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互恵的利他主義、血縁淘汰、フリーライダー論に対する疑問を述べながら、対人関係学の最弱者保護を中心とする共感力が人間が生き延びた理由だということを説明してみる。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

私が進化論を学ぶのは、便利だからです。
家庭や学校、職場の人間関係を改善する場合や、
そもそも人間はどのようなもので、
どうすることをやめ、どうすべきなのかというお話をするときに、
人間の心が生まれた背景や、
その時と現代社会の環境の変化から考えると
とてもうまく解決方法が見えてきます。

考古学や進化生物学を学ぶことは
とてもエキサイティングなことで、
時間やお金がもっとあれば
もっと勉強ができるのにと思うことがあります。

さて、
進化論の論争において、
かつて社会進化論や群淘汰説という考えがありました。
「適者生存」の原則から
現在ある社会形態が最も適切な社会形態であるとか、
社会的弱者は適者ではないから保護をする必要がないとか、

進化は種の存続と発展のために行われているとか
誤った説が生まれ、
ナチス等に利用されたという不幸な歴史があったようです。

特に人間や他の動物の
群を助けるために我が身を犠牲にする行動
利他的行動をどう説明するかというところが問題となったようです。

群淘汰説が
素朴な正義感、道徳観に訴えて浸透し
今も形を変えて存続する
不幸があったようです。
(お国のために命を捨てるのは、人間として正しいとか。)

これらの説に反対をしなければ
進化論自体が葬り去られるという危機感を抱いたようです。

それらの説の誤りは以下の通りに整理されると思います。
・ 進化は目的をもって行われるものではない。
環境に適合するように遺伝子的変化が起きることだということ 例えば種のために進化するのではない。
・ 進化は環境に適合した結果であり、進歩という意味あいではない。
・ 進化論は、進化の経過やそれを踏まえた現状を説明するための理論であり、現在の進化の到達点に価値をおくような理論ではない。

以上は進化論のコンセンサスであり、この理由付けで群淘汰説などを批判すればよいということは理解できるところです。

しかし、群淘汰説を否定することによって、
人間や他の動物が見せる無償の愛と言える
犠牲的な行為をどう説明するか
ということが大きなテーマになってしまうようです。

私は、人間の利他行為は、
人間の性質上そういうものであり、
利他行為を行いえた先祖だけが
厳しい環境の中で生き残ってきたので、
人間の特質になっていたと考えています。

およそ200万年前の人間の住んでいた環境を想像すると、
特に弱い者を守ろうとしなければ、
弱いものから順に死んでしまい、
その結果群が小さくなり、
外敵から身を守ることも、育児も、食糧確保もできないため
死滅していったということです。

人間の力、能力ははなはだしく貧弱なため
一人では何もできず、
仲間と共同してのみ
一人一人も生きていけたということです。


人間は、
共感力(ミラーニューロン)が発達し、
仲間が困っていれば、それを認識し、
自分のこととして、仲間の窮地を助けてきたのだと思います。

その中でも、特に弱い者を助けようとする心の仕組み(行動傾向)
があるものだけが群れを作ることができ
生き延びることができたという考えを私はしています。

これに対して進化論の有力説は、
互恵的利他主義と言って、
見返りを期待して利益を与える
それが利他主義だという説があります。

それは現代社会のように希薄な人間関係では
見返りもないのに自分の利益を他者に与えないでしょうが、
当時は、原則的に一生同じ仲間と生活していたのですから、
ひもじい思いをしているならば助けたいと思うのが
自然な感覚だったという説明でよいように思われます。
仲間と自分を、情動において区別をつけられなかった
ということになると思います。

例えばあなたが、お年寄りが辛そうにして席を譲るとき、
後でまた席を譲り返してもらおうという気持があるでしょうか。
あるいは、自分が歳を取ったときに備えて
席を譲るという風習を作ろうとしてやっているのでしょうか。
私は、お年寄りの状態をおもんばかって
親切にしているという方が実感に合います。

もっとも進化論ですから
一つ一つの行為の理由を説明しようとする必要もなく、
人間が他者に気遣うときはどうしてするのかということなので、
私のような批判は邪道なのかもしれませんが、
私は見返りを期待するというのは
現代的な環境を踏まえすぎていると感じています。

あるいは、進化論は、個体の主観を問題とせずに
そのような仕組みがあるから生き残ったのであり、
客観的には互恵の仕組みがあったということを
言えなくもないかもしれません。

しかし、私は、それで群が維持できたのか疑問があります。
見返りをしないずるい個体を制裁するということが
それ程きちんと行われたとは思えないのです。
あくまでも最弱保護を基本とした共感的行動が
群を形成することができた仕組みだと思うのです。


次に血縁淘汰説ですが、
利他行為の説明として、
自分の遺伝子を残すために
各個体の遺伝子の近い血縁にあるものに利他行為をする
という説明をしています。

いくつかの理由で、人間の利他主義を考える限り、
これは積極的に間違っていると思います。

一つは、進化は目的を持たない
という原則に反しているのではないかということです。
(そもそも血縁を多く残すことが進化上有利であるとも思えない
 有性生殖自体が遺伝子を薄める最大のエピソードであり矛盾する。)
一つは、血縁が決定的なのか一緒に生活をしていることが決定的かと言えば
一緒に生活しているから、あるいは生活していてなじみがあるから
という説明の方が妥当だと思います。
利他行為の動機づけの実情にも合うでしょう。
一番の否定する根拠は、人間は嗅覚が大変衰えていることです。
嗅覚に問題がある場合、血縁か否かなどわかりません。
血縁を感じ取ることは不可能です。
血縁淘汰説はあり得ないと思います。
(日本の民法は、子どもの父親なんてしょせん分からないのだから
 証拠がない限り、母親の結婚相手を父親としてしまえ、
 早く子どもの家族関係を確定した方が子どもの利益だ
 という考え方で作られています。)

現代では、血族に対する利他行為は血縁淘汰説
血族ではない相手に対する利他行為は互恵的利他行為で
組み合わせて説明しているようですが、
双方の考え方の弱点は解消されていないように感じます。

群淘汰説を否定しようと
余計な説明をしているように思えてなりません。


私のように考えると不都合があると指摘されています。
(もちろん私に対して指摘されているわけではありません。)

もし、各個体が最弱者のために無償の奉仕をするならば、
突然変異で、利己的な行動に終始する個体が生まれたならば、
利己的な個体は、利益を独り占めしてしまい、
生存において優位になるから
利己的な個体の子孫ばかりが増えてしまうのではないか
そうなると群がつぶれているはずだろう
という不都合です。

対人関係学の進化の説明に都合がよいので、
反論をしておきます。

先ず、最弱保護を中心として共感をする仕組みですが、
遺伝されるのは、
共感をする能力をつかさどる脳
(前頭前野をはじめとする大脳新皮質)と
ミラーニューロンの仕組みです。

偶然、この部分が発達した個体が生まれ(突然変異)、
当初は細々と集団を形成していたのですが、
これが強い集団で、厳しい自然の中で生き残り、
他の集団よりも環境に適合し、
繁殖によって増えていったのでしょう。

群を形成して生きていく中で
ますます、大脳新皮質や神経が発達して行ったのだと思います。

ただ、これだけでは、
相手の気持ちはわかるけれど、
それがどうしたという傍観者のままでしょう。

特に、相手が困っても自分も困っているのだから
自分を守ることの方が大事だという態度も
生き物である以上当然あると思います。

人間の子どももそのような傾向がある場合があります。
そこで教育がなされてきたのだと思います。
もちろん学校があったわけではありません。

母親を中心とした大人たちに育てられ、
自分が保護されることが当たり前だということを
我が身を持って体験してきたわけです。

そして大人になるということが
誰かのために行動するということだということを
少しずつ学んでいったのだと思います。

それから、仲間は自分が多少の失敗をしても
許してくれることを学び、
しかし自分よりも弱いものに攻撃することを止められ
共感力が仲間への奉仕に向けられていったのだと思います。
弱い者を守り、共感によって行動するという傾向は
赤ん坊が育っていく際には、教育という効果もあったのです。

この中で不幸にして、
共感力が器質的に欠如した個体も生まれたことでしょう。
子どもの時期を過ぎても利他的行動ができない個体です。

それでも子どもの時期に仲間に害を与える行動をすれば、
大人たちから攻撃され、自分が尊重されなくなる
群にいられなくなるという因果関係は把握できたと思います。
正確に言えば、そのような群れから外されるのではないか
という不安、対人関係的危機感を持つことはできたと思います。
心はついて行かなかったかもしれませんが、
行動を律することは、ある程度可能になったと思います。

それでも、子どもの時期の教育も失敗して
利己的行動に出る個体はどうされたのでしょうか。

私は排除されたと思います。

最弱保護を中心とする共感行動ができる多数の個体は、
できない個体から、自分が仲間として尊重されていない
と感じるわけです。

こちらが空腹なのに、余るほど食料を持っているのに
分けるということをしないとか
自分が転んでけがをして動けないのに
さっさと先に行ってしまうとか
順番を待っているのに、横入りされるとか
仲間であれば当然してもらうことがしてもらえない
仲間であれば当然されない仕打ちをされる

これが、多数から尊重されていないと感じると
うつ的な傾向になりますが、
特定の個体から尊重されていないと感じる方が多数となると
怒りが生まれてきます。
尊重されていない仲間を見たら
多数は、かわいそうだと思うわけですから
怒りは共有されていきます。

勝てるという判断と
最弱者のために勝たなければならないという判断が
直感的になされ、
闘いのモードになり、怒りが随伴するのです。

共感力を持てない個体も
対人関係的危機感は持っていると思われますので、
怒りの前に行動を修正すればよいのですが、
なぜ自分は嫌われているのかわからないという個体は
攻撃の対象となったでしょう。

群から排除され、
外敵に襲われたり、食料を見つけられず
死んでいったと思います。
淘汰されていったということになるでしょう。

これは今思いついた思い付きですが、
群のための奉仕することをしない個体は
群から大人だと認められず、
繁殖を許されなかった可能性もあるのではないでしょうか。
いずれにしても性淘汰された可能性は高いと思います。

しかし何らかのアクシデントで
利己的な個体が生き延びてしまったどうなるか
おそらくその所属する群れは
先細りになり死滅したことでしょう。

だから、利己的な個体が生まれたからといて
それは環境に適応していないのだから
増殖するということはあり得ないと
考えられるのです。


私は、人間を進化の視点で考える場合、
特に心のありようを考える場合は、
時的要素に注意しなければならないと考えています。

認知心理学のコンセンサスは
人間の心は約200万年前の狩猟採集時代に形成された
というものです。

人間の心がどのように適応したのかについては、
その時代の環境、食糧や居住環境
外敵や自然環境を理解しなければならないと思います。

特に、人間の心、意思や理性、分析的思考は
対人関係の状態を理解しなければ理解できないと考えています。

心はそのときに形成された。
私もそれを承認するところから出発しています。

そしてさらに注意しなければならないのは、
200万年を経過しても、
人間の心はあまり変化をしていないということです。

それでは、どうして、現代社会は
利己的な振る舞いがこれほど蔓延しているのでしょうか、
そのために人々は苦しみ、
社会病理的行動を行うのでしょうか。

それは、環境の変化が原因だと思っています。
詳しくは、対人関係学のホームページの
心と環境のミスマッチとして検討しています。

他の動物と比べても
人間の心を取り巻く環境は
形成期と比べ物にならない変化をしている
これを念頭に置かないと
太陽系の惑星の活動には法則がないという誤解と同様の
観たままの状態が真実だという誤りをするでしょう。

先ずどのような心が形成されたのか
それが環境の変化によってどのように不具合を生じさせているか
そういう視点こそ科学的ではないかと考えています。


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