んで何ら差し支えがないと思っている。

そのため、子どもが自分とは別異の意思主体であると
種々の事情で認識するに至るや
それまで愛情深く育てていた子どもを
自分の元から遠ざけようとするわけである。
これが「子離れ」である。

これは、誰かが意図してこういう行動や仕組みを作ったわけではない
たまたま、そのような行動をしてきた結果
庇護が必要な時期の子どもが母熊に守られて
遺伝子を継承していくことができたという結果に過ぎない。

この仕組みは、おそらく
哺乳類には、ある程度不変な行動であると推測している。

もちろん群れで生活する人間も
このような遺伝子的行動が見られる。
母親がともすれば、自分の子どもを独立した人格だと認識しきれず、
自分の思い通りに行動をすることを強く求めることがある。
父親の子どもの支配とはまた別な
母親の子どもの支配があるように感じられている。

4 ハチの「利他行動」

ハチやアリの利他行動は、まぎれもない利他行動であるように見える。
ミツバチが、巣を守るために、敵に針を刺し、
針を刺すことによって自分の体を崩壊させて死に至る。
これほどの自己犠牲はないように思われる。

しかし、ハチは、巣を守るために自分を犠牲にしようという
目的をもって行動しているのだろうか。

疑問を言葉にすると
1)ハチは、本当に「巣」を守ろうとしているのか。
自分がいる場所、安住しようとしている場所に、
妨害物が近づいたので、
反射的に攻撃しているだけではないのか。
つまり、匂いや光、風などの
変化に反応しているのではないかということである。
巣を守るための攻撃だと限定してしまうと、
巣の近く以外の場所では、
ハチは刺さないということにもなってしまうが、
これは違うだろう。
さらには、自分が生まれた巣ではなくても、
移された巣になじめば、巣を守るかのような行動をするだろう。
2)次に、ハチは、相手に針を刺すことで自分が死ぬ
という因果関係を把握しているのかということである。
因果関係が把握されてこそ犠牲という評価が成り立つだろう。
もちろん動物の個体であるから、
自らの命を長らえようとする性向があることは当然だと思う。
しかし、ハチは死のうとして行動をしているのではなく、
単に針を刺すという行為だけを決定している
のではないかということである。
それによって、自己という個体が死ぬという結果
までは想定していないと考えられないだろうか。
ハチの因果関係把握の能力も低いと思われるが、
それ以上に、攻撃行動に出るというシステムが
強く働くような仕組みがあるということである。

人間で言えば怒りである。
人間でさえ、怒りで我を忘れて、危険な行動に出ることがある。
 これらの疑問を解消する結論は、
ハチにはもともと自分を生き永らえさせようとする遺伝子があり、
巣のようなものに近寄るものがいた場合に、
自分を守るための攻撃が発動しやすくなるシステムが
遺伝子上組み込まれているという結論である。
たまたまそういう習性をもっていたから、
巣を中心としたコロニーを形成し、
子孫を有効に増やすことができて、
その結果として種が生き永らえてきた
というように考えるべきではないだろうか。
 
ハチは、遺伝子に基づいた行為をする。
基本的には、自分が生き永らえようと努力するモジュールが
遺伝子に組み込まれている。
しかし、外敵が現れた時に反応しやすいモジュールも
同時に組み込まれているため、
自己保身モジュールと外敵反応モジュールが競合する場合は、
後者が優先されてしまうということになるだけの話である。
そのようなモジュールが組み合わされていたので、
現代まで種が存続したということである。

ハチは、巣を守ろうとしているのではなく、
たまたま自分を守る個体の大きな巣の近くで挑発すると
多数のハチが怒りに任せて攻撃してくる
ということである。

ハチは利他的だという前提をおいて、
「ハチはどうして利他的行動をするのだろう」
という問題提起をすること自体に疑問を感じる。
血縁や近似関係等という議論は
特に何らかの有益な効果をもたらすものではないだろう。
血縁や近似関係等は、
そもそも個体の行動原理としてはフィクションである。
遺伝子は意志を持っていない。

5 人間の「利他行為」を導いた環境

 認知心理学者たちは、極めて重要なコンセンサスを持っている。
それは、人間の心はおよそ200万年前に形成されたというものである。
私は、200万年前という年代の特定はできなかったものの、
人間が群れを形成し、
群れの中で一生を終わる時期に形成された心が
現代でも受け継がれているということを主張してきた。
だから認知心理学のコンセンサスには大いに勇気づけられた。
 
なぜそのような心が形成されたかについて、
もっと議論するべきではないかと考えている。
つまり、どのような心が形成されて、
種が存続するためにどのように有利だったのかということである。

 その頃の人間を取り巻く環境は、
氷期でジャングルが減少したことにより競争が激しくなり、
森の木の上の生存競争に敗れて地上に降りて生活をしていた。
肉食獣が多くいたので、
命を長らえるためには肉食獣に対抗する方法が必要だった。
しかし、人間には、馬のように逃げるための脚力はない。
鳥の翼もない。敏捷性も小型動物ほどはない。
闘うための牙もなく、顎の力も弱い。
なんとも生存競争には適さない動物だった。

 このような環境に適応するためには、
群れを作るしかなかった。
比較的大型の動物である人間が集団でいることによって、
リスクを回避する動物である肉食獣は、
もう少し安全な対象を狩ることを志向したはずであるから、
人間は襲われにくい。
立って移動することも実際よりも大きな動物であると
肉食獣に誤解を指せるメリットもあったのではないかと思われるが、

さらに、誰かが肉食獣の攻撃を受ける時に
集団で反撃をしたということがあれば、
肉食獣は一つの個体に攻撃中という
無防備な状態を反撃されてしまうと、
リスクを避けて逃亡したと思われる。

人間を襲うと集団反撃のリスクがある。
「集団でいる時は人間は襲えない」
という記憶が肉食獣の中で形成されていくことによって、
人間が肉食獣によって絶滅しなかったとは考えられないであろうか
(袋叩き反撃仮説)。

 さらに、木の下に降りた段階で、
人間は小動物の狩りをするようになったと考えられている。
当初はハイエナのように死肉をあさっていたが、
集団で小動物の個体を追いつめて
弱ったところを狩ったのだろうと言われている。
この狩りの手法からしても
人間が群れを作ることのメリットが大きかった。

 人間が選択したことは、利他行為をする傾向ではなく、
群れを作るということであった。
あくまでも、群れを作るためのモジュールとして
利他行為と見える行動をしているのであった。
当時の群れを作るための方法は、言葉や道徳ではない。
複雑な言葉が生まれる前から群れを作っていたのである。
だから、群れを作るということは
遺伝子の要請を受けて行っていた
本能的行動であると考えなければならない。
私が考える群れを作るモジュールを説明する。

6 人間が群れを作るために遺伝子に組み込んだモジュール

1) 最も基本的なモジュールは、単独行動をせずに集団の中にいようとするという志向である。誰かの近くにいようとすることだ。この裏返しの表現は、単独になること、仲間外れになることを恐れることである。自分が隣にいる人間から嫌われそうになる、つまり外に追いやられそうになると感じた場合、自分の行動を修正し、関係の修復を図る。自分が追放されそうになった原因を記憶し、繰り返さないということができるようになるだろう。その記憶は、「自分の追放」という危険の認識を伴い、同様の行動をしそうになると、不安感が生まれ、行動を抑制したはずだ。これも、誰かと一緒にいようとする傾向から生まれた行動パターンだと思う。
2) 群れの中にとどまるように行動を修正するために必要なモジュールとして、共感というシステムがある。他者の感情を、自分も追体験して、同じ生理的変化を起こすシステムである。これによって、群れの誰かが危険を感じた場合に、共感によって自然に交感神経が活性化され、逃走や闘争に移行しやすい体の状態が作られる。このシステムがないと、自分の行為によって相手が嫌がっていることに気づくことができない。また、気づいたとしても、嫌がっているからやめようという行為に出ることもできない。共感のシステムによって、相手が嫌がっている ⇒ 相手が苦しがっている ⇒ 自分も嫌な気持ちになるし、苦しい ⇒ 自分が行為をやめることによって相手の苦しみがなくなるので ⇒ 自分も苦しくなくなる ⇒ だからやめようということになる。
   相手が喜んでいれば自分もうれしい。群れに早く帰ろうということにもつながる。
   この共感モジュールによって、袋叩き反撃が可能になるのであす。
3) 自分の近くにいるものを仲間だと感じることも群れを作るためのモジュールである。認知心理学における「単純接触効果」である。わかりやすく言えば200万年前、生まれてから死ぬまで基本的には同じ仲間と暮らしていた。例外として繁殖に伴うグループ間移動という可能性もあると思われるが、その可能性についてはここでは割愛する。群れのメンバーは近くにいるのであるから、仲間という認識を持ちやすい。群れの仲間を仲間だと認識することは合理的である。近くにいれば、その者の喜怒哀楽や感情の程度、因果関係も分かりやすい。共感をしやすくなる。つまり感情の共有ができやすい。さらに仲間だという意識が強くなる。共感が強くなれば、仲間の一体性が生まれる。つまり、自分が仲間と別の人間だということにあまり意味をおかなくなる。徐々に群れを守ることと自分を守ることが区別がつかなくなりにくくなる。
   単純接触効果は、単純なことだが力強い理論だと思う。自分の遺伝子を守ろうとするという法則は、個体レベルでは全く当てはまらない。遺伝子が近いものを守ろうとすることさえ、個体レベルでは何が自分に近い遺伝子化はわからない。遺伝子レベルの話をすれば、人間という種の遺伝子が存続すれば満足するのであって、人間の種類には興味関心を示す証拠はない。逆に人間は他の哺乳類と比べても嗅覚が格段に弱い。この時点で、遺伝子は血縁を維持しようとする志向を止めていると言わなければならないはずである。これに対して、近くにいる者は、見ればわかる。近くにいる者に仲間として共鳴できれば群れを作ることができる。単純なものほど強いと感じる次第である。
   この点区別が必要なのだが、本体的には近くにいるものが仲間なのだけれど、生まれてから死ぬまで基本的に同じ仲間とだけ一緒にいることから、「人間は仲間だ」という感情が生まれやすくなる。喜怒哀楽が共通であれば、つい感情を共有してしまうことになる。これは単純接触効果よりはだいぶ弱い効果であるが、このような付随的な効果が生まれていることには注意が必要である。
4) 弱い者を守ろうとする志向も群れを作るための必須のモジュールである。群れを維持するためには、一番弱い赤ん坊を守らなければならない。そうでなければ、やがて一人一人、死を向かえていき、群れは消滅する。群れを維持させよう、子孫を遺そうとすることは遺伝子の普遍的な特徴である。群れを存続させるためには、一番弱く、現時点では何の役にも立たない赤ん坊を守る志向が必要である。
   この点、当初は母親を中心に子どもを守っていたということは疑いがない。他の動物と一緒である。母親は出産とともに、共感のアンテナを赤ん坊に張りめぐらす。赤ん坊の空腹、不快、その他感情を共有しやすくする。これは赤ん坊の生存に極めて有効なシステムである。
ところが、人間は、母親だけが子育てをするわけではないという際立った特徴を有している。子どもも母親以外の個体の真似をする。母親以外の個体と感情を共有しているのである。
他の動物はそれほど大事にしない赤ん坊を大切にするためにはどのようなシステムが遺伝子に組み込まれているか。それは弱い者を守ろうとするシステム、弱さを理由とする不安や恐怖に対して追体験をしやすいシステムがあるということが合理的であろう。日本語の「かわいい」という言葉は、弱い者、小さいものをいつくしみ守ろうとする言葉である。
赤ん坊だけでなく、傷ついたもの、老いた者、弱い者を守ろうとし、弱い者を守ることを善とする心のシステムはこうして生まれた。袋叩き反撃仮説においても、肉食獣に襲われている絶対的恐怖感を追体験し、わが身の危険を顧みずに反撃に参加するのである。
    だから、空腹の他者に食料を分け与えること、傷ついた他者をかばうこと、弱い他者を助けることは、純然たる利他行為ではなく、弱い者に対する共感によって、自分が苦しんでしまい、この苦しみを解消するための行為なのである。   
 5) 仲間のために役に立とうという志向。共鳴共感が蔓延すれば、自分と他人の区別がつかなくなり、群れと自分の関係も一体的なものと感じる傾向が生まれてしまう。動物の個体の生存を維持しようという志向は、群れの維持の志向と区別がつきにくくなる。
    また、仲間が喜ぶことは、自分もうれしい。その結果、その人間関係を仲間と感じることによって、仲間のための行為をしようとする傾向が高まる。これもモジュールと言えばモジュールだろう。ただ、基本的には、人間が他者の近くにいたい、他者に対する共感をする力があるということから派生したモジュールということもできるかもしれない。
 6) 仲間のための群れを作るモジュールとフリーライダー論
    この点、他者のための行動をする個体が多い中で、他者からの恩恵を受けるが、他者に対する恩恵を与えない個体が増殖するのではないかという、いわゆるフリーライダー論が主張されることがある。
    この理論が、理論上のものだと思う私の立場は、群れを作るモジュールの成り立ちからすれば理解されると思われる。確かに、個体の突然変異などがあり、フリーライダーが得をするという事態は個別の事態としては起きるだろう。しかし、人間が群れを作った経緯からすると、フリーライダーは、そもそも生まれにくい。不労所得を得るためのフリーライダーの志向が生まれるためには、共感による行動習性ができない個体ということを前提にしなければならない。
    このような個体は、幼体から成体になる過程で矯正されたであろうし、強制されない場合は駆逐されただろう。およそ200万年前、人間が生き延びるために必死であった時代は、生き延びることに支障が生じる原因を排除してきたと考えられるからである。それができなかった群れは消滅した。それだけの話である。
 7) 仲間のための群れを作るモジュールと相互互恵主義
    人間の利他行動を相互互恵的行動だと理解する理論がある。これについても私のモジュール論からすれば無駄な議論だということになる。
    そもそも、誰かに親切にするとき、親切にすることが気持ちよいから親切にするのか、後で見返りがあるから親切にするか、現実的にはどうだろうか。見ず知らずの人に親切にしたからと言って、後でその人から親切にしてもらおうということを想定していることの方が少ないと思う。明らかなフィクションである。理論上のものに過ぎない。
    ただ、群れを作るモジュールは、人間の個体に概ね備わっていると考えれば、他者の利益になる行動を共感によって行うことは、利他行動をした個体にとっても他者から利益行為をしてもらえる可能性が高くなる。その意味で結果として相互互恵の関係が生まれるということは言えるかもしれない。このあたりが、遺伝子が意思を持つような表現をした上で議論を進めることの弊害なのであろう。個体としての行動原理と、種としての行動傾向をはっきり区別して論じていないから混乱が起きるのではないかと考える次第である。相互互恵主義の理論が、個体が将来的な見返りないしその可能性を求めて利他行為をするというのであれば、間違いである。遺伝子が、結果として、相互互恵が起こりやすい状況を作ったというのであれば、それは間違いではないだろう。この説明の違いは、モラルとは何か、なぜ人はモラルに従うのかについての説明で意味を持ってくる。
8) 必死さときれいごと
    人間が群れを作るためのモジュールを概観した。現代ではそれはきれいごとであり、絵空事であると思われる人も多いだろう。しかし、200万年前の弱弱しい人間は、こうしなければ生き延びることはできなかった。生きるためのギリギリの傾向だったはずだ。環境に適合した奇跡的な志向を持った人間のグループが、たまたま存在したのだろう。その軌跡がなければ人間は既に滅んでいただろう。このモジュールは、きれいごとというような趣味の世界の話ではなく、環境に適合するための奇跡のモジュールだったのだ。命がけで遺伝子の指示を実践していたのである。
    ところが、現代の人間社会では、大方きれいごとという評価が起こるだろう。どうして、群れを作るモジュールが現代社会では機能しないのかということを説明する必要があるだろう。
    群れを作るモジュール論の最大の問題は、他説ではなく現実である。

7 群れを作るモジュールが機能しない環境
かくして人類は、約200万年前ころ、
人間としての心を獲得していた。
   その特徴として、近くにいる者を仲間だと思い、
仲間が悲しんでいたら一緒に悲しみ、
仲間が苦しんでいたら一緒に苦しみ、
仲間の空腹を満たすためなら自分の食料を提供し、
仲間のためならばわが身を投げ捨て闘う、
仲間の中でも一番弱い者を助けようとする。こういう心である。
   
私は、基本的には、
現代人にもこれらの心のシステムは受け継がれていると思っている。
現代人が「善」だとか「正しい」とか、「道徳的だ」という場合は、
この遺伝子に組み込まれた心のシステムで実感している。

また、逆に、自分がこのように扱われていない場合には、
精神状態を圧迫して、極端な場合、精神破綻や自死に至るのである。
   しかし、現代社会においては、
フリーライダー論が幅を利かせているように、
このような心が人間の本性だということは、
きれいごとだと一笑に付されることの方が多いかも知れない。
  
 それでは、最大の問題の所在である現実、
他者に対して過酷な行為をする現実、
他者への共感を峻拒するような現実、
戦争からいじめ虐待まで、
本来人間の心からは起こりえないと思われる現象が
なぜ起きる現実を説明しなければならない。
  
 一言で言えば、環境の変化である。

同じことは私たちの体にありふれたものとして起きている。
  200万年前頃、糖は、手に入りにくいものであった。
私たちの体は、その頃の環境に合わせてデザインされている。
糖が口に入ればおいしいと感じ、糖をなるべく多く摂取しようとする。
また、エネルギー源として使うため、
安易に排出せず、体内で蓄積しようとする。
ところが現代では、安価で糖を窃取できるため、
このような糖欠乏に備えたシステムがあだとなり、
糖尿病などの生活習慣病を起こす原因となっている。

虫歯にしても、炭水化物もとらず、
口の中で時間をかけて咀嚼しなければならない物を
食べていた時代は唾液で分解されるために
虫歯にはなりにくかったとされている。
このような環境の変化に対しての不適合はありふれて起きている。
  
 心の問題も環境に対する不適合で説明するべきであると考えている。
  
心の問題に対して影響を与えた環境の変化とは、
人間の群れの形態の変化である。
これは、人間自身が自分たちの環境を変化させたことになる。
現代は200万年前と異なり、
一人の人間が複数の群れの中で生活している。
家族、学校、会社、地域、趣味のサークル、SNSの仲間と
継続的な人間関係に所属している。
または、国家、社会という広い人間関係の中にも存在している。
病院や弁護士、小売店など、
短期的限定的な人間関係を形成することもある。
さらには、学校や会社にも派閥みたいな内部集団を形成する場合もある。

   200万年前は、一つの集団で一生を終えたため、
   仲間を気遣うことで問題は解決していた。
   しかし、今は複数の仲間がいること
   どちらかの仲間の利益を追求すると
   別の仲間を不幸にしてしまうということが起きてしまった。

   同じ場所にいるのに、
   利害対立するような関係になることがある。
   
   徐々に仲間を大切にするということが
   非常に複雑なものになり、
   すべての仲間を大切にすることが不可能なことになる。
   こうして、一緒にいる人間が
   必ずしも仲間ではなくなり、
   一緒にいる人を大切にしないということが始まった
   ということになる。

   仲間を超えた普遍的な正義や道徳は、
   時として仲間を許さない理由として
   使われることになる。

   群れが代替可能なことから
他者といても安心できない心が生まれ、
   疑心暗鬼を蔓延させる
   自分を防御する意識は
   時折先制攻撃を引き起こす。

   これが原理である。

   あとは、この原理に乗って、
   人間の社会的病理を各論として説明できるはずだ
   ある程度は、この観点から
   社会病理を説明しても来た。

8 人類という大きな群れを形成する可能性について

人類はこれからも
同じ人間を傷つけては殺し、
益々人間関係が希薄、かつ殺伐とさせて、
自己の利益のために地球を滅ぼすのだろうか。

私の考察は、
社会や国家という人間関係や
国家間の関係を論じたものではない。

一人一人の人間の行動を取り上げたものである。

しかし、
人間が、遺伝子から独立した思考をすることができるとすれば、
その幸せを追求するために
異なった群れ相互の間にも
人間として利益が一致することに気が付くはずである。

IT革命や交通手段の発達は、
また、環境問題や移民問題は、
世界を一つの群れとして扱う可能性を強めている。
群れ相互の共存の方法を見つけ出すことができれば、
無駄な争いは減少していくだろう。

克服するべき課題は多くても
人間にはその可能性があるものだと
理論上は導き出されている。

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