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リストカットは自死の入り口であり、放置したら死ぬと考えるべきである理由 どうして理屈をつけて放置するかの分析付き [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 リストカットは、確かに死のうとしてやっていないことが多い
2 自死する可能性が高まっていく行為である
3 繰り返されることでリストカットによる死亡の危険性も出てくる
4 身近な人間のリストカットを放置する理由は観察者の自己防衛
5 安心して話ができる人間関係

1 リストカットは、確かに死のうとしてやっていないことが多い
  リストカットを今まで見たことも聞いたこともない人が、リストカットをしている人を見て嫌悪感を覚えることは、健全な感覚だと思います。人間をはじめとする動物は、自分を守ろうとします。自分を守らないで傷つけることに恐怖や嫌悪感を抱くのは当然です。そして、少し事情が分かると、その人が死のうとして自分を傷つけているわけではないことがわかるわけです。それで少し安心すると、反発や怒りが生まれてきます。死ぬ気でもないのになぜ、動物の本能に反する行動をするのかという疑問の回答を無意識に探し出します。そして、ふざけた行動だという結論を出し、行為を拒否しようとするわけです。正義に反する行動だということで、怒りを持つわけです。
 しかし、リストカットも、本能的行動なのです。自分を守るために行動するという生物の本能に根差した活動です。主として人間は、動物として身体生命を守ろうとするだけでなく、群れを作る動物として他者との関係を守ろうとします。身体生命の危機を痛みとして感じることによって自覚して自分本体を守ろうとすると同じように、自分が他者との関係に安住できない状態が生じると、苦しさを感じるようにできています(対人関係的不安)。自分を仲間の中に置いておくために苦しさを感じて、危機を自覚するためです。
 自分が原因か否かを問わず、他者、あるいは社会に対して顔向けができなくなるような強烈な体験をした場合、この不安がとてつもなく高まります。強姦、虐待、いじめ、戦争体験等がわかりやすいと思います。そういう体験をして、「自分が仲間として認められない」、「解決する方法がない」、「自分には仲間がいない、独りぼっちだ」という感覚から、苦しさが高まっていくと、人間の心はそれに耐えきれなくなり、なんとか心を維持しようという気持ちが働きます。苦しみから解放される手段を探さざるを得ないのです。不安というものは、どうも一時的にしか我慢できないようにできているようで、それが強く持続してしまうと、何とか不安から解放されたいという気持ちが大きくなりすぎて、不安から解放されれば何でもするという行動傾向になっていくようです。
 リストカットもそうやって行われるようです。
 J.ハーマンというアメリカの精神科医の「心的外傷と回復」という本で、自傷行為を行うと、脳内で生産される麻薬物質エンケファリンなどが生成されて痛みが緩和されるという研究結果が紹介されていました。ランナーズハイと同じ状態です。
 また、人間の脳は、痛みや苦しみを同時多発的に意識のフォーカスを当てられないという理論によれば、自分の体を傷つける痛みを感じているうちは意識のフォーカスが体の痛みにあたることによって、他者との関係で生まれた苦しみも忘れられるという効果が生まれるようです。仲間の中で尊重されていない自分であっても、動物として痛みを感じているときに、生きているという実感が持てるようです。
 このように、リストカットも、死のうとして行われていなくても、決してふざけて行っているわけではありません。それだけ苦しんでいるわけです。何とか苦しみから逃れようとしているのです。苦しみから解放する手段が健全な人から見て不合理だからと言って非難していることになります。まずは苦しんでいる理由を理解してからでもよいように思います。もっとも、当人は何を苦しんでいるのか言葉にすることが難しいことも多いようです。でもその人が人間である以上、何かに非常に苦しんでいるはずだということから考えるべきだと思います。
 リストカットの結果を見せるということは、あなたを非難しているのではなく、あなたなら自分の他者や社会との関係で生まれた苦しみを理解してくれると思っているからかもしれません。無意識に救いを求めているのです。
2 自死する可能性が高まっていく行為である
  リストカットは、リストカットした時点では、死のうとしているというより、自分を守ろうとする行為だといえるかもしれません。しかし、その後の時間的経過によって、死の危険が高まっていきます。
 自死というのは、先ほど述べた、不安からの解放手段を択ばない場合の究極の方法です。不安から解放されたいことが一番の目的となっているのに「不安を解決策する方法がない」と認識してしまうと、このまま不安を感じ続けることが永遠に続くとかんじてしまい、とても耐えられなくなります。「死ねばこの苦しみから解放されるかもしれない」というアイデアは、そのような耐えられない苦しみを感じ続けている人にとっては、ほのかに明るい気持ちにさせてくれるアイデアだといいます。生きるための、自分を守るための苦しみというシステムなのに、逆に命を落とそうとするという本末転倒なことが起きるようです。苦しみが人間の精神構造の想定を超えた状態ということになるのでしょう。
 もちろん人間は、苦しいからと言ってすぐ死ぬわけではありません。一番の理由は、やはり、死ぬことが怖いからです。T.E ジョイナーという人たちは、この点に着目していて、「自殺の対人関係理論」という理論の中で、自死の危険が高まる要素として、死ぬことが怖くなくなっていくことが重要だと考えています。彼らは、これを「身についた自殺の潜在能力」が高まっていくという言い方をしています。この能力を高めるものの一つがリストカットなどの自傷行為です。自分の体を傷つけることで、少しずつ死ぬことが怖くなくなっていく、死ぬことに慣れていくわけです。自傷行為が繰り返されることは時間をかけて少しずつ自死をしていることになりそうです。
 リストカットの時点だけを見れば死ぬための行為ではないとしても、その後の時間の経過を含めて考えると、死ぬ行為を始めているというように評価するべきなのだと思います。
3 繰り返されることでリストカットによる死亡の危険性も出てくる
  リストカットは繰り返される傾向にあります。それは理屈からもよくわかることです。リストカットをして感じなくしたい、仲間や社会との関係の苦しみというリストカットをする理由は少しもなくなっていないからです。そして、一度苦しみを忘れた記憶があると、その中に戻りたいという気持ちが出てくることも想像しやすいでしょう。自分の腕を切ることが赤ん坊が母親に抱かれていることと同じ効果があるということで、これは壮絶な話なのだと思います。
 ところが、体の痛みは馴れるということが起きてしまいます。最初はかすり傷くらいでも十分だったのが、それでは効かなくなるということです。前と同じ程度の痛みでは、自分の苦しみが消えないということです。このため、繰り返されるリストカットのために、傷つける傷が深くなっていくとともに、新たな痛みを求めて傷が体中に広がっていきます。
 最初手首につけた傷がだんだんひじの内側に達してしまうと、かなり危険な状態だといわれています。その時は、再び付けた手首近くの傷はかなり深くなっていることが多いようです。治っても、傷のへこみが残ってしまう状態で、医師は、これは死ぬ危険が高い傷だったと説明してくれました。
 「リストカットで死んだ人はいない」というのは、きわめて無責任な迷信です。リストカットが続いていくと、死ぬつもりがなくても死んでしまう危険が高くなってゆくのです。
 もっとも、この危険が高くなったころには、本人も自分が怖くなるようです。もし、その人が身近に信頼できる人がいる場合には、「自分で自分を抑えることができなくなってしまう気がする。このまま死んでしまうような気がする。」という不安を聞くことができることがあります。そういう時、精神科医の受診を勧めると、自分から病院に行きたいと実際に自ら受診に足を運ぶということがよくあります。私はリストカットの傷の状態を見て、危険だと判断した場合、信頼する精神科医を紹介します。入院することになることも多いのですが、自ら病院に行く場合は、退院後も比較的安定するようです。実際にそうやってよくなった人の例を話しながら、良くしたその医師を紹介するわけです。
 ただ、無事退院とはなるのですが、リストカットを続けていた期間が長期に及ぶ場合は、重症のケガで体の痛みが残るように、心の痛みが残る事例が多いような気がします。突然症状がぶり返したり、サイクルのように調子が良くなったり悪くなったりする患者さんを多く見ています。リストカットはごく初期の段階で、その理由を突き止めやめさせなければならないのだと思います。
4 身近な人間のリストカットを放置する理由は観察者の自己防衛
 リストカットは、1回であっても、大ごとであり、大変なことだと驚き、あわてて、みんなで心配してリストカットをしないでもよい状態に持っていくことが必要です。ところが、本来リストカットを止めるべき人たちの中には、なんだかんだ言って、リストカットを放置する人たちも少なくないようです。リストカットの誤解がこんなにも蔓延しているのかと大変驚いたため、これを書いています。ただ、本当に誤解なのか疑問がある場合も少なくありません。苦しんでいるから体に自ら痛みを与えているという関係にうすうす気が付いている人が多いように感じるのです。
 リストカットを知りながら、十分な対応をしない人たちの論理は以下のようなものです。
・親からもらった体を切り刻むなんて不道徳だ。
・命を粗末に扱うことで許せない。
・ふざけてやっていることで人騒がせだ。
・かまってもらいたいアピールだから相手にする必要はない。
・深刻な様子がないから放っておいてよい。
・理由を聞いて話しかけても、うそを言うし、ごまかそうとするだけだ。
・リストカットで死ぬ人はいないのだし、一過性のものだから放っておく。
・やるなとは言いました。何度もやるなと言っています。
こんな感じでしょうか。
 まず、リストカットをしないという結果だけを言葉にしただけではリストカットはやめられません。苦しさから逃れようとして自分を傷つけるという原因があるのですから、原因を放置して結果だけを求めても意味がないからです。これは、とにかく自分がリストカットという無残な姿を見たくないから、見せないでくれ、見えないところでやってくれと言っていることと結果としてそれほど大差はないでしょう。
 次に、ふざけた態度で道徳に反する、正義に反するという態度も同じです。道徳に反すること、正義に反することをするほうが悪だという決めつけをすることで、もうお前は私の仲間ではないと宣言しているということです。リストカットをする人間もそこまで考えていないのですが、リストカットは、それをすることによってますます孤立を深めていきます。ますます自死に近づいていくのです。正義や道徳に反するということも、結局は自分が見たくないことを見せるなということを言っているだけのことです。正義や道徳というのは、本来攻撃される理由のない人が、相手が自分を守るために攻撃をするときのツールの場合があると私は思うのですが、その典型例だと思います。
 深刻な様子がないというのは、おそらくリストカットはしているものの、常時暗い顔をしてうなだれて、伏し目がちな状態ではないということなのでしょう。そのような重症うつ病患者はそれほど多くありません。軽微な鬱、中くらいのうつの場合は、自分の抑うつ気分を隠そうとします(山下格「精神医療ハンドブック」)。思春期の場合は特に、気分の変調が激しく、安定していないので、矛盾するかのような外見をすることがあります。しかし、リストカットをするということは、それだけの大きな悩み、苦しみがあるということです。明るい、活動的な側面を理由に対応しないのは、観察者がそう思うと楽だからです。リストカットをしている以上、客観的に明らかである以上、重大な問題が生じていると考えることを妨げることはできないと思います。
 結局、観察者は、リストカットをする人の苦しい気持ち、つらい時間、解決不能の問題に悩んでいることから目を背けようとしているのです。それはそのほうが楽だからです。むしろそれは自然なことです。共感とは、その人の苦しみを追体験することですから、リストカットするくらいの悩みに共感することは、確かに危険なことではあります。しかし、リストカットをその人が見える状態にしていたということは、無意識に救いを求めていることがあり、その人に期待をしてしまっているということがあるということです。でも観察者は、こちらは人間として、仲間として考えていないのだから、仕事上の付き合いなのだから、仕事の内容を超えてこちらも精神的負担を受ける理由はないと考えているということなのです。だから、何とか理屈をつけて、その人の苦しさを否定しようとしているということです。
そのように、悩みに対して、門前払いをするような対応を取られると、本人はますます自分が人間として尊重されていないと感じ、孤立感を深めていくわけです。
 しかし、若者の悩みは、大人からすると、なんでそんなことでそこまで悩むのかというようなことで真剣に悩んでいることが多くあります。歳を取れば、確かに嫌なことだけれど、別にそこまで気にしないということが多くあるように感じます。若者は、危険や不安、疎外感を感じる脳が先に発達して、それが大したことがないと総合的に評価する脳の部分の発達が未熟な年齢なので、悩まなくてもよいことを悩む時期なのです。簡単に悩みを否定するのではなく、自分がそのころどうだったかを考えて、考えて共感を探して、先に共感を示したうえで、悩まなくてよいということを告げるべきです。自分の体験談をすることは、とても有効なようです。
 それにしてもふざけてやっているということを本当に思っているのでしょうか。そういう人はふざけてリストカットをご自分がなさるのでしょうか。私はありえないと思います。自分の子どもだったらと考えると、やはり驚き慌てふためくでしょう。仮にふざけてやったとしても、仮に気を引きたいからやったとしても、そんなことのためにリストカットという方法を使わなければならない状態だということを深刻に受け止めるべきです。ふざけてとか気を引くためとか、それは対応をしない言い訳にはならないのです。
 もし観察者が学校で、リストカットを生徒がしたとして、学校が上記のような観察者、つまり傍観者を決め込んで、自分を守ることを優先するというなら、その旨宣言するべきなのです。生徒の心身の安全には興味がない。自分が生活することでいっぱいだ。仕事もたくさんありいっぱいいっぱいなので、もし悩んでいるなら退学して転校してくれとはっきり言うべきです。公立学校でこれを宣言するなら、国が宣言することになるのでしょう。学校とはそういうところではない、教育は人格の向上を目指すところに過ぎないと。
 
5 安心して話ができる人間関係
  ただ、リストカットをしている人と向き合うことは確かにつらいことです。絶望の淵から目をそらすことをどうしてもしたくなっているものです。また、原因を聞き出そうとしてもなかなか本当のことを言いません。言葉で言えるならばリストカットなんてしないでしょう。
 まず、自分の悩みや苦しみを話せる大人になることが第一です。国は若者の自殺を防ぐためにSOSの出し方教育をするといっています。子どもの権利を守ろうとする関係者一同あきれています。子どもに関係する大人のSOSの受け止め方教育をするべきですし、SOSを出してもらう大人になる教育を大人にするべきなのです。一番は、悩みや辛さを否定されないことです。つらい思いや悩みはもっともだというところから出発しなければ、悩みを打ち明けても傷つくだけです。打ち明けたら目をつけられて徹底的にいじめられたというのでは絶望を大きくするだけです。子どもも大人を見極めているのです。暗い考え、不道徳な考え、正義に反する考えも一度は受容する態度が必要です。そして攻撃しないということです。共感できる部分を探し出して共感するということができなくてはなりません。その子どもから自分を守ろうとする態度をしないこと、これは気が付かないだけになかなか難しいことです。
 次に子どもに興味を持つことと親しみを持つことです。子どもと一緒にいる時間をできる限り増やすということです。そして、その子が自分の仲間であるという実感を持てるようにして、何に悩んでいるのか興味を持ち、知りたいと思うことが必要です。この要求を奪うのは、忙しすぎること、時間がないこと、やることが多すぎることということになります。仲間であるという実感が持てれば、何とかしてあげようと気持ちになります。これがなければ、悩みから目をそらしたくなるだけです。
 最後に、子どもの悩みでも本当に深刻で、解決不能な問題があることがあります。うかつに絶望の淵を除いてしまうと自分もその中に引きずりこまれることは確かにありうることです。共感というものはとても恐ろしいことです。そうならないために、集団で対応するということです。何があったか話すことのできる大人の仲間があることが有効です。解決できないことをクールに解決できないといってくれる仲間であることが必要です。そうなると、第1希望ではな次善の手段を探すことができるからです。解決しなくても、その子が孤立しない状態を作り出すということが大切なことであり、それ自体が解決だということもよくあることです。例えば学校であれば、そんなことでも人生の支えになることが本当に多くあり、様々な次元で目にして、耳にすることがあるでしょう。
 いろいろなところで、学校においてもそうですが、大人たちが連携していないで分断して対応しているところが多いように思えてなりません。まず大人たちが仲間意識を持つべきだと私は思います。どうも自分も我慢しているのだから子どもも我慢しろという自己中心的な大人が増えているような気がします。

若者や子どもにかかわる大人たちがもっと人間を研究し、人間らしい生き方ができるようになれば、ご自分の人生がとても豊かなものになるはずだと思います。

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