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智に働けば角が立つ。現代社会の人間関係の問題点の根幹にこれがあるのではないだろうか [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

智に働けば角が立つ。情に掉させば流される。
意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

夏目漱石の草枕の初めの一節である。

人間がたった一人で生きていくなら
このような煩わしいことはないでしょう。
すべて自分以外の人間とかかわって生きるがゆえの苦労です。

大きな決断をする場合だけでなく
日常的な動作をする際にもついて回る
対人関係的な悩みといえるでしょう。

智に働けば角が立つというのは
よく考えて行動すればよいというものではないという意味です。

人間は、考える道具として正義とか道徳とかに照らして
自分の行動を評価して先に進んだり立ち止まったりします。
そのほかにも合理性だったり、効率だったりを
行動を考える道具としています。
ここで大切なことは、考えて行動する場合、
正義や道徳、合理性や効率ということを考えることに夢中で、
他人や自分の感情をわきに置いて考えてしまうということが起こりがちです。

そうすると、良かれと思ってした自分の行動によって
誰かが自分を否定されたと感じてしまう
ということが起こってしまうことがあります。
否定されたとまではいかなくても、緊張関係が生まれてしまいがちになります。

正しいことを言っているからと
それについてこないほうが悪いという態度をとってしまいがちになっていないでしょうか。
良かれと思ったことで、妙な緊張関係が生まれてしまう
これが智に働けば角が立つメカニズムです。

情に棹をさせばというのは、
人情や相手の気持ちばかりを考えて行動を決めるということです。
人情や感情を川に見立てて、その川を漕ぎ出すという表現です。
こうすると誰かを傷つけるということは格段に減り、
無用の緊張関係は生まれないけれど、
本来するべきことができなくなったり、
それはおかしいのではないかと思うことも
やらなければならなくなったりする。
自分というものさえも見失ってしまうことがある
という不都合が生じてしまい、修正がきかなくなります。

特に深い考えもなく、他人や自分の気持ちも考えず、
一度決めたからこうだということばかりしていると
当然、誰からも相手にされなくなってゆきます。
文字通り窮屈な思いをすることになるでしょう。

なるほど、漱石の言うことももっともかもしれません。

おそらく夏目漱石は、何らかの事情があって、
大事な人間関係とそうでもない人間関係を
区別することができなかったのかもしれません。

会社の同僚や、近所のお店の人、そして家族と
それぞれの人たちに異なった対応をする
ということができなかった可能性があります。

まず、最も身近な人間関係である家族においては、
効率よりも気持ちが優先されるべきです。
不合理な思いをしても
家族を苦しめるよりは、
安心させるのが家族の役割なのでしょう。

確かに、よりよく生きようとすることは大切ですが、
それによって、必要以上に家族を苦しめることは
長い目で見れば間違っているというべきなのでしょう。

例えば、子どもが宿題があるのに遊んでしまって
宿題が終わらない。
こういうことが続いているので、親としては、
宿題をきちんきちんとやらないと
やるべきことを放っておく癖がつくと心配するでしょう。

あるいは決められたことはやらなければならないという
即時的な正義感が発動されるかもしれません。

ここでガツンと注意しなければならないのですが、
例えば、
「宿題が終わるまで夕飯は抜きだ」
という懲罰的な行動に出るとします。

言われた方はお腹がすくし、
弟や妹はおいしそうに食べています。
大変悔しい、恥ずかしい気持ちになります。

これが智に働いた行動ということになるでしょう。

かわいそうだから、今日はいいや
と思ってしまうと、どこまでも宿題も勉強もしなくなる。
これが情に掉さして流されるということでしょう。

夫婦の間においてもそういうことはあって、
旅行の計画を立てる場合に、
効率よく名所をめぐる、
せっかく行くのだから見られるだけ見るということで、
自分勝手な、少し無理な計画を立てると
相手は窮屈で時間に追われる旅行になると思い
なんとなく理由を言葉にできないけれど嫌だなと
思うようになるかもしれません。
相手の感情は理解できても
合理性を優先してしまい、
大きな声を出したり、
ムキになって自説を押し通そうとすると
角が立ったり、窮屈になるのですが、
どうしてわかってくれないのだろうと
理解できなかったり
相手に合わせて修正することができなかったりすることがあると思います。

ではどうするか。

例えばですが、子どもの例で言えば、
夕飯を食べさせてから
宿題を付きっ切りで一緒にやってあげる。
何かひらめいたら大げさに褒めてあげる。
こうできればよいのですが、
即時的な正義感が働いて
子どもに嫌悪の気持ちが生まれてしまうと
なかなかそれができなくなります。

宿題が終わるまで食事をさせないということがあっても
親も一緒に食事をしないで
宿題が終わって親子で
おいしく夕飯を食べるなんてことも想像できるかもしれません。
「やることやった後だと飯もうまいなあ」
なんて言いながらほめてあげる。

これが智に働きながら情に掉さすということかもしれません。

職場の場合は、少し、智に働くことが優先されてきますが、
それでも情を忘れると
弱い立場の人たちは、苦しいばかりの職場になってしまいます。

どうも現代社会は
智に働きすぎて、情がないがしろにされているのではないか
そう思えることがしばしばあります。

どうも私たちは正義や効率、合理性というものに
最上の価値をおくように教育されてきたような気がします。

しらずしらずのうちに
正しいことを言っているのだから
相手は自分に賛成するべきだという考えをしてみたり、

要領の悪いことをしている仲間に
嫌悪感を抱いてしまったり、

目的のはっきりしないことをやることに
他人事ながら批判したりしてしまいます。

誰かの気持ちを優先させて行動する人間を見ると
目的に向かってまっすぐ進んでいないと言って
イライラしたりすることはないでしょうか。

現代社会の智に働いて角が立つ現象だと思います。

正義、合理性、効率、ということが行動原理になれば
どうしても、仲間の感情というものに
重きを置かなくなってしまいがちになるようです。

だから、私たちは、特に身近な仲間に対しては
智に働きすぎてないかということを
意識して生活する必要があるのではないかと
わたしは、我が身を振り返ってみてそう思うのです。
私の周囲は角だらけのような気もします。

人智などそうたいしたものではない。
目的に向かって進むといっても
その目的自体が限界を持った合理性なのだと思います。

むしろ、目的はないけれど
今これをしたくてたまらない、
これをしているときは夢中になれる
というところに、
人類の進歩が見つかるかもしれません。

正義、合理性、効率ばかり考えると
案外大事なことが見落とされてしまうのではないでしょうか。

また、正義、合理性、効率を忘れて
今このことが楽しい、安らげる、安心できる
ということをやりながら生活することで、
幸せという一番の目的を実感できるものなのかもしれません。

現代社会では、それを意識しなければすることができない
という不幸があるのかもしれません。

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