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なぜ、人間関係の紛争(例えば夫婦喧嘩)収束せずに拡大するのか。「かわいそうだからやめる」ができない研究4 [家事]


小脳は、例えば歩いている場合、
異常があればそれを感じて
態勢や運動を修正しているらしい。

例えば真っ直ぐ歩こうとしているのに
地面が坂になっていて
体が斜めに倒れてきた場合は、
小脳は態勢の異常を感じて
体を起こそうとする

異常を感じることも
修正することも
意識には上らない。
自動的に行われている。

能は活動を節約しようとする傾向があり、
予想通りの動きに関しては、何ら反応しない。
前回の記事で書いたとおり
自分で自分をくすぐってもくすぐったく感じない。

これを実験した人がいて、
簡単に言うと
二人が指を一本ずつ出して指で押し合いをするとする
それぞれに対して、
「相手と同じ力で押し返すこと」
という指示を出す。

すると、その実験を続けているうちに
二人ともどんどん押す力が強くなって行く
という結果が出た。

これも小脳の働きで説明がつく。

押している方と押されているほうが同じ力で押している場合、
小脳は、
自分が予想した力を出しているのだから
ことさら「自分で押している」
という感覚が持てないらしい。
「押さなくてはならない」という意識があるものだから、
本当は釣り合っている押し方をしているのに
押しているという実感を持とうとして
さらに強く力を入れてしまうかららしい。

これらのことは、D・J・リンデンという人が河出文庫で出している
「脳はいい加減にできている」という本の中で説明している。

これは、対外的な物理的変化あるいは器質的変化の問題なのだけれど
私は、人間関係でも同じ原理が起きているのではないかと感じた。
言葉のけんかをしていても
相手から受けた攻撃と同じ攻撃をすることは
攻撃している実感がなく
それを上回る攻撃をしなければならないと感じて
攻撃はエスカレートする傾向にあるのではないかということである。

人間の紛争がなぜ起きるのか、
一般的には、つきつめると
自分を守る行為、自分の仲間を守る行為が衝突した場合に起きる。

対立する紛争当事者はどちらも自分を守るために攻撃する
相手に責任があろうと、正義があろうと、落ち度があろうと
そのようなことにかかわりなく、
自分を守るために相手を攻撃する。

そうして、自分の反撃は
「相手が自分を攻撃した同じ程度で反撃しているに過ぎない」
だから許される
という無意識の正当性を感じようとする。
特に家族など仲間同士の紛争の場合は
そのような意識を持つようだ。

典型的な紛争は夫婦問題である。

妻が自分をないがしろにしたと思えば
「同じだけ」夫は妻をののしる。
妻は、夫が自分を支配しようとしていると感じると
周囲を味方につけて、夫の攻撃にふさわしい反撃をする。

実際は、
けんかの始まりは相手に悪意がないことが多い。
それにもかかわらず、
人は誰しも相手に嫌われるのではないかという不安を持っており、
その不安が強すぎる人は、
自分が攻撃されたのではないかと感じやすくなり、
攻撃されたという断定が起き、
被害感情が全開になる。

自分に被害が生まれるのだから、
被害を埋め合わせようとして反撃してしまう。
この反撃は、意図的な攻撃である。

但し、その時、自分の攻撃の強さは、
相手が自分にした攻撃と同じくらいの強さにとどめているつもりだ。
自分から罪のない人を攻撃しているという
感覚は持ちたくないようだ。

同じくらいの攻撃だけど
一つは、そもそも攻撃をしていないのに攻撃をされた
という意識を相手は持っているので、
相手は自分を守るために
「同じ強さ」の攻撃に出る。

この時の「同じ強さ」は
攻撃する側の感覚であるから、
双方攻撃しあっているその最中にあっては、
指の押し相撲のように、
相手の攻撃の強さに相殺されて
自分の攻撃の「同じ強さ」は
相手の攻撃の2倍になる傾向にある。

「相手が攻撃してきたから反撃したまで」
「相手と同じだけしか攻撃していない」
という趣旨の言い訳をよく聞く。
しかし、それは、人間の脳の能力に問題があるため、
客観的には額面通りの結果以上のことが起きている。
過剰反撃になりがちなのである。

双方の紛争が続くと
強さは、どんどん2倍ずつエスカレートしていくことになる。

相手を破滅させるほど
攻撃が極端に強くなっていく。
前回と同レベルの強さの反撃は
反撃をしている実感がわかなくなるからだ。

自分が攻撃されているという感覚
つまり被害者意識が強すぎるという原因はあるものの
他方も、気が付かないうちに反撃行為が強くなっていき
それが相手の被害者意識をさらに高める
という悪循環に陥る。

あまりにもうまく説明できるように感じた。

もっとも、夫婦のような対人関係における
相手方に対する作用のずれを
小脳や体性感覚皮質で感じて修正するということは
非科学的な発想であろう。
脳の部分については脳科学者にまかせよう。

今の攻撃の話は、物理的攻撃というより
おもに言葉による攻撃である。

夫婦の場合、最終的には
「出ていけ」、「離婚だ」ということになるが、
要するに、仲間であることを否定する言動が攻撃であり、
否定の度合いが攻撃の強さである。

この攻撃の度合いについても
発言する方と発言を聞く方は
全く異なった認識をすることになる。

発言をする方は、どのような発言をするか
夢中になってわけわからないとはいえ、
ある程度は予測をつけて発言をする。
真意が別にあることも自覚している。
だから、それほど強い攻撃ではないと思っているかもしれない。

しかし、発言を受ける方は
相手から口に出されて初めて言葉を聴き取るために、
すっかり予測することは不可能だから、
警戒感が強い状態で受け止めるので、
強い刺激に受け止める傾向になる。

常に攻撃は、攻撃者が思っている以上に
攻撃を受ける側は強く感じているようである。

そして、それを受け止めた側の反撃も
自分の受けた攻撃と同じ強さでは
既に反撃として意識されない傾向にあるので、
それを上回った程度になってしまう。

つまり、最初は5の強さの攻撃も
相手は5プラス5で10の強さとなり
次は20の強さとなり、
次は40となって行くわけである。

防衛本能に任せた反撃をしているうちは
全体を上から見ることはできない
最終的には、ただ、相手を叩き潰すことに
全力を挙げるよう脳が命令してしまう。
大変恐ろしいことだ。

相手に反撃している時は
相手は仲間ではなく
敵対する者であり、
やがて人として尊重するということも
できなくなっていく。

より大きいダメージを与えることだけが
目的になってしまう。
やがて関係が破綻する。

これはもう、どちらかが反撃をやめるしかない。

「自分が悪い」と言って謝ることができれば最高だ。
即時にそれをできる人は素晴らしい。

謝らなくてもやめることはできるなら
それも素晴らしい。
相手方にやめるように言う必要はない。
自分が争いを中断する、反撃をしないという
単独行為ですむ。
実は、それほど難しいことではない。

逆に、相手を言葉で打ち負かしてしまったらどうだろうか。
自分は正しかったのだから、それでよいと思うだろうか。
それによって、相手は間違った行為をした人間だ
ということを思い知らせると、
相手がかわいそうである。

相手をかわいそうになるほどつらい思いをさせても
筋を通さなければならないことって
それほど多いことだろうか。
家族が家族である以上、それはない。

相手を否定してでも筋を通すなら
仲間の解消をするべき場合も多い。
しかし、始まりはそれほどの話ではないことが多い。

また、相手を打ち負かしても
それは仲間を打ち負かしたことだから
反撃ができないという体験、記憶を
相手に植え付けるという効果が確実に生まれてしまう。

それはお互いが快適な生活を営むことに
多大なる支障になるし、
崩壊の原因として蓄積されていく。

結局はいいことは何もない。
しかしそれにはなかなか気が付かない。

双方の攻撃を止めるためには
自分の攻撃で傷つく相手をかわいそうだと思うことが有効だ。

しかし、自然にはこれは思わない。
だから、自然にはかわいそうだと思わないことを
忘れないようにする。
そうして、無理に紛争が生じたら
それを思い出すことにするしかない。

あなたは途中でそれを思い出す。
相手はそんなこと知らない。
あなたが攻撃をやめても
しばらくは攻撃が続くだろう。

その攻撃を黙って聞く。
自分が最後にした攻撃から、その直前にした相手の攻撃をひいた
おつりが来ていると思うしかない。
少し視線を斜め下に下げて、
悲しそうな顔をして黙る。

どの程度攻撃が続くかは、
おつりの大きさによるものだと
我慢しよう。

沈黙が生まれたら幸運を感じよう。
謝るもよし、
興味のある話題を振るのもよし、
こちらから話しかけるべきだろう。

そして、自分の言動で取り乱してくれる相手に
感謝の気持ちを捧げよう。

あなたの攻撃に取り乱さなくなった相手は
既にあなたが仲間ではないと
腹をくくっているかもしれないからだ。

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