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目黒事件 母親の裁判員裁判について性懲りもなく疑問を述べ、母性神話に反対する。 弁護士が有罪を前提とした弁護をすることができる理由を考えながら [刑事事件]

目黒事件 母親の裁判員裁判について性懲りもなく疑問を述べてみる 弁護士が有罪を前提とした弁護をすることができる理由を考えながら

有罪を前提とした刑事弁護をすることって
なかなか理解されないことで、
どういう理由で、その人を弁護するのか
という質問を何度かいただいたことがあります。

弁護士によって違うのは重々承知です。
「わたしは、」としか言い出せないのはそのためなのですが、
「わたしは、その人に共感する部分があるから
一緒に考えて、
その人のために弁解する」
と言うことが大雑把に言った感想です。

弁護士の中には、
「それが仕事だから弁護する」
という人がいることは当然なことだと思います。
むしろわたしのやり方は少数でしょう。
でも、私は、共感ができないと
つまりあなたの味方だと思えないと
納得のゆく弁護は難しいように感じています。
不器用なのでしょう。

そういうことを言うと
「どういう理由で、あんな悪いことをやった人に
 共感することができるのだ」
という疑問が当然出てくるとは思います。

一つの答えとしては、
全面的にやったことに賛成するわけではなく、
どうしてそういうことになったのかを理解しようとする
ということでしょうか。

より本格的な話をすれば
逆に
どうして自分が被害者でもないのに
そんなに他人に怒りを覚えることができるのか
と言うことにヒントがありそうです。

これは理由があって、
例えば子どもが食べさせられなかったとか
無理な勉強を押し付けられたとか、
虐待によって死んでしまったということについては、
私もそうですが、
かわいそうなことというのはとても分かりやすい。
理屈で考えなくても自然に湧き上がる感情です。

このブログのこの事件の最初の記事は、
そういうトーンです。
むしろ児相や警察に頼るよりも
実父に子育て参加をさせるべきだという主張をしています。
(2018年6月7日付)

そうなると、
被害者の子どもが自分たちの仲間になり、
助けたかった相手と言うことになります。
その反射的な脳の作用から、
加害者が敵になり、みんなで攻撃する相手
ということになってしまいます。

加害者である義父と実母は
攻撃の対象、憎しみの対象、怒りの対象になる
というのが人間の生理です。

刑事弁護で、クライアントである被疑者被告人と初めて会うとき
事件の概要だけを見て行きますから、
会うまでは、仲間ではありません。
どんなに悪い奴が扉の向こうから面会室に入ってくるのかと
そういう気持でいます。

しかし、扉の向こうから入ってきたその人の顔を見ると、
もちろん普通の人なのです。
100%憎しみの対象になるような
凶悪な顔をした人なんて世の中にいないのです。

みんなどこかで会ったことがあるような普通の顔をしています。
多くの被疑者被告人は、弁護士を仲間だと理解しているので、
唯一の仲間が会いに来た
という表情をされることが多いです。
そういうクライアントの感情の動きを理解できると、
100%敵だという無意識の思い込みが薄れ、
かえってカウンターを浴びるようなものですから、
どうして普通そうに見えるこの人が
こういう犯罪を実行してしまったのだろうと
考え始めてしまうのかもしれません。

要するに、その人の情報が増えれば増えるほど
その人を理解してしまい、もっと理解しよう
という気持になるようです。

そしてだんだんと調査をしていくうちに
やったことは悪いことだけど、
なるほど、そういう時間の流れの中で
そういう怒りの感情になったり、
そういう無気力、無抵抗の状態になったりして、
こういう引き金があれば
こういう行為に出てしまうのか
というような心の動きが「理解」ができるようになるわけです。

そうしてこういうことを何年もやっていると
犯罪をするかしないかに関しては
それ程人間の行動は大差がないなと
実感していってしまうわけです。

犯罪は防止しなければならないことなので、
秩序維持の観点からは
被告人に共感する国民が増えてしまうことは
あまり良いことではありません。
それはわかります。

しかし、あまりにも敵視してしまい
自分とは住む世界の違う人だ
ということで終わってしまったのでは、
再発防止が本当にできるのかという疑問が出てきます。

もしかしたら今裁かれているのは
自分だったかもしれない
あるいは未来の自分かもしれないと思いながら
みんなで再発防止を考えた方が、
犠牲者は少なくなると思います。

だから、私のような被告人のことをもっと知ろうとか
普通の人が犯罪に至った経緯を共有しようとか
そういう人がいてもよいのではないか
(本当は)いなくてはいけないのではないかと
思ってしまったりしています。

その観点から目黒事件について
不可思議な点として事件報道の1週間後に
記事を書いています。
【実証】目黒事件がわかりやすく教えてくれた、正義感と怒りがマスコミによって簡単に操作され、利用されている私たちの心の様相とその理由。支援者、研究者、そして法律家のために
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

今回の裁判員裁判のニュースを観て
その思いが強くなりました。
重複しないように簡単にまとめます。

基本的なトーンは
警察やマスコミが、
母親に対して、国民が
ことさら敵視するように誘導しているのではないか
という疑問です。

1 当初の報道時の写真の意図的な選別

被害者は、5歳ですが、死亡翌月には小学校に入学するのですから、
6歳の誕生日直前だったはずです。
ところが、去年の母親逮捕時の報道の被害児童の写真は
2,3歳の時のものでした。

それとどういうシチュエーションで書いたか疑問のある
「もうゆるして」という自筆の文字が公開されていますから、
人間の心理として、
あどけない写真の2,3歳の幼児が
あの文を書かされている姿をイメージしていたはずなのです。
それはそう仕向けられたというべきでしょう。

あの帽子をかぶって両手をあげたり
黒目勝ちで片手をあげて笑っている幼児が
机に向かわされて文字を書かされている
あるいは「もう許して」と必死に書いている
というイメージになれば、
母親を敵視することは自然な流れです。

今回の裁判員裁判の報道では
もう少し死亡時に近い5歳ころの写真も使われていました。

被害者死亡から3か月を経てからの報道ですから、
その5歳児の写真も警察は入手していたはずです。
ところが、
あえてその写真は使わず、あるいはマスコミに使用させず、
もっとあどけない時期の写真を使った、使わせた
ということになるのではないでしょうか。

2としては母親の写真です。

逮捕のころの化粧をしていない
眉毛もそられたままの無表情の素顔ばかりが
報道では使われています。
法廷スケッチでは髪も切っているのに
逮捕時の動画が繰り返されています。

これほど大きな事件ですから
普通の写真がないということはあり得ません。
この無表情の素顔は
無表情というところがポイントです。

国民は感情移入できないのです。
到底仲間だと理解できない。
即ち敵であり、怒りの対象としてふさわしいのです。

埼玉東京連続殺人事件の時と同じの
印象操作が今回も行われていたわけです。
似ても似つかない写真が当初公開されていました。

3 御用コメンテーターの怒りのコメント

母親側は裁判員裁判で、夫のDVが原因で
夫の虐待に抵抗できなかったという弁解の柱を立てています。

真実性についてはわかりませんが
成り立ちうる弁護です。

しかし、それについても
「母親なのだから命に代えても子どもを守れ」
というコメントがぶつけられました。

DVというけれど暴力はなかったじゃないか
という反論もあったようです。

一つは、原因がDVかどうかということは
実はそれ程重要なことではありません。

問題は、結果として
母親が夫から精神的な支配が完成されたというところにあります。
「目黒保護責任者遺棄致死罪事件で、母親の話が本当である可能性 服従を超えた迎合の心理」
https://doihouritu.blog.so-net.ne.jp/2019-09-06
で書いたばかりですから省略します。

もう一つの問題は、
母親を敵視する必要上から意図的にだと思うのですが、
なりふり構わず母性神話を掲げて
公の電波で母親を攻撃する論調です。
母親なんだから命を懸けて子どもを守れ
というもっともな、一見正当な議論です。

もし、母親が本当に夫に対して精神的支配に服従していたなら
こういう本能的な対応こそ不可能になるということなので
論理的にも間違っています。

これが精神的支配の完成された段階なのです。
オウム真理教でもそうですし、
戦中の日本ではありふれた光景でした。
人間の意思なんて、このような危ういものなのです。

ここでさらに疑問なのは、
日頃DVだ、男女参画だ、ジェンダーだという人たちが
このような露骨な母性神話に対して
何か反論しないのか、
いつもの卓越した発信力を使っていないのではないか
というところに疑問を感じるのです。

精神的支配に服従するのは男女は関係ないのですが、
批判の仕方が「母親ならば」命を懸けるはずだ
というところにあるのですから、
批判があって当然だと思うのですが違うのでしょうか。

わたしは、両親が頑張るべき場面であり、
母親だけが命を懸けなければならないということは、
心の中で思うのは自由ですが
テレビなどで言うはおかしいのではないかと思うのです。

4 遺棄行為の特定は

最後は、純粋に知らないから知りたいということなのですが、
本件は保護責任者遺棄致死罪という犯罪です。
「遺棄」という行為が無ければ犯罪は成立しません。
遺棄とは、するべきことをしなかったことです。
そしてこの「遺棄」があった(するべきことをしなかった)から
被害者は亡くなったという因果関係も必要です。

先ず、遺棄の内容は何か
虐待を続けたことなのか、
それなら遺棄ではなく傷害致死にならないのでしょうか
それとも死亡前日など病状が悪くなったのに病院に連れて行かなかったと言う点が遺棄なのでしょうか。

もうしそうだとすれば疑問も出てきます。
被害児童は、敗血症で亡くなっています。
感染に対して抵抗力が無くなったということになります。

一方で胸腺萎縮が甚だしかったと言われています。
胸腺萎縮が起これば免疫力が低下します。
そうだとすれば、胸腺萎縮が先行して起きて
細菌感染が広がってしまい、敗血症になって死亡した
という流れが想定できます。
もしこれが正しければ
果たして症状が悪化した段階で病院に行ったところで
命が伸びたのかということが検証されなければなりません。
なぜならそれが裁判だからです。

また、胸腺萎縮があったけれど
細菌が体内で有意な活動しなかった
栄養状態不良が重なり、あるいは風邪をひいて
細菌感染と拡大が急激に起こり
敗血症を発症して死亡したという流れも
可能性としてはあるはずなのです。

この点どうなったか、
おそらく整合するような形で裁判は進んでいると思いますが、
興味はあるところです。

胸腺萎縮もストレスによるものなのか
その他に原因があるのか解明は進んだのでしょうか。

5 何が心配なのか

結局、私は一つには弁護士病という
へそ曲がり疾患にかかっていて
ついつい少数者、特に多数から敵視されている少数者を観ると
つい、本当はどうなのだろうという
そういう発想が出てきてしまうというところがベースにあるのだろう
と書いていて自覚しました。

しかし、もう一つには
こうやって、母親を敵視して、
例外的な人類の敵がいたからこういうことが起きたのだ
ということで終わってしまうと、

第2第3の犠牲者の子どもが出てきてしまうということです。
実際出ています。
救える子どもの命を救う方法について議論せず、
思考停止になってしまい
救える子供の命が救えないということが一番の心配事です。

現在の議論を要約すれば
虐待死を防ぐためには
母親が命を懸けて子どもを守り、
そのような母性のない母親からは国や自治体が
容赦なく子どもを引き離すということなのではないでしょうか。

しかし、
児童相談所の職員を増やしても
同じ事をしていれば同じことですし、
対応には必ずデメリットがあるのですが、
そのデメリットをどのように軽減して
目的を果たすかという理性的な議論ができなくなります。

(だから、いい加減な、自分勝手な署名活動に
あまりよく考えもしないで賛同する人たちがいたわけです。)

こういう怒りの議論は
虐待死だけを防ごうとするだけで
虐待死につながる虐待を減らしていこうという発想にはなりません。

力技の結果の押し付けになることは目に見えています。
これでは虐待死自体も減らないでしょう。

だから、
私くらいは
母性神話に抵抗を示し、
明日は我が身と考え、
人間を敵視しない議論を呼びかけてもよいのではないかと
おそらく山のような批判が来ることを覚悟して
これを書いているところです。

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