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脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期 [刑事事件]


全体が長くなるので、
最初に抜粋した部分だけ載せます。
全文はその後に載せておきます。



4 少年法適用年齢と脳科学
 
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、
 人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、
 扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、
 前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。
 その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど
 「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。
 扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、
 闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、
 何らかの形で自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。
 お金がなくて盗みに入ったり、
 攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、
 実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、
 危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、
 複雑な装いをみせます。

 いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。
 思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、
 関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、
 自分を制御します。

 この制御をする脳の部分が前頭葉です。
 協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、
 良いことをしようと思っているのではないということになります。

 扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、
 前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、
 自分の中で対立が起きているわけです。
 
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、
 20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。
 前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。
 アクセルの性能は完成したけれど、
 ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。
 これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。

 だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、
 19歳までは子どもとして扱おうということは、
 脳科学的には理にかなっていることになります。

 本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、
 一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。
 賛成反対という必要はないのですが、
 このような観点も科学的に証明されているのだから、
 法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。

 もともとこういう学問をするべきだと、
 研究対象を義務付けることには私も反対です。
 科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。
 但し、その研究成果については、
 社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。

 それを促すためにも、日弁連は、
 法律以外の学問分野についても意識的に
 アンテナを張り巡らせる必要があると思います。

 相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、
 連携はできないものだと思います。

 日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、
 脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、
 残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。



脳科学者は少年法適用年齢引き下げに対して意見を述べる必要があるのではないか 前頭皮質と扁桃体の発達時期

賛成、反対という単純な話ではなく

1 少年法の適用年齢引き下げの動き
民法や公職選挙法の成人年齢が18歳に引き下げられました。これに伴って少年法の適用年齢も20歳差から18歳に引き下げられる動きがあるようです。日本弁護士連合会は、この動きに反対しています。
https://www.nichibenren.or.jp/activity/human/child_rights/child_rights.html#hantai
少しわかりにくいと思うので、少年法と刑法の関係を説明します。大人は犯罪をすると、刑事裁判にかけられて懲役刑や罰金刑という刑が科せられる手続きに入ります。ここでいう大人は、現在では20歳以上を言います。19歳以下の場合はどうなるかというと、原則として、大人の刑事手続きの対象とはしないで、少年法の適用を受けるという扱いになっています。
 少年法の適用があれば、刑事事件ではなく少年保護事件となり、大人の刑事事件が地方裁判所や簡易裁判所で行われるのと異なり、家庭裁判所で手続きが行われ、処罰という観点ではなく保護、更生の観点からの処遇になり、死刑は無期懲役としなくてはならず、無期懲役の刑が相当な場合は10年から15年の刑にできるなどと定められています。
 これが現在は19歳と18歳もこのような扱いであるけれど、少年法の適用年齢を18歳未満とすると、19歳と18歳は大人として刑事事件として手続が進められることになります。
 少年事件の特に重大事件は、徐々に減少しているということが実態なのですが、一つ一つの事件が大きく印象的に取り上げられるために、少年に対する処罰感情が強くなっていることも改正の背景にはありそうです。

2 なぜ刑法とは別に少年法があるのか
 少年に対する処罰を厳格化する人たちがいることは確かです。被害者やその家族からすれば、犯人が成人でも少年でも被害感情はそれほど変わらないでしょう。被害は一つなのに、少年だからといって厳格な刑事手続きから外されるということは感情的には納得できないでしょう。
 しかし、国家政策は被害者の感情も考慮に入れながら、別の要素も重視していかなければなりません。
 では、なぜ、少年は大人の手続きではなく、少年法の手続きにしたのでしょうか。
 極端な話からすると、例えば、4歳の子どもが、スーパーでお菓子を食べてしまったとします。大人であれば万引きということで窃盗罪となります。警察に連れていかれて留置所に留置され、起訴されて裁判が始まり、実刑判決となれば刑務所に行きます。これが大人の手続きです。これを4歳の子どもに適用できないし、適用しても世の中に良いことはないでしょう。(このため、14歳未満の刑法犯は処罰の対象ともなりません。14歳以上は、少年法の適用はあるものの、交流上に留置されて取り調べられる可能性があります。)
 大人と子どもについて、区別することは理由があると思います。その線をどこでひくかという問題です。問題提起を研ぎ澄ませると、「少年法の適用がある19歳と適用がない20歳は、何が違うのか」という問題になります。
 この法律は、戦後直後に制定されているのですが、あまり科学的な議論があったわけではありません。人間には個性があり、若いのに立派な人もいれば、年を取っているのにだらしのない人がいることは事実です。本来年齢で決めることは非科学的な感じもします。しかし、法律はどこかで線をひかなければなりません。その場その場で法律の適用が異なると、混乱してしまい、無秩序な状態になってしまいます。結局、年齢で線を引くことがはっきりするうえ、比較的公平だということで落ち着いたのでしょう。
 もう少し食いついていくと、大雑把なのは仕方がないとして、何らかの理屈はあっただろうということです。
 一番大きな理由は、大人は待ったなしで自分のやったことの責任を問われなければならないのですが、少年はまだ成長の途中であるから、更生する可能性がある。大人と同じ前科をつけることで、社会の中での足かせをはめてしまうと、少年の立ち直る機会が失われてしまうので妥当ではないという考えです。少年のころの失敗をすべて残して立ち直れなくなってしまうより、立ち直らせて社会に無害になってもらった方が世の中のためにも有益だという考えもあります。

3 人が処罰される理由と法学と脳科学
脳科学や心理学を勉強していると、刑法の理論というものが、実はとても科学的であったことに驚いてしまうことがあります
日本の刑法が制定されたのは1907年ですが、これはプロイセン刑法などの影響を受けているので、実際の刑法理論は19世紀のものです。しかし、その後に明らかになった脳科学的知見とこの19世紀の法学が矛盾なく整合するのです。
 一番わかりやすいのは、人を処罰する根拠です。

 刑法理論は、自分がこれからやろうとすることが犯罪に該当することならば、「やっぱりやめた」と思いとどまらなくてはならない。それなのに思いとどまることをしないで、実行したことが非難に値する。つまり処罰できる。というものです。
 だから、思いとどまることを期待できない、子ども、生理的反射、病気の症状などについては、自由意思に基づく行為ではないので、「やっぱりやめた」と思うチャンスがなく、非難できないので、刑罰の対象としないのです。
 面白いことは、非難の対象が「思いとどまる」ということをしない点にあるということです。これは脳科学の知見から実に正しいことだったのです。
 1960年代、ベンジャミン・リベットという人が実験を行いました。指をあげる時の脳波の変化を測定しました。そうしたところ、指をあげようと思ってから指をあげるまでに4分の1秒かかったということがわかりましたが、実は指をあげようという意識が生まれる1秒以上も前に、脳は指をあげるための活動を始めていたというのです。
 私たちは、自分が、何かをしようとして何かをしていると思っています。実際は違うということになります。先ず、無意識に脳が、その何かをしようと検討を始めていたのです。その後に意識がそれをしようと思い、それをする。あるいは、それを止めようと思い、思いとどまる。こういう流れでありました。
 だから無意識の検討から、意識的な意欲までの1秒間で、人はその無意識の検討を思いとどまるかそのまま実行するかという選択をしていのです。最初の無意識の脳活動は、その人の人格にかかわらずに勝手に思考を始めています。殺そうか、万引きしようか、侮辱しようかと。刑法理論はこの無意識を処罰の根拠としません。それは認めた上で、「やっぱりやめた」と思いとどまらなかったことを処罰の対象とするのですから、人間の意思決定の仕組みを前提にしたかのような理論だったわけです。
刑法理論の人間観は、経験的、直観的に作り上げられたものでしょう。しかし、犯罪だけでなく、人間の行動や意思決定を実に正確にとらえていて、リベットがあとからこれを裏付けたことになります。

4 少年法適用年齢と脳科学
 脳科学的に言えば、大雑把に言えば、20歳前は、人間は犯罪を行いやすいということができます。
 具体的に言えば、扁桃体の成長が思春期頃にピークになり完成するのに対して、前頭葉前頭皮質の成長は、20歳を過ぎてから成長がピークになるということです。その結果、思春期から20歳頃までは、人を攻撃する衝動性は高くなるけれど「やっぱりやめた」と思いにくい時期が生まれてしまいます。
 扁桃体は危険を感じる脳の場所です。扁桃体からの信号で危険を感じて、怒ったり、恐れたりして、闘うか逃げるかして危険を回避するのが動物の生きる仕組みです。
 犯罪の大部分は、何らかの事情があって自分に危険を感じてしまい、自分を守るために行動に出てしまうというもので成り立っています。お金がなくて盗みに入ったり、攻撃されると思ってやり返してケガを負わせるというシンプルなものもありますが、実際は危険を感じても八つ当たりに出たり、危険を感じているためにしっかり考えないで刹那的な行動に出たりと、複雑な装いをみせます。いずれにしても、突き詰めると自分を守っていることが殆どです。
 この危険を感じる扁桃体が、思春期には大人並みになってしまうようです。思春期がキレやすくなるのは、こういう理由があったのです。
 大人は危険を感じても、思慮の浅い行動をすれば自分が不利になることや、関係のない人に八つ当たりをすることは慎まなければならないと思い、自分を制御します。この制御をする脳の部分が前頭葉です。協調を考えるとか、社会性を考える脳の部分です。
 人間は、一本調子に、悪いことをしようとか、良いことをしようと思っているのではないということになります。扁桃体が、カッカきて「やっちまおう」と息巻いていても、前頭葉が「まあまあ落ち着いて」とやって、自分の中で対立が起きているわけです。
 ところが大変残念なことに、この大人脳である前頭葉の前頭皮質は、20歳を過ぎてから成長を完成させるということになります。前頭葉が完成するまでは、扁桃体の衝動的な怒りモードの抑えが効きにくいわけです。アクセルの性能は完成したけれど、ブレーキはこれからという大変危険な状態だということですね。これが、だいたい14歳から19歳、本当は20歳代中盤過ぎくらいまでということなのです。だから、現在の刑法が20歳からを大人にして、19歳までは子どもとして扱おうということは、脳科学的には理にかなっていることになります。本当は、28歳くらいまでは子どもとして扱っても良いくらいなのですが、一応ブレーキがある程度かかり始まる20歳で線を引いたということで納得できます。

5 専門家への期待
 こういう話を、専門家集団が意見として述べる必要があるのではないかと思うわけです。賛成反対という必要はないのですが、このような観点も科学的に証明されているのだから、法律を制定するにあたって考慮するべきだという専門的な知見を述べてほしいと思うのです。
 もともとこういう学問をするべきだと、研究対象を義務付けることには私も反対です。科学なんてものは、学者が自分の興味本位で研究をするべきものだと思います。但し、その研究成果については、社会の提供することが責務としてあるのではないかと思うのです。それを促すためにも、日弁連は、法律以外の学問分野についても意識的にアンテナを張り巡らせる必要があると思います。相互に他業種の専門領域に乗り込まなければ、連携はできないものだと思います。日弁連が脳科学に興味を持つ方が早いか、脳科学者が法律に興味を持つ方が早いかといったら、残念ながら脳科学者に期待する方が現実的なようです。

6 ネタバラシと雑感
 今回の種本は、「あなたの知らない脳 意識は傍観者である。」David Eagleman(ハヤカワノンフィクション文庫)です。脳神経学者が、刑事政策について立派に意見を述べられています。
 イーグルマンは、この本でもう一歩進めて、人間には自由意思なんて存在しないということをかなり説得的に説明しています。だから犯罪者について非難できるところ探すことはナンセンスであり、非難可能性を処罰の根拠としてしまうと処罰をする理由は無くなってしまうということを言っています。もっとも、だから処罰しなくて良いのだということを言っているのではなく、社会防衛から処罰は必要だと言っています。非難可能性ではなく、修正可能性をもって処罰の根拠とするべきだということを言っています。
 大変魅力的な考えです。実際、私も多くの刑事被告人の方とお話してきましたが、自由意思や平等なんて言うのはフィクションだと常々感じています。もともと追い込まれている人たちが犯罪に出るということが実感です。この人が処罰されることは不平等で理不尽なことだと何度感じたことでしょう。
 しかし処罰をしないわけにはいかない。平等や公正というフィクションは維持されなければならないと一方で感じてもいます。ただ、社会防衛的な考えを徹底してしまうと、その人の危険性(イーグルマンでいうところの修正可能性)によって、その人の刑期の長さが決まってしまうという不都合が生じるということはよく言われていることです。私は、あくまでも非難であり、罪に対する応報(むくい)として刑罰というものを考える必要性があるとは思っています。
 考えさせられる典型例は、飲酒や薬の影響のために、「やっぱりやめた」ということが考えにくいような場合です。理論を貫いて、期待できないから無罪にするという割り切りは難しいです。
 どこかでフィクションをフィクションだと自覚しながらも、使わなければならないという法律学の宿命があるように感じました。

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