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言葉の始まりと成り立ち 言葉を使おう!現代に生きる我々が意識して行うべきこと。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

言葉がどうやって生まれたかについては
学説の争いがあります。

警告説
危険の存在を知らせるために言葉が生まれた。
サルの中には、危険を声で知らせ合う種類があって、
その声で、空からの危険なのか
地面からの危険なのかわかるので、
逃げ方が変わるらしいです。

毛づくろい説
サルが群れの仲間と相互に毛づくろいをして
コミュニケーションをとっていることから
体毛が薄くなった人間は
毛づくろいの代わりに
言葉を出し合うようになったというのです。
ロビン・ダンバー先生の説です。

この場合のコミュニケーションというのは、
お互いに敵意がないことの証明で、
心配しなくてよいよ、安心してよいよ
という信号のようなもので、
言葉というより音があればよい
例えばボー、ボーとなだめるように言えば
それで事足りたのでしょう。

この説に対しては、
現在の言葉がこれだけ多数に上ることを
説明できないという批判があります。

私は、それぞれの説は、
それぞれ正しいとして良いのではないかと考えています。
特に言葉が多いことの説明は、
時期的な違いに還元できると思っています。

要するに、今を去ること約200万年前、
人間は群れを作り生活していたわけですが、
狩猟採集をして生活していたとされており、
男は小動物を狩ってたんぱく質を確保し
女性等は子育てをしながら植物採集をしていた
のではないかとされています。

ここでいう女性とは、おそらく繁殖期のことで、
子孫を残すためには、
女性は走り回らない方がよい
ということを覚えていったのでしょう。
いずれにせよ、当時、子育てと植物採集は
群れが生き延びるための必要条件でした。

この頃の狩りは
体毛の濃い動物をどこまでも追い詰めて
熱中症様の状態に消耗させてしとめる
といういじめのような狩りだったので、
体毛の薄い人間は有利でした。
狩りチームは、危険と隣り合わせですから、
危険の種類や危険の程度を教えあるために
声の信号を使ったということはありうることです。

採取チームでも同じかもしれません。

群れの中では、突然不安に襲われることはよくあることで、
例えばオオカミの遠吠えを聞いたら
襲われるのではないかと恐怖になるでしょう。
また、出産に伴う生理的、脳科学的変化はあるし、
不意の死別もよくあることだったわけで、
対人関係的危険も共感モジュールによって存在したはずですから、
とにかく不安には事欠かなかったはずです。

大丈夫だよ、私たちは仲間だよ
という信号を声で発したということは
目に浮かぶのではないでしょうか。

声を出された方は、
自分が不安だということをわかってくれている、
自分の味方だと言ってくれている
ということを感じて
不安をある程度治めたことでしょう。

これを言葉の出発と言えるかどうか
厳密なことはわかりませんが、
このような行為をしていたということは
納得できることのように思われます。

先ずは、のどから音を出す習慣が存在することが
言葉が生まれる大前提だと思うので、
その意味でこれは言葉の始まりだと思います。

それから言葉が、語彙が増えていった理由が、
対人関係学が強調する
複数の群れが相互に影響を与え合うようになり、
人間の能力を超えた人数とのかかわりが始まったことによるもので、
それは農業革命が起きた時期、
つまり、今からせいぜい2万年前のことだと思います。

なぜ言葉が増えていったか。
その前になぜ単一の群れの場合は
言葉がいらないかということですが、
生まれてから死ぬまで同じ仲間と過ごし、
日常生活がずうっと一緒で
一人の時間を楽しむなんてことがない時代は、
仲間と自分の区別がつかない状態で、
一つには、仲間の状態を常に思いやっていたし、
一つには、仲間の感情は言葉がなくてもすぐに分かった
ということで、言葉は不要だったのだと思います。

仲間の置かれた状態を見て
自分がその状態にあると感じ
自分の問題として仲間の問題を解決しようとした
これが共感モジュールの根幹です。

その時代は、危険とはおおむね自然の驚異で、
それを知らせ合うことと、
理由があってもなくても不安に対して
慰めることができればよかったから、
ボー、ボーのイントネーションさえ違えれば
用事がすべて済んだのかもしれません。

ところが、複数の群れが関与し合い、
人類の脳の限界を超えた人間との関与が始まると、
利害調整をするためには、
細かい区別が必要になったはずです。

また、危険の内容も、
人間からの攻撃という厄介な攻撃を検討しなくてはならないし、
人数が多くて名前を付けなければ、
誰がどのような性質をしているか混乱してしまい、
相手を記憶していることも難しくなったということもあるでしょう。

それ以前の危険が、
生命身体に決定的な打撃を与える危険であればたりて、
それほど種類も多くなかったのに、
仲間ではない人間とかかわることによって
危険の程度も幅が広がったし
危険の種類や対応も同様に広がったはずです。

もしかしたら不安の種類や程度も
同じように広がっていったのかもしれません。

かかわりあう人間の数と群れの種類が増えるたびに
言葉が増えていったのだと思います。

アルファベットの起源が
交易を盛んにしていたフェニキア人の文字だということは
とても象徴的な話だと思います。

そして言葉が生まれることによって
さらに詳しく場合わけができたり、
道徳が生まれたりして、
さらに危険が増えて、言葉が増える原因となったのだと思います。

現代はそれが極致に達している状態なのでしょう。
我々が日常生活を送っていても
日本語だけでは不便で、
インターネットなどでも外来語をつかわなければならないようになっています。

このように(私の考えが間違ってなければ)、
言葉は、当初、仲間を助けるため、
仲間に対する思いやりを示すために始まったにもかかわらず、
複数の群れ、多すぎる人間関係の中で
変質していったことになります。
この時期から言葉による攻撃も始まったのかもしれません。

私たちの心は
約200万年まえに、つまり狩猟採集時代に
形作られたということらしいのです。
だから、私たちは仲間というか人間から
思いやりを持って接してほしい、
攻撃をしないで助けてほしいと
そう思ってしまう生き物のようです。

ところが、現代社会の複雑さから
基本的群れである家族でさえも、
言葉がなければコミュニケーションが取れない
そんな希薄な人間関係になってしまっているのではないでしょうか。

家族の中での対立は、
家族の外の人間関係である
会社、学校、地域、あるいは社会、国家
の対立関係、疎外されている感覚が
反映して起きている
そこから出発していると説明できると思います。

私たちは家族や
あるいは会社や学校でも、
言葉の原点に立ち返ることが
必要なのではないかと思うのです。

言葉を相手にある危険を回避させるということは
現代社会ではあまり使わないでしょうから
どちらかというと、
相手の不安をなだめるために言葉を使う。

しつこいですが、それは
ボー、ボーでよいのだと思います。
相手を攻撃しないということは
じゃあどうやればよいのとわかりませんから
相手を積極的に落ち着かせる
自分にはあなたに敵意はないよということを
積極的に言葉として発するということなのでしょう。

何を言えば良いかわからない人のために文明があります。
先ず挨拶です。
おはよう、お帰り、いただきます。
全ての挨拶は、敵意のないことの表現だと思います。

天気がいいね。花が咲いたね。
意味のない言葉こそが、敵意がないことの表明です。
日本語ではお愛想と言いますね。
真理を的確に表したネーミングです。

上級編は、感謝や謝罪なのでしょうが、
意味のない会話をする努力
これが言葉の出発点であり、
200万年前に生まれていたインテリジェンスなのだと思います。

言葉が伝えるべき最大の情報は、
私はあなたに敵意がありません。
あなたを大事に思っています。
ということに尽きるのでしょう。

負けるな現代人!


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