SSブログ

【支援者・専門家向け】災害がなぜ自殺に結びつくのか。私たちは何を防ごうとするべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


(本件の論証めいた説明は「対人関係学」のホームページで行っています。ここでは、結論だけを示しています。)

1 新型コロナウイルスと自死との関係を債務の問題だけに直結しないことが必要だということ

東日本大震災の経験をした地域では、新聞などでコロナの問題に絡めて自死予防が語られています。これはとても大切なことだと思います。
但し、自死予防の対策として、債務の支払いの問題ばかりがクローズアップされてしまっているという印象もあります。支払いに苦しむことが自死の要因になるということは、弁護士アンケートで、自分の依頼者で自死者や自死未遂者を経験した業務分野がやはり債務問題であるという結果が出たことからも裏付けられていると思います。しかし、債務があっても自死しない人が大半なのです。債務がなくても震災と関連付けられる自死はあるわけです。
もう一つ、統計上は債務の問題と自死の問題が関係づけられるとしても、債務から一足飛びに自死をするわけではありません。私たちの業務分野においては、債務から刑事事件につながったり、債務や貧困が遠因になって離婚につながったりというような関連もあると感じています。即ち、何らかの原因があって、人間は様々な反応行動を起こしてしまうようです。その究極の形が自死だと位置づけるべきだと考えています。実際に、統計分析をすると、自死、犯罪認知件数、離婚、自己破産件数、そして失業は、有意的な関連があります。
つまり一つの仮説として、何らかの要因があると、人間は様々な社会病理的行動を起こす。その極限的な形が自死であると考えるべきだろうと思っています。そうだとすると、自死予防にしても、多重債務にしても、あるいは刑事事件にしても、離婚にしても、共通の原因に対して働きかけることが有効であるということになりそうです。

2 自死その他の社会病理の原因は、不安の持続にあるということ

では、その共通の原因とは何でしょう。
弁護士として、私は、過労自死やいじめ自死の問題を扱い、離婚事件を扱い、刑事事件を扱っていますし、かつては人並みに多重債務の問題を扱ってきました。それらの予防の観点からの仕事も多く手掛けています。これらの行動の共通項は、行為時の思考力の低下です。もう少し具体的に言うと、自己の行動によって将来どのような結果が生じるかという考察ができない、他者とのかかわりを意識できないため自分以外の人間に不利益が生じることを意識できない。自分を守らなければならないという意識が強く働き、これが様々な形で行動の動機となり、かつ、行動を思いとどまることができない要因になっているということが特徴です。
さらにこれを掘り下げてみていくと、その人に自分を危険から守るべきなんらかの理由が生まれていて、不安を感じている。ここでいう危険は、身体生命の危険もありますが、多くは自分の評価が崩壊する等と言った、他者との関係の中での自分の立場のようなものであって、究極的には自分が孤立するという対人関係的危険です。この危険に対する不安を解消したいのだけれど、解消することができず、不安解消要求がいやがうえにも大きくなってしまっている。何らかの理由で、この不安解消を迫られていると感じてしまい、益々不安解消要求が大きくなってしまう。その結果、普段の状態でも焦燥感、閉塞感、孤立感に苦しんでいる。思考は二者択一的になり、悲観的になっている。この状態に陥ると、すべてが自分にとって悪いことだ、あるいは状態がさらに悪くなるという過敏な心理状態になり、さらに不安も感じやすくなるという悪循環に陥るようになるようです。この結果合理的な代替行動を思いつくことができず、身近な不安解消行動に出てしまう。お金はないけれど借金やカードで物を買ってしまうとか、人の物に手を出してしまったり、万引きを止められなかったり、相手を悪く思って攻撃してみたり、このブログでよく取り上げている配偶者を信じられなくなり、むしろ自分を攻撃する存在だと思ってしまうとか、逆に子どもを攻撃してしまうというような様々な社会病理につながるのだと思います。

3 債務から自死に至る経路のいくつかのパターン

債務の問題にしても、この観点から説明するべきなのでしょう。支払いができないほど借り入れをしてしまったり、通常なら返済できるのに失業してしまって支払いができなくなったりという客観的状況が生まれます。そうすると、まじめで責任感が強い人ほど、支払わなくてはならないという意識が生まれます。その結果借り入れして支払いをして利子を二重三重に支払うこととなり、何時しか返済が不能という状態に追い込まれます。これが自己破産の最盛期の平成10年代の自己破産の実態でした。不可能な支払いをしなくてはならないという意識が、慢性的な不可能感を呼び起こすようです。支払日の3日前ほどになると、どうやって次の支払日の支払いをしたらよいのだと眠れなくなる人が多くいました。そして、ついに支払い不能を実感すると、今度考えることは自己破産などをすることによって、自分の社会的評価が下がるという心配でした。ここでいう社会的評価というのは、例えば弁護士のように破産をしたら資格を失うという職業ではない限り、あまり自己破産が表ざたにはなりません。戦前の制度の話をどこからか聞いてきたのか心配する人が実に多かったです。選挙権が無くなるとか、移動を制限されるとか。しかし、その人たちと話しても、選挙に行くことができなくなっても特段苦痛を感じないし、海外旅行に行く予定などないということなので、現実的な具体的な心配ではないのです。もっとも強い心配は、家族に知られてしまうことでした。いずれにしても、対人関係的心配ということが主としてありました。その結果、判断力を失い、危険だとわかっていながらヤミ金等に手を出していくわけです。

4 自死に向かう悪循環と希死念慮

つまり、人間に社会病理的行動を起こさせる思考力の低下の原因は、自分を危険から守る手段がないという不可能感、そしてそれが長期にわたって持続することにあると思います。その結果としての孤立感と眠れないという睡眠不足がますます思考能力の低下を招くのだと思います。そして、その結果、将来的な因果関係や他者と自分の正確な関係の把握が困難となり、焦燥感と悲観、二者択一的思考のスパイラルに陥っていくのです。
自死を企てて未遂に終わった何人かの人と対話をしたことがあります。苦しみ続けて出口が無くなると、死ぬことを思いつくそうです。死ぬというアイデアが浮かんでしまうと、それがほのかに明るく、温かく感じられるそうです。そうしてやがて、自分は死ななければならないという強い強迫観念が生まれてくると言います。希死念慮というのは、世間で言われているより強烈なもののようです。
例えば会社でパワハラを受けている人は、そんなに苦しむなら会社を辞めればよいと誰しも思うでしょう。パワハラを受けて反発しているときは、その人もいつでもこんな会社辞めてやると考えていたと言います。しかし、後で考えると明らかにうつ状態になっていたという時期になると、不思議と会社を辞めるという考えを持てなくなっていたそうです。このまま苦しみ続けるか死ぬかという

5 自死対策は死なないための対策ではなく幸せに生きるための対策であるべきこと

二者択一の選択肢しかなくなるようです。
私は少し意地悪く考えているのかもしれません。どうも自殺対策というと、人が死なないようにする対策だと考えている人たちが多いように感じるのです。しかし、不安と解決不能感と孤立が多くの社会病理の原因だとすると、その解消手段、目についた解決方法に飛びつくということは、けっこう偶然の要素が多きように思われるのです。たまたまその人は万引きをしてしまったけれど、一つ間違うと自死をしていたとか、たまたま自分の苦しみのすべての原因は夫であると思って離婚したけれど、事態をきちんと把握していた自死をしたかもしれないとか、たまたま死なないで済んだという可能性があります。また、多重債務、離婚、犯罪等、不安解消行動の結果、それが新たな解決不能感の原因になり、自死の要因になるということも簡単に想像できることだと思います。死ぬかもしれない状況に置かれてから対策を始めても、効果のある対策はなかなか難しいというのが実感ではないでしょうか。死ぬことの防止ではなく、生きることの支援だということは、その意味で正しいと思います。
私は、もう一歩前に進んで、幸せに生きるということをもっと喫緊の課題として考え始める時期になっていると考えています。

6 新型コロナウイルスの危険性が不安の持続と過敏になりやすい要因を作っていること

現在の新型コロナウイルスと、自死の関連についての問題に移りましょう。
新型コロナウイルスの不安は、どのように感染するのか目に見えないということと、なかなか終息しないというところに特徴があります。日常生活を送っているだけで、感染のリスクがあるように感じてしまう。それがいつ終わるかわからないから、通常の生活をすることができない。ひとたび感染すると入院を余儀なくされ、場合によっては命を落とすこともある。リスクに正面から向き合ってしまうと、そこから解放されたいという要求があるにもかかわらず、解放されるための手段がないという典型的な悪循環に陥りやすいパターンになっています。そうすると、不安解消要求が高くなってしまい、あらゆる不安に過敏になってしまう可能性があります。新型コロナ感染の不安は、純然たる身体生命の危険に対する不安ですが、それが対人関係的な不安を引き起こしやすくなるということです。さらにこれが持続し、睡眠が十分取れないということになると、思考力が低下し、焦燥感と悲観的傾向が表れ、二者択一的思考、将来の因果関係を考慮できなくなり、他者との関係性を把握できなくなる。将来的な孤立感が不安をますます大きく、過敏を助長する。このような悪循環に陥りやすくなります。通常ですと、自分の病気以外では、対人関係的な不具合から不安が始まります。しかし、新型コロナウイルスの現状からは、それ以外に人間関係が良好であっても、不安傾向が持続し、悪循環に陥るということが起こりやすい状態になっているわけです。

7 当面の解決方法

せめて新型コロナウイルスが収束したり、特効薬が開発されたりすれば、不安の持続と蔓延も軽減されるでしょう。しかし、そのような動きを期待していたのでは、有効な対応を打つことができなくなります。
当面の解決方法としては、2つの行動が考えられます。
一つは、不安の中断です。
もう一つは、孤立感の軽減です。

1)不安の中断方法

まず不安の中断方法についてお話しします。
不安それ自体は、危険から身を守るためのきっかけとなる仕組みです。不安を感じると恐怖を覚えて逃げたり、怒りを覚えて戦って危険を無くそうとするわけです。不安を感じないと無防備に危険にさらされてしまうわけです。ところが、人間の不安を感じ続けられる時間は、そう長い時間が用意されていません。早く結論を出したくなってしまいます。不安が持続すると不安を解消したいという要求が強くなってしまいます。これが悪循環の大本です。そうだとすれば、不安を一時中断することで不安の持続からは逃れられることになります。
そんな都合の良いことができるのかということが疑問になることと思います。ところが、多くの人間は、この中断を自発的に、無意識に行っているのです。考え続けても良い方法がないと思って、もう投げ出してしまう。あるいはあきらめてしまうということがあります。あるいは、またあとで考えるから、今日はもう眠ろうとか。それができる人は不安を中断しているわけです。ところが過労自死の例でよく目にするタイプの人は、問題を先送りにすることができないで、解決するまで考え続けてしまうことによって、不安を持続させてしまっています。過労自死をする人はこういうタイプの人が多いようです。しかし、不安が持続してしまっていると、既に思考能力が低下していますので、合理的な解決方法は思い浮かびません。ただただ不安を感じ続けているだけだというのが、残念ながら実態に近いようです。不安を中断するためには、過度の責任感は有害なのです。
不安を中断するために、支援者や医療機関さえも口にするのは、「不安を忘れろ」という指示です。しかし、不安を忘れようとしても、それはかえって不安と向き合うだけになることが通常の結論です。結論は不安を一次忘れることなのですが、それに誘導しなければなりません。
不安を一時中断させるための方法は、別のことに取り組むということです。まじめで責任感が強く、不安スパイラルに陥りやすい人ほど有効です。実際の臨床心理の報告例では、不安症状のため休職を余儀なくされた方が責任感から早く仕事復帰したいと焦り、医師の働くことを考えないでという指示を実現できそうになかったそうです。臨床心理士が、この責任感を逆手にとって、会社を休職しているうちに家庭の中で役割を果たすように指示を出しました。まじめで責任感が強い人なので、家事や育児にまい進しているうちに、見事会社のことを忘れ、どんどん快方に向かったそうです。
何に取り組むことで、その人が夢中になれるのかについては、人間の数だけ答えがあると思いますから、その人なりの行動を提起するべきであって、一律にマニュアルで処理をするような安易な考え方は捨て去るべきです。
もっと楽しいことが良いと思います。ジャズでも映画のような娯楽でもよいですし、何かの研究なども突き詰めれば夢中になれるものです。その中でも社会的活動や家族のための行動というのは効果的であると思います。
肝心なことは、そのことで新型コロナウイルスやその他の懸案事項を忘れ去らなければならないわけではないということです。一時的に別のことに集中できればそれでよいのです。一時的にも不安が解消されることによって、思考力が回復し、希望が湧いてくる。これが東日本大震災の原子力発電所の爆発による放射能の不安から解消された特効薬でした。絶望から一時的に解放されることの効果はとても大きいということが震災の教訓です。

2) 孤立感の解消=コミュニティーの強化

人間は孤立に耐えられない動物のようです。孤立に耐えられないからこそ、言葉もない時代から群れを作ることができ、子孫を遺してきたわけです。孤立感を解消するためには、一番良い方法は家族と一緒にいることです。
しかし、孤立感は、むしろ集団の中にいることによって感じ易くなります。現状の孤立よりも、将来の孤立の不安の方が人間の心理にとって悪影響を及ぼすようです。
このため、将来の孤立を予感させる出来事があると人間は不安を感じるようにできているようです。この不安こそが対人関係的危険にもとづいて発生する不安です。その孤立を予感させる出来事は、集団の中で否定評価をされるということです。自分だけ能力が劣っていると批判されたり、笑われたり、責められたり、失敗を許されないとか、努力をだれもねぎらってくれないとか、発言を許されないなど他の人が認められることが認められない差別などです。自分だけ情報提供されないとか、食料の分配が少ないとかということもあるでしょう。その極端な形態が、暴力や暴言などの仲間からの攻撃を受けるというでしょう。暴力を受けると体は傷つきますが、暴力によって暴力をふるってもよい存在だという強烈なアピールを受けることによって心が傷つくわけです。本来であれば健康を気遣ってほしいのですから。
ところが、対人関係的危険とその心理的影響については、あまり言及されていないように思われます。虐待というと暴力暴言と同義に扱われている場合もあります。しかし、仲間から否定評価されて、将来的な孤立を突きつけられるというところに危険の本質があるわけです。
では、否定的評価をしなければ良いかというように考えがちですが、それは人間はできません。ニュートラルな扱いは、家族の中ではありえないでしょう。少なくとも想像することは私にはできません。否定をしないのではなく、尊重するしかないと思うのです。
自分が仲間から尊重されていると思うと、孤立感は解消され、不安感も和らぎます。仲間のために何かできることを探してしようという意識は、不安を軽減させたり中断させることにもつながります。
では、どうやって尊重を実感してもらうか。孤立を予感させる出来事をしないのではなく、その逆をすればよいということに気づかれたと思います。
能力や失敗について、責めない、笑わない、批判しない。むしろ、別の仲間がカバーする。そんなことで孤立させることはしないということは、大変ありがたいことです。我々は赤ん坊の時にそうやって大人から面倒を見てもらっていたわけです。
また、努力にはきちんと感謝の気持ちを伝えるということ。労うこと。そうすると仲間のために行動することが楽しくなります。
発言はきちんと最後まで耳を傾けましょう。最後まで聞いて、メリットに共感し、デメリットについてどう考えるかということが話し合いです。最後まで聞いてもらえればそれだけで満足することもあります。
意識的に情報提供をしなかったり、分配を差別したりということは実際はないのですが、過敏になっているときはそれを感じやすくなっています。もしそうなればきちんと訂正することが有効です。
これらのことができないのは、自分を守る意識が強すぎる時です。つい、自分の不具合を認めることができずに、他人に八つ当たりをしてしまうということから起きてしまいます。気が付いた人から仲間の中では自分を守ろうとせずに、仲間の不具合を引き受けることが肝要でしょう。そうすると仲間もまねをするようになっていきます。
大事なことは、これを完璧にやろうとしないこと。仲間との衝突はどうしても起きてしまいます。むしろここからが大切なことかもしれませんが、仲間との衝突に対するリカバリーです。衝突した相手が心細く思っているわけですから、衝突したことを忘れたふりをして、いつも通りの態度に復帰するということが有効です。相手が子どもであれば、愛情を表現することも必要になるかもしれません。もしかするとしつけと虐待の最大の違いは、フォローのあるなしなのかもしれないと最近は思っています。
この仲間として最適な仲間はやはり家族です。家族の修正を積み重ねていくことによって人々は幸せになっていきます。現代社会の家族は、相互に尊重し合う余裕と知識がない、それには時代的な背景があると感じています。
せっかくの自粛の機会です。より幸せになるために家族の状態を向上させるという取り組みをするべきだと思います。それが人間ならばやるべきことだと思います。

nice!(0)  コメント(0)