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「死ね」と言葉にしてしまったら、「そんなつもりはなかった」という言い訳は通らない。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

死ねという言葉が何度も出てきるくため
書いていて気が滅入りましたことを冒頭申し上げておきます。

中学生以下の子どもたちの間で
日常的に強烈な言葉が交わされているようです。
「死ね。」「死ねばいい。」「消えてなくなれ。」「生きている価値無し。」等々

そういう言葉に大人である親、教師も容認してしまう風潮があります。
しかしこれは深刻な事態をもたらすこともありますし、
確実に子どもたちの心がすさんでいきます。
言われる方も言う方の心もそれを聞く者の心もすさむのです。
そしてそれは将来、自分や自分の周囲を傷つけることがあります。
私はやめさせなければならないと思います。

どのように危険で、どのように深刻な事態なのか
説明したいと思いました。

1 なぜ「死ね」と言うかの分析
2 死ねと言われることの危険性、深刻さ
3 死ねと言う人の責任
4 死ねと言う人の心がすさむということ
5 死ねということはやめさせなければならない

1 なぜ「死ね」と言うかの分析

 1)特に大人に向かって言う場合
子どもたちが親や教師に対して死ねという場合は、
自分が理不尽な扱いをされているという意識を持っていて
そのことを説明して反撃したいのだけど
うまく言葉にできないためにイライラが募り
死ねと口走るように言葉にするということが多いように思います。

この現象は怒りというものの特徴をよく表しています。
人は怒ると、
複雑なことを考えられなくなりますので、
話を整理して言葉で伝える作業ができなくなります。
また複雑なことの代表的なものが他人の感情でして、
他人の感情を考えなくなるから強烈なダメージを与えようとするのです。
怒りは無意識に相手を最後まで叩き潰そうとさせる感情ですから
死ねという最終的な攻撃の言葉を発することでひと段落させようとします。
また、怒りは自分を守るための感情ですから
自分が何らかの攻撃を受けているという意識があることになります。
もう一つ、「相手と戦ったら勝てる」
という意識があるようです。
これは親との関係を考えると
実は相手は自分に致命的な報復をしないだろう
という甘えを持っていることを示します。

もしかすると子どもたちが大人に向かって死ねというのは、
それだけ子どもたちが現代社会の中で苦しまされているという
被害意識を持っているからなのかもしれません。
理不尽を日常的に感じているのかもしれません。

 2)子どもどうしできつく言う場合

学校などで、子どもどうしが死ねと言い合う場合も
同じような怒りの文脈で語られていることがあるようです。

どちらかというと
相手の攻撃、理不尽さが
自分に対して深刻な影響を与えるからというより、
合理的に説明して解決することができないイライラのようなものが
強まったときに口に出ることが多いようです。

こちらが相手に親切な対応をしているのに、
相手がこちらの努力に感謝もしないとか、
こちらが何かを尋ねているのに
関係の無いことばかり言い続けるとか、
話していてもらちが明かない場合などが多いようです。

中には、自分が考える正義に反する行動をして
最初は助言などをしていたのに、
相手がそれを無視して不道徳な行動を継続する場合
ということもあるようです。
死ねということが自分なりの正義感にもとづくという言い訳の場合もあります。

大人が、子どもの発言を見た場合は、
相手が自分の思い通りにならないから死ねという
としか説明できない場合が多いかもしれません。

 3)冗談として言う場合

子どもたちの間で案外多いのは
ふざけてというか、ノリというか
口癖みたいになっているような場合です。

漫才の突っ込みのような感覚で
死ねと言う場合も少なくないように感じられます。

ボケというか、いわゆる空気を読まない相手に対して
向かって発せられることが多いような気がします。

この場合も、実は結果を求めたいけれど
言葉でその望ましいと思う結果に相手を誘導できない場合
ということが言えるかもしれませんし、
それが案外共通項なのかもしれません。

  4)死ねということの小まとめ

このように整理すると死ねという言葉は
言葉で説明できないから手が出る
という時と同じパターンなので
言論というよりは暴力に近いということがわかりやすいと思います。

少なくとも
相手の命がなくなればよい
あるいは自殺しろ
というような文字通りの意味ではないということが
ほとんどだと思います。

怒りのために我を忘れて
最も強烈な言葉で相手にダメージを与えようとしているだけ
ということです。
イライラの解消方法が見つからないために
イライラが大きくなって、手に余るようになっている
そこから解放されたいために益々きつい表現になるのでしょう。

対人関係学的には不安解消要求の高まりは
不安解消行動が見つからない場合にはさらに肥大化して
短絡的な行動をとらせる原因になると説明しますが、
これを良く証明する事象だということになります。

2 死ねと言われることの危険性、深刻さ

「死ね」という言葉は、文字にすると
命を無くせ、自殺しろという意味の言葉です。

文字通り受け止めれば
生物的に存在を否定されるのですから
身体生命の危険を強く感じる言葉です。

それだけでなく、
あなたを私の仲間としては扱わないよ
という強烈なメッセージになります。
仲間なら、健康を気遣われ、身体生命を助け合う
そういう関係です。
それを否定されたという感覚は
自覚はできないのですが、強烈で後々残るダメージを受けてしまいます。

人間は仲間を作って厳しい環境を生き延びてきました。
仲間を求める心、仲間の中にいると安心する心
仲間から外されそうになるととてつもなく不安になる心
そういう心を持った人間だけが仲間を作ることができ、
仲間を作ることによって生き延びてきました。
だから、仲間として扱われないことは
人間としてとてつもなく苦しい気持ちになるのです。

もっとも、
軽く死ねと言い合うことが頻繁な友人関係の中では、
死ねという発言も言葉どおりには受け止めないで、
「ああ、イライラしているんだな。」と
正確に発言者の気持ちを理解しているようです。
自分に自殺しろということを言っているのではないし
言葉以外の態度から
自分と絶交したいというわけでもないのだなと
感じ取ることができます。

言葉以外の事情
これまでの経験や暗黙のルール
表情や身振り手振り、そして距離感という事情から
相手の真意を受け止めることができます。

しかし、言葉だけが独り歩きをしてしまうと
言葉通りのメッセージとして受け止められ
命の危険を感じてしまったり
仲間として認められないという意味での恐怖を感じて
強烈なダメージを受けることが起きてしまいます。

「そういう意味でないことは分かっているはず」
と思ったとしても、
相手は自分が想像する以上に感じてしまいます。

そもそも言葉を発する方は本当に死ねと思っていないので、
それ程強烈なダメージを相手に与えないだろうと
勝手に思い込んでしまうものだそうです。
人間の脳の限界がここにあるようです。
だから、相手の気持ちを考えないで発言することで
思わぬダメージを相手が受けるわけです。

相手が言葉通りに受け止める事情として考えられる事情は

・メール、ライン等、ほぼ言葉だけで情報が伝わる場合
特にこちら側が、自分の部屋の雰囲気やノリで送信した場合
そういう文字以外の情報は相手に伝わりません。
話の流れがあったとしても、真意が伝わっているとは限りません。

・相手との関係があまり親密ではないとき
そもそも相手とあなたがであって日が浅く
あなたと友達が日常行っていることに相手が馴れていない場合
どうして強烈なことをいうのだろうか
私だけがこのようなことを言われるのだろうか
という恐怖感情が出てきます。

・相手の体調
特に思春期の場合、普通に生活しているように見えて
実は大変悩み苦しんでいる場合があります。
相手がうつ状態の場合は、その傾向が強くなります。
いつもの体調ならばあなたの気持ちを翻訳して
正しい理解をすることができても
体調が悪い、特に精神的な調子が不安定な場合、
こういう場合は、物事を悲観的に考える傾向にあります。
発言者の気持ちは、自分に対する敵意だと
自然に考えてしまうのです。

健康な人でも、抑うつ的な状態になることはあります。
成績が落ちたときとか、別の友人とケンカしたときとか
腹痛や頭痛が続くときとか
それでも、無理して明るくふるまうのが人間ですから
悩んでいたとは知らなかったということになるわけです。
でも、死ねといったことは事実として残ります。

・相手があなたに依存している場合
何かの拍子で、相手があなたを信頼しきってしまい、
他の誰もが自分を攻撃しても
あなただけは自分を守ってくれる
と思う関係になることがあります。

厳しい友人関係で悩み
あなたに助けられて癒されてしまう場合等がそうでしょう。
あなたを信頼しきっている相手は
あなたの攻撃に対しては無防備な状態です。

あなたの言葉の裏の意味を探る余裕がないことが多いようです。
あなたが起きぬけに前触れなくあなたの親から死ねと言われたような
そんな衝撃を受ける可能性があります。

あなたの「死ね」という言葉は、
相手に言葉の通りに受け止められることは
日常ありふれてあるわけです。

大変怖いことです。

3 死ねと言う人の責任

もし、あなたが死ねと言った人が
本当に死んでしまったらということを考えてみてください。
そんなことがあるはずないと思うかもしれませんが、
実際に死ねと言われた人が自死することが多くあります。
先ほども言ったように、元々精神的に不安定なので、
本当は自死の危険が高い人があなたの言葉に衝撃を受けるのですから
極めて危険場合が現実にあるのです。

そんなつもりではなかった。
いつも言っていることで、自分も言われたこともあるし
その人だって言っていたことがある。
そういう風に言葉で言い訳を考えつくまでには
実はずいぶん時間がかかります。

あなたが死ねと言った人が
1か月もたたないうちに死んだと聞かされた時、
あなたは、その人が死んだのは自分が原因ではないかと
思うようになるかもしれません。
自分が言わなければ友達は命を失わなかったと
思い込んでしまう場合もあるのです。
そういう衝撃を受けることになる人を多く見ています。

他の人間に対して「死ね」という気持がなかったのなら
言わなければそれで何事もなく済むのです。
死ねと言う必要は初めからありません。

「死ね」という言葉は客観的には危険な言葉です。
危険な言葉を投げかけて、結果が出てしまった以上
あなたは責任を取らなくてはならないかもしれません。

そのつもりがなくても、そういう行為をすれば責任が発生します。
例えば、嫌なことをさんざん言われて
反論することができずに追い込まれて
黙らせようとして近くにあった包丁を相手の腹に刺した場合、
殺すつもりがなくても
腹に包丁を刺すという命の危険のある行為をした以上
殺人罪が成立します。

言葉軽はずみに口から出て、画面に入力されてしまいます。
何の気なしに相手を簡単に傷つけることがあります。
とても怖いことです。
でもそんな言葉を言わなければ、それで済むのです。
それをしないであえて言葉にしたあなたは
何らかの責任を取らなければならない場面が出てくるかもしれません。

4 死ねと言う人の心がすさむということ

死ねという言葉は、言われた相手が傷つくだけでなく
言った自分、聞いていて止めなかった周囲の人間の心を
乱暴なものにしていきます。

これは無意識の作用なので、自分で止めることはできません。
死ねという相手の人格、命を否定する言葉ですから、
初めて聞いた時は怖かったはずです。
言われた人がかわいそうだと思ったはずです。

でも、そういうことがいつもいつも聞こえてくれば
心が苦しくなります。
この苦しみを何とか緩和させようと無意識のメカニズムがはたらき、
だんだんと心の苦しさを感じないように心が馴れていってしまいます。

それはつまり、他人に配慮しようという心が削られていくことです。
誰かの気持ちを穏やかにしたいとか、
一緒にいて安心な気持ちにさせたいという気持も
薄れていきます。
相手の心を感じないように心をきたえてしまうわけです。

自分の大切な人の気持ちを考えられなくなったり
大事にしないで乱暴なことを言うことが
だんだんと気にならなくなってしまいます。
大切な人があなたから離れていくことも多くあります。
離れる相手を責める人も多いですが、
離れる方の心も深刻なダメージを追っています。
自分の大切な人も大切にできないということは、
結局自分を大切にしないことと同じことです。

人間や人間のこころ、人間の命を大切にしなくなっていくこと、
これが「心がすさむ」ということです。

5 死ねということはやめさせなければならない

何度も言いましたが
死ねということを言わなければすむことなのです。

死ねということをやめましょうよ。
死ねだけでなく、
「死ねばいい。」「消えてなくなれ。」「生きている価値無し。」等といった
「相手の存在を否定する言葉」は言葉に出さないということです。
そうすることがみんなにとって有益です。
それを言うことで利益を受ける人はいません。

言われる本人が傷つくし
言っている人間や聞いている人間のこころもすさみます。
その人たちの仲間たちも傷ついたり、辛い思いをします。

ただ、そういうことを言わないということを決めるだけでは
言葉はなくならないでしょう。
本当になくすためには
その手段を検討しなければなりません。

言葉にする人は怒りモードの状態です。
真正面から話をしても
自分を守ることだけが頭にありますので、
反発だけが強くなります。

その人の本当に言いたいことを言い当てる人
それはわかるけれど言わない方がいいよとなだめる人
私のためにやめてという人
たくさんの人で
その人の失敗を厳しく問い詰めるのではなく
言った人と言われた人を
自分たちの仲間関係に連れ戻すという方向が
有効だと思います。

それは子どもたちだから、友達だから
大人が言って聞かせるよりも有効なのです。

そうして、冷静なときに
死ねとか、存在を否定する言葉は言わないこと
言ってしまったら謝ること
言ってしまったら、他の人の注意をおとなしく聞くこと
というルールを定めておくことが大切ですね。
それを繰り返し確認してほしいと思います。

しかし、子どもにだけ甘えているわけにはいきません。
肝心なことは大人たちです。
子どもが相手の人格を否定する発言をした場合は
面倒だと思わないで、最優先で、
発言によって乱れた秩序を回復する必要があります。
これが命を大事にするということなのです。
共同生活のルールということで腹に落として
曖昧に見過ごすということは絶対にいけません。
但し、ルールを守らないからと言って直ちに懲罰を考えるのではなく、
秩序の回復という観点から
行動を是正することに力点を置いて指導をする必要があるでしょう。

そして社会の大人たちは
子どもの目に触れ、耳に聞こえるところで
死ねという言葉を冗談でも発しないように注意しましょう。

特にテレビですね。
そんなことで笑いを取らなければならない番組は
止めさせるべきです。

人格を否定して、それを笑うということに
絶対に公共の電波を利用させないでください。
曖昧にしてはダメなのです。

そういう表現を承認して受け入れる人たちだけが
その表現を享受すればよいのです。
テレビは、電源を入れると見えて、聞こえてしまいます。
それで心がすさんでいくならば
それは暴力です。

芝居小屋みたいなところで
それを承認する人たちだけが楽しめばよいのです。
表現の自由の観点からもそれで十分だと思います。

大人は子どもを守らなければなりません。
悪い空気ならば、それを拒否することが
本当の大人なのだと思います。

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もう少ししたら、公的にこのような内容の主張をする機会がありそうなので、
そのための草稿として書きました。

大人がもっと本気で考えなければならないことだと思います。
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