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親としての資格 : 父母は、意見、価値観が違うことが子どもにとっての生命線 かわいそうだからやめるができなくなる時 目黒事件を自分のこととして学ぶ [進化心理学、生理学、対人関係学]

弁護士をして、刑事弁護をしていると
少しのボタンの掛け違いで重大な結果を起こしてしまった
という事例が案外多いように感じます。
それでもマスコミは、
その被告人が根っからの悪人であるかのような報道をするわけです。

このような事件の一面的な取り上げられ方によって、
私たちは事件がとてつもない悪人によって起こされた
例外的なケースだと思いこまされて、
自分には関係のないことだという先入観をもたされ
安心して加害者を責めあげたあげく、
時間の経過によって忘れてしまうわけです。

原因は放置され悲劇は繰り返され、
あるいは形を変えた悲劇が生まれることになります。

しかし、もしかしたら、わずかなボタンのかけ間違いではないか
という視点で事件を見ると、
自分たちの問題として考えなければならないことかもしれないということが
見えてくるような気がします。

その典型例が目黒事件だと感じています。

目黒事件では、
幼い子、わが子を虐待したことに加えて
九九を暗記させたり、ひらがなの書き取りをさせたことも
非難されているようです。
マスコミは亡くなられたお子さんの写真に
2,3歳のころのものを使っていますので、
その当時に九九や書き取りをさせられていたような印象を持たされ、
なるほど虐待だと思いがちですが、
亡くなられたお子さんは、翌月には小学校に入学するということでしたから
写真のころよりは成長していたようです。

小学校入学前の九九や書き取りは、
小学校受験をするようなお子さんは
当然に学習していることだと思います。

それ自体は虐待とは言えないでしょう。

小学校受験だけでなく
ピアノやバレエ、その他の習い事をして、
コンクールに出場してよい成績を収めるお子さん方も
同じように親のモチベーションで無理をさせられています。

いろいろな思惑で親は必死になります。
自分と同じような人生を送ってほしいとか
自分と同じ苦労はさせたくないとか、
親の切実な思惑は限りがありません。

また、この時期の子どもたちはやれば伸びますから
無理が無理ではないと錯覚することも多くあります。

無理の中で、
例えば、この課題が終わるまでは食事をさせないとか
ケアレスミスをするたびに叩いたりするということは
結構あるはずです。

両親が一致団結して
結果を出させようと目を吊り上げて子どもにあたっていて、
子どもがストレスを抱えてしまい、
知らないうちに免疫機能が衰えてしまい、
食事ができなくなったと思ったら
重大な感染症にり患してしまっていて
明日病院に連れて行かなくてはなんて思っているうちに
あっけなく亡くなってしまうなんてことは
子どもだからこそ大いにありうることだと思います。

通常途中でストップできるわけですが
その仕組みは
結果を出そうとする親と、
見ていてかわいそうだからやめようとする親の
意見対立があるからだと思います。

結果を出すという努力がなければ何事も成り立たないでしょうが、
かわいそうだからやめるという気持ちがなければ
子どもに回復不能な損害を与えることがあるわけです。

子どもに対する感じ方の差が
あるいは目標の重要度の感じ方の差が
一方が目を吊り上げていても
他方がストップをかけられる要因となっているわけです。

このアクセルとブレーキの役割は決まっておらず、
父親の場合もあるし、母親の場合もあるようです。
また、その時によって立場が入れ替わることも多いでしょう。

常に父母の意見や価値観が一致していては歯止めがききません。
父と母は、感じ方が違うことにこそ価値があるのです。

両親のどちらかが死別しているような場合は
死別した親の代わりの役割を果たす人がいるとよいと思います。
祖父母なんていうのは、通常ストップをかける役割が期待されているでしょう。
もし、離婚しただけでもう一人の親と会えるならば、
かわいそうだからやめるでも、
もう少し頑張れでも
親として言ってくれるわけですから
子どもとしては大変貴重な人間です。

離婚した場合にはもう一人の親からすると他方の親は
目の上のたん瘤ですから
口出しをされることは大変煩わしいことなのですが、
これは子どもが生きて健全に成長するためには
とても貴重な存在だとして、
我慢しなければならないのだろうなと思います。

離婚せずに同居していても
同じことが起きて、子どもが健やかに育つわけです。
自分のことで相手から解放されることはよいとしても
子どものことでまで解放されるわけにはいかないということなのでしょう。

あとは程度の問題をコントロールするという課題を解決するべきです。
助けを得て解決するべきなのでしょう。
今から少し前までの日本は二人だけで解決してはおらず
常にみんなで解決していたようです。

目黒事件では、母親が継父に支配されていたと指摘されています。
子連れ側の親は、相手に気を使うということがあり、
迎合しやすいということは意識したほうが良いかもしれません。
継父の子どもに対する行動をストップしにくい場合があるようです。

但し、実際の多くの事例では
継父も自分の子どもとして接しており、
継父ということだけで問題が起きることはありません。

それとは別に、
母親が、それまでの人生で
例えば学校から、例えば友人から、社会から
否定され続けてきた場合に、
(あなたは劣っている、役に立たない、正しいことができない)
自分を肯定する存在が現れ、自分を評価し、
(あなたは本当はダメな人間ではない。自分はわかっている。
 チャンスがなかっただけだから、子どもにはチャンスを与えよう)
守ってくれる存在だと
自分を認めてくれる唯一の存在だと感じてしまい、
この人間関係が、自分と子どもにとってかけがえのないもので、
その人間関係の決めたルールは神のルールのように守ろうとしてしまいます。
批判的精神が失われてしまいます。

かわいそうだからやめてほしいということは
せっかく自分たちを救ってくれる人に対して
失礼なことだし、間違ったことだと感じてしまうようです。

暴力や暴言の恐怖だけで、
子どもを守らなかったことを説明することは難しいと思います。
服従の先にある迎合の背景、つまりそれ以前の人間関係の状態こそ
問題とされるべきだった可能性があると思います。


ここまで極端なことでなくても、
自分に自信のある人間はそうそういませんから、
相手が自信をもってやっていることを
何となく、かわいそうだからやめてということを言いづらく
黙ってしまうということは
少なからずあるようです。

相手も、子どものためにと思って厳しくしていますから、
止められそうになると
子どもの成長を妨害しようとする行為だと
怒りの対象になってしまいます。
ますます言いづらくなる悪循環です。

私たちは現代社会に適応しようともがいている中で、
いつしか、効率や合理性を絶対的なものとして
考える癖が身についているようです。

適応できて社会的地位を勝ち取った人ほど
そのような考え方に支配されているかもしれません。

相手の行動が正しくて
それが子どもの利益にもつながるというときほど、
親のどちらかが必ず
「かわいそうだからやめよう」
という選択肢を提起することが必要なのだと思います。
これは実の親がよりよく力を発揮できることなのです。
子どもが苦しんでいたら
自分が苦しめられているような怒りを覚える存在だからです。

言われたほうも、怒りを抑えて
「かわいそうかもしれない」
と聞く耳をもつことを選択肢として用意することが必要だと思います。
正しさゆえに無理をしていることがあるということは
自然には気が付きにくいのですから
あらかじめ頭に知識として入れておかなければなりません。

かわいそうだからやめる

いろいろな場面でこのタイミングは出てきます。
習い事が苦しいとき
学校に行くのがどうしてもつらくてできないとき
就職してからもそういうときがあることが多いようです。
親は、現代社会に適応しきらないで
生物的な親としてかわいそうだから無理をさせない
という選択肢を持ち続ける必要があるということが
現代社会のもう一つの素顔だと思います。

かわいそうだからやめる。

この選択肢をもつことが
親に限らずすべての大人の
子どもにかかわる資格なのだと思います。

かわいそうだからやめる
もしかしたら、大人と子どもの関係だけでなく、
すべての人間関係の最も大切なことなのかもしれません。

しかし、それを一番自然にできるし、しなくてはならないのは
やはり実の親、家族なのかもしれません。

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