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小学生、中学生が自死する理由 中高年の自死の原因と子どもの自死の原因の違い [自死(自殺)・不明死、葛藤]

自死の原因を考える場面がある。
事件の解決のために
あるいは自死予防のために
原因の考察は不可欠である。

子どもの自死に関して
原因が思い当たらない場合は、
中高年の自死との違いを意識する必要があるかもしれない。

自死が未来に対する絶望から起きるという側面では、
中高年も子どもも共通であると思う。

人間は
なんかの危険を感じ、何らかの不安を感じた場合、
危険を解消したいという気持が生まれ
危険を解消する行動をとって解決する。
これが生きるメカニズムである。

ところが、解消する行動が見つからない場合
危険を解消したいという気持だけが大きくなってゆく。
それが大きくなりすぎて
危険が解消できるのならば何でもよいという優先順位になり、
本来生きるためのメカニズムだったのが、
危険を解消できるならば死んでも良い
という逆転現象が起きてしまい、
自死に至ると考えている。

中高年の自死の原因と子どもの自死の原因は
ともに未来に対する絶望、
危険解消のための行動が存在しないと感じることなのだけれど、

おそらく、中高年以上と子どもでは、
「未来」や「絶望」のニュアンスが異なるのだろう。

中高年は
自分が過去に築いてきた現在の立場が崩壊することに絶望する
これまで努力や運や挫折の繰り返しの中で
ようやく築いた人間関係や社会的評価、
家族との関係や、仕事の上司や同僚部下との関係
友人たちとの関係が
自分や他人の行為のために
否定されて、なかったことにされる
これまでの長い時間が否定される
いまさら一からやり直すことができない
こういう絶望の感じ方をすることが多い。

子どもたちは、
これからの自分の将来に対して希望を持つことができない
そういう絶望の仕方をするようだ。

中高年は、過去とつながる現在に絶望し、
子どもは、未来とつながる現在に絶望するようだ。

子どもたちにとって
数年後のことでさえ、自分の未来は曖昧模糊としている。
大人は思い出せるだろうか。
小学生が中学生になるとき、
中学生が高校生になるとき、
高校生が数年後大学生や就職するとき
自分のその時を確実に予想できる子どもは少なかったと思う。

つまらないことに不安になっていたはずだ。
それは今思えばつまらないことでも
当時は、取るに足りないことだということが分からない。

進学や就職は新しい人間関係が形成されるイベントである。
自分はすんなりその場の住人になれるだろうか
一人ぼっちになっていくのではないか
という不安は
あたらしい社会に出る喜びとセットで忍び込んでいたはずだ。

だから子どもにとって中学進学、高校進学は、
ただでさえ不安になるエピソードである。
しかし、もう一方の期待も生まれる。
これまでの自分を一区切りつけて
あたらしい人間関係が形成できるのではないかという期待である。
これが裏切られることは深刻な問題となってしまう。

子どもは常にそれまでの幼稚な自分から成長する過程にある。
それまでのなじんでいたはずの自分のポジションが
成長につれて納得がゆかない、不満だと思うようになる。
例えばそれまでは、からかい等親愛を示す行動も
成長の過程の中で苦痛に感じ、いじめに感じるようになることがある。

からかう側の人間も
それまで相手に脅威を感じることなく
自分よりも弱い立場の者だという扱いをしていたかもしれないが、
相手が成長することによって脅威を感じ、
それまでの親愛の気持ちに
よこしまな気持ちが混じってくることもある。
しかしそこに悪意があるわけではない。

進学、新しい社会は、
そのような自分の立場をリセットするチャンスとして
希望を抱くことが多い。

あたらしい人間関係に飛び込む不安と同時に
自分にふさわしい人間関係を築くチャンスでもあるととらえる。

ところが、
あたらしい人間関係が作られるはずが、
古い人間関係、からかわれ、いじられる人間関係などの
自分がなくしたい人間関係が
そのまま新しい人間関係の中でも維持されるとしたら
子どもは自分の未来をどす黒いものに感じるだろう。

あたらしく知り合う人間たちも
自分をさげすみ、軽蔑し
一人前の仲間として扱わない
そういう人間が自分の周囲で増えるということを予想することは
大変つらいことだ。

そして多くの子どもたちは、
次のステップの自分を予想することで精いっぱいだ。
小学生は、自分が中学生になることをある程度予想するかもしれないが
高校生の自分を予想することはなかなか難しい。

中学生は、高校生になる自分をある程度予想できるだろうが
大学生や就職した自分を想像することはなかなか難しい。

もし「次のステップ」が
自分にとって馬鹿にされて過ごすものだと予想した場合、
「次の次のステップ」で挽回できるはずだ
と予想することは至難の業だろう。

だから、小学を卒業しても、中学を卒業しても
自分の立場が改善されず、もっとひどいものになるだろうという予想は、
自分の一生が、ひどいものであって
死ぬまで改善されないものだというように受け止めてしまう
そういうことが考えられないだろうか。

我々中高年にとっての将来は短い
たとえ辛い未来が待っていたとしても
やがて自然に終わるし、
辛さのかわし方、ずるさもある程度身に着けている。

しかし子どもの未来は永い。
辛い未来は、本人にとって果てしなく感じるだろう。
予想もつかない辛い人生を
子どもはかわす方法など知らない。
辛い未来予想を真正面から受け止めてしまう。
あまりにも無防備だ。

大人は、子どもの未来を守るのが一番の仕事なのだろう。
子どもの自死予防は、このように
子どもが成長していくもの、新しい人間関係を築いていくものとして
子どもをもっと把握し直さなければならないようだ。

ちょうど幼稚園のころ、
子どもの未熟な発音がかわいいからといって放置せずに
発音の是正を指導するように、
小学校、中学校の子どもの未熟な人間関係を
今それでうまくいっているからと放置せず、
「将来に向けての現在」という観点から
人間関係の指導をしなければならないのだろう。

子どもたちはもっと尊敬され、尊重なければならない。
おそらくそれが今、一番欠けていることなのだろう。
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