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モラル論について、ヒュームとカントに学び批判する対人関係学 モラルよりも人間性の回復をという意味 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]

またロビン・ダンバー先生の本を読んで
目を開かされたというか、
話は、カントとヒュームの道徳の話なのです。

道徳論ということはこれまでも対人関係学で検討してきましたが、
哲学に首を突っ込むことになるとは思いもよりませんでした。

私たちの生活をストレスフルにする原因としてやり玉に挙げてきた
正義とか、道徳とか合理性ということの根っこが
どうもカントにありそうだということと
18世紀の啓蒙学者ヒュームの「共感」への着目に脅威を抱いたこと
この二つをお話ししたくなったのです。

ロビン・ダンバー先生の要約を要約すると
ヒュームは、道徳というものを
他者への共感に根差した直感的なものだと主張したのに対して
カントは、選択肢の長所短所を吟味した上での
合理的理想の産物であるべきだと主張したというのです。

ヒュームについては、現代日本では、
高校生の倫理社会の参考書にも載らなくなっていました。
これに対してカントは最重要人物ですから
ずいぶん差が付いたものです。
私もヒュームは名前しか知りませんでした。

それにしても気になるのは、ヒュームが、
「道徳の根本に他者に対する共感がある」ということを述べていることです。
これは、対人関係学の主張と重なってきます。

対人関係学も行きあたりばったりの結論を提示しているのではなく、
進化生物学や脳神経学的な知見(と言っても、文庫本とか新書ですが)
に則って立論しているわけです。
18世紀にはそのような学問はありませんから
これは一体どういうことかと
ヒュームの「人性論」を読んでみました。
(人間の本性についての考察なので、人「性」論)

驚くべきことに、知性や情念についての考察は
脳科学的知見にそったものでした。
訳が古いので、よくわからないと思いますが、
脳科学者が翻訳すればそれがわかるのではないかなと思いました。

突き詰めてものを考えるということはこういうことかと
哲学を見直したというか、自分の無学を思い知らされたというか
感じ入りました。
実際人性論の第3章の道徳のところで、
実際そういうことが書かれていました。

アントニオ・ダマシオという脳科学者はデカルトをやり玉に挙げて
感覚的な意思決定も、人間の共同生活をするために役に立っている
というようなことを脳科学的に立証しましたが、
読みようによってはヒュームも同じようなことを言っているように思いました。
そして、人性論でもデカルト学派の形式性を批判していたので、
つじつまが合うなあと一人で楽しんで読んでいました。

ただ、ヒュームに限らず、近代ヨーロッパでは、
モラルという社会規範と、他者への共感、同情というものを
あまり区別しないで論じているようです。

対人関係学では、この区別が重要だと考えています。
これを区別しないとモラルとは何か、モラルの始まりはいつか
という議論が整理できないからです。
家庭の中にモラルを持ち込むことの愚かさ、弊害を
理解できないと思います。

人間が150人程度の緩やかな一つの群れだけで一生涯を終える限り
モラルというものは不要だったと対人関係学は主張しています。
モラルという社会的ルールがなくても、
自分と他者の区別がつかないほど一体の群れとして行動していたので、
仲間が腹を減らせていたら、自分が食べていなくても食べさせたいと思うし、
仲間が怒っていたら、譲ってでも謝っただろうということです。

これに対してモラル、道徳とは
自分の思考の外に厳然として存在する客観的な規範で、
自分の感情に反してでも従わなければならないと感じるものです。

他者への共感とモラルという規範は、区別して論じないと
議論が混乱するだけです。

但し、そのモラルの根本に他者への共感、同情がある
というならばヒュームの主張は正しいと思います。

というのも、モラルが必要になったのは、
人間がせいぜい2万年前くらいから農耕をするようになって
生産性が上がったことによって人口も増加し
150人を超える大人数とかかわりをもつようになり、
さらに定住を余儀なくされたことから
かかわりを避けることができなくなったということに
理由があると考えているからです。

このような状態になると
なじみのない人との利害対立が生まれてしまいます。
人間の能力に対して関わる人数が多すぎるために
これまでの仲間のように親密に一体感を持つ仲間と
必ずしもそうではない人間が生まれてしまったのです。
人数の量的な拡大は、人間関係の希薄化な人間の存在を産んでしまったのです。

聖徳太子の17条憲法を読んでみると
人間は、どうしても自分の仲間の利益を図ろうとするものらしく、
それは結局、争いを招き共倒れに終わりがちです。
また、仲間ではなくとも人間なので、
全く共感ができないわけではなく、ついつい共感してしまうため
紛争の末に自分たち仲間が勝ったとしても
やぶれた他者の様子を見てついついて共感してしまい、
後味が悪くなったり
自分たちの価値観が殺伐としてきます。
紛争は勝利しても莫大な損害を受けてしまうわけです。

だから人間は、紛争を未然に防ぐことに努力したのだと思います。
自分たちの安心、幸せという大きな利益のために
紛争を未然に防ぐための「決めごと」を作った。
これがモラルという社会規範だと私は思うのです。

そしてモラルが社会規範であるためには
決めごとが存在するだけでは不十分で、
「そのモラルに従わなければならない」
という構成員の意識が必要だということになります。

そうすると、どうしても、
人間の感情に沿った内容が道徳の内容になっていく
ということになるのです。

「なるほどそれなら納得できる。」
「なるほどそれは大切なことだ。」
というような道徳が作り上げられていくわけです。

だからヒュームの説が、
道徳は直感的に判断することが基本だということについては
その通りだと思うのですが、
道徳のすべてがそれではない
と言わなくてはなりません。

自分の利益、自分の仲間の利益に反することでも
もっと大きな共同社会を平和に維持するためには
仲間の我慢も必要なことがある
これが大切であると思うのです。

こう考えるとカントに分がありそうです。

カントの「実践理性批判」は読んだことがなく
「道徳形而上学原論」を読んだのは40年前のことです。
なんとも心もとないので、
カントに興味がある場合は、私のまとめをうのみにしないでください。

カントは、
経験に基づく認識を排除して道徳を考えるということになると思いますので、
合理性とか、絶対的正義を突き詰めて
条件付けをせずに、こうすべきだという道徳こそ正しい
ということになるのだと思います。

ここに私は、ヒュームが維持していた人間性に基本を置く道徳から
カントの道徳論は人間性が遊離してしまう原因があるように感じました。

「人間性」という根本価値から、
「合理性」という価値に置き換わってしまう
という危険が生まれたのではないかと思うのです。
おそらくカントはこのことに気が付いたので、
晩年に「恒久平和のために」というパンフレットを作成したのでしょう。

一直線に世界が人間性を排した社会になったわけではないにしても
結局は一人の人間の幸せ、一人の人間の尊厳よりも
重大な価値があるという理屈が生まれてしまい、
功利主義、経済変革を容易にする反面
人間疎外が現代では当たり前になっている
という視点が重要になってきていると思います。

何もカントが悪の権化ということではなく
カントの理屈は都合が良いと感じた一群が
自分にさらに都合良く進化させてしまったのでしょう。

また、無自覚に合理性を礼賛する人たちも多いと思います。

カントのように根源的な合理性を説くのなら良いのですが、
どうも現代社会は目先の合理性を追求している気がします。
結局は合理性に反することがまかり通っているのだと思います。

「合理性」という言葉や「道徳」という言葉は
疑ってかかるべきだという確信が深まりました。
合理性や道徳を
人間性、共感という価値観に置き換えるべきです。

こんなことを言うと絵空事だと思われるかもしれません。

しかし、21世紀になって科学は
どんどん人間性を取り戻しています。
行動経済学やその基礎となった認知心理学、
アントニオ・ダマシオの脳科学
進化生物学やその応用科学、
人間性の回復というキーワードで科学を見ると
21世紀が見えてくるのだと思います。

家庭の在り方、職場の人間関係
学校の生活の在り方などを
あらゆる人間関係の紛争未然に防ぎ
安心と幸せを獲得していく対人関係学も
その流れの中で生まれたのだと
私は考えています。

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