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令和元年12月14日に忘年会をやるわが子に会えない親の会、今年を振り返る [家事]

丸2年目が終わろうとしています。
我が子に会えない親の会の不定例会
12月14日5時から忘年会となります。

相変わらず、妻が子どもを連れて家を出て行って
行方が分からないという相談が来ています。

不思議なことに9月くらいに子どもを連れて家から去る
という事例が多く
しばし呆然として
10月くらいから12月くらいまでの間に
ネットなどを調べていただいて
相談のご予約を入れていただくというパターンです。

結構類似事案は多くて
結婚前は妻と妻の母とは仲が良くなく
(母が過干渉ということが多い)
結婚後はむしろ姑との関係が良く、
しかし、出産後、これが逆転する
というパターンは王道のようです。

最近は女性の権利を声高に叫ぶ弁護士よりも
離婚を商売にしようという弁護士グループが台頭してきて、
このチェーン店は、
子どもの成長などということは
まったく気にしないようです。

どんどんひどい状況になっているという側面もあります。
離婚ビジネスということを危惧していましたが
こういう形で出てくるのですね。

会員の皆様の近況ではずいぶん変化がありました。
このブログでも書いたと思いますが、
某市の児相を相手に、国賠をやっていた裁判は
裁判官の強い勧告で謝罪が盛り込まれて和解をしました。

子連れ別居で児相に相談してみようかという人がいますが、
その都道府県、政令指定市で違うのかもしれませんが、
某市の児相は、子どもよりも
母親に味方をするような印象さえありました。
だから児相に相談することは
やめておいた方が無難かもしれません。

上の国賠訴訟は、
父親のデータを母親に丸流しして
離婚訴訟に母親がそのデータを証拠で出した
ということから始まりました。

子どもに積極的に保護されなければならない事情があるのに
データ流しは積極的にやるにもかかわらず
保護どころか、子どもに会いもしませんでした。
まあ、そこが裁判官の怒りに触れたのかもしれません。

統合失調症の妻が、刃物を持ち出して
夫が110番をしたところ
妻の方を保護して、娘も連れて行ったことから
娘が1年近く、脅かされて拉致されて
ようやく交番に逃げ込んで父親のもとに戻った事案も
形式的には解決しましたが、
続きがありそうです。

面会交流調停の方ですが、
裁判官の書いた論文なんかでは
原則面会実施ということになったなんて言われていますが、
仙台本庁でようやくそういう雰囲気になってきた
ということでしょうね。

支部は一部の例外を除いて
まだまだその最高裁の方針が徹底されていません。
本庁の方も
審判官がきちんと評議に参加しないと
会わせる会わせないということの押し問答が続き、
こちらが会わせる条件を整えても
なかなかどっちもどっち的な調停が
行われることが少なくありません。

でも、
ようやく、本当は会わせる必要がある
というコンセンサスが少しずつ浸透しているということは
肌で実感してきました。

会わせる会わせないではなく、
どのように会わせるかに議論を早期に移すべきです。

別居親の方も
同居親の葛藤を鎮めることが子どもの利益だ
ということを理解される方が圧倒的多数です。

そう言えば、このブログを見て
女性の方の相談や依頼が増えています。

どうして妻が離婚したいのかということが
的確に書いてあるようです。
同性の方が理解できないことも多いようです。

だから、いわゆる連れ去り側の女性も
子どもを父親に会わせることは
抵抗はあるけれど仕方がないし
むしろ会わせたいと思っている
という人がほとんどなんです。

こういうケースに限って
夫の方が子どもにきつく当たってしまい
会わせるのに苦労している
ということが多くあります。

時に、
女性が子どもに会えなくなるケースは、
追い出される場合がほとんどです。

一族郎党で追い出しをする例なんてのもありました。
こういうケースは、夫は妻に未練があることがとても多いです。
姑や小姑、そして弁護士がやたらエキサイトしているのですが、
それらがいないときに、そっと便宜を図ってくれたりするのです。
でも外野の動きに逆らえずという感じですね。
妻を第1にするべきだと思うのですがね。

追い出される時
連れ去りの虚偽DVに相当するのは、
パーソナリティ障害、統合失調症、ヒステリーなど
私から見れば異常ではないよなあと思うことで
追い出されるようです。

最後に、養育費改定のことについて一言言わせてください。
私の依頼者は女性で、非正規、有期雇用で働いています。
離婚訴訟1審で敗訴して親権を失いましたが
2審の和解で子どもの親権を得ました。

夫は、精神的問題もあり収入がありません。

色々事情があって
子どもが一人父親と暮らし始めました。
もし、親権が父親に移ったら
有期雇用労働者の母親が養育費を払わなければなりません
今の基準だって、親子2人の生活がやっとなのに
この上養育費を支払ったら生活ができません。

子どもや女性の保護ということで
別居親に負担を増加させるということで
典型的には母子家庭を保護する政策なのでしょうが、

それによって、母子家庭が崩壊に直面することになる
そう思いました。

ここで注意してください。
一連の女性保護政策は、
夫がきちんと働いていて、妻の収入が夫より低い
ということを前提としているのです。

夫の方の収入が低い女性は
いないことにされているように思います。

また、共同親権に反対している人たちがいますが、
それによって一番苦しんでいるのは、
婚家から人格否定された挙句追い出された女性です。
命を懸けて出産した子どもと
会う望みを託した共同親権を
冷酷にも反対しているわけですが、
そのように一番苦しんでいる女性を
いないことにして議論が進んでいる。

そういう感覚が私のような実務家の感覚なのです。





12月14日17時からの忘年会に
参加ご希望の方は、土井法律事務所の土井までお問い合わせください。
番号は022-212-3773担当土井
予約の都合があるので、遅くとも前日までにお願いします。

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自己肯定感なんていらない。それは社会の問題を個人に責任を押し付ける専門用語。ではどうするか。 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]



これまで私も
「自己肯定感」というものが大切なのではないかと
無条件に考えてしまっていたところがあったかもしれません。

自己肯定感や自尊感情がないとどうなるかということで、
言われているのは、

社会で成功しないとか
喫煙、飲酒、未成年の未婚の母等も自尊感情が低いことが原因だとか
学校の成績が上がらないという身近なことや
離婚、犯罪、自死の原因になるのだ

といわれれば、
自分や我が子の自己肯定感が低いのは大変だ
「自己肯定感を高めなければならない」と
心配になってしまいます。
若者自身の中に「自分は自己肯定感が低い」
と悩む人も多いそうです。

学校教育や国の若者政策においても
自己肯定感を高めるための政策というものが
莫大な予算を投じて行われているようです。

でも
自己肯定感とか自尊感情とは何でしょう。
自己肯定感を高めるということはどういうことでしょうか。

自尊感情や自己肯定感という言葉の意味は
必ずしも定まってはいないようです。
人によって内容が違うのです。

自分を好きだと思う感情をいう人もいますし
自分の現状をありのままを承認することという人もいます。
自分を大切に思う気持だという人もいます。
自分のすべてに満足する気持ちなんて言うのもありました。

でも
自分のすべてに満足する人なんていないと思います。

自分が自分を好きだというのもよくわからない。
「私は自分が好きだなあ」と思っている人っているのでしょうか。

また、自分の現状をありのまま承認するというけれど
自分の現状を把握することはとても難しいことです。
そんな高い認識力を持たなければならないなら
ほとんどの人は自己肯定感がないということになると思います。
無くてもどうでもよいということになりますね。

自分を大切に思う気持ということはあった方がよいですが、
それは具体的にはどういうことということの
説明はあまりないように思われます。

おそらくそれらの定義は
ネガティブリストを裏返しにしたものなのでしょう。
つまり自己否定感や
自己肯定感が低い時の心の状態を並べ上げて
そうではないと言えることを
総論的に述べたというような気がします。

ちなみに自己肯定感が低い場合の例が
挙げられているサイトがありました。

自分に自信がなく不安になりがち
自分で決められず人の意見に流されやすい
他人の評価を気にしすぎる、何かあると落ち込みやすい
将来に対する希望をもてない、意欲を持てない。
どうせ何をやってもうまくゆかないと思う
自分なんて価値がないと思う。物事をすぐにあきらめて投げ出す。
怒りっぽい、他人に干渉しがち
他人を否定することが多い

こんな感じでしょうか。

全部、正常な人間だと思いますけれどね、私は。
これらの悩みのない、あるいは少ない人間は
私はあまり付き合いたくないですね。

ところで、どうやって自己肯定感を高めるかというと

考え方を変える
親の対応で、褒め育てる
何か他人の役に立つことをして評価される
何か他人から評価される体験をする。
こんな感じなんですよ、本当に。

後は高額な費用のセミナーだとか
カウンセリングを受けるということが一般的でしょうか。

どうして自分が好きだなんて言う変わり者になるために
高額の費用を払わなければならないのか
そう考えるとおかしな話です。

そもそも自己肯定感って
その人の属性みたいなものなのでしょうか
いわゆる自己肯定感が高い人、低い人みたいな。
放っておけば変わらないものなのでしょうか。

そうではなくて
もしかしたら、その時のその人の置かれている状況が
心みたいな形で反映しているだけなのではないでしょうか。

自己肯定感が低いとか
ネガティブリストの心持になるのは、
自分の置かれている環境に原因があるのですよね。

受験競争を一つとっても、
他者より成績が悪ければ、
他者より偏差値の低い学校に行かなければならないし
学校によって、就職の条件が違う
そして、下手なところに就職すると
社会保険がないとか、長期の就業が保証されないとか
甚だしいのはブラック企業だったり、過労死したり
ということにつながるわけです。
「自分は大丈夫だろうか」と問い続けていたら
ネガティブリストの心持に、それはなるでしょう。

昔は成績が悪いことは格好悪いみたいなものですんでいたのが
一生を極端に左右するということになれば
それはネガティブリストの心持になることは
当たり前のように思われます。
むしろそれが正常な反応ではないでしょうか。

結構子どもは早い時期から敏感で
小学校の4,5年生になると
苦労しているご家庭では「正社員になりたいね」なんて
学校の昼休みに話しているのです。

子ども本人が厳しい社会に気が付かない場合でも、
親はそうはいきませんから
自分の子どもの弱点などにピリピリしていますし、
よそのお子さんを親がライバル視している場合もあります。
親の自分に対する対応を見て
さらにネガティブリストの心持になるのは
簡単に想像できると思います。

自己肯定感や自尊心とモチベーションの研究は
自己肯定感の役割を否定しているものもあります。

成績が良い時に自己肯定感が高まるけれど
だからと言ってその後も成績が上がり続けるかというとそうではなく、
成績が落ちれば自己肯定感も低下するだけだ
という結果があります。

それから自己肯定感が高くても
飲酒、喫煙、未成年の未婚母は出現する
という結果も出ています。

自己肯定感や自尊感情が大切だ、高めなければならない
なんていう考えは眉唾かもしれないと
少し構えてかかる必要がありそうです。

自己肯定感の高低は、結果に過ぎないのではないでしょうか。
その時にその人を取り巻く状況がその人を追い込んでいる状況だとか、
その人が何かに悩んでいる状態、何らかの事情で生きづらい状態
こういう状態に対する心の反応を
「自己肯定感が低い」と表現しているだけではないかと思うのです。

「置かれている環境の状態を反映した心のありよう」ということならば、
その人が置かれている環境を改善しないのに
結果としての心のありようだけを修正することは
無理があり、不健全だと考えています。
心の機能をマヒさせるだけではないかという心配があるのです。

誰しもネガティブリストの心持になるような環境を作っておきながら
その結果人間として当然の反応をする者たちに対して
自己肯定感が低いとか、自尊感情が足りないと
その人間個人に責任があるかのように
すり替えているだけなのではないかという疑問がわいてきました。

もちろん、そのような社会がすぐに変わっていくわけではありません。
特に子どもたちは、大人が作った社会で生き抜かなければなりません。
そうやって、社会を動かないものだと考えて
柔軟性のある個人の感じ方を制御して
社会を生き抜くということが実務的な考え方だと言えるようにも思います。

しかし、その副作用を心配する必要はないのでしょうか。

心や感情が現在の環境を反映しているとしたら、
それは生きるための反応だということです。

体の痛みは、痛みを感じる部分に傷害があるから
休ませて、手当をして、使わないようにして
回復させることを、意識に伝える役割があります。

心の痛みも、
本来痛みを感じることによって
自分をその環境から離脱させたり
環境に働きかける(自分の行動を修正する)等の
対人関係という環境を改善する役割があるはずです。

環境をそのままにして
意識だけ変容させるということは
この心のメカニズムを変容させてしまうことです。

当然に感じるべき苦しいという感覚を麻痺させることによって
本来撤退するべき事態から撤退せずに
心身を消耗させていったり、
苦しみを感じにくくして
他者に共感する能力を摩耗させている可能性はないのでしょうか。

例えば、「そんなことで悩むなんて負け犬だ」と言うとか。

人間性が摩耗していき、
心がすさむということはないのでしょうか。

もちろん自己肯定感を高めようとしている人たちが
このような結果を意図しているわけではありません。
「それは自己肯定感があるとは言わない。」
とおっしゃることは承知しています。
しかし、結果としてそういうことになるのではないかということです。

また、根本原因が変わらないならば
一時的に自己肯定感が高まるけれど、
やがてすぐに元のネガティブリストに戻るのではないか
という懸念もあります。

もっと副作用がなく、
それでも現実の社会を前提として
ネガティブリストから脱却する方法があるなら
それを考えてみるべきだというのが私の主張です。

ではどうするか。

色々ある自己肯定感の定義の中で
「自分のありのままの状態を認識し否定しない。」
ということがあったと思います。

しかし、その人のありのままの状態を否定しないで受け入れるのは、
本人ではなく、その人の属する人間関係や
社会なのではないでしょうか。

人間関係の中で自分の欠点や失敗も受け入れられていれば
その結果を反映する心持としては
ネガティブリストの心持にならないと思うのです。

自分を取り巻く人間関係が
自分の現状を否定的に評価するからこそ、
ネガティブリストの心持になるのではないでしょうか。

しかし、あちこちの人間関係のすべてが
その人のありのままを受容する人間関係に
そう簡単に転換することはないでしょう。

私自身、
現実の人間関係の中で
仲間だと信じていた人の裏切りや、
理不尽な扱いを受けて思い悩むことが途切れません。
積極的に攻撃してくるひと
仲間だと思っていた人が攻撃者に協力しているのを知ったとか
そのくせ、自分たちは正しいと主張する集団。
理不尽なことから自分を守りながら
生きていかなければならない社会なのかもしれません。

今考えていることは、
その人の「心の拠りどころとなる人間関係」を
一つ作ることだと思います。
自分がその中に好きなだけいられる人間関係です。
何があっても追い出されない人間関係です。

自分が失敗しても、不十分なことがあっても
期待外れみたいなことがあっても
責めない、笑わない、批判しないで
ありのままを受け入れる人間関係です。

子どもだって、自分で考えてした行動ならば
親はあまり口出しをしないようにする。
メリットデメリットを提示するなどの
助言をすることは良いとして
子どもが、自分で考えてすることを
邪魔をしないということですね。

どうでもよいとはいえないとして口を出すのは
必要最小限にする。

そういう人間関係の中にいることができれば
その他の人間関係でどんな嫌なことがあっても
逃げ場にもなるし、
他の人間関係から追放されることも
それほど深いダメージを受けなくて済みます。
大切な人間関係のために頑張ろうという気も起きます。

帰属に不安のない人間関係を作ると、
本来の自分の能力が発揮されやすくなります。

逆にどこに行っても自分が受け入れられないという不安を抱えていると
不安にばかり意識が向いてしまって
何をやるにしても集中ができないのです。

パワハラが多い職場は
パワハラを受けたくないということに意識が集中するために
ケアレスミスが多くなるわけです。

こういう人間関係が本来は家族であることが一番なのでしょう。
それも現在はいろいろな事情があって
なかなかうまくゆきません。
それだけに家族を壊す方向での働きかけは
とても罪深いと思います。

さて、それでは家族でも友人関係でも
どうやってそういう人間関係を作ればよいのか
ということなのですが、
100パーセントを目指さなければ
案外簡単なものです。

自分が一番大切な人間関係に
まず自分から、
どうでもよい所を増やして干渉を最低限にする
失敗や不十分点を責めない、笑わない、批判しない
ここだけは合理性とか正義とかそういうことを抜きにする。
そういう習慣を作るということですね。

他人を変える唯一の方法は
自分が変わってみせるしかないのです。
お手本を示すという表現が人間関係において
しっくりくることでしょう。
とにかく相手の反応を気にせずに
仲間をひたすら大切にするということです。

もちろん嫌な顔もしないということです。

そういう受容の態度を
10回のうち3回成功させれば
仲間はあなたの変化に気が付くでしょう。
あなたの努力の方向に気が付くでしょう。

あとは受容の競争になるはずです。

でも
それほど、それほど劇的な人間関係の変化ではないですよ。
おそらく少しずつ、居心地がよくなる
ということだと思います。

それでもこれは副作用もないはずです。
なぜならばこうやって、人間が
数百万年前から群れを作ってきた方法だからです。
人間の本能を利用する方法というわけです。


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過労死から自分を守るための現実的な手段 社会人になる前に伝えるべきこと [労災事件]




法で、過労死防止月間と定められた11月が終わりました。
各地で中学、高校、大学、専門学校など
厚生労働省の過労死防止啓発授業が開催されたことと思います。
私も東北中を駆け巡ってお話しをしてきました。
本当を言うと、もう一校今週あります。

この授業は、これから就職をするという生徒さん方に
就職をする前から過労死予防を行うということで
とても有意義なことだと思います。

講師によって話す内容は違いますし、
開催学校によって、1時間だったり2時間だったり
時間も違います。

比較的熱心に
最後まで話を聴いていただいており、
話しているこちらが充実する時間を過ごさせています。

さて、何をお話しするか。

色々な考え方があるでしょう。
過労死にまつわる法律の内容
働き方に関する法律の内容を
お話しすることがもしかしたらオーソドックスかもしれません。

問題は、その内容をお話ししたことで
実際に職場に出て上司や同僚に囲まれて生活する
その人たちの過労死予防につながらなくてはならない
ということです。

そもそもどれだけ法律の知識を持てばよいのでしょうか。
法律の知識を増やせば過労死は防ぐことができるのでしょうか。
法律の知識があって、雇い主に対して
「これは法律違反です」と抗議をすることは
実際に可能なのでしょうか。

一つに、そういうことを言って職場が改善されるのかということと
肝心なことは、そんなことを上司や経営者に向かって
いうことができるのかということです。
自分がパワハラを受けているということにさえ
なかなか気が付かないことが実態なのです。

さらには、法律の範囲ないの業務命令ならば
どんな酷い命令もあきらめて従わなければならないのか
ということもあります。
裁判で負けるなら、会社に従わなければならないのか
ということですね。

この考えは、私の独特な思考の結果というのではなく、
実は、「権利とは何か」という理解の問題が関わっています。
法哲学的というか、労働法制史的な理解の違いにあるわけです。

このあたりのことは、長くなるのでざっくり説明します。

元々労働者の権利というものはなかった。
現在権利として保障される行為のほとんどが犯罪だった。
失業することすら犯罪だった
労働組合を作ってストライキをするなんて重罪で
死刑も用意されていた国もある。
しかし、労働者は、自分たちの要求が、組合を作って戦うことが
人間として正当な要求、正当な行為だと信じていた
(正当性の意識、規範意識)
長年の労働者と使用者、国家との衝突を繰り返し
その長年の苦労の結果
国家から権利として保障されるにいたった
ということです。

だから、労働者に限らず、
権利とは、
人間として当然の扱いを受けるということであり、
法律に書かれていなくたって
自分たちにとってそれが人間としての扱いだという
その正当性の意識に根源を持つということなのです。
この人間観というか、正当性の意識が後退すれば
法律がどう規定していようと法律は守られません。
また、法律自体が後退していくこともあるわけです。

大事なことは法的知識ではなく
権利意識、もっと具体的に言えば人間観です。
ひらったくいうと自分を大切にする心、習慣でしょうか。


もちろん法律の話を全くしないわけではなく、
長時間労働とは何かということを
視覚的にプレゼンするわけです。

そして、長時間労働によって過労死する仕組みを
時間に合わせて説明するのですが、
そのポイントは、
「長時間労働をすると、睡眠時間が少なくなる
 睡眠時間が少なくなると、脳や心臓の血管が詰まったり、破裂したりする
 あるいは、睡眠時間が少なくなると精神的に不健康になる」
ということが最大のキモです。
仮にそれまで寝ている人がいても
ここだけは、起こしてでも聞いてもらいます。
(前半なので、寝ている人はいませんけれど)
そして、睡眠時間は細切れにとっても有効ではない
ということをレム睡眠のグラフを見せながら説明するわけです。

長時間労働と絡めて
過労死という言葉が生まれる以前の過労死について説明します。
過労死は戦前からあったわけです。
ただ、くも膜下出血とか心筋梗塞という名前ではなく
結核とか栄養失調による衰弱とかいう病名でした。

これらの病気と長時間労働とのかかわりについては国は意識していました。
当時、現在の厚生労働省の官僚として労働基準法の条文を作った
松岡三郎先生(後に明治大学教授、私の大学にも教えに来ていただいていて、
直接講義を受けたし、もちろん教科書も買いました。)
の教科書にも、一日8時間労働と定めたのは
(当時は週48時間労働)
「労働者が早死にをしないため」と明記されています。

さて、それでは法的知識以上に大切なことはなにでしょうか。
それは過労死の特徴からも導かれます。

過労死は、くも膜下出血にしても脳梗塞にしても
心筋梗塞にしても大動脈解離にしても
うつ病などの精神症状にしても
悪くなるまで自覚症状がないというところに特徴があります。
悪くなって初めて
ああ、そういう病気だったんだと気が付くのですが、
気が付いた時には遅いということが特徴です。

だから、過重労働をしない、長時間労働をしないということで
予防するしかないのです。
ところが、漫然と働いていると
自分が何時間労働しているかすらわからない。
家族とも、長時間労働で顔を会わせないから
家族が異変に気づくこともだいぶ遅れるという仕組みがあります。

ではどうするか

同僚との人間的なつながりがあることだと思います。
同僚ならば、誰がどのくらいきつい仕事をしているかわかります。
同僚ならば、顔色がおかしくなってきたことに気が付きます。
同僚と話すことができれば
パワハラを受けていることを指摘してもらえますから
自分がなぜ苦しいか気が付くことができます。

しかし、現在の職場では
同僚と、なかなかそういう人間的なつながりを作りにくいようです。
あからさまなパワハラを受けていても
関わりたくないという人間が多いために
パワハラを受けた労働者が、
上司の言うとおり自分が悪いのだろうか
という気持になってしまうのです。

私の担当した事件を振り返って、
せめて、パワハラを受けた人に
同僚が、「あれはひどいよね」と
こっそりでいいから言ってあげられれば
もっと救えた命があったのではないかと
ついそう思ってしまうのです。

会社の中で人間的なつながりを作る
ということが一番大切なことです。
これが後半のヤマです。

ここらからが対人関係学の見せ所ということになります。

人間的なつながりは会社に入ってから作ることは難しい
同期でもなければ、自分から作ることも難しいし、
同僚を出し抜かなければ評価されない成果主義の労務管理の中では
さらに難しいということになります。

だから、学校にいる今のうちに仲間づくりを勉強するということを
お話しするわけです。

人は一人で幸せになることはできない。
大切な人間関係の中で尊重されていることが必要だ。
尊重されるということは、
いつまでも仲間としていることができるという安心感であり、
それを一番感じる事情として
失敗や、不十分なところ等人間として当然持っているところを
責めない、笑わない、批判しない
助けられ、補われ
一緒に成長するものだと扱われることでしょう。

そういう環境に自分を置くためには、
自分が意識して仲間にそういう態度で接するということです。
それを生徒さん同士で
部活でも、卒業記念政策でも
あるいは受験勉強でも何でもよいですから
一緒にそういうチームを作ってみる。
そういう訓練をするということですね。

残り少ない学生生活の仲間を
そうやって扱ってみるということですかね。

そうやって、人と人とが分断されやすい現代社会の中で
意識的に人と人とのつながりを作っていく。

仲間がいれば多少法的知識がなくても
これはおかしいと思えるし、言葉に出すことができる。
誰かと知恵を出し合うことができる。
一人だと何もできないけれど、
労働基準監督署に行ってみようとか
過労死弁護団や労働弁護団に電話をしてみよう
(無料だから)
ということでもできるようになるわけです。

どうやら、人間としての誇りとか
正当性の意識というのは
一人ではなかなか生まれも育ちもしない場合があるようです。
同じ環境にいる仲間を守るという意識が
権利意識を持つためにはとても有効なのだと思うのです。
一人だとやはり人間は幸せになれない
ということは真実なのだろうと思います。

誰が何と言おうと自分は大切な存在なんだということ
自分を大切にするということは
仲間を大切にする中で実現するということ
こういうことをお話ししてくるということになります。

(ちょっと考え込んでいたことがありましたが
 書いていて吹っ切れました。
 そうか、対人関係学のルーツとして
 野村平爾先生の規範意識論があったのだということに
 気が付いたことを自己満足的に付け加えます。)

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【労務管理の専門家向け】使えないパワハラ防止法に頼らずに、経営者にパワハラ防止の意識づけをさせる方法と経営戦略上の意義 [労務管理・労働環境]

パワハラ防止法と呼ばれるようになった法律があります。
旧名称は雇用対策法で、高度成長期に成立した法律ですが、
去年(2018年)から「総合施策推進法」と呼ばれるようになった
「労働施策の総合的な推進並びに労働者の雇用の安定及び職業生活の充実等に関する法律」
という長ったらしい名称の法律です。

厚生労働省が、このたびこの法律の指針案を発表しました。
パワハラに該当する例を示したのですが、
パワハラに該当するという事例が限定的になっていて
パワハラに該当しない例がわざわざ書かれているものでした。
これでは国がパワハラをする会社の言い訳を用意したようなもので
パワハラ防止の実効性がないという批判が浴びせられています。

罰則規定があるわけではないのだから
ここまで厳密に定義づけをする必要はないのです。

何のためにパワハラを防止するかということが徹底していないのでしょうね。

この中途半端な政策になっていしまった根本原因は
本来労働者の健康と命を守る法律を作って定めればよかったのに
労働力の流動化を図ることを主目的にした既存の法律に
パワハラ防止を組み入れられたところにあるわけです。

元の法律ができた時代は昭和の時代です。
昭和の終わりころから国の政策は様変わりしていきました。

元々は、
労働者に充実した生活と賃金を保障し
自立自助の生活を確立させ、
それを基本として社会保障を組み立てていく
という社会政策という政策があり、
労働政策はその根幹をなすものでした。

ところが、労働政策自体が後退し
労働市場における需要と供給のミスマッチの解消させる政策に移行しました。
労働力が足りない企業がいる一方失業者もいるという状況をなくすために
労働者が来ない企業に労働者をあっせんするという
労働力流動化政策が主流になってしまったのです。

労働者の賃金を基盤とした社会保険という建付けも崩れてしまったことから
社会保障政策が行き当たりばったりになっていくようになりました。

労働市場政策も、
不利な労働条件の会社には就職せずに、有利な企業の募集を待つ
という需要と供給の一致という資本主義の自由市場の原理を壊してしまい、
不利な労働条件だとしてもとにかく雇用を促進する
という政策に変更になったわけです。

思えば過労死や過労自死、メンタルヘルス、ブラック企業の問題が多発するのは
このような労働市場の市場原理を壊したところに原因があるのかもしれません。
自由主義経済が機能していないのです。

このような流れの法律ですから
労働者の健康や安全を守るためのパワハラ防止というよりも
企業に労働力を向かわせて定着させるという
労働力流動化という目的での法律だと考えたほうが理解しやすいでしょう。

本来パワハラによって過労自死をする例も多いのだから
労働者の身体生命の安全を保障する法律を作るべきであるが
もともとそういう法律ではないのです。

それでも労働者の企業への定着のための
パワハラ防止のない企業を作るということも
日本において必要なことですから、
その目的を達成できる法律にしてもらわないと困るのですが
それができていないわけです。不徹底なのです。
きちんとしたパワハラ対策の政策がないことで危機感を抱いているのは、
どうやら労働者、労働組合、その関係の弁護士よりも
大河内一男先生の言葉をお借りすると「総資本」の観点に立つ人たちのようです。
総合的な観点から理性的に企業の発展を考える立場というような意味です。

そういう観点に立つ人はどういう人たち化というと
プロの労務管理、企業法務の専門家の先生方です。

私は、この先生方と、年に1,2度労働法の勉強会をしています。
テーマのリクエストをいただき
私がテーマに沿って実務的な実態と法解釈の現状をリポートして
ディスカッションをするわけです。
まあ、実務的な現状について教えを乞うわけです。

今回は数個のお題をいただきました。いろいろな分野がありました。
労働基準法のレアな条文に関する実務的問題点ついては、
結構私が裁判などで実際にその条文が問題になる事件を担当しているので
お話しすることがたくさんあるため、レポートも楽なのです。
しかし、今年のお題の筆頭は
「パワハラ防止をいかに企業に定着させるか」というお題で
これまでの中でも一番難しいお題になっていました。

労務管理の最前線でご活躍なさっている先生方にとって
働き方改革も踏まえて
パワハラ防止が最も切実な問題だということです。

パワハラ防止の理念を唄うだけならばいくらでも誰でもできるでしょう。
しかし、企業経営者と直接接する先生方に対して、
実務的に役に立つ方策でなければ意味のない時間になってしまうので
苦労しているわけです。
でもとても楽しい苦労です。

そして例によって、このブログで悩みをそのままこうやって書き連ね
論点を整理して、話す内容を
組み立てていこうというそういう寸法です。

これらの先生方は、
企業経営者の言いなりになったのでは仕事になりません。
そういう経営コンサルタントも世界的に暗躍しています。
GE等の労務管理の成功例を劣化させた案を
高額な報酬で企業に押し付け
基準日まで業績を上げてさっさと立ち去る手法を使う人たちです。
こういう手法は短期的には有効ですが、
長期的に見た場合はさまざまな不具合が発生することがあり、
かえって企業を倒産に向かわせる場合もあります。

資本主義の理性というべき先生方は
もちろんこういう手法は取りません。
クライアントを本当に大切にして
信頼を勝ち取られています。

今や、企業経営上問題が起きれば
経営に直結し、訴訟なども起こされる時代です。
そういうことにならないための仕事なので、

近視眼的になりがちな企業経営者と時に対峙しながら、
企業が打つべき方策を客観的に見極めて
本当にやらなければならないことは何か
ということを真摯に考えて企業に提案されていらっしゃっています。

そういう意味で、本来あるべき国家的な視点に立った
総労働という言葉を思い出したわけです。

時にこういう本物の労務管理の専門家の先生方が
法律や通達に期待するのはどういうことでしょう。

それは企業が安心して最低限のルールを守るようにすることです。
長時間労働や無理な労働をさせない手段です。
「これは法律で決まっています。罰則もあります。
 だから、ほかの企業も守っているので、守らなければなりません。」
ということを言える政策です。

こうして最低限のルールを設定してもらい
企業にとってのマイナスを作らないようにすることができるわけです。
例えば長時間労働を制限して
これ以上働かせてはならないということができる、
そうやって過労死を防ぎ、企業にとってのマイナスを防止するのです。

企業にとってのマイナスとは
例えば過労死、過労自死などが起きてしまったことを考えるとわかりやすいです。

莫大な損害賠償義務、訴訟の負担が企業に発生します。
同僚労働者がその企業で働くことに疑問を持ったり
働くことのモチベーションの低下によって生産力の低下が起きることです。
このままでは早死にするということでの退職、転職がおこり
優秀な人材が出て行ってしまうことです。

そして風評被害ですが、
就職をしようとする労働者がいなくなるだけでなく、
取引先との関係でも
過労死が多い職場ということで
忌み嫌われるということがあります。

しかし、当該企業はなかなかそれに気が付きにくい。
しかし、いつの間にか取引先が離れて行ってしまっています。
それらの行きつく先は、端的に倒産です。
実際過労死を出した企業で、支店が営業所に規模縮小
なんてことはよくあることです。

企業の理性を体現する人たちは
パワハラを本気で無くしたいと思っているのです。

だからパワハラ防止法に期待している専門家は驚くほど少ないのです。
というか、使えない法律なのだから驚くに値しないことかもしれません。

この法律や指針の問題点は、
企業は切実にパワハラをなくしたいと思っているのに
その切実さがないということです。
パワハラの企業にとってのマイナス事情があるのに
国は他人事だと考えているのではないかと
労務管理の専門家は思っています。

なぜパワハラが起きるかが検討されていないのも
本気度が足りないからでしょう。

パワハラが起きる現場は特徴があるようです。
一言で言って無理にも生産性を上げなければならないとか
売り上げを伸ばさなければならないとされている現場です。

しかしながら、そのノウハウ、コーチング技術がないために
根性論が幅を利かせる傾向になってしまうのです。

どうしてそういう現場ができてしまったかというと
そこでの活動スタイルが確立した時点では
おそらく合理的な活動スタイルだったのでしょう。
ところが環境の変化によって
かつてのスタイルでは対応できなくなったという事情がありそうです。

パワハラのやり玉にあがるのは優秀で責任感のある従業員です。
その人をたきつければ数字が上がるということで
その人を集中して「叱咤激励」するのです。
パワハラの犠牲者になって
優秀な人から順番に企業から離れていくという事態に陥ります。

もう一つの傾向として、
同僚に対する要求度が高い職場でパワハラが起こりやすいとされています。
生死を共にする自衛官、警察官、消防職員が典型です。
人の変わり果てた姿を見る職業だということも
同僚を大切にできなくなる理由なのかもしれません。
しかし、それ以上にそういう危険な職場であるにもかかわらず、
定員割れで無理な割り当てがされている職場でもあります。
職場の不満を上官に言えない階級制度があるため
自分よりも弱いものに八つ当たりをしているという可能性もありそうです。
現場労働者に甘えている現場なんです。

もちろん、経営者や上司の個性にも原因がある場合も多くあります。
きちんとしたシステムがなく
ワンマン経営者の思い付きに幹部クラスが振り回されて文句を言えない職場ですね。

目標に達せなければ時間をかけてやらせるという一辺倒な職場です。
時間内に課題を終わらせるという発想がない職場です。
学生時代の美術の時間で、確かに上手なのだけれど
細部にこだわって授業時間に絵を完成させずに
ずいぶん経ってから絵を完成させ提出する人がいましたが
そんな感じの上司が、従業員にそれを強制するわけです。

無駄な様式美を追求する職場もありますね。
結果が出ればよいのに、伝統的な手順を踏むことを要求するような職場です。
それで馬鹿みたいに時間を浪費していることがよく目につきます。
結果を出すことよりも、職場内での上下関係が優先されるような職場ですね。

いずれにしてもパワハラ職場は、優秀な人から辞めていき
優秀な人が入ってこない
その結果ますます定員割れとなり、生産性も落ちて
ますますパワハラ、長時間労働となり、
ますます優秀な人が減っていくという悪循環が起きるわけです。

こういう実態のあるところに
中途半端な法律とか、抜け穴だらけの通達をしめすということは
切実にパワハラを終わりにするという姿勢がない
誠実に生産性を上げるという気概もない。
そう受け止められるのです。

これでは労務管理の専門家が企業経営者に対して
どんなにパワハラ防止対策の必要性を説いても
「よそでもやっているのだろう」
「抜け道をちゃんと用意しておけ」ということしか発想として出てこないのでしょう。
だから使えない法律なのです。

国の方法論がこのようにまじめな労務管理の足を引っ張るものなのに
パワハラは禁止ですという結果だけを要求しているようなものです。
できないと「なんでできないんだ」と責めるばかり
こういうことがパワハラの本質なのですが
この法律自体がパワハラになってしまっています。

この結果パワハラ防止対策は。
企業にとっては、生産の足かせとしか受け止められず、
できるだけこの法律の制限を回避しようとして
抜け道や工夫ばかり考えるようになるわけです。


だから、プロの労務管理専門家たちは
法律に変わるパワハラ防止の方法を必死に模索しています。

パワハラ防止の企業サイドの方法論の総論は、
パワハラを防止することが企業の利益であるということ
不必要な経費を軽減して、費用をかけずに生産性を上げる
企業スタイルの刷新の絶好のチャンス
あるいは企業再生のチャンスだという
プラスのモチベーションを高めることだと思っています。

パワハラを容認する企業は倒産する
パワハラ防止をそれだけでなく企業戦略として位置づけることによって
これから伸びるチャンスとするということです。

これを方便としてではなく、
現実的な企業戦略にできるかがカギになるでしょう。

以下、そのプラスの例を考えてみるのですが。
専門家の先生と積極的に意見交換をしたい
これをたたき台にして
実務的に直結するアイデアに高めていければ幸いです。


一つは、ビジネススタイルの見直しの機会にするということです。
パワハラ事案が出てしまう企業は
いろいろな事情で自分たちのやり方を振り返る余裕がありません。

前例を踏襲することに汲々としている企業です。
しかし、どの企業であっても、企業を取り巻く環境は
刻々と変化をしている。
労働者の意識が変化しているならば顧客の意識も当然変化しています。
意識の変化、環境の変化に合わせて企業活動の変化ができなければ
当然企業の存在意義がなくなってゆきます。

環境の変化に対応する方法が見つけられずに
単に労働者にプラスアルファーの労働を求めてしのごうとするとき
パワーハラスメントが起きるわけです。

例えばエリアが拡大したとか
競合店がなくなって仕事が増えたのに
人数も変えず、やり方も変えない。

逆に競合店が増えたのに
それに合わせた戦略を立てられず
労働者の頑張りの強化だけに期待する。
成績が伸びないのは当然なのに
パワハラでしのごうとする。

このような環境と企業活動のミスマッチに気が付かない。

時代的変化への対応の関連では、
経営者交代の時です。
新経営者がパワハラというか強圧的になることがよくあります。
従業員から信頼されている先代が引退し
二世たちがやるときに
先代が苦労して勝ち取ってきた信頼と尊敬がなく
そのことが自分でもわかり不安になるのですが、
謙虚な気持ちもないものだから
先代に対して忠誠をつくしたような態度をとらない労働者を
力で屈服させようとする。

やり方もうまくいかないし
比較されるのが嫌だからでしょうか無理に新しいことをしようとして
外部のコンサルなどの意見を聞いて
「合理化」を狙って、労働者の既得権に手を付け
例えば退職金を払わないとかいうことを強行して
訴訟に負け
そういうことの繰り返しで
企業自体が消滅する。

業種が一つ消滅した例もあるくらいです。

取引相手の窓口は、具体的担当者、従業員なのです。
多少無理な付き合いも、顔見知りの顔を立て行いますが、
無表情の見知らぬ人間の新たな要求は
最初から鼻もかけないのは当たり前です。
それがわからないのです。

経営者の発想を変える必要があります。

その方法論を考えてみましょう。

まず、最初にする経営訓練として、
労働者の気分感情を考えるということが
とても良い訓練となります。

人の快、不快はある程度共通です。
労働者の環境が変化しているならば
労働者の感情のリサーチは顧客のリサーチにもつながります。
労働者の要求を理解することを通じて
ビジネスチャンスも見えてくるかもしれません。。

発想の転換の第2は
使用者と労働者の関係についてのイメージの転換です。

使用者、被用者という感覚は
現代企業としては生き残れないようです。
対立していたのでは生産性も低くなります。

使用者の言いなりに労働者を働かそうという発想は
労働者をロボットに置き換えても成り立つ企業以外はアウトということになりそうです。

企業とは
労働者の能力を発揮する場を提供しすることだということです。
使用者は労働者の活動について協力体制を敷いてバックアップする
これが特に中小企業で必要な発想である。

労働者が、自分の日々の活動から
企業の在り方を判断し、検討し、提案していく。
生産性を上げることが自分の喜びになるような
活動スタイルを作っていく戦略が実務に入り始めています。

その労働者の傾向に合わせた自主的ルールができていく
無駄な、不合理なシステムは改定されていくというわけです。
下手なコンサルタントをつけるよりも生産性は上がってゆくようです。

そのためには、従業員が意見を自由に述べることができる環境を
使用者が整備する必要があります。
意見を制限したり旧来のやり方に固執したりする上司を
使用者がジョーカーとして穏便に制して、
若手労働者等の新鮮な意見を尊重する制度を作るわけです。
自分の意見に基づいて会社が動き出すということは
従業員にとってもとてつもないモチベーションがあがりますし、
責任をもってやりとげようとする。

パワハラなんてマイナスなだけな職場を作るだけだということが
よくわかってくるでしょう。

服務規律は労働者にゆだねたほうが合理的で
遵守意識が高まるようです。
無駄な無理な拘束をしないことこそ
モチベーションを上げる特効薬なのですが、
経営者の発想ではなかなか難しいのです。

これらのゼロの先のプラスを目指すならば
政府が著した指針の類型なんて
当たり前のこんこんちきのことであり、
足りなすぎると笑って読み飛ばすようになるでしょう。
パワハラをしないことは当たり前として、その先、
むしろ、厚生労働省が示した
「パワハラに該当しないという例」をしないで済むような労務管理
これを実現する職場をつくるということが
この厳しい状況で生き残るための指針にされなければ
企業は生き残れないでしょうし、
それが実現する職場は
いいことづくめが予定されていくということになるでしょう。

もう少し、日本経済の実情を踏まえた法律や国家政策を
行ってほしいものです。





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