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授業再開、事業再開は、メンタルリスクと自死リスクが予想以上に高まる時 子どもだけでなく大人も気を付けるべき。簡単な対策。 [災害等]



これまで、長期休み明けの子どもの自死について何度か考えてきました。
整理します。

通常時も、学校などの人間関係の中で
生徒、教師、あるいは学習を通じての社会など
自分の居場所を危うくするストレスは日々起きていた。

全てをきれいに解決することは無理だから
ストレスを蓄積させることにはなるけれど
無理な目標を修正したり、課題を先延ばししたりしながら
何とかすり抜けてきた。

ところが、長期休みになると
ストレスや課題、他者からの評価から解放されるため
すり抜けてきた実績であるところの
「何とかなる」
という記憶が欠落してしまう。

そのため、課題やストレスの記憶だけがよみがえってしまい
解決不能な課題が待っているという誤解を与えさせて
久しぶりの人間関係にはいることが怖く、
逃げたいという意識が強くなる。

こういうことでした。

他者との関係が、時間的に空いてしまうことによって
その他者が自分に対して危害を加える場面だけが記憶に残り、
解決不能を意識してしまうということですね。

「記憶する」ということは、
過去の危険の発生するポイントや程度を意識して
将来の危険を回避することに主たる目的がある動物の仕組みです。
このため危険の部分だけの記憶が残りやすい
という理由があることでした。

「動物として生きる」ということは、
「危険を回避する行動をする」ということだという考えにもとづいています。

間隔があいてしまうと
その人間とのやり取りが
マイナス面ばかり思い出しておっくうになるということは
通常のあらゆる人間関係において起きうることです。

家族であっても、長期間交流がなければ
一緒に過ごした生活があれば当然ありうる
叱られたりけんかしたりという不愉快な記憶
そればかりが浮かんで来やすいわけです。

この記憶のメカニズムに加えて、新型コロナウイルスなどの災害は、
十分に心が癒えていないうちに日常に引き戻されるという事情がつきものです。

これをもう少し具体的に説明すると、
人間の心、興味関心というのは、
複数のことを同時に行うことに適していません。
例えば感染をしないように注意しようということになれば
感染予防に意識が集中しています。
感染予防のために仕事や学校が休みになっていればなおさらです。

数字の上で新たな感染者数が減少したからと言って
本当に感染の危険がないかなどということは
目に見えませんから安心を感じにくいわけです。

心は感染予防に向いている。
しかし、事業や授業が再開され、日常に戻らなくてはならない。
では感染予防はどうなるのか
自分の感染予防の意識が置き去りにされてしまう感じがします。
これは、ある程度災害にはつきものなのでやむを得ないことです。
なぜなら人間は
そう簡単に気持ちを切り替えることのできる動物ではありません。
気持ちの切り替えを待っていたら日常は戻りません。

自分の気持ちとは別に日常が始まりますので
自分の心配が否定されたという意識を持ちやすくなり
社会から自分が尊重されていないという意識が起きやすくなるのです。
置き去りにされた感覚が生まれてしまい、
孤立を感じる場合もでてきます。

大人でもそうですから
子どもが誰かに甘えたくなることはもっともです。

通常は、出勤や登校をしてしまいさえすれば
記憶は簡単によみがえりますから
少ししんどさは残るものの
また日常に復帰していけるのです。

ところが、出勤や登校をする前は、
大きすぎる課題やトラブルの予感だけが生じている場合があります。
特に、いじめやハラスメント、過大なノルマがある場合には、
どうしても出勤や登校ができない場合も出てくるでしょう。

この予防法があります。

できれば、事前に学校や会社に短時間だけ行ってみるということです。

誰もいませんので対人関係的困難は生まれません。
それほど抵抗なく行けるでしょう。

対人関係的困難は生まれませんが
この場所で何とかうまくやっていたということは
思い出すことができるようです。

それも記憶の仕組みと関連します。
記憶というのは、
過去の出来事の追体験です。
過去の出来事の時に起きた人間の脳と体の反応が
レプリカとして再現されることが思い出すということのようです。

危険の記憶は、
生きるために必要な仕組みですから
簡単によみがえるようにできているので
きっかけの必要がなく自然に思い出します。

安全の記憶はこうはいきません。
安全の記憶につながる記憶が薄れてしまっているからです。
おそらく高度な記憶なので保持が難しいのでしょう。
そうすると、安心の記憶をよみがえらせる補助が必要なわけです。

自分が過ごしていた教室や職場を見ると
それが記憶を喚起させる補助となり、
追体験の材料が整って
リアルな記憶がよみがえってくるわけです。

そうすると、あれほど何か悪いことが起きると心配していたけれど
それほど悪く考える必要がなかったということに思い当たったり
完璧ではないけれど何とかしていたという記憶がよみがえったりして
悲観的部分が薄れ、安心の記憶が強くなる
どうやらこういう仕組みのようです。

安心の記憶とは言葉による記憶ではなく
安心というイメージの記憶のようです。
だからいくら言葉で説得されても
怖いという意識が強い状態の場合は
なかなか安心感を持つことが難しいようです。

でもなんとやり抜いていたという場所をリアルに認識することで
やり抜いていた安心感のイメージもよみがえるようです。

なんとなくそれほど心配することもないか
ということを実感できれば大成功ではないでしょうか。

警備の関係で、部屋の中まで入れないとしても
玄関口まで、あるいは通学路、通勤路をたどる中で
記憶の補助が成立して、
不安が、軽くなればよいのです。

子どもだけでなく、大人も
一応ね
プレ登校、プレ出勤をしてみることをお勧めします。
実は私もやることがあるのです。

また、休み明けの日常は
大人も子どももしんどいのですから
後ろ向きの言葉や自分の心も
先ずは受け止めてから行動提起をしてあげてくださるよう
私からもお願いする次第です。


なお、それでもどうしても行きたくない場合があります。
原因がある場合もない場合もあるのですが、
パワハラやいじめにあっている場合で
本人がそれにはっきり気が付いていないけれど
とても平気でそこで過ごすことができないという事情がある場合
体がその場所に行くことをやめさせるように
動かなくさせる場合があります。

どうしても行きたくない場合は
心理の専門家や
いじめやパワハラを手掛けて予防活動をしている弁護士などに
相談に行ってください。
「行く必要はありません。やめてしまった方がよいです。」
と言われる場合もあります。

あなたを大切に考えていても
そう言えない場合もあります。

できればあなたを大切に考えている人と一緒に
相談に行ってください。

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【コロナ自殺対策への提言】 自死の危険が高まるのはむしろ経済回復期。独自の対策チームを作り今から始動させるべきこと。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



コロナに関する自死の懸念、自死予防の声が上がり始めています。
ネットニュースでも大きく取り上げていただいています。
大切なことだなと感じています。

ただ、その論調が、どうしても
経済的苦境からの自死、あるいは
経済的苦境と環境の変化からの「うつ」そして自死
という流れが強調されてしまっているという心配もあります。

その流れはそれで正しいことであり、大切なことです。
でも自死が起きるのはその流れだけではありません。
私が心配しているのは、
自死の危険が高まる時期は、
経済が回復しはじめた時期に集中するということで、
その時に実施されるべき対策が見落とされてしまわないかということです。

それは「なぜ人間は自死するのか」ということとかかわります。

一番の教訓は、
東日本大震災の時には被災地では自死が減っていたという現実です。
その後、復興期に入って居住環境の変化等によって
自死リスクが逆に高まってきたという事実です。

そこにあった自死リスクを高める要因は「孤立」だと思っています。

東日本大震災の時も、今回のコロナの問題も
自分だけでなく周囲も、自分と同じように苦しんでいます。
苦しいのは自分だけではないということを感じていると思います。

このみんな一緒という観点は厳密に考えると間違いで、
実は東日本大震災の時も
津波被害があった地域となかった地域
地震の被害が強かった地域とそれほどでもなかった地域
マンションにおいても高層階と中低層階というように
被害格差が心の火種になっていました。
それでも、同じ被災者としてみんな苦しんでいて
みんなで頑張ろうという声掛けもあり
格差は感じていたものの孤立はあまり感じなくて済んでいたようです。

孤立感が強くなったのは
みんなが順調に復興しているのに自分だけ立ち上がれない
復興住宅ができて引越ししたため、話ができる人がいなくなった
自分の被災の苦しみをもう誰も聞いてくれない、理解してくれない
という自分だけが取り残されたと感じる時だったわけです。

自死リスクは「孤立」という観点からも考えられるべきだと思うのです。
孤立解消の自死予防政策を考えるにあたっては
感じる格差に対する対応だという側面をはずしてはなりません。

もちろん、収入がない、食べていけないという問題は
自死リスクを高めます。
しかし、食料がないけれどみんなと一緒に我慢するという意識は
孤立感を弱め、何とか生きようとする気持ちを保たせる方向にも進みます。
(但し生物的に我慢が効かなくなるというよりも
自分の家族にひもじい思いをさせるということから
精神に破綻をきたすということもあるでしょう。)

しかし、非常事態宣言の時期にやることはそう変わりません。
食べられて、寝られて、将来の不安を感じさせないということを
やるしかないと思います。
そのすべてが自死予防になるわけです。

新型コロナウイルスの問題は
誰も経験したことの無い災害ですから
対症療法的な政策や政策の変更がある程度起きることは仕方がありません。
とにかく、人間の生活の営みを維持するという観点さえあれば
そう間違った政策は起きないでしょう。

問題は、新規感染者数が減少して
経済活動が再開される時期です。
コロナの影響を最小限で食い止めた人たちと
経済活動が再開されても生活が回復しない人たちが生まれてしまうと
格差が生まれて孤立感を強めてしまい
自死リスクが高まるということが
歴史の教訓だとされるべきだということを強調したいのです。

だから、回復期の政策こそ慎重に立案されるべきです。
回復期こそ、意識して、回復の格差を作らず
孤立感が生まれないような
政策をしていくことが必要なのです。

現在の対症療法的試行錯誤政策立案とは別に
専門的な自死の構造についての理解を前提とした
格差と孤立を解消するための
政策立案チームを作り、そして始動させる必要性があると思います。


現在、やるべきことの実験が既に行われています。

本当は、今回の新型コロナウイルス対策は、
人々のつながりが物理的に遮られているところですから
そういう意味では、元々孤立になりやすい状況にありました。

その中でも、
仕事をシェアしたり、無駄な一斉行動をやめにしたり、
情報を共有する方法を工夫したりと、
人間の知恵と工夫が既に始められています。

政府としては良い情報を収集し、蓄積し、
実践しやすいように再構築したり
費用の問題を解決したり、
あるいはそこから置いてきぼりにされている人たちについて
どういう人たちがいて、どういうふうに対処できるのか
早急に対策を立てなければならないと思っています。

例えば、SNSを使ったコミュニケーションは
仕事をしている年代の人たちには簡単にできることでも
高齢者にはなかなか手が出ません。
機材をそろえることさえ困難でしょう。
高齢者はどうやって孤立感を解消したらよいのか
等、難しい問題があります。
やはり人的資源を整備して活用するしかないのでしょう。

回復期は格差を強く感じ始める時期です。
置いてきぼりの人は追い詰められていると考えるべきでしょう。

別建てでチームを作り
今から対策を講じ始めるべきだと考えています。
間もなく回復期が始まります。
その時になってからでは遅いのです。


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コロナ差別が起きる理由 不安が大きいほど攻撃的になる構造 [災害等]

実感がない人も多数いると思いますが、
一部でコロナに関する差別行為が起きているようです。

医療従事者やその家族に対する攻撃
家族に看護師がいる場合、看護師をやめさせなければ
解雇するということがあったとの報道がありました。

また、コロナ感染者が県をまたいでの移動をしたことに対して
ネットで猛攻撃がなされているということもあるようです。

石を投げたり、家に落書きをしたりということになれば
犯罪です。

なぜ、このような差別行為がおきるのか
差別行為の原動力となる差別感情が生まれるのか
そのことについて説明し、
対処方法を考えてみたいと思います。

差別者の意識は、
「自分は、社会的に正しい行為をしている。
 社会道徳にもとづいて正義を実現している。」
ということが通常です。

もう少し具体的に言うと
「他人にコロナウイルスを感染させる行為をする人間から
 自分たちを守ることは正義の行いだ。」
となると思います。

ちょっと考えればわかることですが、
医療従事者だって、やりがいをもって張り切っている人ばかりではなく、
自分が感染するのではないか、家族に自分が感染させるのではないか
という具体的恐怖をもって職務を行っている人が多いはずです。

医療に携わるのをやめろということは
端的に医療崩壊につながるだけのことです。

差別者は、差別感情をあらわにすることに夢中で
自分の行為が将来的にどのような効果を生むか考えられていません。
また言われた方の感情も考えていません。
少しでも複雑なことになると、それを考えられないのです。
典型的な、高葛藤の持続による思考能力の低下が起きている状態です。

葛藤とは何かを乱暴に言えば、
「自分に何らかの危険が迫っているので、
 その危険から解放されて安全な状態にしたい」
という不安解消要求が起きているということです。
この不安を感じている時間が無くなり、
不安を解消する手段がない場合は
不安解消要求は高まっていき
思考能力の低下が起きていくわけです。

差別者は、何らかの危険が自分に迫っている
ということを感じているわけです。

その危険とは、もちろん
主としてコロナ感染の危険です。
コロナに感染して、自分や自分の家族が死ぬかもしれない
という危険を感じている上、
目に見えないウイルスのため
何時、どうやって感染するかわからない
だから、どうやって防げばよいかわからない
という焦燥感が持続した状態になってしまいます。

そうすると複雑な思考が停止し、
逃げろ逃げろとか
危険を攻撃してつぶせ
という感覚的行動が優位になっていくのです。
(これは人間が生きるための仕組みなので
起きること自体はやむを得ないところがあります。
問題は、それを理性でどうコントロールするか
ということが実践的な対策だと思います。)

逃げることは不可能だとするならば逃げるという選択肢は持てないので
危険を攻撃してつぶせという行動に出やすくなります。

この攻撃行動は、不合理な行動になることも少なくありません。
何を攻撃すれば効果的かなどという思考はありません。
勝てそうな相手を攻撃しようとする行動になることが多いのです。
いわゆる八つ当たりです。
虐待行為やハラスメント行為のほとんどがこの八つ当たりです。

勝てそうな相手とは、自分が反撃されないだろう相手です。
ネットは不安解消行動にはうってつけのツールになってしまいます。
また勝てそうな相手とは孤立している相手です。
集団で少数を攻撃する理由がここにあります。
そうして、現実には孤立していなくても
自分には賛同者がいるという意識
即ち、自分は社会の利益を代表しているという意識が
攻撃行動を後押ししてしまいます。

クレーマーの大多数は
このような社会代表の意識があるようです。

このような正義の意識は、葛藤が強く持続して起きているので、
そもそも正当な相手を攻撃することはありません。
勝てそうな、周囲も賛同してくれるような相手の攻撃になっているだけです。
差別という単純な論理で攻撃をするだけです。
この単純な論理であることから
同じような不安を持続させている人たちの賛同を呼びやすいのです。
「論理」ではなく、攻撃の「口実」と言う方が正確な表現かもしれません。

命とか、健康とか
特に家族や仲間の命、健康が口実になると
攻撃は激しさを増していきます。
正義に基づく攻撃の程度は
相手の違法、不道徳の度合いではなく
不安が大きければ大きくなるほど強くなるわけです。

また、自粛という行動制限がある場合
自分がそれを守っているのに
それを守らない人がいるというだけで
自分だけ損をしたような気持になり、
正義を掲げて攻撃をしたくなるという側面もあるようです。
この場合、自分が不自由な思いをする程度が大きいほど、
攻撃の程度が大きくなるようです。

戦時下の隣組の正義なんてこんなものではないかと思っています。

対応策として、既に行われていて感心するのは
医療従事者に対する感謝のキャンペーンです。

「差別をやめろ」と言ったところで、
差別者は自分は正義を実践しているという意識ですから
心に響きません。
心どころか耳まで入ってこないかもしれません。

差別をやめるのではなく
感謝をしようとする行動提起は
大変実践的だと思い、感心しています。

楽天の松井投手が、医療関係者にマスクを寄贈したというニュース等を
どんどん報道するべきだと思います。
差別やめろキャンペーンよりも感謝キャンペーンの方が
効果が上がるというのはこういう理屈です。

公共広告機構も素晴らしいと思います。

攻撃をしても不安は攻撃をしているその時だけ感じませんが、
ふと我に返ると、あるいは攻撃の同調者がいることを感じると
益々不安が強くなるという関係にありそうです。

攻撃よりも感謝
攻撃よりも協力
攻撃よりも受容
例えば家族をいたわるとか
同僚を気遣うとか
そちらの対人関係的な不安を軽減させることによって
自分が仲間に貢献することによって
不安を解消していくことが合理的なのだと思います。

簡単に言うとコロナ感染の生命身体の不安を
対人関係に不安がないから安心しようということにすり替えて
軽減させていくという作戦です。
これは仲間のために頑張ってしまうという
人間の性質を利用するものです。
結構いろいろなところで実践されている不安解消行動です。

軽減が一時的なものだとしても
対人関係の円満な記憶は
プラスの余韻を与えるものです。

良好な人間関係が形成されることによって
仲間に貢献しようという意識が生まれれば
不安はさらに減少していきます。

ややこしいのはカウンターという行為です。
差別者を攻撃するという行動です。
これ自体は差別された人を勇気づけるという側面もあるのですが、
問題を大きくする側面もあるので
なかなか難しい問題があります。

できる限り、感謝と協力と受容で
つまり差別者の不安をも承認しながら
(不安はわかるけど、それを言っちゃあおしまいよとか)
差別を解消することが実務的なのではないかと
コロナ差別に関してはそう思っています。

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職場での強いモラハラ、学校等でのいじめ等によるトラウマが起きた事案に対する、パーソナリティ障害、発達障害の診断についての疑問 [進化心理学、生理学、対人関係学]

不当な人事やパワーハラスメント等で強いうつ病になり
何年間も休職を余儀なくされた労働者の人たちが
「うつ病は、仕事が原因ではなく、
元々あった本人の素因によるものだ。
その証拠にパーソナリティ障害(場合によっては発達障害)
の診断書があるではないか」
ということで、労災認定されないケースがあります。

裁判などになれば、
医師の診断書の信用性を疑問視しなければならないのですが、
なかなか一度診断書に記載された病名はくつがえりません。

しかし、根本から疑問があります。

例えば、
Aさんは、有名進学校からナンバーワン私立大学に進学し
一部上場会社に採用されて以来10年以上
例外的な出世を果たすほど活躍した人です。
結婚して子どももいるのですが、
吸収合併があり、仕事を干されて重いうつ病になり
治療を受けるようになりました。
そして心理士の心理テストで、
発達障害と診断されました。

しかし、
果たして発達障害がある人が、
一部上場企業で、チームの要の位置にあり
スピード出世するように仕事ができるのでしょうか。
コンピューターをにらんで一日が終わる仕事ではなく、
取引相手との交渉や、会社の関係部署との調整も彼の仕事で
それらの対人関係も評価されての出世でした。
吸収合併までは特に人間関係でも障害はありませんでした。
どうしてそんな人が発達障害と診断を受けなければならないのでしょうか。

私の理解では、発達障害は、
1 先天的なもので
2 障害という生活上の不便さを本人が感じている
ものだと思っていました。
彼は、少なくとも40歳近くまで、
何田対人関係の問題で深刻に悩んだことはありません。
発達障害が40歳近くになってから発症したということになるのでしょうか。
それは科学的なことなのでしょうか。

Bさんは、
地方のエリートしか入れない企業に入りやはり活躍していました。
結婚もしました。
しかし、交通事故労災をきっかけに会社から退職勧奨のような
ひどい労働内容を命じられるとか、
机を取り上げられて、それをパート社員にあてがい、
自分は花瓶の台の上で仕事をさせられたとか
大変ひどい目にあいました。
交通事故の後遺症にも苦しめられました。

うつ病でも通院していたのですが
後に、境界性パーソナリティ障害だとの診断もなされました。

パーソナリティ障害と診断がつくような人が
そのような企業に採用されるものなのでしょうか。
酷い取り扱いに甘んじなければならない理由もありません。

我々過労自死を扱う弁護士は、
生前の労働者には通常出会うことはありません。
既に亡くなってから関わるわけです。

私は友人を過労自死で失くしたという経験があり
その認定裁判に関わるという貴重な経験があります。
亡くなった後に関わった人たちの感想と私の記憶は
全く違うものでした。

もしかしたら、
パワハラやモラハラ、不当な人事扱いで
深い精神的障害を発症した人は、
病前性格は良好でも、そのことによって性格や人格が変容してしまうのではないか
という疑問があるのです。

そのような強烈なトラウマ体験を考慮に入れて
パーソナリティ鑑別や発達障害鑑別がなされるのでしょうか。
本当に心因反応と内因的な障害とを区別できる心理テストなのでしょうか。

そのようなトラウマ的体験の存在を前提として
心理テストは構築されているのでしょうか。

そんな前提や考慮もなく
他者を先天的な障害として扱うことは許されるのでしょうか。
当然治療は進みません。
彼らは治療以外の事情で改善して行きました。

Aさんは、訴訟には負けましたが
自分の権利を守る戦いをする中で社会性を発揮し、
もともとあった能力の高さから
大企業の子会社に再就職をしてそれなりの役割を担うようになりました。
病前性格は、このようにバイタリティにあふれた
陽気で楽天的な人だったことがわかります。
彼はまた心理テストを受けてもらいたいです。
先天的な障害であるはずの指標が
おそらく消失していることでしょう。

Bさんも、過労死防止の社会活動に参加するなかで
社会性が強まったのですが
色々な不遇がありまだ調子に波があるようです。
しかし、活動をする前に比べると
様子が全くかわりました。

迫害された人たちが色々とこだわりを持つようになることは当然です。
特にトラウマになるほどの強い精神的打撃を受けた人は
その不合理に対する適切な対処方法を奪われていたわけですから
なにか、突拍子のないもの、合理性が見られない手段で
安心感を獲得しようとしているわけです。

こだわりがあると評価される根拠になる行動や思考は、
紛争を抱えている人たちにある程度見られる心理的反応です。

また、徹底的に追求しなければ
自分がやられてしまう
自分の権利が葬られてしまう
自分が人間として扱われなくなる
という体験は、
その人の行動を変化させます。

第三者から見れば
容赦のない過酷な言動に見える振る舞いをし、
味方か敵かの極端な主張ばかりする思考につながるわけです。

私はそれが許容されるべきで、第三者は我慢するべきだ
と言っているわけではありません。
トラウマを受けるような孤立と絶望を与えられた人は
自分を守るためにそのような反応しかできなくなるという可能性はないのか
ということを言いたいわけです。

これはちょうどいじめにあった子供たちも一緒です。
幼少期にいじめにあうと
他人は、自分を攻撃する動物だという意識が生まれてしまいます。
逃げ場のない焦燥感は奇行に見える行動をさせてしまいます。
衝動的な行動
暴力的な行動
破壊的な行動がよく見られます。

持て余した両親に連れられて受診した精神科では
発達障害
パーソナリティ(行動)障害
統合失調症
妄想性障害
等の病名がつくのですが、
私には正当な心因反応だと感じてならないのです。

しかし、彼ら、彼女らの生活上の不便さは
先天的な原因があるということで
自己責任や、親の責任になってしまっているのです。

治らない障害だと決めつけられて
かなりのハンディキャップが与えられてしまいます。

私は、精神的外傷の研究がもっともっと行われないと
このよう不合理が弱者に集中していくのではないかと危惧を抱いています。

社会に都合の悪い人間は
どんどん障害者という別枠にくくられていくような
怖い世の中になるのではないかと不安を抱いています。

私が今の時代に若者として生きていたならば
おそらく発達障害かパーソナリティ障害というレッテルを
どこかで貼られていたはずだ
と思えて仕方がないからかもしれません。

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