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【勝手に解説&ネタばれ】角田光代「坂の途中の家」結果的に思い込みDVを描いた傑作 妻ある人全員にお勧め。 [家事]


<場面設定>

「刑事裁判の補充裁判員になった里沙子は、子供を殺した母親をめぐる証言にふれるうち、彼女の境遇に自らを重ねていくのだった―。社会を震撼させた乳幼児の虐待死事件と“家族”であることの光と闇に迫る、感情移入度100パーセントの心理サスペンス。」
と紹介されています。

この刑事裁判では、
子どもを殺した母親水穂が、
追い詰められた上でわけわからなくなり、
気が付いたら赤ちゃんが浴槽で溺死していた
という弁護側の主張と

ブランド志向のわがままな女が、
子どもが邪魔になったので殺した
という検察の主張が対立して進んでいきます。

つまり殺意の内容をめぐって
追い詰められていたのか、追い詰められてはいなかったのか
ということを争点に裁判が進行していきます。

補充裁判員になった主人公は、
子どもを産んだ母親が追い詰められていく心理を
他の裁判員たちが理解しないことに焦りを感じながら、
自分の子育てや夫婦の会話を振り返りはじめます。

そして、少しずつ、
自分も水穂被告と同じように
追い詰められていたことに「気づき」出すのです。

特段意味のなかった主人公と夫の会話に、
夫の蔑みというか、自分を一段低く見ている発言に
「気づき」だすわけです。
そしてそれは夫の自分に対する憎悪があるからだ
と解釈をします。

ここまでが第一段です。

<夫の言葉が自分を否定していると感じるように変化>

主人公は、この裁判員裁判が始まるまでは、
自分の生活の不満を自覚してはいません。
3歳の娘のイヤイヤ期には手を焼いていますが、
夫には特別な不満もなく生活していました。

もともとは、夫の言葉
「裁判員が辛いなら自分(夫)から辞退の電話をかけようか」とか
「ビールばかり飲んでいたらアルコール依存症になるよ」とかを
日常の会話として受け止めていたはずです。

それが、主人公の心の中で、
自分は夫から裁判員裁判をする能力がないと決めつけられた
アルコール依存症だと決めつけられた
さらにさかのぼって
主人公が選んだ結婚式の引き出物を否定したこと、
友達に紹介しようとしたとき声を荒げて拒否されたこと、
娘に対する対応など
全て自分を否定する言動だったと考えると
筋が通ると思うようになっていきます。

そして、それを感じていた自分は
無意識に夫の顔色を窺ってばかりいて、
「常識がない」とか、「そんなことも分からないのか」とか
そういう言葉を言われないために
びくびくして生活していたということに「気付き」ます。
夫が怖くなっていくのです。

このあたり、作家はとても巧みで、
とてもリアルな表現になっています。
出来事に関してはできるだけニュートラルに記述されているので、
主人公の心情の変化が逆に強く印象付けられます。

<変化の理由>

どうして主人公の、特に夫に対する
心情の変化が起きたのでしょう。

この心情の変化こそが、
思い込みDVの実態です。

この変化の理由は、簡単ではありません。
多くの事情が、複雑に絡み合っています。

1)出産に伴う生理的変化

この小説が世に出たころは、脳科学の発見がまだないのですが、
その後、出産に伴って母親の脳は、
新生児に共鳴、共感しやすく変化するため、
大人、特に男性の心に共感しにくくなるという発見がなされました。

この脳機能の変化のため、夫が何を考えているのかわからなくなり、
自分が支持されているという実感もなくなり、
自分は、家の中で孤立していると感じ易くなるようです。

小説の中にも表現されていましたが、
がっしりとした体格の声のでかい男が家にいることだけで
恐怖を感じるようになってしまうというのです。

2)孤立婚の中での夫に対する過剰な依存

今の世の中は、
夫婦は孤立しているので、
心理的に、夫に依存してしまう傾向がどうしてもあります。
「夫が自分を見限ったらこの世の終わりだ」
極端に言えば、そのような恐怖を
無自覚に抱いてしまいがちになるようです。

だから、夫が怖いというのは
暴力や暴言に身の危険を感じるという以上に、
自分に対する否定評価によって、
離婚を言いだされるのではないか、つまり、
強烈な対人関係的な危機を感じている
という表現が正確なのでしょう。

見限られるというのは、
夫が自分とは別の群れに移動するということです。
自分だけが取り残されるという心配がおきるわけです。

3)夫の実家

主人公は、裁判員裁判の日は、
子どもを夫の両親に預けます。
そこで、夫と夫の家族のチームワークに接することが
いやでも毎日のように起こります。

夫が自分よりも
夫の両親の関係の方を大事にしているような感覚になりますし、
家に帰るのをぐずる娘までも
夫の両親のチームに移動して自分が孤立するのではないかという
自覚できない不安も
主人公をイライラさせる要因になっていると思います。

4)社会的孤立

特に仕事をしていて、出産とともにやめた母親は
社会的にも、自分が孤立していると感じることがあるようです。
それでも育児は休めない。
これでは、自分だけ損をしているという
そういう気持になっていくでしょう。
あたかも自分だけが、子どもの召使になったような気がする
という声を聴くこともあります。

このあたりの事情を
作者はリアルに織り込んでゆきます。

<主人公の考察、夫婦は対等か>

主人公は、被告人水穂と自分を重ね合わせるようになり、
被告人水穂が追い込まれていったことに共感を抱き始めます。
しかし、他の裁判員や裁判官が理解をみせないために、
主人公は焦りを感じていきます。
主人公の苛立ちにに共感を示している自分にも
気づかされるところです。

そして、夫がおしめを汚した娘を
主人公に押し付けるエピソードが絶妙なタイミングで挟み込まれます。

主人公は、このような自分の状態に照らして、
「夫婦という関係は対等なのか」
つまり、初めから妻はハンディキャップがあるのではないか
ということを考えるようになります。

夫婦の対等の意味とは何かという考えに進みます。
この主人公の思考の変化は圧巻でした。

自分の思い通りいかなかったこと
住居や収入、生活の様子など
全てが不平等な態度に終始する夫に
自分が何も言えなかったから
夫から見限られたくなかったからだ
というように感じていくさまが描かれています。

夫の何気ない一言や態度等が
自分を追い込んでいったと考えていくのです。

こんな時
もっともらしい権威のある人から
「それは夫のあなたに対する精神的虐待です。」
等と宣言されてしまったら、
「ああ、やっぱりそうだったんだ」
と思考が固定化されてしまうことを
手に取るように理解できるようになるでしょう。

<主人公の2回目の変化>

作者の角田さんの真骨頂は
母と娘の葛藤です。
もっと突っ込んで言えば、
母に精神的に支配されていると感じている
娘の葛藤ということでしょうか。
このテーマで数々の傑作が生みだされています。

この小説では、この点がメインテーマではなく
背景事情となっているようですが、
母親に対する葛藤が重要なきっかけとなって描かれています。

主人公は、夫だけでなく、
母親からも否定されていたと思い当たります。
結局母親は自分に対して優位性を示したかったと整理します。
子どものころはなんでも子ども中心に優しかった母親だけに、
その後の干渉がより強い心理的負担になっていたようです。

ただ、愛された記憶から、
母親は自分を否定したけれど
自分を憎んでいたわけではないということにも思い当たります。
もしかしたら、夫も、
自分を憎んでいるから否定したのではなく、
そのようにしか愛することができない人なのだ、
自分はそんな人の愛を求めていたのだ
という風に考えが変化します。

これは大きな変化だと思います。

孤立婚のために夫にだけ依存していて
夫を絶対化してしまっていたところから解放された
というようにも感じられます。

<裁判と主人公の共通する問題点>

裁判員裁判では、
主人公は、最後の最後で
自分の主張をまとめることができました。
とても説得力がある主張だと思います。

判決でもその考えが一部受け入れられるのですが、
実際の裁判ではなかなかこうはいかないのではないか
と思えてしまいます。

夫が被告人水穂を追い込んだ
ということには、
夫の言動がすべて微妙すぎるからです。

主人公の考えと
裁判での弁護団の考えには共通項があります。
それは、
「母親が心理的に追い込まれているのだから
追い込んだ人物がいるはずだ。」
それは夫だ。
という誤った前提です。
これが思い込みDVを産み出す要因でもあります。

母親が追い込まれる原因は、前述のとおり
出産に伴う脳機能の変化、ホルモンバランスの変化によって、
孤立婚の中での夫に対するそれまでの依存傾向との矛盾が現れ、
自分の孤立した育児の疲労と相まって
追い込まれていくという
そういう事情は確かにあるはずなのです。

だから、夫の言動だけから妻が追い込まれた
という流れで説明しようとすると
どうしても、微妙なニュアンスと論理を超えた共感を求める
そういうことになってしまうわけです。
これが実際の思い込みDVです。

<夫の責任>

それでは、夫には、
妻が追い込まれた原因は全くないのか
という問題がでてくることでしょう。

現時点では、
夫が悪いとは言い切れないが
夫に原因がないとも言えないのではないか
というあいまいな感想を持っています。

つまり、
夫には、妻を追い込まないために
できることがあったということです。
妻のデリケートなメンタルを理解し、
ダメ出しを極限まで控えて
妻の考えを尊重する。

妻が失敗しても、
「いいからいいから」
と責めない、批判しない、笑わない。
特に子どもの前では妻を立てる。

それでも、妻は
夫のフォローを嫌みだと思うかもしれないのです。

この逆、
些細なことでダメ出しをして
妻の判断を否定する、
不十分な点を責める
あれこれと指図する
ということをしない
それだけでもせめて行うべきだったのです。
私自身の悔恨を込めてそう考えます。

こちらが悪くなくても
妻は苦しんでいる
ということから出発するべきだったのです。

<主人公のその後>

当初は、この主人公と夫は
うまくいかなくなるのではないかと
そんな心配をしていました。

しかし、この点も作者は見事なのですが、
その後のことはもちろん書かない
しかし、
主人公の考えと違って、
復職を後押しする夫の発言があって
自分の考えが正しいのかどうか
揺らいでいる心情が織り込まれます。

主人公は、
最も悪い考えの時には、
自分は夫から憎まれているのではないかと考え
次に、そんな愛し方しかできない夫だったと考えを変えました。
そして、
新たなエピソードを通じて
再び安心の記憶が刷り込まれていく
その端緒を鮮やかに切り取って描いているわけです。

一番大切なことが、
夫婦関係は
いつも今の時点から、新たに
お互いに対する安心の記憶を
積み上げていくものだ
という主張に感じられます。
大賛成です。
これまでとは、少し違う
あたらしい夫婦の関係が
主人公夫婦にも積み上げられていくような
将来を予感させて小説は終わります。

<余事記載
 気がついたら乳児ができ死していたということがありうるか>

裁判の方では、水穂被告が、
その日のことはあまり覚えていなくて
入浴させなければいけないと浴室まで来たことは覚えているが、
子どもを浴槽の水の中に落としたことについては
記憶がないと主張します。
こんなことはありうるのでしょうか。

可能性はあります。
「短期記憶障害」と言われる疾患です。

これは、強烈に感情を動かす事情があった場合に起きます。
主として、命の危険を感じるような
強い危険があったような場合です。

水穂被告には命の危険がありませんでした。

しかし、わが子が水の中に落ちたということで
子どもの命の危険に直面したこと、
自分の不注意で子どもの命を奪うかもしれない
その結果、夫や夫の親や、社会から
自分が追放されるという恐怖
これらが一気に押し寄せてきたために
今起きている出来事を記憶することが
できなくなった可能性はあると思います。

実際に短期記憶障害が起きていたかどうか客観的にはわかりません。
しかし、大部分の場合、
被告人にとって経緯を記憶していた方が
裁判上は有利になります。
どうして落としたのか
どうして助けられなかったのかが説明できれば、
その理由を説明することができるからです。

ところが、この点の記憶がないと言ってしまうと、
故意に溺死させようと投げ込んだのではないか
という疑いが強くなってしまいます。

覚えていないと言うことは勇気が必要です。
そんなことはないだろうと何度も聞かれます。
警察からも検察官からも
そして一番しつこく聞くのは弁護人です。

それでも覚えていないと言い続ける場合は
本当に覚えていないことがあるのだと思います。

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