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どうしていじめることが「できる」のか。「かわいそうだからやめる」ができない理由2 [進化心理学、生理学、対人関係学]

1 いじめの加害者は、特殊な人間ではなく普通の人間だと考えるべきこと

もしかすると
「いじめの加害者は、
精神的にいびつな構造を持っていて、
相手を苦しめることを何とも思わないというような
冷酷無比の特殊な人間だ」
と一般には考えられているのかもしれません。

被害者やその家族がそう受け止めることは、
もっともなことですし、
私や私の家族がそのような攻撃を受ければ
私もそう感じるでしょう。

問題は、
いじめなどを防止しなければならない人が
「いじめをする人間は冷酷無比の特殊な人格をもった人間だ」、
という考えに陥っているとすると、
いじめ防止は、特殊な人格者探しをすることになるだろうし、
いじめをした者は、特殊な人格者として
治療、矯正、あるいは隔離の対象となってしまう
危険があるということです。
早い話、
それでいじめは防止できない
ということが今回申し上げたいことです。

私は、防止の観点からは、
いじめは、
子どもたちの人間関係が未熟なために、
人間関係で必要な配慮ができなかった
そしてそれを修正できなかったという
「エラー」として把握するべきだ
と考えています。

どういう場合に「エラー」が起きるか
それを突き止めて
先回りをして対策をして
「エラー」を起こさないということが
防止の観点からは有効だと考えています。
行動経済学という
近年ノーベル賞を輩出している
分野の応用ということになります。

特殊な人格者の行為ではないと考えるべき理由は、
同じ子どもが
いじめをする方にも回るし
いじめられる方にも回る
普通の子どもが被害者にも、加害者にもなる
そういう性質のものだからです。

冷酷無比の人格を探していたり、
命の大切さを教える教育をしていても
いじめ防止にはつながらないと思うのです。

「相手を殺しても良い」と思って
いじめをする子どもは滅多にいません。
逆に何らかの精神的構造上問題があって、
いじめをするならば
命の大切さを教えても仕方がない
ということになるでしょう。

私は、犯罪にしても、離婚にしても、パワハラにしても
加害者と呼ばれる人と話をする機会が多いのですが、
そのような冷酷無比の精神構造になっている人はおらず、
「普通の人」の範囲であることが多いという印象です。
家族がいて、家庭を大事にできる人であったりします。

2 いじめ防止のヒント、共感とは何か

ただ、共通の事情として、
いじめや犯罪などの攻撃行為をしている時、
相手をかわいそうだと思うことができない
相手に共感できないという
状態になっているようです。

「共感とは何か」ということを端折って説明すると、
先ず、相手の気持ちがわかることではないようです。
では「共感とはなにか」というと、
「あたかも自分が相手のその立場にいるという
感覚を持ってしまい、
相手と同じように
自分が苦しい、つらい、悲しい、寂しい、怖い
という感情を抱いてしまうこと」
ということなのだろうと思います。

厳密に言えば
相手の気持ちを共有するのではなく、
相手の立場を共有するということです。
相手の立場を共有するためには、
相手の置かれた客観的事情だけでなく
相手の表情、声等に現れた相手の感情も
立場を推測する事情になります。

相手の気持ちを受け止めているつもりでも
実際は自分の感じ方をしているので
実は勘違いをしているということがあっても
それは仕方がないということになるようです。

そうやって相手の気持ちを追体験しているうちに
自分も苦しくなるのですから、
自分の苦しさを止めるために
相手を苦しめる事情を解消したいと自然に思い、
加害行為を止めたり、やめさせたりするわけです。

これがミラーニューロンによる共感の仕組みで、
ホモサピエンスが群れを作ることができた仕組みです。
ホモサピエンスがネアンデルタール人より
子孫を長らえさせることができたのは、
この仕組みを体内に持っていたからだと思います。

人間らしい、サピエンスらしい行為、気持ちというのは
人間が仲間に対して
(厳密に言えば敵ではない人間に対して)
遺伝子上自然に持つ気持ちのようです。

3 いじめ防止のコンセプト エラーへの先回り対処

いじめ対策のコンセプトとしては、
「遺伝子的には仲間に共感することが自然なのに
共感できなくなる『事情』というものが存在する。
だから共感できないし、かわいそうと思わないでいじめる。
そう考えると、
その『事情』を除去することで、
もともと人間として備えている共感の仕組みを
発動させることができる。」
というものです。

その事情とは、「防衛意識」が強くある場合です。
防衛意識と言っても「自分を守る場合」だけではなく、
家族であったり友人であったり「仲間を守る場合」、
「弱い者を守るという意識がある場合」、
「正義や社会を守る意識」も
ゆがんだ形で作用することがあります。

もう一つは、脳の構造にも原因があるようです。
「自分がこれからする行為についてのダメージ評価は、
相手が実際に受けるよりも軽くなる傾向にある」
ということのようです。

今回は防衛意識に焦点をあてます。

そうすると
「いじめは、
防衛意識が強く働いているために
いじめられる子どもの気持ちを無視してしまうという
『エラー』が生じて起こる。
だから、『エラー』が起きる事情をパターン化して
先回りして『エラー』を起こさないように必要な介入をする。」
ということがいじめを軽微な段階で辞めさせる手段となるし、

「『エラー』が起きないように
事が起きる前から
そのような事情を作らないように指導していくということ」
が根本的な事前のいじめ予防ということになると思います。

4 ホモサピエンスが共感を閉ざす場合

 1) 共感の始まり

ではどういう場合に
他人に共感できなくなるか
自己防衛意識が高まるのか
ということです。

それは、200年前の人間の暮らしをイメージすると
とてもわかりやすく理解することができます。

人間の心は、約200万年前
狩猟採集をしていた時代に形作られた
と考えるのが認知心理学の大勢です。
私(対人関係学)は、認知心理学と別角度から
この結論に到達しましたので、
この結論を支持しています。

この時は、原則として
ヒトが生まれてから死ぬまで同じメンバーで固定されていた時代で、
群れの仲間に対しては
防衛意識が生まれにくい事情がありました。
理由を一言で言うと、「仲間は自分を排除しない」
という確固たる意識がありますから、
疑心暗鬼というものが生まれにくく、
防衛をする必要がなかったからです。

逆にどういう場合に
防衛意識を抱くかということを考えれば
その構造が理解できると思います。

 2)肉食獣との闘い

防衛意識を抱く一番の事情は
肉食獣に遭遇した時でしょう。
自分が逃げることが基本ですが、
群れの仲間が逃げられないときも、
寄って集って袋叩きにして反撃をしたと考えています。

防衛意識は、攻撃意識を含みます。

攻撃は、怒りという感情に支えられて
相手を倒す以外のことを発想としても持ちえないほど
強力な行動意欲をもつ現象です。
徐々に、肉食獣は
「人間が集団でいる時は自分が危険になるから襲わない」
という本能を獲得したわけです。
(これは肉食獣の防衛意識です)

攻撃する相手には共感をしません。

例えばゴキブリが嫌いな人が
家にゴキブリが出たと言って
叩いたり殺虫剤をかけて
完全に動きを停止するまで戦い続ける
という具合です。

相手にも命がある、親もいて子もいるかもしれない
等ということは全く考えないでしょう。
殺し終わった後に考えるかどうかはともかく。

闘っている時、
ゴキブリに共感する人はいないわけです。
(それほど嫌いではない人はそもそも闘わないでしょうし)

 3)ネアンデルタール人との闘い

肉食獣以上に危険だったのは
近接種でしょう。
ホモサピエンスの場合、ネアンデルタール人が
種全体の仮想敵になっていたと思います。

サピエンスと姿かたちが近い
うっかりすると、突発的に、
相手に共感することがあったかもしれません。
特に赤ん坊とかですね。

この辺の事情はなかなか想像しきれないのですが、
飢えなどで困ってくれば
危険を顧みずに
双方が攻撃を始めた可能性があったと思います。

この時も、別種ということもあり、
こちらの生命線を犯す事情があれば
自分や仲間を守るために
攻撃する、
攻撃すれば共感を停止する
ということはあったと思います。

 3)サピエンスの他の群れとの闘い

近接種ばかりではなく、同じ種である
サピエンスが攻撃対象となる場合もあったでしょう。
先ずは他の群れのサピエンスです。

極端な食糧不足の際等に
他の群れを襲う場合があった可能性はあると思います。
同じ種に対して、共感を起こさないように攻撃はできたでしょうか。

攻撃ができたと思います。
「他の群れ」との物理的な距離が一番の決め手となりますが、
従前から遭遇を繰り返し友好関係にある群れは
攻撃しにくかったと思います。
個体識別ができれば、共感システムが発動してしまうからです。
この共感システムを閉鎖するためには、
かなり強い怒り(強い防衛意識、危機感)が必要だったと思います。

それと反対で
見ず知らずの群れとの闘いの場合は、
共感を停止しやすかったと思います。
みたことの無い人間は、個体識別ができませんので、
共感がしにくいという事情があったのだと思います。

「攻撃をしてくる見ず知らずの人間」は
防衛意識に支えられて
肉食獣と同じ扱いになりやすい
ということです。

但し、同じサピエンスですから、
痛みや苦しみ、死の恐怖は見てわかるわけです。
怒りで一時的に共感システムを閉鎖しているだけですから、
戦いに勝利して怒りが収まった後は
共感システムが作動してしまい、
同じ苦しみが襲ってきたのかもしれません。

 4) 同じ群れの中の危険人物との闘い

一番困るのが
群れの中の敵ということになります。

当時は、みんな生きるだけで
いっぱいいっぱいの状態でした。
だから、人間にも「糖」などの栄養分を
摂取しやすくするシステム
体内に備蓄するシステムが発達したわけです。

このような食糧事情、生存環境の下で
一人だけ「ぬけがけ」することは
(蜂蜜のありかを隠して仲間に分けないとか)
他の群れに栄養が行き渡らず、
弱い個体から死にはじめますから
群れの個体数が減少してゆき
頭数が減ることによって
肉食獣からの防御や食糧の採取に不利になり、
結局は群れの死滅を意味しました。
大変危険な存在だということになります。

このように他者に共感する能力が欠損する個体も
一定程度生まれてきたことでしょう。
もっとも、
通常は、子どものころにその片鱗が見えますから
群れ全体で矯正したと思われます。
人間が幼体から成体に代わるための時間が
他の動物と比べて著しく長期間になっている理由は、
このような群れで生きるための
訓練の時間を要するからだという説があります。

長い時間をかけて矯正をしても
先天的に共感をする能力が欠如して矯正ができない
しつけにも従わないという
群れに危害を加える場合は
群れ全体として「防衛意識」を持つことになります。

群れ全体の防衛意識が高まり
怒りのモードになると
危険人物は強制的に排除されたのだと思います。

母親等は悲しみとあきらめがあったかもしれませんが、
攻撃が開始されると
攻撃の核となる人物たちは怒りのモードになっていますから、
相手に対する共感チャンネルは閉じてしまいます。
相手の怯え、痛み、苦しみに対して反応せず、
殺すか追放するまで攻撃を緩めなかったことでしょう。

攻撃者の数は増えます。
攻撃しても良い相手だ
共感を閉ざすべき相手だ
という感覚が広がると
怒りは、群れの別の人間の怒りを呼び起こし、
容赦ない攻撃がエスカレートしていったと思います。
プロレスを見ていて観客が興奮するようなものです。
怒りとはそういうものです。

危険人物は
「仲間」から、「群れを襲う肉食獣」の扱いになったわけです。

そうすることによって危険分子を排除し
群れの消滅を回避してきたのだと思います。

 5)いじめの構造

このシステムは今でも私たちの心を形作っていると思います。

いじめにおいても
周囲の多数が攻撃参加している段階になると
「いじめても良い人間だ」
という意識に変貌していますから、
いじめられている子に対して
共感チャンネルは閉ざされています。

いじめられる子は、
多数からすれば人間扱いされておらず、
200万年前の肉食獣と同様に扱われているわけです。

こうなったらいじめが完成されてしまっています。

ここで、
いじめられている側の子の状況を分析しましょう。

いじめられている子は、自分が
「人間扱いされていない」
と感じています。
言葉で表現することは難しいでしょうけれど、
仲間として扱われないで理由もわからず攻撃されるということは
そういうことです。
あたかも、攻撃的なネアンデルタール人の中に
放り込まれたように感じているはずです。

それはとてつもない恐怖、疎外感でしょう。
具体的ないじめ行為がなくても、
その場にいること自体で安心できないのです。
やがてそれは、いじめの空間にいなくても
自分が存在していること自体に安心できなくなります。
自分が仲間として扱われるということに絶望した場合、
生きる意欲を失っていき、
精神のバランスも保てなくなることが少なくありません。

これはいじめられているその時だけでなく、
何年かたった後でも
「人間は自分に危害を与えるものだ」
という意識がちょっとしたことでぶり返してしまいます。
不安感がずうっと継続している場合もあります。
なにせ、人間が近くにいないという環境は
なかなか望めないからです。
統合失調症の症状を呈する子どもたちも少なくありません。
中学校、高校時代の大半を入退院の生活を送り
その後も社会参加ができず、
一生が台無しになる危険があるのです。

ある程度多数が一人の子だけを
からかったり、いじったりしていれば
からかってもいい子だ、いじってもいい子だ
という意識が生まれますから
「虐めても許される子」だという意識になり
すぐにいじめが完成してしまいます。
また、からかいやいじりがあった時点で
本人にとっては深刻ないじめを受けている
「自分は人間扱いされていない」という
絶望感を感じている可能性もあるわけです。

こうならないように子どもを死守しなければなりません。

何が加害者の防衛意識を発動させるのかということを考えましょう。

この時、加害者側の事情、被害者側の事情を
リアルに考えなければなりません。
そういうと、
「被害者にも悪いところがある」
という論調が頭に浮かびます。
こういう消耗な趣味的な議論を避けるために一言言っておきます。

本気で防止を考える時は
「良いとか悪いを抜きにして考えなければならない。」
ということが大切です。
いじめにつながる事情があるなら、
その時は悪いこととはいえなくても
ことごとく除去していかなければなりません。
被害者が悪い、被害者は悪くないという次元で論じていたのでは、
いじめが起きる事情をリアルに見ることができません。

あくまでも
加害者、被害者、取り巻く人たちの
「人間関係の状態を修正する」
という発想が必要です。

では、どういう場合に
加害者の防衛意識が
いじめられる子への攻撃へと向かうのか
防衛意識を発動するきっかけとは何かを
検討しましょう。

5 防衛意識が生まれる事情

 1)自分が攻撃を受けた場合

防衛意識を持つ流れは、
自分に危険があると認識し、
危険を回避したいという要求が生まれ、
危険を回避しようという行動をしよう
つまり防衛意識ということになります。

危険の中身ですが、
身体生命の危険を感じた時に
防衛意識が生まれることは
分かりやすいと思います。

ただ、自分の身体生命の危険を感じて
反撃がいじめの端緒となるということは
それほど多いことではありません。

むしろ対人関係的危険を感じたときが
いじめの端緒の攻撃につながることが多いようです。
対人関係的危険とは、
顔をつぶされるとか、立場を無くすとか
「仲間の中で自分の評価が下がる場合」を主として想定してください。
仲間はずれにつながる不利な事情ということになるでしょう。

典型的な例は、もともとは親密な人間関係があった場合
ということが少なくないようです。

相手が自分以外を優先していると感じる場合とか
自分の弱点を見られてしまったとか
自分の知られたくないことをみんなに告げているようだとか
そういう場合です。

あるいは、親友だったのに
最近、相手が自分から離れていくような気がする
そういう場合です。

これは、そのような扱いが客観的にある場合はむしろ少なく
実際はそこまで悪く考えなくてもよいのに
悪く考えてしまう場合が多いようです。

危機感は主観的なものですから、
危険があると感じると防衛意識が発動されてしまいます。

だから、
加害者にもともとコンプレックスがある場合は、
危機感を抱きやすく、
親密な人間関係がなかったのに防衛行動に移りやすいです。

容姿を気にしていた子は
容姿の良い子が自分を馬鹿にしているように感じたり、

自分の学業成績に不満の子が
学業成績に不満のない子が自分をあざ笑っていると感じたり、
(実際は、加害者の方が成績上位である場合も少なくありません
 コンプレックスは劣っている場合だけでなく
 自分の目標値との乖離等が原因で起きる場合もあるようです。)

音楽が不得意の子が
ピアノのコンクールでよい成績を収めた子から
馬鹿にされていると感じたりという具合です。

 2)友達・仲間が攻撃を受けた場合

人間の良いところが裏目に出ることもあります。
友達が危険な目にあっていると思うと
自分も危険な目にあっているような追体験をして、
勝手に防衛意識が生まれることが良くあります。

本当は友達が悪くて、
相手が正当な反撃をしただけなのに、
友達が悔しい思いをしているのを見ると、
友達がかわいそうに思い、防衛意識が生まれ、
相手を攻撃するということはいじめの端緒でよくあります。

公平に見れば、相手の方がかわいそうなのですが、
友達といる時間が長いので、
友だちの表情や動作から感情を読み取りやすくなっていて
つまり共感しやすいので、
友達に味方してしまうわけです。

相手と付き合いが短かったり、薄かったり、
相手は感情表現に乏しいといった場合は
感情移入がしづらくなります。

時間的な目撃状況の具合で
相手が気の毒なところは見ておらず、
友達が傷ついているところだけ見ているということも
友だちの方にだけ感情移入する原因となるようです。

公平に物事を見るということは
実は難しいことで、
公平にものを判断するためには
ある程度先ず共感を遮断する必要がある
ということは頭に入れておいていただきたいと思います。

そして、わがままな友達を守ろうとする
取り巻き連中が多くなればなるほど、
相手をいじめてよいのだという風潮が強まり、
無関係な子どもたちも攻撃に加わっていきます。
そしていじめが完成します。

 3)「正義」・「ルール」が守られない場合

「正義」を守るという意識は
いじめに転化しやすいようです。
「正義」は、「ルール」と置き換えてもよいでしょうし
大きな集団と置き換えてもよいでしょう。
この場合の大きな集団とは、
ダンバー数からすると150人を超えた人数ということになります。

子どもですから大したことの無い正義なのです。
例えば、部活をさぼるということがありました。
運動部や吹奏楽部など
毎日部活動にでることが明示、黙示のルールになっている場合、
体調や気分によっては、出たくない日も出てくるでしょう。
それでも頑張って毎日部活に出ている子からすれば、
平気でさぼっているような子を見ると
むかつくようです。

私はどちらかというとサボる側でしたから
よくわからないところはあるのですが、
まじめに部活動にいっている方は
理由なく部活に来ないことを
「ずるい」という気持ちになるようです。

彼らにとっては部活動に行くことが正義ですから、
正義を守るため、
結局は自分を守るため、
相手を容赦なく攻撃するようです。

共感チャンネルは閉ざされて
ラインなどで多くの参加者が一人を非難し、
かわいそうだと思うことがなくなるようです。
「部活をさぼっただけなのに」
という論理は通用しないようです。

ラインは、文字情報しか画面に出ませんので、
相手が苦しんだり怖がっている様子はうつりません。
言われた相手に共感して
かわいそうだからやめようなどということが
起こりにくいシステムです。

正義を守ろうとか、集団を守ろうということになると、
そして守ろうとしないものに制裁が加わるようになると、
それを守らないことの恐怖感情が強くなるとともに、
その緊張を逸脱する者に対する憎しみが増大するようです。

実際は、子どもたちの自然な正義感というよりも、
例えば、部活に来なくていけない
という厳しい指導があったり、風潮があったり、
運動で学校推薦を使って進学しなければならないとか
どこどこの高校に行かなければうちの子ではないとか
一生フリーターで老後は無年金だとか、
大人が子どもを追い込んでいることがほとんどだと思います。

 4)八つ当たりと敏感体質

ここまでお話してきて
気が付いた方もいらっしゃると思いますが、
防衛意識とは、
自分に危機を与える対象に対して
まっすぐに向かうわけではないことが特徴です。

防衛意識は、
「とにかく危険を回避したい」
という要求に基づいて起きます。

例えば、自分の容姿に悩んでいる人が
容姿の良い人に馬鹿にされていると思うことについて
容姿の良い人に責任はありません。

成績を気にしない人が
成績を気にする人から恨まれる筋合いもありません。

つまり八つ当たりからいじめが始まる
ということが多いはずです。

今の子どもたちは危機感を持たされて
無防備に不安にさらされています。

良い学校に入り、
ブラック企業ではない会社の正社員になることが
多くの子どもたちの目標にされています。

地方の実業高校などでは
校内選考でよい成績を収めないと学校推薦しない
ということが、
生徒を黙らせる道具になっているところがあります。
「一生フリーターで無年金で老後を迎えるのか」
という言葉が脅し文句になっていました。

そもそも思春期は将来に対する不安があると思うのですが、
現代社会は、ブラック企業、フリーター、無年金等の
具体的な不安に子どもたちはさらされていると思います。

何とか不安から解放されたいという思いがある一方
それは直ぐに解消されない不安だということになります。
何とか一時的にも不安から逃れるために、
どうしたら良いだろうかと考えるわけです。

そうすると、
他人のごく些細な言動、あるいは振る舞いが
自分を馬鹿にしている、自分よりも優越している
というように感じやすくなり、
不安感、危機感を感じ易くなるようです。

不安に対して、あるいは他人の自分に対する評価を
いつも気にしているために、
敏感になっているようです。

本当は社会制度や経済状況から与えられた危険意識だったのに、
些細な言動をとらえて、別の子どもを攻撃することで
一時しのぎをしたくなる
これは無意識に起きます。
不安解消要求の誤作動です。

その八つ当たりの対象は
「自分よりも弱い者」です。
容易に「虐めてもいい子」にしやすいターゲットを
本能的に見つけ出すわけです。

なぜならば、
怒りに基づく行動は
通常、自分より弱い者に対してしか起きないのです。
自分より強い者に対して起きる感情は恐れです。

相手がある程度力があり、
一対一では勝てるかどうかわからない場合は、
数を頼んで勝てる状況を作っておいて
集団攻撃を行い、
攻撃をします。

最近のいじめは、被害者になんの誘引行動がなくても
強引に起こされる場合があるようです。

最初はからかいやいじりなのでしょうが、
攻撃を繰り返していくうちに
相手に対する共感チャンネルが閉じられていき、
攻撃参加が多数になると
「いじめてもよい子」というレッテルが張られ、
共感チャンネルが次々と閉じられていくわけです。

そのターゲットは、
例えば、障害を持っている子
孤立しやすい子
反応が遅い子
反撃をしない子
という場合もありますが、

突出して恵まれているけれど
取り巻きを作らない一匹狼

先生や、子どものリーダー格(年長)が
敵視したり、低評価をする子
等が「いじめてもよい子」になりやすいようです。

例えば、何らかのコンクールでよい成績を収めた子がいて、
コンクールにさえ出られなかった者が妬みを友達に話し、
その友達も同じ嫉妬を持っており、
それに無責任に追随する子が生まれると、
妬みが社会的に肯定されたような錯覚を起こすようです。
妬みを抑えておこうというタガが外れ、
小さな攻撃を繰り返していくうちに
人間扱いされていないと感じる被害者が
生きる意欲を失っていく
ということがありました。


学校でのいじめが起きる場合
教師がターゲットに対して
否定的な言動をしたことがきっかけになる場合があります。
この場合、その子が
クラス全体のお荷物として扱われることから
クラスに害悪を与える存在という評価に移行しやすく
正義を守るため、私たちの授業を守るため
その子は悪だ、「いじめてもよい子だ」
という状況が起きてしまうようです。

6対策

先ずいじめの生まれる原因のまとめです。

<加害者になりやすい子>
不安を抱きやすい子 抱きやすい事情のある子
(兄弟間差別、高い学歴を家庭が求めている子)
やるべきことを無理をしてもきちんきちんとやろうとする子
コンプレックスを抱きやすい子
友達に依存している子(その友達から見離されると孤立すると思っている子)
自分の言うことに無条件に追随する友達がいる子

<被害者になりやすい要素>
(属人的要素)
周囲に面識のない、足りないと思われている子
(転校生、長期休み)
一人だけ多数と違う特徴のある子
(外国籍が少数の場合)

(行動傾向)
本人に依存している友達を持ちながら
その友達の依存要求に無頓着な子

多数が心配していることを心配していない子がいる場合
(気にしない、満ち足りている)
進学、就職、容姿、将来のこと、
部活動などルールにルーズな子
服装、身だしなみにルーズな子
他人に損をさせること平気な子

(対人関係的反応)
からかわれてもからかい返したりしない子
怒れない子
感情表現の乏しい子

(状態像)
仲の良い友達のいない子
孤立しがちな子
からかわれやすい子
いじられやすい子

(環境的要因)
教師が評価を伴う指導をすることが多い子
体育系や吹奏楽部等集団行動が必要であり、欠席が自由にできない部活の子
生徒同士を過度に競争させる環境
小集団の構成に変化があるとき

おそらく指導要領だったり、マニュアルや教育理論だったりに
記載はされていることなのでしょうけれど
力点のポイント、関連付け
ということで私も考えてみました。

1) 総論

「かわいそうだからやめる」
そのために共感チャンネルを開く
という指導を行うべきです。

そのためには、ルールを守るとか正義、道徳を死守する
というより、
相手の気持ちに基づいて行動をする
という行動原理を徹底するべきなのです。

ここで、教育界にはトラウマがあることが
問題の所在であることを意識しなければなりません。

校内暴力です。
荒れる教室です。

どうしても、静かな穏やかな教室
という結果を求めたいので、
それを押し付けようとします。
このために、ルールや道徳を強調し、
逸脱者に対する制裁が許容されてしまう現象が起きます。

しかし、いずれにしても根は一つですから、
原因に向き合うべきです。
結果としてルールが守られやすくなる、
道徳的行動をするというためには、
やはり、一緒にいる人の気持ちを行動原理にする
ということを教えていく必要があります。
これが道徳の基本です。

ではどうやってこれを訓練するかということですが、

先ずは、お互いをよく知ることが必要です。
但し、個人情報を頭に入れるということではなく、
一番は一緒にいるということです。
心理学的には単純接触効果と言いますが、
一緒にいることで、感情の推移をつかみやすくする
これが共感の基礎になります。

次は、他人の弱点を尊重する、助けるという体験です。
感謝され、尊重される体験は
人間の遺伝子的な性質を掘り起こしていきます。
こういう行動は称賛しましょう。

具体的には集団活動なので、
合唱や演劇、運動などが良いのですが、
クラス対抗にして成績をつけてしまうと、
一人の弱点がお荷物になり、悪になってしまいますから、
順位はつけない。
評価する側は、良いところに目をつけ、
そこを評価するという工夫が求められます。
適当にお茶を濁すのではなく、
子どもたちが
「そこを評価してほしい」
「そういうところも評価の対象になるのか」
と目を輝かせる講評が必要です。
さて、そのように共感チャンネルを開いて
「かわいそうだからやめる」を支配的空気にする
最大の特効薬は、
本人たちが尊重されることです。
尊重されるとは、
自分の弱点、欠点、不十分点を理由に
評価を下げられたり、仲間はずれにされたりしない
つまりありのままの自分でよいのだという自信です。

こういう体験を重ねていくこと、
学校だけでなく、家庭や地域でも
体験が増えていくことが望ましいです。

少なくとも先ずは、
弱点、欠点、不十分点は
何らかの形でカバーすることであって、
それを理由として仲間として扱わない
ということを止めることです。

根本的には、小学生に老後の心配をさせない社会、
安心して安定した職業に就く社会が
失敗に寛容な社会が解決策なのですが、
一朝一夕には実現しません。
むしろ、そのような社会の基礎を作るくらいの気概で
子どもたちの教育に取り組むべきではないでしょうか。


2) 加害者を作らない

思春期は、人生の目標や未来設計をしますが
経験不足や社会状況から見通しが立てられない
という現実も見えてくるときです。

コンプレックスや挫折を抱きやすい時期だ
ということになるでしょう。

将来の目標に向かって努力するということも尊いのですが、
ありのままの自分を大切にする、
誰かに自分を大切にしてもらうということも
大事なことです。
他人の人権を侵害しない特効薬は
ありのままの自分が大切にされるということにあります。

現時点の到達点を否定的にとらえるのではなく
そこを出発点、0ポイントだという考え方が必要です。
どんな成績、部活動の状況でも
それを理由に低い扱いがなされてはいけません。
知らず知らずに成績に良い子に共感を持ちやすいのですが、
教師は内なる差別がないか厳しく点検しましょう。

また、子どもたちが、成績や容姿、運動能力等で
人間の序列を作るような振る舞いをしていたら、
それはやめさせましょう。

ご家庭の中で、兄弟間の差別があったり
無理な目標をたてさせているような場合、
休息を与えることを意識してもらいましょう。

クラスの内外で、少人数グループが形成されている場合、
グループを解体させるというよりは、
より大きなグループ、クラス全体の行動をすること
どのような子でも、
色々な人たちと行動を共にすることができるし
それは楽しいことだということを気づかせましょう。

また、過度な部活動はやめましょう。
休みない部活動に自然と反発することは
人間として当然なことです。

極端な集団活動の相互矯正になっていないか
教師と生徒、生徒同士の関係を点検する必要があります。

私は、部活動の全国大会を廃止するべきであるし、
部活動の成績が進学に有利になることを改めるべきだと思っています。
地域の少年団等に積極的に援助するべきだと思います。

3)被害者を作らないために

教師が、子どものリーダー等の協力を得ながら
被害者になりやすい子を
積極的に仲間の輪に入れていくことを意識する必要があります。
端的に言えばなえこひいきです。

必要なえこひいきはしなくてはなりません。

えこひいきは、馴れない仲間から馴れた仲間に代わるまでの
一時的なものもありますが、
生まれもって弱い子
孤立しやすい子、怒れない子、仕返しや抗議ができない子
克服できない弱点のある子と言ったように
ある程度持続的に行う必要がある場合もあります。

とにかく
「いじめてもいい子は一人もいない」
ということを大人が体を張って示す必要があります。
からかいやいじりが承認されてはいけません。
特にからかう側とからかわれる側が入れ替わらない場合は
いじめだとしてかまいません。

自分はいじめられても仕方がない子ではない。
いじめはやめてもらわなければならない
ということを理解させましょう。
味方がいるという自信をもってもらうのです。

子どもたちの日常生活をよく見て
「かわいそうだからやめる」
という子どもたちの行動が見られたら
それは大いに称賛しましょう。

4)教師の指導
まず、ルールを破ったり、自分の利益のために他人に不利益を与えた場合も、
感情的になり、他の子どもたちの前で叱責することは
「いじめてもよい子」を作るきっかけになります。

深刻な事例であればあるほど
個別の指導が必要だということになります。

深刻な被害をもたらした行為であれば
教師といえども単独では行動せずに
チームプレーを心がけるべきです。

子どもが完成された人格ではないことをくれぐれも意識し、
どうするべきなのか一緒に考えるという姿勢が必要です。
また、事後的にですけれど被害を受けた子供に
共感することを覚えさせる良いチャンスです。

部活動指導に熱心なあまり
部活動をさぼる子ども、特に練習を休んで掃除や雑用をする際に休む子を
感情的にののしったことから
堰を切った水のようにいじめが完成してしまった事例もあります。
教師自身が正義やルールを理由として
個別の子どもの感情を忘れてしまってはなりません。

体罰は、本人に屈辱感や恐怖感を与えるだけでなく
周囲にも恐怖感を与えるとともに
本人の屈辱感に対応する他者の優越感を呼び起こし、
本人に対して対人関係的不安を
周囲に対して「いじめてもよい子」という
人格を考慮しない風潮が生まれてしまいます。

命の授業に変わる授業として、
人間の弱さと人間が弱いからこそ助け合う
という人間の在り方を教えましょう。

人間らしく生きることの
楽しさ、充実した生活、
人の役に立つ喜びは
遺伝子の中に組み込まれていますから、
それを掘り起こすことによって
子どもたちは遺伝子で理解していきます。


以上、いくつか「エラー」が生まれる場面を見てきました。
大事なことはいじめの具体的な事例を報告しあい、
なぜいじめられたか、
つまり
何が子どもたちの防衛意識を刺激したか
どこで共感が閉ざされたのか
いじめられた子どもが「いじめてもよい子」
になった契機はどこにあるのか
事例を蓄積して共有しなければならないということです。

このような視点での研究が進むことを
心から願います。

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