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感謝や謝罪の言葉に心をこめようとするからダメなのよ。先ず幸せを盛る器を作ること、心は後からついてくる [家事]



<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>
<感謝や謝罪が口に出ない理由>
<感謝や謝罪をする大人の理由>
<慣習、礼儀、エチケットの目的>
<言葉の二つの源泉>
<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

<家庭の危険度は会話の量ではかることができる>

離婚事件等の家事事件を担当していると、
家族に不具合が生じている場合、
会話が極端になくなっていることに気が付きます。

一方は、なにかを不満に思っていて会話を拒否しているのです。
でも他方は、
忙しいとか、他のことに気を取られてとか、あるいはあきらめていて、
会話が少ないことにも気が付いていないことが多いようです。

挨拶することは最低限必要です。
「おはよう」、「お休み」、「言ってらっしゃい」、「お帰りなさい」。
それは比較的できることが多いようです。

ところが、
自分のために何かをやってもらった時の感謝の言葉が出なかいとか
あなたの行為で相手が不愉快な気持ちになっているのに
謝罪の言葉が出ないとか
そういうことで不満がたまり
たまった不満の量だけ心が離れていくようです。

せっかくあなたのためにやったのに
当然受けるべきねぎらいがない
という場合は、結構深刻な疎外感を受けるようです。

<感謝や謝罪が口に出ない理由>

なぜ、感謝や謝罪の言葉が出ないのでしょう。

むしろ誠実でまじめな人に多いようですが、
感謝や謝罪は心をこめなければならないと固く考えていて
心が十分感謝や謝罪の気持ちに達していなければ
言葉にしないという誤った生活習慣が
身についているような気がします。

例えばせっかく料理を作ってくれた、日曜大工をしてくれたのに、
自分が思った出来栄えではないので感謝しないとか
相手が不愉快な気持ちになっているのはわかるけれど
それは自分だけが悪いわけではないから謝ることはできないとか

心をともなわない言葉は出したくないと言っているようです。

子どもならばわかります。
子ども親に何でもやってもらう存在ですから。
例えば赤ん坊は、
泣いている原因が親がお腹がすいているからだろうと思い
ミルクを与えていても
本当はおむつが汚れているから泣いていれば
ミルクをもらっても泣き止みません。
自分勝手で許されるのです。

親は言葉も分からない年齢の子どもに
「ごめんごめんおしめだったね。」と話しかけ
要求にこたえるわけです。

これを大人がやってはダメなのです。
家族なのですから。

一つは大人になり切れていないという問題が原因としてあるのでしょう。

もう一つは、子どものころの教育の問題もあるかもしれませんね。
学校で叱られてふてくされてごめんなさいと言っても許されず、
「ちゃんと心をこめて謝りなさい。」とか言われたり、
友達に感謝しなさいよとか言われて、おざなりにありがとうと言って
「ちゃんと心をこめて感謝しなさい」と言われたりしたのでしょう。

これは間違いです。

心をこめないから怒られるのではなく、
言葉は感謝、謝罪をしていても態度が感謝、謝罪をしていないから
相手が感謝されていると思わない、謝罪されているとは思わない
つまり相手に伝わらないからだめなのです。

その証拠に、心は謝っていなくても
それらしく謝って解放されたでしょう。

これはずるいことでも卑怯なことでもありません。
感謝、謝罪の目的を考えればすぐにわかります。

<感謝や謝罪をする大人の理由>

感謝や謝罪をする理由はと尋ねたら
誰でも正解にたどり着くでしょう。
感謝は、相手をねぎらうためです。
謝罪は、相手の気持ちをとりなすためです。
つまり相手の心に対する手当です。

自分の気持ちなんてどうでもよいわけです。

肝心なことは相手にどう伝えるかということ
それ以上のことは、相手には関係ない。
心無い言葉ばかり口にしたことによって
自分の心がすさんで、人間性がゆがんだとしても
自分で自分に損害を与えているだけですから
他人に迷惑をかけるものではありません。

問題は相手の心だとすれば
相手がやってくれたことで、満足できなくても
とりあえず感謝をするということも必要ですし、
自分が悪くなくても相手が不愉快な気持ちになっているなら
ごめんなさいと言って相手の気持ちをとりなしてあげてよいわけです。

これが日本語の「ありがとう」、「ごめんなさい」だったのです。
赤ん坊のように誰かに自分の思い通りのことをしてもらう
自分こそが他人の評価者だ
という態度を大人はしなかったのが、
昔の日本だったはずです。

今の日本の離婚の一番の原因が「性格の不一致」です。
しかし、子細に本音を分析すると
自分の感情に気が付いてくれなかった
自分がしてほしいと思っている(だけの)ことをしてくれなかった。
要するに、「自分の思い通りにしてくれない」という
赤ん坊的な理由のことをそれらしく言っているだけ
ということが多いように感じます。
相手に何かをしてもらおう、しかも
自分が言わなくても気が付くべきだというように感じられます。

赤ん坊が親に従属しているように家族に従属しているように
思えてならないことがあります。
それだから幸せにならないのだと思います。
自分を幸せにしてくれる人を待ち続けるしかないからです。
そんな人は現れません。

幸せというものは作るものだと思うのです。

<慣習、礼儀、エチケットの目的>

慣習や、礼儀、エチケットは守るべきものですよね。
それはどうしてでしょう。
基本的には、人間関係を円滑にさせるものですが、
相手に失礼のないように、相手に不愉快な思いをさせないようにして
人間関係を円滑にする
というのも一つの考えで否定されるべきではないでしょう。

私は、そうではなくて、これらの始まりは
相手を不愉快にさせないためというよりは、
人間関係を楽しいものにしてみんなが幸せになるため、
というようにマイナスをなくすという発想から
プラスを作るというゼロの先のプラスという発想が大切ではないか
と考えています。

感謝の言葉や、謝罪の言葉もそう考えたほうが
人生楽しくなるように思うのです。

何かしてもらったらありがとうという
相手が不愉快ならばごめんなさいという。
そうすると相手も
いいえどういたしましてと言えますし、
こちらこそごめんなさいといえるわけです。

だから、「ありがとう」は、「どういたしまして」とセットですし、
「ごめんなさい」は、たとえば「こちらこそごめんなさい」
とセットのエチケットシステムなのです。

自分がないがしろにされていなくて尊重されているなと
実感することができます。
何か不満があっても、自分が尊重されているというと
安心することができます。
尊重されていると思うし、相手が自分に敵意がない
ということも実感できます。

エチケットや礼儀、慣習は
尊重されていないと不安になる人をなくして
安心して暮らすための人間の知恵だと考えられないでしょうか。

<言葉の二つの源泉>

ありがとうとかごめんなさいという言葉を発することを
おすすめしているわけですが、
これを阻む壁のような考え方があります。
言葉というのは、「大事なことを伝達するためにある」
という考え方です。
大事なことを、正しいことを、合理的に伝えるのが言葉だ
という考え方は、
言葉を発する原因とそれにふさわしい言葉を
吟味してしまうようです。

危険があることを知らせる言葉、
危険の回避の方法を知らせる言葉
このような危険対応のための言葉も
言葉の始まりの一つだと思います。

この言葉の正当な後継者が今に言うところの「指図とダメ出し」です。
これも必要な場合はあるのです。

もう一つの言葉の源泉が
ロビン・ダンバー先生の学説で
サルの毛づくろいに代わるものだというのです。
コミュニケーションの手段だというもので、
もっと言えば、安心しあうためのもの
というものです。

指図とダメ出しこそが言葉だという
現代型労務管理理論では無駄話だとして排斥される会話こそが
本来的な言葉だという主張です。

私はどちらが言葉の成り立ちかということについて議論するよりも
両方が言葉の別々の源泉だと考えています。

「緊張させる言葉」と「安心させる言葉」ですね。

緊張させる言葉ばかり使われる環境では、
人はその環境から離脱したいと思うようになるでしょう。
これが現代の離婚の一番の多い理由です。

つい指図とダメ出しばかりになりがちだからこそ
意識して安心させる言葉を話す必要があるわけです。
感謝、謝罪、そして挨拶です。

意外なことに、心をこめて話そうとする誠実な人は
感謝や謝罪の言葉が足りなくなるようです。
自分の心なんでどうでもよい
相手の心を手当てするんだという要領の良い人が
幸せになりやすいということは致し方のないことです。

人が自分に、自分たちのために
何かしたら、あるいは何かを我慢したら
条件反射的にありがとうというべきなのです。
そこで考えては言葉が出なくなります。
相手の出来栄え点を評価しようとすることが最もいけないことです。

相手に不愉快な思い、悲しい思い、怒りの思いなど
何らかの危険を感じ不安を感じていたら
自分だけが悪くないとしても
ごめんなさいというべきなのです。

これは言葉の二つの源泉のうちの一つの使い方として
全く正しいことなのです。


<幸せは作るもの、その方法・抹消から中枢へ>

おそらくここまでお話しても
心の伴わない言葉は不誠実だとおっしゃる方はいらっしゃるでしょう。
私もつい最近までそう考えていたように思います。

でも、心は後からついて来ればよいのではないでしょうか。

まず、決められたこととして
誰かに何かをやってもらったらありがとうという
ありがとうと言われたほうはどういたしましてという。

誰かが不愉快な気持ちになっていたらごめんなさいという
ごめんなさいといわれたこちらこそごめんなさいという。

誰かが自分のために何かを我慢したら
ありがとうまたはごめんなさいといい、
言われたほうはそんなことないよ言ってくれてありがとうという。

まず、感謝と謝罪という、相手の心をケアしあう言葉を
自分たちの関係の中にあふれさせる。
安心の言葉を発しあう人間関係を作るということです。

これはすでに幸せな人間関係になっている関係の中では
意識しなくてもあふれていることなのかもしれません。

もしあなたが今不幸だとするならば
そして幸せになろうとするならば、
こういう幸せの器を作ることが
実は王道なのではないでしょうか。

極端な話ですが、うそでもよいから
感謝の言葉、ねぎらいの言葉、思いやる言葉あふれる家庭であれば
(もちろん、態度も伴うのですよ)
それはもう、幸せになっているのではないでしょうか。

不幸を感じている場合
うなだれて歩くことが多いと思います。
幸せを感じているとき口の端が上がってにこにこしていることが
やはり多いと思います。
脳が、体に指令を送って態度を作っているようです。
中枢から抹消へと神経がリレーしているわけです。

えらい心理学者の話を直接聞いたのですが、
この逆もまた真で
多少不幸を感じていても
胸を張って歩くと気持ちが明るくなるし、
口角を上げていれば楽しくなる
ということがあるとのことです。

体を幸せの形にしてみると
脳が勝手に幸せを感じるようです。
これが抹消から中枢へということになります。

人は一人では幸せになれないようです。
そもそも幸せというのは、
自分の対人関係の中で自分が尊重されて生活することで、
自分だけが尊重されるということも
赤ん坊ではないのであり得ないことです。

まず、自分が家族の幸せのために努力する
そうすると家族もそれにこたえようとするはずです。

肝心なことは「自分の気持ち」ではなく、
相手がそれを知りうる言葉ですし、態度なのです。
相手に伝えてあげようとする行動なのです。

感謝と思いやりのあふれる家庭が幸せの結果なら
まず、感謝の言葉思いやりの言葉という幸せの器を作る
ということが幸せになろうとする方法だと思います。

その器ができた段階ならば
あるいはみんなで器を作ろうとする気持ちが重なるならば
器には、すでに幸せの心が盛り付けられているはずだと思います。

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