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過労死の原因にもなる「責任感」の弊害について考える。(常識を疑う) [故事、ことわざ、熟語対人関係学]


数年前になりましたが、職場が原因でうつ病を発症した方々から
お話を聞く機会がありました。
その中で、中村格先生の「精神医学ハンドブック」に書かれている
「うつ病者はうつを隠す」
ということについて聞いたところ、

共通した答えとしてはそれは実際に見られ、
特に家族に対してはうつ状態にあることを隠すとのことでした。
わざとはしゃいでみせたりするのですが、
それはうつ病者にとってはエネルギーが必要なことで
わずかに残ったエネルギーを使い果たすため
実家から自分のアパートに帰った後は
2,3日寝込んでしまうとのことでした。

その隠すときの意識を聞いたところ、
「家族は、自分の最後の砦だから」
という言葉が返ってきました。

私のその時の解釈は、
「自分が苦しんでいることを知らせることによって
家族に精神的な負担をかけたくない」
ということなのだろうというものでした。
でも、その時は言葉になりませんでしたが納得できない思いもありました。

その時の疑問を言葉にすると
「家族が最後の砦ならば、家族に助けを求めたいはずなのに
 助けを求めることをしたくないということは矛盾ではないか」
ということになるのだろうと思います。

別の角度から言葉にすると
「うつを隠すことと、家族が最後の砦を失わないようにするということは
 どういう関係があるのだろうか」
ということになると思います。

今回、ふとひらめいたのは、この点でした。
「家族に心配や精神的負担をかけたくない」ということは、
責任感の強さを示していると思います。
この責任感の強い人が過労死や過労自死をしやすいということが
数年前の結論でした。

そういう側面はあると思いながらも
別の側面もあるのではないかということを思いついたのです。

それは、
うつ病という厄介な病気にかかっている自分が
「家族から厄介者として扱われないだろうか」
という不安があるということなのかもしれない
ということです。

そして、この場合の責任感と不安は
実は表裏一体のものではないかということです。

個性によって違いはありますが、
人間は多かれ少なかれ、
仲間の役に立ちたい、自分の役割を果たしたい
という本能があります。
仲間の役に立ったり、自分の役割を果たしたりすると
達成感や充実感を感じるということはこの本能を充足するからです。

(自己有用感なんていう概念もベースにこれがあるわけです。
 論者たちはここまで考えてはいないでしょうが。)

この本能が強い人が責任感が強い人だということになります。
これは裏を返せば、
「役割を果たさないと安心できない」ということになります。
「やるべきことをやらないと不安になってしまう。」
ということらしいのです。

責任感の強い人の仕事ぶりを見ると
「やらなくてはならない」という半ば強迫観念のように見えることがあります。

責任感が強いという言葉で表現すると
「他者、あるいは他者と自分を含んだ仲間の利益を優先する人」
という印象がありますが、
もしかすると実際は、
「自分の不安を解消したい」
という自分単体の利益をはかろうとしているのかもしれません。

責任感が強く、自分に厳しい人が他人にも厳しい
ということは、こういう不安解消という目的において共通だ
というように考えれば理解しやすいことです。

ちなみに、このように責任感が強い人
あるいはそうでもないけれど自分の役割を果たす方法がすべて失われたと思うと
人間は行動をしようとしなくなるというか
できなくなってしまうようです。
やればやるほど事態が悪化するとか
自分の行動が全く役に立たないということになると
行動ができなくなるし、行動意欲を消したくなるようです。
争いを避けるため、相手から遠ざかる等が典型でしょうか。
行動意欲を消したいということは責任感が強い人にとっては、
自分を消したいということに直結することがあります。
大変危険なことです。

責任感がある、責任感が強いということは
今の世の中、無条件で肯定されているようですが、
他方で過労死の原因になったり、
正義感と直結して他者を追い込んだりする
というデメリットがあるということが数年前の結論でした。

もう少し責任感を分析してみましょう。

責任感が強く、自分が役割を果たそうとする人は
仲間との関係に安心していないという側面がありそうです。
役割を果たさないと仲間の中で安心できないということです。

これに対して無責任に見える人は、(責任感がないわけではない)
やるべきことをそれほど熱心にやらない場合でも
仲間から追放されるという不安感はあまり持ちません。
責任感の強い人から見れば
理由なく、仲間の中にいることに安心していることになります。

角度を変えてみれば
責任感の強い人は、些細なさぼりでも
仲間との関係が悪くなるかもしれないという悲観的傾向があり、
責任感がないように見える人は、
そのような関係性の悪化まで考えないということなのだろ思います。

確かに、一つの課題をしないことが
後々仲間との関係を悪化させる可能性が無いわけではありません
しかし、それだけが決定的要因になって関係悪化につながるということが
ない場合も多いわけです。
どちらが正しいのかは、なってみないとわかりません。

つまり
関係悪化という危険の接近度が遠くても不安
というのが責任感の強い人
例えば接近度が10でも不安ということになります。
関係悪化という危険の接近度が近くても不安にならない
というのが責任感がないように見えるひと
例えば接近度が2になっても不安を感じない
と表現できるでしょう。

これは個性だと思います。
群で生きる動物はみな個性があるようです。
ミツバチという個体識別できないような生物も個性があります。
ミツバチは日中など、巣の中の温度が高くなるのを
羽ばたきによって気化熱を発生させて下げる習性があるそうです。
わずかに暑い場合は少数のミツバチがあおいで
とても暑い場合は多くのミツバチがあおぐことで
巣の温度を一定以下に保っているそうです。

例えば5度くらい気温が高くなったら
さっそく巣から出てきて羽ばたきを始める個体もいれば
15度くらいとか、とても暑くならないと出てこないミツバチもいるわけです。
わずかの温度で多くが出てきてしまうと
必要以上に巣の温度が下がりますから、
こういう個性があることは都合が良いのです。

個性はどうやって生まれたかと考えたことがありますが、
今は、個性がある種が都合よく生き残って
個性がない種は死滅しただけのことだと考えています。
無性生殖をした芋なんてものは、病気になると
あっという間に全体が死滅してしまいます。

人間にも個性があるということはこういうことではないかと思うのです。
責任感が強い人が全くいなければ
競争社会の中では生き残れないわけです。
そうかといって責任感が強い人だけ。
つまり、やらなければ安心できない人ばかりの場合は
あっという間にストレスでメンタルが壊れてしまうということです。

「はたらかない蟻に意義がある」という本では
(長谷川英祐 メディアファクトリー新書)
7割くらいの働アリは働かず
巣の中でじっとしているだけだと紹介しており、
それらの働かない蟻を働かせてしまうと
コロニーが全滅してしまうということを教えてくれています。

責任感が強くて行動力がある場合は、
実は不安が背景にあって脅迫的な行動をするのですから
神経が消耗していく危険があるわけです。
神経消耗が持続していくと
思考力が低下したり、見えるものが見えなくなる
根本を見失ってしまう等の弊害が起きるかもしれません。

個性があることが群れを作る条件だとすると
責任が強い人だけがいたり
責任感の強い人の意見だけで行動すると
群れ全体が疲弊してしまう可能性があるということかもしれません。
様々な個性の人が当たり前に存在することこそ
強く、持続可能な組織だということになります。

何よりも、責任感の強すぎる人が
過労死をしたり、過労自死をしています。
部下を追い込むヒトの多くも責任感が強い人です。

責任感は強ければよいということは間違いです。

ただ、背景に不安があるとすれば
ほどほどでとどめるということはかなり難しいことでしょう。

一つには危険の接近度に対する感受性を下げるということです。
不安を言葉にするなど客観視することは大切です。
そして不安はない、あるいは必要がないことを意識すると良いと思います。
ただ、不安は、それを感じていることすら意識できないことが多いので、
「責任感」というワードが出てきたら
それは無条件に肯定されないものだ、弊害もあると意識をするだけで
自分の過労死や過労自死は遠のいていくでしょう。

もう一つは責任を持つ対象である仲間を一つにしぼること。
責任感の強い人は、会社、家庭、その他の行きずり
ありとあらゆるところで、不安を抱いてしまっています。
役職など難しいところはありますが、
一番大切な人間関係は家族だ
と考えを設定することがとりあえず間違いがないのではないか
と考えています。

他の人間関係がどうでもよいというのではなく
優先順位という意味ですね。
それ以上やったら家族を大切にしていないことになる
という感覚を持つということです。

そして3点目としては発想の逆転です。
不安を解消しようという無意識に対抗するためには、
楽しいことをしようということしかありません。
積極的にやっていて楽しいこと
特に自分が楽しいことを見つけて取り組みましょう。
嫌なことと楽しいことは、共存するわけです。
ただ、時間をそれぞれずらし合うということを
意識的に行うということです。

責任感によって寿命を短くしないということを
意識的に行わなければならないという
ちょっと変な社会に生きているということだと思います。
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