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私が間接交流で終結することに反対する理由 直接交流こそ面会交流の原則 [家事]

間接面会交流は、面会交流としての効果はほとんどない。原則として面会交流とは呼ぶべきではないこと

子どもがいる夫婦が離婚や別居をすると
子どもにとっては、
一緒に住んでいる親と
別居している親がいることになりますが
子どもは別居している親とも交流をすることが必要となります。

子どもは別居親との面会を求めていることが多く、
別居親と会えないことに不満を持つという調査報告があります。

また両親の離婚や別居は両親の事情であり、
自分は、別居親からも同居親からも愛されている
という実感を持つことで、
自分が否定されていないということを実感できるようです。
そうであれば、別居していると親と会うことは
子どもの人権です。

別居親と交流がない場合は、
自己肯定感が低下してしまうということが
統計上実証されています。

つまり、同居親だけでなく別居親も
子どもの養育にかかわることが
子どもの健全な成長のためには必要だと説明されています。

ところが、実際は
相手に対して葛藤があって離婚したり、別居したりするわけですから、
同居親(多くは母親)は、別居親(多くは父親)に
子どもを会わせたくありませんし、
会わせることに不安を抱くことが多いです。

面会の受け渡しで顔を会わせることが嫌なことはもちろんなのですが
少し踏み込んで聞いてみると
通常は何か嫌なことを言われるのではないか
会えば自分を否定する言動をするのではないか
という不安があると話してくれる人が多くいらっしゃいます。

子どもが別居親と会えない事情がある場合は、
家庭裁判所に面会交流調停の申し立てを行います。

最近は、裁判所や調停委員も、
同居をしている親が面会を拒むことに
子どもにとっての理由はないと理解し、
面会実施に向けて同居親に働きかけてくれることも増えてきました。

しかし、子どもに何の責任もないのに
母親が会わせたくないからという理由で
親が子どもに直接会うことは遠慮しろ
その代わり、手紙を書くということでおさめたらどうだ
という提案がまだまだなされることがあります。

「直接」会わないので、間接面会交流と言っています。

わたしはこの間接交流というものに賛成できません。
実務的な理由を述べます。

第1に、子どもが親の愛情を受けているという実感を持つことが
面会交流の目的ならば
手紙や写真のやり取りでは目的を果たさないからです。

親子のコミュニケーションは、文字でするものではありません。
文字や写真だけではなかなか愛情を実感することはありません。

表情だったり、ぬくもりだったり、
言葉にしても声の調子だったり
直接会うことと比べると間接では、効果はほとんどありません。

会えば、言葉を交わさなくても
表情を見ただけで気持ちが通じ合うこともあります。

第2に、子どもの写真が別居親に届けられても
子どもの健全な成長とはなにも関係がないからです。

別居親だって写真だけを見て満足するということは
非常に酷なことでしょう。

子どもにとっても
いつ写真を撮られたかわからない、いつ送られたかわからないでは
いよいよ面会交流の意味はありません。
面会交流はあくまでも子どもが健全に成長するためにやるものだからです。
これでは交流ですらありません。

こどもの写真を送ってもらって満足しろという人は
面会交流の目的を理解していません。
単なるうるさい別居親をあしらっているに過ぎないと思います。
失礼な話です。

第3に、別居親からの手紙は
通常子どもにはわたりません。
間接交流は約束しても実現しないことが多いのです。

同居親が渡さないで取っておくというパターンが多いです。

前にも面会交流の調停を申し立てた親御さんの例で
間接交流で手紙の受け渡しで始めましょうなんて言われて、
それで調停を成立させた。
しかし、送ると約束した手紙も来ないので
二度目の面会交流調停を申し立てて調査などしてもらうと、
子どもが自分の親から手紙が来たことすら
知らなかったことが分かることが多いです。

子どもの目につくところにおいておくから誠実だ
なんて調停委員もいますが、
子どもからしたらどう思うか少し考えればわかるでしょう。

せっかく自分の例えば父親から手紙が来ても
同居親である母親は、子どもに読めとも言わない。
そうすると子どもは同居親の気持ちを推量(おしはか)る生き物ですから、
母親は読んでほしくないのだなと察し、
読もうとはしないものです。
つまり渡さないのと一緒です。

渡しても、嫌がったり迷惑そうにしていると
子どもはそんな親の気持ちを察するものですから、
「私はあの人の手紙なんていらないと言って。」
と親を安心させようとするものです。
片親疎外(PA)というものは
こうやって作られていくわけです。

家裁関係者も
間接交流を取り決めても
守られない事例が多いということは認識しています。
むしろ私は守られた事例を知りません。

例えばお父さんから手紙が来たね 良かったね。
と言って渡せば、子どももおっかなびっくり
手紙を読むでしょうけれど、
そんなことを言えるお母さんは、
直接会わせているのです。

手紙を歓迎する演技をするくらいなら
直接会わせてまた今度
という方が同居親にも気が楽だと私は思います。


手紙のやり取りを通じて直接交流に役立たせる
ということが間接交流にする理由だと
もっともらしく説明されることがあります。

しかし、調停で間接交流でよいという取り決めは、
直接交流をしないという取り決めと一緒なのです。
だいたい、親が子どもに手紙を書くことさえ
もう一人の親の許可名がないとできないということ自体
私は間違っていると思います。

とも角、直接交流がない期間が増えれば増えるほど
子どもは別居親に会うことがしんどくなります。

再開を考えると気分が重くなります。
悪い思い出や、同居親の困惑ばかりが身近な情報ですから
会ったらどうなるか不安になります。

ちょうど夏休み明けの子どものように
学校はしんどいから行きたくないと
考える気持ちと同じです。

そして何年かたって再度面会交流調停をすると
最初はあっても会わなくてもよいと言っていた子どもが、
今度はあからさまに迷惑だという発言をします。
片親疎外は会わなければ進行するわけです。

間接交流が妥当する場合は例外的な場合です。

何らかの虐待があって、
子どもが怖がっている
そのため子どもの恐怖を改善するために
安心させる内容の手紙を書く
そしてやがて直接交流の段取りをつける
というものです。

その他、
母親の葛藤が強すぎると言うときに
少しずつ慣れるために手紙のやり取りをする場合もありますが、
これは調停期日の間に行い、
内容なペースをしっかり第三者が管理し、
最終的には直接交流に結び付ける場合の手段として
行われるべきです。

調停の合意内容が間接交流というのでは、
子どもに対してきわめて無責任だと言わなければなりません。


間接交流は、交流ではないのです。


それにも関わらず間接交流が定められるのは
同居親(多くは母親)の気持ちに「寄り添って」いるからです。

どうも家庭裁判所の関係者は、
目の前の登場人物の気持ちを考えることがやっとのようです。
本当に考えなければならないのは
調停に出席しない子どもの健全な成長
少し先の子どもの状態なのです。

同居親が嫌な気持ちもわかります。

しかしながら子どものために無理をしなければなりません。

家庭裁判所は、同居親に無理をお願いしなければならないのです。

同居時に問題がなかった親子なのに
子どもが会いたがっていないというなら、
それは片親疎外が進行しているというだけのことです。
むしろ早く直接面会をさせなければならない
緊急性のサインなのです。

調停委員会や調停官は、
同居親が会わせたくないという気持を持っていることを理解して、
同居親を説得しなければなりません。
調停が必要だったケースで
子どもが別居親に会えるようになるケースは
裁判官や調停委員の説得があるケースが大半です。

説得というか
私は励ましだと思います。
そのために必要な条件は
別居親はいくらでも承諾する準備をしています。

虐待もないケースで
間接交流を説得する調停委員を見ると
私はどうしても考え込んでしまうのです。
どうして子どもは自分の親に会えないのでしょう。
自分の親に会わせられないのは、子どもにどんな責任があるからなのでしょう。
子どもの将来をどのように考えているのでしょう。

思わず口に出してしまうことも仕方がないのではないかと
思わずにはいられません。

もの言わない子どもの代わりに
自分の将来を予想できず
ただ、同居親にしがみつく無防備な子どもの代わりに
わたしは、主張しています。

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