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「拡大自殺」論批判 「死にたければ一人で」論争がどちらに転んでも世の中を悪くするしかない理由と理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

登戸の事件を受けて
「死にたければ一人で死ね」という
SNSでの書き込みをすることの是非が議論されている。

是ということを臆面もなく主張することについての違和感と
非とする論者の隠れたすさまじい差別意識を説明することが
本拙稿の目的である。

1 「死にたければ一人で」の隠された前提

「死にたければ一人で死ねば」
無意識の前提がある。それは、
・犯人は、一人で死にたいのに、それが嫌だから(怖いから)
誰かを巻き添えにしたいのだから「死にたいなら一人で死ねば」
・犯人は、どうせ死ぬのだから、死ぬ前に
ひとはな咲かせようと、目立とうと多数を襲撃した
・犯人は自分で死のうとしているが、死ぬにあたって
自分に冷たくした社会に復讐しようとしている
だから死にたければ一人で死ねば
ということが隠されていると思う。

無意識の前提が怖いのは、修正が利かないことと
問題の所在が隠されてしまうことで、
刺激的な、印象的な言葉だけが取りざたされてしまうことだと思う。

これらの前提自体が、まず本当にそうなのか
議論されなければならないはずだ。

2 無差別襲撃に対する理解。

一人で死にたくない論、目立とう論、復讐論
全て見当はずれの可能性が高い。
犯人が死亡しているので、真実はわからない。
おそらく犯人自身にも説明ができないだろう。

無差別襲撃の心理、追い込まれるとはどういうことかは
最近(5月30日)述べたので詳しくは繰り返さない。
「無差別襲撃事件の予防のために2 むしろ我々が登戸事件のような無差別襲撃をしない理由から考える。国家予算を投じて予防のための調査研究をしてほしい。」 https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-05-30

要点は、追い詰められた事情としては
絶対的孤立
家族、職場、地域その他あらゆる人間関係に仲間として帰属していない
絶望
将来にわたり、どこかの人間関係に帰属することが不可能だという認識
であり、これが起きてしまうと
人間の命に価値観を一切持てなくなり、
他人の命も、自分の命も大切なものだという感覚がなくなり、

人間だからと言って、命を奪うことに
心理的抵抗がなくなる。それをしない理由がないという状態になる。

だから、復讐心がなくてもかかわりのない他者を殺すことができるし、
自分に対する他者の評価を気にしない状態なので、
目立ちたいとも思わなくなっている。
さらには、一人で死ぬことに特に抵抗がないので、
他人を巻き込むことが自分にとって価値があるわけでもない。

おそらく、「たくさんの人間を殺すことができそうだ」
と思ったから襲撃した
とそういうことなのだと思う。

3 一人で死ねば論の幼稚性

友人同士などで、登戸事件のニュース記事を見て
死にたかったら一人で死ねばいいということを話すことについて
とやかく言うつもりはない。
情において十分理解できることである。

しかし、それがメディアに取り上げられる場合は、
不特定多数の第三者に伝わり、
差し障るヒトにも当然伝わるのだから、
デメリットを考えて話すべきことは当然だ。

自分の発言がメディアに取り上げられることを知っていながら、
「言いたいから言った」
というのは、いい大人が言うことではない。
感情を垂れ流すことを恥じないなら芸は成立しないだろう。

4 「一人で死ね」自粛論は、自死の差別を助長する

しかし、より多くの人を深刻に傷つけるのは
むしろ、「一人で死ね」の自粛を呼びかける側だ。
その結論ではなく、その結論に至る過程に大きな問題がある。

こちらも隠された前提、無自覚の前提を持っている。
言い出した藤田氏の提起を超えているようだ。

問題点を際立たせる表現をすると、
「引きこもりの人たちは、自死の危険が高く
かつ、無差別襲撃をしかねない」という前提を置き、
だから、一人で死ねということを言って
無差別襲撃に駆り立てるようなことを言ってはならない
としているのである。

藤田氏の提案にも違和感があったが、
その後に続く一部の論者の主張には嫌悪感も生まれた。

引きこもっている人たちのほとんどは 自死をしないし殺人もしない

自死する人の99%以上は殺人をしない

それにも関わらず、
引きこもりの人や自死する人、自死リスクのある人を
無差別殺人者の予備軍みたいに扱っている
という印象を受けた。
すさまじい偏見だと言わなければならない。

このような論者の共通項があった、
「拡大自殺」という書籍を引用しているのだ。
ネット上での「拡大自殺」は、
それがどうしたという内容のない議論だったので、
その危険性について私も気が付かなった。

しかし、尊敬する江川紹子氏まで
引用していることに危機感を抱いて読んでみた。
その結果、
私の感覚の正しさが裏付けられたと思う。

5 「拡大自殺」の内容

第1章 大量殺人と拡大自殺
私は読むに堪えられなかった。
決めつけと罵倒に終始していると感じたからだ。
やまゆり園事件を中心に紹介している。
事件の確定囚を自己愛性パーソナリティー障害だと決めつけ、
事件、行為について罵倒することは理解できるが、
犯人の「人格」を想像と決めつけで論難している。
そもそも自己愛性パーソナリティー障害だとする
診断上の根拠を示していない。
筆者は精神科医なのであるが、
他者を精神科医として病気だと主張する態度として
このように日常の実務が行われているならば
震撼させられる。

第2章 自爆テロと自殺願望
これは、淡々と専門家のルポを紹介している章で、
それなりに興味深かった。

第3章 警察による自殺
特にコメントはない。

第4章 親子心中
なぜか、圧倒的に事例の少ない父子心中を
週刊誌の記事をもとにして冒頭に掲げ
憶測を交えて論じたうえで
統計的に圧倒的に多い母子心中の話が展開されている。
同一化、利己的というキーワードが出るが、
私には、理解が容易ではなかった。

第5章 介護心中
事例が豊富に紹介されており興味深かった。

終章 拡大自殺の根底に潜む病理
ここの差別の理論的根拠が展開されていた。
第1章よりも読むに堪えない記述であった。

6 拡大自殺論のフロイト派の展開が差別の根源

筆者は、
「自殺願望を抱いている人がなぜ他の誰かを道づれに無理心中を図るのか」
という問題提起を立てる。
これは重大な誤りを含んでいる。
言葉だけを見ると、
「自殺願望を抱く人は、他の誰かを道連れに無理心中を図るものだ」
という隠された前提があることになるからだ。

私のこの文章を読んでいる方々の多くは、
私があげあしをとっているだけだと感じられるだろう。
しかし、そのあとの展開は、
私の指摘が正しいことが明らかになる。

ともかく、
自殺願望を抱く人のほとんどは他者を道連れにしようとしない
殺人をする人の大部分は自死しない
ということが真実である。

それにも関わらず、このような問題提起をするということは、
何も考えていないで書いているか
答えがあらかじめ用意されているための前振りにすぎないか
どちらかである。

この本では後者であった。

この後の展開ではフロイトを引用して
うつ病の患者の苦悩は
「サディズム的意向と憎悪の意向との自己満足」であり、
自殺願望とは、他者への攻撃衝動の反転したもので、
自己懲罰という回り道をとおって、
もとの対象に複数する
と述べる。

筆者は現役の精神科医であり、うつ病の治療も多く手掛けているだろう。
このような理論にのっとってうつ病患者と接し、
治療をしているということになるのだろうか。

この論理の進め方の最大の疑問は、
なぜ、この論理が正しいと考えるのかについて
何ら根拠が示されていないということである。
私には、「フロイトが言ったから正しい」としか伝わらない。
あたかも聖書に書いてあることと違うからといって
地動説を否定したようなものではないだろうか。

さらに筆者はM.ベネゼックを引用し、
「他の誰かを殺そうとする意図なしに、
自殺することはあり得ない」とまで述べ、
畳みかけて「自殺は復讐である」という図式を
無批判、根拠なしに繰り返す。

W.ブロンベルグを引用し、
他殺か自殺かは、復讐という動機の強弱にある
とまで言ってのけている。

これが現役の精神科医の文章である。

フロイトについては、私は
他の認知心理学者よりは大いに評価している。
当時、
無意識を発見したこと、
精神病理には、患者の体験が影響を与えていること
それを発見したことは
全ての認知科学に多大な功績があると思う。
対人関係学ですら
フロイトがいなかったら成立していなかったと思う。

しかし、現在では、日本以外では、
脳科学や精神医学の発展によって、
実務的影響は限定的なものになっている。

フロイトが言っているから正しいという論理は
日本以外では通用するものではない。

正直言って
フロイト派の自死に関するメカニズム理論であれば、
対人関係学の理論の方が
悠に正確で実務的であると
確信している。
対人関係学の自死に関するページ
http://www7b.biglobe.ne.jp/~interpersonal/suicide.html

7 無差別襲撃をする人と自死者の違い

特に「拡大自殺」を引用しながら
「死にたいなら一人で死ね」というなという論者は、
自死者や、自死リスクを抱えている人間は、
無差別殺傷者の予備軍であるという主張になる。

だから、「一人で死ね」というメッセージが伝わると
無差別殺人を起こすという警告をしているのである。
 
この背景として、自殺をするようなものは
自分とは別種類の人間であり、
自分はそのような型の人間の外にいて
その人間を支援する尊い存在だという
強烈な差別意識が感じられる。

先ほど引用した私の5月30日のブログで述べた肝心なことは、
無差別事件を起こすものと
ほとんどの自死事案には大きな違いがあるということである。

無差別事件の加害者は、
あらゆる対人関係の中で孤立していて、
完全に回復については絶望し、
既に人間として生きる意欲をなくしているということだ。

これに対してほとんどの自死者は、
例えば家族を
それは現在の家族が多いが、過去の家族、未来の家族を
大切に、大切にされていたという記憶がある
例えば、友人、例えば行きずりの人でも
大切にしている対人関係があるということである。

この差は質的に全く異なる。決定的に異なる。

8 何が足りないのか。当事者の発言をくみ上げること。

どうしてこのような鼻持ちならない攻撃が横行するのか。
自分の頭で考えていないで雰囲気でものを考えているから
というのが一つある。

もう一つは、
誰かを支援するという第三者的な視点が
最大の問題であることに気が付かなければならない。

これを是正するためには当事者の発言に依拠することである。

自死未遂者の意見、
自死リスク者の意見、
そして自死遺族の意見が反映されなければならない。

これがない限りは、
自死対策は、
差別と偏見を拡大し、
自死予防とは逆行するばかりである。

このことが分かりやすく示されたことに
今回の論争の意味があったのかもしれない。

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