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友がみな 我よりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむ【勝手に解釈】 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

石川啄木『一握の砂より』

学生時代の友人たちの近況を知る機会があった。
みんなそれなりに出世して、社会的地位を得ているとのことだった。
自分はというと志を立てたものの
まだ道半ばというところにいる。

学生時代に、学業でも生活でも
彼らに負けたと思うことはなかった。
少なくとも、社会に向けて同じスタートラインに立っていたはずだ。
それを考えると悔しい気持ちになる。

自分では、もっと自分が
社会から認められても良いと強く思っている。
それなのに、名をあげることもなく、
この町の片隅で生きている。

こまま取るに足らない者として一生を終わるのだろうか
そんなことを考えると
無性にどこかに逃げ出したくなったり
何かを破壊したいような気持になったりしてしまいそうになる。

私は誰かに慰めてもらおうとしているのだろうか
そんな負け犬のようなことをしたくはない。
自分の心がすさみ、人間性が削られていっているように思う。

このまま甘えた気持ちでいると、自分より弱い者に
八つ当たりのような態度をとってしまうかもしれない
そうして、自分のそういう態度によって惨めな気持ちになり
また自分の心が余計にすさむという
悪循環に陥るだろう。

こういう時は、誰かに優しくするに限る。
こんな人間でも、妻は自分を頼りにしてくれている。
ありがたいことだ。
そんなかけがえのない人にささくれだった気持ちをぶつけてはならない。

花屋に行って、赤いゼラニウムを一鉢買って帰ろう。

こんなつまらないものでも、
妻は喜んでくれた。
そんな妻の様子を見ていると
自然と自分も微笑んでしまうことが分かる。
自分もまだ微笑むことができるのだ。
人を喜ばすことができたという安心感がそうさせるのだろう。

世間が自分をどう評価するかということは
自分という人間の一つの部分に過ぎない。
その結果がどうあれ
自分のもう一つの部分である
家族を大切にするということがおろそかになってはいけない。

私は妻とゼラニウムによって救われたのだろう。
他人の評価を気にする自分をいっとき捨てて
家族を大切にする自分を取り戻し、
人間らしさを取り戻したのだろう。

誰かに自分が辛く当たられて
悔しかったり、苦しかったり、不安になったりするときは、
そんな自分をいっとき捨てて
誰かのために役に立とうとするに限る。
だからといってそんなたいそうなことを
しなければならないわけじゃないようだ。


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この解説の構想は、4月に書いた
「こころがすさむ、心がすさんでいるとはどういうことか.」 
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-04-15
の中ですでにあったのですが、
これを入れると長くなりすぎるので泣く泣く割愛しました。

そのため、
なぜ、その文中にこの歌が出てきたのか
中途半端でわかりにくかったと思います。

これまでのこの歌の解釈とは違いますが、
詩人の直感は、こういうことを言いたかったのだろうと
考えています。

そのときに一緒に引用した中原中也もそうなのですが、
自分が苦しい時には
そのことを無かったことにするわけにはいかない。
自分をすべて失くしてしまうわけにはいかない。
そのためには、誰かの役に立つことをするだ
そういうことを言い当てていたのだと思います。


もっとも時代的な背景があり
今の女性の方々にとっては
もう少し鼻持ちならない言葉を出すことが
リアルな解釈になるのですが、
現代的にアレンジしております。

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