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いじめによる被害は想像するより深刻である一つの理由。「深刻ないじめ」とは「いじめ共同体」という秩序を形成することが本質であること。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

普通の子どもの行動がいじめになり、普通の子どもがいじめを傍観して、いじめのターゲットが自死に至るような「深刻ないじめ」が起きてしまうメカニズムを説明します。
目次
1 からかいが「深刻ないじめ」に育ってゆく流れ
2 いじめ共同体という秩序
3 いじめの被害の本質、深刻な被害はどのように起こされるのか
4 なぜ、その人は、いじめのターゲットになるのか
5 いじめを深刻にしない方法

1 からかいが「深刻ないじめ」に育ってゆく流れ

 どんな深刻ないじめも、初めから強烈な攻撃が始まるわけではありません。もし初めから理由なく強烈ないじめが起きたならば、あからさまに悪い加害者が悪いことをしているのですから、さすがに大人が適切な対処をするでしょう。どんな「深刻ないじめ」も、最初は、いじり、からかい、ちょっとした悪口などがから始まります。いじめの第一歩は、どこの学校でも、習い事でも、スポーツ少年団の中にもあるありふれたこととして、日々起こっています。そして、多くは「深刻ないじめ」に発展しません。
「深刻ないじめ」につながる「最初の行動」を行った「最初の行動者」は、からかったことに対する周囲の反応を気にしています。例えば、「なんだお前、ズボンからシャツが出ているぞ。」ということを言ったことで、周囲から自分が否定的な評価を受けるのではないかと思っているはずです。例えば「こっそり言えばいいじゃないか。」、「そんなこと言わなくてもよいじゃないか。」、「俺は言わなかったよ。」、「自分だってだらしなく服を着ているだろう。」、「お前は先生か。」等々です。実際こういうツッコミがあって「深刻ないじめ」に発展しないで終わることが多いでしょう。
「深刻ないじめ」に発展する場合は、ここのポイントであいまいな容認が行われているようです。積極的に同調することがなくても、あるいは言葉では「そんなことを言うなよ」と言ったとしていても、目が笑っていたり、うなずいていたり、「最初の行動者」からすれば、自分の「最初の行動」が、容認された、ウケたなどと肯定的な評価を得た感覚を持つ事情があるようです。
この容認の後で、ターゲットが再びからかわれるすきを見せると、一度容認されたという経験を持つ「最初の行動者」は、第1回目のからかいよりもターゲットに対する強い行動をします。言葉や身体的接触は強くなり、行動時間は長くなります。
ここでも、誰かが、「最初の行動者」に否定的な評価を加えることをすれば、例えば「もうやめろよ」とか「それはしらけるよ」とか言ってしまえば、「深刻ないじめ」にはつながらないのです。それをしなければ、この段階でも自分の行動が容認されたという体験が重ねられてしまい、だんだん自信が積み重ねられていくわけです。そのうち、自分が、ターゲットをからかう集団の中での役割を与えられたという意識が芽生えてくるようです。周囲から行動を期待されているという感覚です。そうなると、ターゲットが落ち度を見せなくても、無理やり理由をつけて、攻撃を繰り返していくようになるのです。
それにしても、どうして罪もない他者であるターゲットを攻撃するのでしょう。一般に他者を攻撃する場合は、「自分を守る必要性」を感じていることが背景にあります。自分が何らかの危険にさらされている場合、不安を感じるわけです。動物は、不安を感じると不安を解消したいという要求が起きます。この不安解消要求に基づいて逃げる行動と戦う行動のどちらかを選択します。原則は逃げる行動ですが、相手と戦った場合は勝てると思ったり、仲間を守るために戦わなくてはならないという意識を持ったりしたときは、逃げないで戦うことを選択します。いずれにしても、戦う行動をする場合は、まず不安を感じているわけです。自分が攻撃されている、安心できない状況だという不安の意識です。この不安を解消するために他者を攻撃するのです。それにしても、これだけいじめの問題がありふれた問題になっているということは、現代日本の子どもたちの多くが何らかの不安を感じているということになります。国際機関は、日本における過度の受験競争を指摘しています。いつの時代にも大学受験はあるのですが、受験競争の意味合いが、激しさが、例えば昭和の年代とはかなり異なっているようです。ある大学の医学部の偏差値が、30年前よりも10以上も上がっています。有利な職業に就くための競争が激しくなっているのです。30年前には、大都市圏にしかなった中学受験が一般的になりました。中高一貫教育は、子どもたちにゆとりを与えているのではなく、受験対策を小学生やそれよりの下の世代まで早期化しているだけのようです。ブラック企業、リストラ、派遣、有期雇用、無保険者などのキーワードがマスコミや漫画などを通じて直接、あるいは、親の焦燥感を通じて間接的に、子どもたちに伝わっているようです。子どもたちは、危機意識をもたされ、緊張感が持続しているようです。
子どもたちは、持続する緊張から逃れたいという不安解消要求を持ちますが、子どもたちにとっては、不安を解消する手段は見つかりません。そうすると、ますます不安解消要求が大きくなってゆくのです。
このような状態のときに、誰かをからかったり、攻撃することで、緊張が一時的に和らいだり、忘れたりするという体験をしてしまうとどうなるでしょうか。誰かを攻撃することによって、一次的に、解放されたような快い気持ち感じているのかもしれません。ターゲットに対する怒りは、不安を解消するために選択した攻撃の感情なのです。攻撃をすることによって怒りの感情を持ち、怒りの感情を持つことによって、自分の不安を解消するのです。これがいじめの「八つ当たりの構造」です。
この「八つ当たりの構造」が、「最初の行動者」、「最初の行動者の取り巻き」、「一般傍観者」で共有されることによって、深刻ないじめが完成されます。彼らは、すべて同じような不安を共有しているのです。

2 いじめ共同体という秩序

この「深刻ないじめ」の完成を秩序の観点からみていくことは、いじめとは何かについての理解を深めます。
「最初の行動」が起きたときは、秩序は一般の社会秩序、学校の秩序の中にあったはずです。ところが、最初の行動の後で、いじめが繰り返されて攻撃性を高られてしまい、それが名誉を侵害する言動、暴力、物を壊す行動、物を隠す行動という行為が現れた段階では、犯罪ですから、一般の社会秩序に反する行動をしているわけです。しかし、それが大勢からとがめられることがないという段階に入ると、「いじめ共同体の秩序」が生まれていることを意味します。子どもたちの行為は無秩序に、ゲリラ的に行われているように見えますが、そうではありません。行動する人、積極的に加担する人、容認する人という役割分担が生まれてきます。それぞれが自分の役割感をもち、その役割を遂行することで「いじめ共同体」の秩序が形作られているのです。いじめの「ターゲット」以外のその場にいる人間たちの共同作業が行われていると言って良いと思います。人間は、何らかの共同体に帰属してしまうと、その共同体から離れまいとする無意識の行動をしてしまいます。群れを作る動物である人間の性質です。その行為が良い事か悪い事かなどの判断より前に、共同体の秩序に従おうとしてしまうのです。秩序に迎合しようとしてしまう動物のようです。
「最初の行動者」のターゲットをいじめる役割感というものも、この秩序を維持しようとするという人間の本能から生まれるものだと思います。
「最初の行動者のとりまき」の役割に基づく行動は、「最初の行動者」のエスカレートした行為を強く否定しないことから始まります。なぜ、強く否定できないのでしょう。意外なことにそれは仲間に対する優しさなのです。一般社会秩序から見れば、「最初の行動者」が悪いことをしていることは明らかです。しかし、悪いことを悪いと評価して、否定的な言動をすることは、「最初の行動者」と「最初の行動者のとりまき」との元々あった秩序を壊すことになります。これを恐れて否定的な言動をできないようです。ある意味、仲間をむやみに責めない、否定しないという健全な感覚がゆがんだ形で表れていると言えると思います。「最初の行動者のとりまき」の承認行動は、「最初の行動者」に対する優しさ、寛容なのです。それは「ターゲットに対する冷酷な仕打ち」ということを同時に意味します。これを読んで眉をひそめる大人も多いことと思います。しかし、仲間に対する優しさが、同時に仲間以外に対する不利益になるということは、現代社会に一般的にみられる現象です。現代社会の複雑さということはそういうことなのです。人間は、一方に肩入れしてしまうと、他方の利益を同時に考える能力は乏しいようです。そのために、自分の肩入れをしない方の落ち度を探し出すということを無意識に行い、精神的なバランスをとっているようです。
さて、一度、大事な出来事でいじめの端緒行為を追認してしまうと、「最初の行動者のとりまき」たちも、秩序を維持する方向で行動するようになります。単に「最初の行動者」のからかい行為を笑っているだけでなく、自分も攻撃に参加するようになることも多く見られます。それは、「最初の行動者」に対する優しさ、同調であることが多いと思います。「ターゲット」をいじめたいからいじめるのではなく、いじめることが面白いからでもなく、そういう秩序に沿った行為をしなくてはならないという義務感すら感じて行動しているようです。
「最初の行為者」と「最初の行為者のとりまき」のあいだで、「いじめ共同体の中核的秩序」が生まれたことになります。そうやって複数人の間で秩序が形成されてしまうと、その雰囲気、秩序を守ろうとする雰囲気はその他の傍観者たちにも広がっていきます。よく、なぜ傍観するのかということの答えとして、「注意すると攻撃が自分に向かうことを恐れて傍観する」という表現が使われます。しかし、実際傍観していた人に話を聞くと、それを認めようとしない人が多いのです。傍観者たちにも「ターゲット」がかわいそうだという気持ちがあるし、攻撃者に対する怒りもありながら、介入して「ターゲット」を守ることしません。自分への攻撃がいやなことは間違いないのですが、それだけで傍観しているわけではないようなのです。それではどういうことなのでしょう。傍観者たちの話を総合すると、「最初の行動者」と「最初の行動者のとりまき」が、その「場」の秩序を作っているため、自分が介入することによって、自分がその秩序に反する行動をしてしまうということで、介入ができなかったようなのです。秩序に消極的にでも迎合してしまった結果、介入をしないばかりか、事後的なフォローとしてのターゲットに対する声掛けもできなかったようです。すでにでき始めた秩序、ターゲットを攻撃するという秩序に消極的に迎合することが傍観なのです。
しかし、どうしても疑問が生まれます。学校という閉鎖空間にいるとしても、もちろん殺人や窃盗が悪いことだという知識はありますし、実際にそれを行えば警察に捕まるということは知っているはずです。大きく言えば一般社会秩序の中にいることも間違いがありません。それなのにどうして、簡単に一般社会秩序違反を気にしないで、「いじめ共同体」の秩序に従ってしまうのでしょうか。
一番に考えなければいけないことが、子どもたちが一般的社会秩序に恩恵を感じていないという可能性があることです。社会は、自分たちを安心させないで、緊張を強いる、恐怖を感じさせる、不利益を与え続けるという意識があるということです。一般的社会秩序を守るより「いじめ共同体」の秩序を守ったほうが、自分は守られると感じていることになってしまえば、その子どもたちにとっては一般的社会秩序は存在する力を失うでしょう。ちょうど、学校をドロップアウトして行き場のない若者たちが、徒党を組んで非行行為をする場合があり、つまらないことで対抗グループとの死闘が行われることがあります。一般社会秩序を守ろうという意識はとても低いのですが、仲間の一大事から自分だけ逃げることによって非行グループの秩序から逸脱することのほうが怖いようなのです。同じような心理状態なのかもしれません。
このような社会による心理的圧迫、生きづらさ、あるいは緊張とその解放要求という心情を共有することで、一般社会秩序を逸脱した行動の仲間である「いじめ共同体」の形成を容易にしているのだと私は思います。自分に緊張と不安を強いる社会の中で、いじめ共同体の中にいるということで、つかの間の休息を得ているような印象を受けます。
このように、いじめを傍観するのは、すでに形成された秩序に迎合するという理由と、傍観者が自分自身の不安を解消しようという自分の心理的事情があることになります。誰かが攻撃されていると、攻撃されている子どもよりも、自分は優越的地位に立っているという意識をもつことによって、不安が一時的に緩和されるという効果もあるかもしれません。
悪いことなのに、悪いと言わないでいじめを放置するもう一つの理由は、慢性的不安による思考能力の低下という問題もあります。
先ほども述べましたが、怒りは自分の何らかの不安、危険意識を解放させるための行動である「攻撃」に伴う感情です。先行して、不安感、緊張感の持続があったわけです。不安感、緊張感、怒りという生理的現象がおきると、複雑な思考をする能力が著しく減退します。分析的な思考ができなくなります。二者択一的な思考になったり、これをすれば将来どう言うことが起きるということを考えなくなったりします。他人が自分の行為によってどのような感情になるか、今彼はどのような気持なのかということについては脳が動かなくなるのです。ターゲットの感情は気にならなくなるので可哀そうだという気持ちは強く感じられません。このままいじめが続くことによって自死や不登校などの事態になるなんてことは頭の片隅をかすめることができれば優秀な脳ということになるでしょう。二者択一的な思考は、いじめ共同体に自分も入るか、いじめられる方に味方するかという問題提起を自分に行うことで精一杯になってしまうようです。大人と相談していじめを穏便になくそうということは、はじめから選択肢に入っていないのです。
また、怒りは、自分に不安を与えるものを攻撃して存在を消去することによって不安を解消しようという性質を持ちます。怒りがこのようなシステムを持っているために、一度怒りの感情に火が付けば、ターゲットを完全に消去しようとする傾向があることになります。途中でやめることができないシステムです。怒りはいじめをエスカレートする性質をもっています。
「いじめ共同体」は、社会的な存在としての生きづらさという感情を共有しますが、さらにいじめが進行していくうちに、いじめをしたことの後味の悪さ、発覚したときの不安を共有していきます。これはいじめをやめる方向には向かわせず、「いじめ共同体」の結束こそを強くします。いじめはエスカレートするようにできているわけです。
なかには、いじめがエスカレートした段階でも、いじめに反対して抗議する子どももいます。「いじめ共同体」の秩序に入らない子どもということになります。こういう子どもは、もともと、一般的な子ども同士の共同体秩序にあまりなじめていなかった子どもたちであることが多いようです。人間の多くは、その秩序が一般的な秩序からみて正しかろうが間違っていようが、秩序に迎合していくものです。いじめを止めるか否かは、正義感の強さということもあるでしょうが、正義感よりも共同体秩序に迎合しない個人の性質というものが決め手になっているような印象を持ちます。今、学校では、こういう変わり者は冷遇されているようです。これがいじめがだれにも止められない原因になっているように感じます。そういう子どもが、教師から冷遇されているので、「いじめ共同体」を構成する子どもたちから、いじめに対する抗議というまっとうな意見なのに賛同を得にくいのです。

3 いじめの被害の本質、深刻な被害はどのように起こされるのか

 これまでみてきたとおり、「深刻ないじめ」は「いじめ共同体」による組織的な行為です。共同体による行為というよりも、「いじめ共同体」が作られることで完成します。いじめのターゲットは、いじめの初期段階では、いじめられているのに笑顔を見せていることがよく報告されます。この理由も簡単です。笑うことで、自分に対するいじめを容認して、自分も共同体の一員だということをアッピールしているのです。大変痛ましい現象だと思います。
 ターゲットにとって、「深刻ないじめ」によって深刻な影響を受ける理由は、悪口を言われた衝撃でも、暴力を受けた痛みでもありません。怖いから学校に行きたくないということでも、痛いから学校に行きたくないというわけでもないようです。心の痛みの一番の原因は、自分が「いじめ共同体」の外に置かれたことです。
 先ほど述べたように、「最初の行動者」のいじめ行為が、「最初の行動者のとりまき」によって承認されるのが、その仲間内のやさしさが原因であると言いました。それは同時に、自分という存在を否定されていることです。その場にいるターゲットは、そのことを肌で感じ取るわけです。悪いことをした「最初の行動者」が許され、やさしさの対象となるのに、悪いことをしていない自分が否定されることが容認されるということです。それは、精神的にパニックになってもおかしくないでしょう。いじめ行為によって傷つく以上に、いじめが容認されたことによって傷つくことは当然です。
自分以外の自分の周囲の人間が、自分を攻撃していることで結束していると感じることは、自分が人間扱いされていないという恐怖感情を与えます。自分が自分の周囲にいる人間から存在自体を否定されているということです。学校に来ると、自分は守られていない、仲間として認められていないということです。具体的ないじめエピソードが続かなくても、気が休まらないどころか、常に危険意識を持ち、高度な緊張感から解放されることはないでしょう。そうして、先ほど来説明しているように、そのような危険意識、不安を感じると、その不安を解消したいという要求が生まれますが、ことごとくその要求は否定されます。ますます、要求が大きくなっていき、慢性的な危険意識、不安感が、どこまでも持続していきます。これは人間の脳の限界を超える事情に簡単になってしまうようです。合理的な思考、解決のための分析的思考は著しく減退し、精神は破綻してしまうことがよくあります。それほど激しい暴力がなくても、それほど激しい罵倒がなくても、自分だけが仲間から外され、自分が攻撃されていても誰も助けてくれないという意識は、やがて自分で自分を否定する思考も起こされることがあります。自分という存在に全く自信を持てなくなり、家から出られなくなったり、これからもこうやって生きていくことを考えると自分の体を傷つけて心の痛みを忘れようとしたりするようです。子どもの頃のいじめが、統合失調症のような症状を出現させ、精神病院への入退院を繰り返させ、引きこもりや自死に向かわせることは、このように考えるともっともなことのように思えてくるのです。
いたましいことに、自分がそのように、学校では普通の存在ですらないということは、家族に知られたくありません。家族の中でも、そのような可哀そうな存在として扱われることは、家族という組織にいることも許されないのかと感じるようです。深刻な八方ふさがりの状態になります。いじめ被害の本質は、この絶対的孤立感にあると考えています。この絶対的孤立感こそ、人間が最も苦手な感覚なのです。
 いじめ相談を受けていると、私から見れば、勇気を出してターゲットを気遣い、フォローする子どもたちがほぼいるようです。ターゲットは、そのフォローである声掛けや情報提供の事実を認識しているのですが、自分が気遣われているというような評価をしないものです。おそらくこれは、フォローをする者は、まさにターゲットが攻撃を受けているときには、「いじめ共同体」の一員としてその秩序に迎合しているとターゲットは感じているのでしょう。どんなにフォローする者にとってその場にいることで苦しんでいたとしても、秩序の外に置かれたターゲットにとっては、あちら側の人間だと感じているのだと思います。いじめの解決の第一歩は、ターゲットが思っているほどターゲットは孤立していないというところをターゲットと家族にしてもらうことから始めます。

4 なぜ、その人は、いじめのターゲットになるのか

 これまでの分析に一片の真実があるとすれば、いじめのターゲットになる人物像というものが見えてきます。それは、「子どもたちの秩序になじめない子ども」ということになります。傍観者となる人間からみても、いじめのターゲットになる子どもに対して共感を持ちにくく、むしろ加害者の方と日常的な心の交流があるということが多いようです。他者から共感を示されないということは、他者に対しても共感を示せなかったり、共感の示し方が弱かったりするようです。加害者、傍観者から見れば、なかなかなじめない存在のようです。そうすると、「いじめ共同体」ができたときも、ターゲットはそれ以前から共同体の外にいたという感覚を持ちやすくなってしまうようです。
 このようになじめない存在になってしまう一つの理由に、突出した行動をする子どもであるというケースもあります。突出してピアノがうまい、突出して成績が良い、突出して容姿が整っているなどの理由で、共同体秩序から外される場合もあるようです。「最初の行動者」たちの嫌がらせや、やっかみは、通常であれば、周囲から受け入れられません。しかし、ターゲットがクラスでなじみのない存在の場合は、嫌がらせが容認させる条件になってしまうようです。
 また別のケースは、多くの子どもたちが気にして、努力して、なんとかついていこうとする「こと」に対して、平然として、努力せず、ついていこうともしない場合です。進学について努力しない、校則についてあまり気にしない、身だしなみが人並外れてルーズだ、部活動も平気でさぼるという場合です。自分の努力して行っていることをターゲットが平然と踏みにじる場合、奇妙な正義感のような怒りが生まれるようです。そのような努力をしている子どもが圧倒的多数になれば、努力をしない子どもは、簡単に共同体から外されてしまいます。気に留めていただきたいことは、ターゲットにされる子どもが、自分の意思で努力をしないのではなく、何らかの事情で努力ができない場合が多いということです。子どもたちの正義感が、実は、学校など大人の子どもたちに対する統制行動を反映していることも多いような気もします。また、子どもたちにとっては、それをしないことが不安であるのに、ターゲットはそれをしないということに不公平感を感じている節もあります。いずれにしても、それがターゲットがいじめられることを正当化するものではありません。人間が周囲から追放されることが許される事情はないと思います。
  
5 いじめを深刻にしない方法

 子どもたちに不安、緊張を与えない社会にすることが根本的な対策だと思います。多少失敗しても、安心して生活できる社会であり、無理して頑張らなくても生活ができる社会になることが必要だと思います。しかし、その実現が難しいからと言って、いじめの問題を放置するわけにはいきません。いじめ被害の深刻さは、その人の一生を台無しにするからです。今すぐできることを考えてみました。
1) いじり、からかいをさせない
いじり、からかいをさせないように誘導することが一つの有効な方法になると思います。この場合、いじめやからかいを禁止するという発想ではうまくゆかないと思います。どうも教育機関には、禁止か容認かという二者択一的思考が蔓延しているように感じる時があります。いじめやからかいをしないコミュニケーションに誘導することが大切です。子どもたちに、そういう誘導係を設けて、自分たちで大きな秩序を作るように誘導することが有効だと思います。現在学級委員という制度が無くなったそうですが、いじめの発生との関係を調査してみるのも面白いと思っています。
このようにからかいやいじりをしないようにさせようと問題提起をすると、人間関係のための潤滑油だとか必要悪だとかとか言う人たちが出てきます。そうです、セクシャルハラスメント的言動を温存させようとする人たちと同じです。だから、いじりを温存する人たちに対しても同じ理屈で批判することができます。そのようなことがなければできないコミュニケーションならば無理してコミュニケーションをとらなくてよいということです。
私は、極論を持っています。学校では、「さん」とか「君」とか敬称をつけて姓で呼び合うべきだと思っています。その子どもが家族とつながっている存在だという意識を持たせることが有効だと思っています。学校は学びの場です。必要以上に近しい感覚を持つ必要はないと思います。教師も、子どもたちをファーストネームで呼び捨てにすることをしてはならないと思っています。人間は敬意を払いあう存在だということをこういうことから始めることが有効だと思っています。
2) 教師の役割
 教師、特にクラス担任の役割は、あるべき秩序を作ることです。学級内に個別のグループを作らないということは不可能だと思いますし、必要な場合もあります。それとは別にクラス全体の秩序作りということを意識するべきです。何かにクラス全体で取り組むことが有効だと思います。クラス全体で取り組むのは目標があった方がやりやすいのですが、そのためにクラス対抗にしがちです。そうすると、取り組みにうまく参加できない子どもがいる場合は、その子を攻撃することが起きてしまいます。これでは逆効果です。何とか、失敗する子、うまくゆかない子を助け合い、補い合う仕組みが生まれればよいのです。それができれば、クラス対抗でもよいかもしれません。
 このように秩序を誘導するのは、クラス担任であるべきだと私は思います。いつも一緒にその子どもたちといて、何らかの権威を持っている人でなければ秩序形成は難しいからです。逆に、クラス担任がいじめを容認してしまうと、「いじめ共同体」の秩序が簡単に形成され、強いものになってしまうので、注意が必要です。間違っても教師が、特定の子どもを秩序の外に置くような暴力や、排除をしてはならないということになります。
 但し、教師が、子どもたちと別の立場で秩序を形成することはなかなか難しいことです。先に述べたように、教師と子どもとの共同作業で秩序を形成することが望ましいのです。
 また、いじめを認めた場合、教師は「えこひいき」という批判を恐れずに、徹底的にターゲットをかばうべきです。「いじめ共同体」の秩序を否定して、一般的な社会秩序、弱者保護を実践して見せつけることが、「いじめ共同体」秩序への迎合を阻止する有効な方法になるでしょう。弱者保護の形を示して子どもたちにもまねをさせるということです。その場合も、「最初の行動者」や「最初の行動者のとりまき」を排除するのではなく、一般社会の秩序に復帰させることが肝心です。
3) 弱者の心理に対する推測、共鳴の訓練
いじめが深刻になる時、ターゲットの苦しみや寂しさ、怖さに共感ができないという現象が起きています。これは犯罪が起きる場合にも一般的に起きています。被害者の被害を考える余裕がなくなっているのです。再犯防止のためには、被害者の具体的な被害、もっと具体的には困っている顔、苦しんでいる顔、不安におののいている顔を想像してもらうところから始めます。これを事前に行うことによって、具体的ないじめ行為と人間の苦しみを結び付ける作業をするわけです。誰しも、仲間外れにされた時はこういう感情を抱くのだということを予め教えておくということです。これは、行動制御に有効なのです。
4) 人間の多様さに対する価値観を持たせる
これほどいじめや、10代の自死が減らないで増えているということを深刻に見るべきです。もしかしたら、現代の学校教育の何かがいじめを誘導している可能性はないかと顧みるべきでしょう。
学校主導でいじめが始まることもあるようです。落ち着きのない子が、教師から授業妨害をする者という評価が下され、他の子どもたちにあからさまに示されると、これが直接的に共同体から外されるという事態を招くことがあるようです。実務的には、理想論ばかり言うわけにはいかないので、難しい問題なのかもしれません。授業中に不規則行動をすることは改めるよう指導する必要があるのですが、他の子どもたちの共同の敵のような扱いをすることは厳禁です。
できるだけ、色々な子どもたちにそれぞれ価値があるということを実感として身に着けさせるべきです。そもそもいじめを止めてきたのは、子どもの秩序になじめない変わり者たちだったのです。変わり者の代表として私は、変わり者の価値を主張します。しかし、このような変わり者は、学校からすると煙たい存在として扱われることも多いようです。その他、行動のおそい子、人と違う感じ方をする子、少しルーズな子、几帳面な子、不安を感じやすい子、そういう様々な個性を持った子どもたちが、それぞれ価値があるということを、大人が示すべきです。実際、そういう様々な個性が尊重される社会、共同体が強い共同体なのです。同質の構成員ばかりの共同体はとてももろいところがあります。多様な個性を持つ子どもたちを、子どもたちの秩序の中から外さないということが、多様な価値観を尊重するということだと思います。これまでの学校教育が、画一的な人間像となることを目標としてしまっていたということはないでしょうか。
学校の中でも少なくとも公立の義務教育機関は、教育という意味を改めて考える必要があると思います。根本的な社会の問題が色濃く影を落としているということなのでしょうが、学校が児童生徒の人格の向上という目標を忘れ、予備校と化しているということはないでしょうか。保護者も含めて学校の在り方を話し合って、何を一番大切にするかを考えなければならないと思います。
大人が、自分たちを反省することからいじめ予防は始めなければならないのだと思います。




  


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