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The Battered Womanノート 1 総論部分 日本の男女参画政策の原典を読む [家事]


1 絶版

男女参画政策の根幹であるDV対策の
その根幹の理論であるDVサイクルの基礎となった
レノア・ウォーカーの「バタードウーマン」を
是非読んでみたいと思い探していた。
大きな書店や古書店に行って探したが見つからなかった。
それもそのはず既に絶版になっていた。
発行は、1997年1月である。

現在もこの本にもとづいて政策が行われていることを考えると
早すぎる絶版だと思う。

要するに、男女参画に携わる人が
この本を読もうとしていないということだ。

自分が行政やNPOとして、一般市民の家庭、特に子どもの一生に
多大な影響を与えている行動の
その原点を読もうとしている人が少ないというところに
この政策の特徴が表れている。

では、各機関は何にもとづいて
DVサイクル等ということを声高に主張し、
DVは治らないから逃げるしかないと
家族分離に抵抗する母親を説得するのだろう。

見えてくるものは
研修会のレジュメである。
ほとんどマニュアルみたいなレジュメが作られている。
その背景や具体的な考察がほとんど書かれていない
結論だけのレジュメである。
これに疑問を持たずに、言われたとおり行っているということのようだ。

おそらく当初は翻訳本がなく
原典に当たることは難しかったので
それも仕方がないと是認されたのであろう。
しかし、その後翻訳本ができてしまった。

実際の人間の家族の生活は千差万別で
本来マニュアル的な処理をするのは不向きである。
それにも関わらずに、
マニュアル的処理をしているのである。
不具合は生じるべくして生じたのである。

この本を読み進めていると
DV対策の理論的リーダーと呼ばれている人たちが、
この本の読みかじりのような主張をしていることがわかる。
こっそり引用しているのだ。
しかも、文書全体の意図とはべつに
例えば重要な条件付けの条件を外して
断定的に主張している。
(この点については、次回に説明する)

マニュアル型政策だとすれば
原典はむしろ政策推進の弊害になるだろう。
マニュアルと原作者の主張が違うということが
明らかになってしまうからだ。

この本が絶版になっていることこそ
現代日本のDV政策を象徴した出来事であると思う。
絶版だと知ったからには
なんとしても読みたいと思い入手して読んでみた。

2 欧米の家庭内暴力と日本の決定的な違い

この研究がはじめられたのは1975年だという。
おそらく、その当時の欧米の事情が語られているのだろうから
21世紀の日本の家庭事情を比較して
欧米を論じることは間違っているだろう。

この本によって、家庭内の虐待が問題視されるようになり、
その結果、人々の意識がだいぶ変わったと思われるし、
その効果は日本にも及んでいるのではないかと想像する。
私も影響を受けているのかもしれない。

そのことを踏まえたうえでお話しするのだが、
欧米の夫婦間虐待の背景として論じられていることは、
夫は妻に対して暴力をふるうことが許された法律があるというのだ。
親指より細い鞭であればそれで妻を叩いてもよいと
法律でそう規定されていたらしい。

これは日本では考えられないことだ。
特に江戸時代以前の日本では、
あるいはその後江戸時代までの価値観が続いていた庶民の間では
男が女に手を挙げるということはご法度であり、
無教養の極みとして軽蔑されていたはずだ。

明治維新後には、
特定の出身地の人間が権力を握るようになり、
酒乱で妻を殺した人間が総理大臣になる等ということはあったが、
江戸時代以前の文学を見ても
男女は比較的平等で、
女性に対する暴力が、称賛されたことはないと思う。
ただこの点については自信がない。
教えを請いたい。

ただ、少なくとも法律で男性の特権として
女性に対する暴力が是認された法律や、思想はないように思われる。
(江戸時代の「女大学」と言う文書はあるが、
これはその逆の行動が一般的であったことを物語るものであり、
当時の女性たちのおおらかさと
一部女性の賢さが透けて見えるというべきだろう。)

もう一つ、前提的な話として
欧米では、男性が女性を虐待する場合、
それは教育なのだから許されるということを
理由にしていることが多いということだ。

現代でも児童虐待がしつけの名によって行われる。
虐待の本質を見たような錯覚に襲われるが、
男性は女性を教育するために暴力をふるっているだろうか。
いくつかの日本のDV事例に関わってきたが
男性がそのような理由で自己の暴力を正当化することは
聞いたことはない。

もっともレノア・ウォーカーもほとんど男性の言い訳を聞いていないので、
暴力男性が、虐待された女性に対して言った
自己を正当化する言い訳を
虐待された女性から聞いたという経路は意識しなければならない。

日本において、
妻などを教育する手段として暴力をふるったと
主張する事例はない。

つまり欧米の男性は自分の妻を「もの」と見ていて
所有権の対象だと考えるようだ
そうして所有物である以上、
叩くことも、教育することも男性の権利だと考えているということになる。

もちろんすべての家庭でこういうことにはなっていないだろう。
逆に日本の家庭でもそのように考えている人が
全くいないというわけではないだろうとは思う。

しかし、この本、ウォーカーの学説が
この欧米人の意識を背景に見ているとしたら
これを日本に「直輸入」することには問題だということは
少なくとも受け入れていただけると思われる。

しかししかし、日本では直輸入どころか
大事な部分を削り取って不具合を拡大させて主張されている。
このことについては次回説明する。

3 科学的ではないこと

レノア・ウォーカー博士自体は科学者である。
だから、ご自分の学説が
十分な統計や調査に基づくものではないことを承知されており、
これは科学ではないということを繰り返し述べられている。
このこと自体は尊敬に値する態度である。

ただ、だからと言って博士の研究が色あせるものではなく、
むしろ、その時代を切り開く力があったことは間違いがない
本書は十分その役割を果たしたと思われる。

また、本書の基礎となった研究データは300例だという。
300例といっても、必ずしもいわゆる男女の関係ではない
例えば親子の間の問題も入っているような節があるので、
症例としては少ないかもしれない。
それでも、データを解析し、分類を進めることによって
十分な仮説として提示できる方法もあったかもしれない。

しかし、あえてそういう時間をかけず
フェミニストとして現実の女性を救済するという観点から
本書は作られたのであり、
それは、それでありうる手法であると思う。

問題は、それを現代日本という
時代も歴史も場所も異なるところで
機械的に当てはめようとすることが行われていることだ
ということも本書を読んで感じたところである。

博士は前書きで、事実認識の情報源は
虐待された女性から得たということもはっきり述べられていて
男性に反論の機会を与えていないとはっきり述べられている。

これは、私的研究の限界でありありうる話である。

だからと言って、現代日本においても
公的機関が同僚に一方の側からしか事情を聴かないで
聞いていない方に不利益を科すことが許されることとは
全く違うことである。

博士は、今回は女性を犠牲者、男性全体を否定的な目で見たと
これも科学者らしくはっきり述べられている。
しかし、将来的に研究が進んだら
男性もまた犠牲者だとみることが必要になるだろうと述べられている。

あくまでも、このような態度は
本書が書かれた時代には必要な態度だったのだと思う。
現代でこのような態度で権力的な政策を行うことは
何ら合理化できないことが本書においても示されていると思う。

定義が曖昧なことも本書譲りであるが、
現代日本では曖昧にする理由があるのかもしれない。
ちなみにバタードウーマンの定義は
「男性によって、男性の要求に強制的に従うように、当人の人権を考慮することなく、繰り返し、肉体的・精神的な力を行使された女性」としている。
定義がそれほど問題にならなかったのは、欧米の虐待は、明らかな暴力が存在したからであろう。
本書は、精神的暴力についても言及しているが、
明らかな身体的な暴力があることを前提として、
暴力以上に精神的暴力の影響が深刻だ
という主張として記載されているという印象がある。

この本自体は、予想通り勉強になるものであった。
特に学習性無力感が虐待を受けた妻が
虐待者である男性に対して服従以上の迎合をすることを
良く解説している。


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