SSブログ

【ボビー氏の勾留請求却下に寄せて】なぜ、DV等の支援は過剰に、過激になってしまうのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

勾留請求却下とは何か
DV支援が過激になること
理由1 仲間を守ろうとする本能は怒りを生んでしまう
理由2 相手が危険ならば自分の身を守らなければならない
理由3 マニュアル的な支援は個別事情を見ることができない
理由4 政策の成果主義的評価の弊害の可能性
理由5 国民の幸せを考えていないこと

勾留請求却下とは何か

タレントのボビーさんが、妻を指の先で叩いたという
日本語にすると奇妙であり、イメージがつくりにくい容疑で
逮捕されたと大々的に報道されました。
しかし、ボビーさんは、容疑を否認したにもかかわらず釈放されました。
裁判官が、これ以上の身柄拘束はだめだと判断したわけです。
これが勾留請求却下です。
検察官の異議申し立ても却下されていますから
複数の裁判官のダメ出しがあったわけです。
これはあまりないことです。

DV支援が過激になること

裁判官が勾留を却下したということは
警察の逮捕もやりすぎではないかと
裁判官が思っている可能性もあるように思われます。

ボビーさんを逮捕した警察だけがやりすぎだったのでしょうか。
いえ、実は、警察や行政機関のやりすぎた支援は
私のところには相談が少なくありません。
ただ、実に多くの人が泣き寝入りをしているという実感があります。

それでも、最近、岐阜県半田市の事件で(愛知県の間違いでした。ご指摘いただきました)
市役所がやりすぎをしたことを謝罪して裁判上の和解があったり、
仙台高裁秋田支部でも暴力もないのに警察が夫婦げんかに介入したとして
賠償請求をしている事案が係属したり、
東京地裁では子どもの引き渡しで有名になった事件について、
事情も知らないのに夫を暴力夫であるかのように嘘の事実を
多くの著名人が流したということでの提訴もありました。

少しずつ、人権侵害の回復に立ち上がる人たちが現れ、
少しずつそれが社会の知るところとなり
少しずつ成果が生まれ始めています。
新しい権利が生まれ始めています。

どうやら、DVの「被害者支援」というものは、
やりすぎてしまう構造を持っているのかもしれません。
その理由について考えてみます。
この過剰介入は、DV支援だけでなく、
およそ他人の紛争に介入する場合に起こりうることだと思うので、
誰かを支援する人はぜひ一緒に考えていただきたいと思います。

理由1 仲間、弱者を守ろうとする本能は怒りを生んでしまう

人間は仲間を守ろうとする動物のようです。
また弱いものを守ろうとする性質ももっています。
現代社会は仲間意識が希薄なのであまり問題は起きませんが
スイッチが入ってしまうと
仲間を守ろう、弱いものを守ろうという意識から
誰かを攻撃するということがよく起こります。

浮気をした芸能人を攻撃する場合も
はじめは被害者に同情して相手を攻撃するところから始まり、
この正義感が怒りを大きくして
攻撃をコントロールできなくするようです。

児童虐待が報道される場合も
このスイッチが入る場面としての典型だと思います。

もともとは、子どもを連れた動物、哺乳類の母親は
子どもを攻撃された場合は
自分の実力ではかなわないと思われる相手にさえも
我が身をかえりみずに戦いを挑む
という性質があります。
この性質が人間では母の子どもに対する感情にとどまらず
仲間を守ろうという感情に進化したものだと考えています。

そうすると
人間は仲間を守ろうとすると
怒りを持ち、いつもと比べて攻撃的になるようです。
そうしてひとたび怒りを持ってしまうと
その感情をコントロールすることは難しく、
弱者を守ろうとするあまり
その攻撃者とされるものに怒りを持ってしまう
攻撃者に対する怒りのコントロールが効かなくなる
やりすぎの攻撃がされてしまうのだというのが
第1の説明です。

被害者は非力な女性
加害者は力があり、経済力もある男性
という図式は、
個別的な事情が気にならなくなり
それだけで非力な女性を守るために
夫と対決しなければならないという意識にさせるのでしょう。

理由2 相手が危険ならば自分の身を守らなければならない

そうやって夫と対決しに来たのは良いけれど
DV夫ということで、凶暴な夫というイメージができてしまっています。
実際は嫌味をチクチクいうだけのことだったり、
その嫌味も、当事者なら言いたくなる嫌味だったりするのですが
精神的DVもDVだ、あいつはDV夫だということになってしまうと
嫌味を言うくらいの行為なのに
アメリカの事例をもとに研修を受けたその事例が
頭をよぎってくるわけです。

マサカリをもって追いかけてくるとか
大型トラクターでひき殺そうとするとか
そんなイメージにすり替わってしまうようです。

そう言う妄想をもってしまうと
警察官も生身の人間ですから怖いですし、
市役所の職員ならばなおさらです。
自分は暴虐卑劣な男と対決しなければならない
という悲壮な考えになるようです。

弁護士だってそうでしょうね。

自分の身を守らなければならないという考えです。
自分の身を守るためには逃げるという方法もあるのですが
それは立場上できない
そうすると相手を屈服させることによって
自分の身を守ろうということになるわけです。

自分の危険に敏感ですから
相手が何を言っても、自分を守ろうという意識から
こちらを攻撃していると感じるのもやむをえません。

そうすると
市役所の人は警察の人に依頼し
警察の人は法律的に相手の反撃を封じ込めようとするしかありません。
特にボビーさんは格闘技もやっていましたので
自分を守る過剰な意識は頂点に達していたことでしょう。

もう、大勢で取り囲んで逮捕ということになるのは
自然な流れだったということが簡単にイメージできます。
もしボビーさんが身に覚えがなく
どうして警察に自分が取り囲まれたのか分からないとなれば
それは抵抗もするでしょう
その抵抗、人として当然の反応も
警察官は自分に対して反撃をしようとしていると思ってしまい
過剰に身構えるのもよくわかります。

ちなみに、相手の男性が小柄でおとなしそうな人の場合は
双方から事情を聴いて
警察官から意見を述べて終わりにしたり
妻側がの怯えが尋常でなければ
夫から保護するということが多いのですが
そうではなくていきなりの逮捕というのは
このような事情があったのではないかなと勘繰りたくなるわけです。

理由3 マニュアル的な支援は個別事情を見ることができない

先ほどアメリカの事例に基づいた研修とありますが
実際他県の同種事例の中で警察の方とやり取りをした際に
それらしいことを言っていました。
そして、警察官が介入できるDVが
法律上原則身体的暴力があった事案だけなのに
「DVは精神的DVも含まれるという研修を受けた」
という見過ごせない発言も聞いています。
彼は、法律も通達も知らなかったことになります。

おそらくDV事案に対するマニュアルがあるのでしょう。
そのマニュアルでは、
DVとは身体的暴力が伴う事案に対する対応を想定していて
警察官も当事者も身体的な被害にあわないようにすることを目的としてとして
作成されているのだと思います。
精神的DVの場合も、極端な身体的DVがある事案のような行動が
マニュアルでは指示しているのかもしれません。

もうそうなると個別事情などは全く考慮されなくなるわけです。
ただ、嫌みが多いだけなのに
ひとたびDVと認定されるとマサカリ夫の扱いを受けるわけです。
そもそも過剰な対応は、
マニュアルでそうなっているから過剰になっている
という性質もあるのかもしれません。

理由4 政策の成果主義的評価の弊害の可能性

私、実はもう一つ疑っているのです。
公務員の人事管理が
少し前から成果主義的な人事評価制度に代わっているのです。
おそらく公務員個人だけでなく
部署においても成果を上げることによって予算が配分される
という仕組みになってきているのではないかと思うのです。

それにはインパクトのある数字を挙げることが大切です。

そうするとDV事案の検挙の数がどのくらいだとどのくらいの予算になったり、
基準以下だと予算が削られたりということがある可能性がありそうです。
ノルマに合わせて警察官が動く
ということは考えにくいのですが、
なんとなく上からの圧迫があり、
本来であれば逮捕しないような事案も逮捕する
ということがあったら怖いですね。

そうして、逮捕を報道させることでインパクトを持たせるわけです。

報道価値があるのは
ボビーさんのような有名人、タレントや文化人
一般庶民が攻撃したい公務員や医師、教師などでしょうか。

通常だと逮捕しないような無理な逮捕をしても
報道機関は報道するでしょうから
それだけでインパクトファクターになるわけです。
ああ、あそこの警察は頑張っているなと。

まさかとは思いますが
一応心配を表明しておきます。

理由5 国民の幸せを考えていないこと

新型コロナウイルスのステイホームで、
報道機関は児童虐待やDVの懸念を示し続けています。
実際は、報道するほど事件が増えているわけではないようです。

国民の願いとして
児童虐待やDVは根絶されるべきだと思うでしょう。
一人でも多くの被害者を救いたいと思うのもわかります。

しかし、それでは、そういうことを防止するための措置、てだて
というものに力を入れている人はいるのでしょうか、
力を入れた政策は誰が、どの機関が考えているのでしょうか。
誰も考えていないのではないでしょうか?

また虐待通報があった場合は、その後どうなるのでしょう。
ただ、単に家族が分離されてしまうだけではないのでしょうか。
通報してくれという呼びかけは多く聞きますが
通報したらどうなるという話はあまり効きません。
それにも関わらずまじめで責任感が強い人は
どうなるかもわからないけれど通報するわけです。

おそらく成果主義の弊害なのでしょう。
私の結論としては
家族が仲良くする方法を考える、提案する
という政策が必要であるにもかかわらず
それがないように思われます。

本来であれば家族が協力し合い補い合って幸せになることを
目標とするのが自然なのではないでしょうか。
ところが、こういう抽象的目標は
成果として評価しにくいのです。

このため、幸せになる政策は行わず
不幸を救済する政策だけが行われるわけです。

マイナスからゼロを目指すだけで
その先のプラスを目指しません。

ここに一番の問題があるように思えてなりません。

もし、家族が幸せになることが目標ならば
幸せになる知識を普及して
それが不足している人に教えてあげればよいし
幸せになるための環境を整備すればよいではないですか。

不幸を救済するだけだから
一人を救済するという意識になり
その相手は敵で攻撃の対象にするしかないのです。

そのため、知識と環境が全く普及整備されない状態が
放置され続けているわけです。

虐待を起こさなくしなくてはならないのです。
そのためには虐待が起きてからの対応では遅すぎます。

不幸にしないというだけではなく
幸せにするという視点をもって政策を立てていない
これが過剰支援の原因の根本だと思っています。


nice!(0)  コメント(0)