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体罰が子どもにとって有害であるかについては科学的に結論が出ていない。これをどう考えるか。むしろ体罰をやめようとするよりも大切なこと。 [家事]



体罰禁止を法に盛り込む方向で検討が加えられているようです。
しかし、驚くべきことかもしれませんが
科学的には、体罰が子どもの成長にとって有害である
との証明はなされていません。
(「子どもの養育に心理学がいえること 発達と家族環境」
 H.R.シャファー 新曜社)

本稿は、
科学的に証明されていないのだから体罰禁止をすることをやめろ
ということを言いたいのではありません。
体罰が子どもの成長に影響があるという証明ができない理由の分析と
もしかしたら
子どもに悪影響を与える体罰と
健全な成長を壊さない「体罰を含んだしつけ」があるのではないか
ということの問題提起と
何よりも、体罰よりも気を付けるべきことがあるのではないか
ということを一緒に考えたいということです。

シャファーは、統計調査に基づいて
「体罰が子どもに悪影響を与えるかわからない」と結論付けています。

近年の心理学は、理系の学問であり
統計調査の手法はかなり洗練されています。
体罰の定義もきちっと定めて調査を行っているのです。

しかし、それがために、
個別の具体的な体罰についてリアルな違いを調査することが
不可能になっていると思います。

例えば、親が子どもに平手打ちをすると言っても
①反射的に手加減をする余裕なく平手打ちをする
②色々言い分を聞いたうえで、必要な罰として選択された平手打ちをする。
③平手打ちをするけれど、叩いたところをさすったり、抱きしめたりして
愛情を示すフォローをする。
④平手打ちをした後声もかけずに孤立させる

①④の組み合わせは子どもに害がありそうですね。
さらに追い打ちをかけて子どもをののしっていたら
子どもの心はさらなる害を受けるでしょう。
殴った後で指をさして笑っていたらますますひどい。

②と③の組み合わせであれば
よほどひどくたたかない限り
子どもに害はないのではないかと考えてしまいます。
叩いた親の方が悲しそうな顔をしていたりしたら
「自分が悪かった」と子どもも思うのではないでしょうか。

こういう細かい事情は統計では調査しきれません。
個別聴取の方が有効でしょう。
ただ、個別聴取は大量聴取ということが逆に難しいため、
普遍性のある結論をだすことには難がある
という弱点があります。
どうしても一長一短があることは仕方がないことです。

対人関係学は、統計学や実態調査が不可欠であると考えていますが、
この間隙を理論的に考えることが多いかもしれません。

体罰の問題で言えば、対人関係学は
体罰が、子どもの成長に悪影響を与えるとしたら
それはどういう理由なのかというところから考えるのです。

暴力の直接の害悪は
痛いということ、あるいは
身体の完全性を損なう可能性があるということです。
しかし、心への影響はもう少し複雑だと思います。

子どもに限らず、人間は仲間の中で尊重されていたい
仲間から見捨てられたくないという意識を持ちます。
子どもの場合はもっと積極的に
大人の仲間から守られたいという意識があります。

だから、むしろ健康を気遣われることが当たり前だと感じています。

それが、逆に大切にされたいと本能的に感じる親から
健康を害する行動を自分に向けて意図的に行われることは
自分が仲間として認められていないということを強烈にアッピールされ、
やがては仲間から追放されて、孤立してしまう
というような負の感情を抱いてしまうと
そこまで整除立てて感じているわけではありませんが
不安や恐怖、疎外感などという感情が起きてしまっています。

体罰が理不尽であればあるほど
生命身体の危険とは区別された
対人関係的な危険を感じやすくなり
大きく感じやすくなります。

そうだとすると
体罰がきついものでさえなければ
体罰が一律に対人関係的危険を感じるわけではない
ということが言えないでしょうか。

(体罰がきついものであり、その体罰によって生命身体の危険を感じるほど強ければ、「生きるために自分を守る」という意識が芽生え、常時一緒にいる親に対して警官感、緊張感が持続してしまいます。このような場合、一般に人間を避けるようになるか、人間にこびへつらっていないと心配でたまらない人間に育ってしまいます。慢性持続的緊張は、生理的も悪影響が生じ、思考などにも有害な影響を与えてしまいます。)

孤立感や不安を与えない体罰であれば
それほど有害ではないのではないかとも考えます。

色々な状況で
体罰が有効であることが否定できないように思うのです。
例えば、子どもが
頭ではその行為をしてはならないと理解しても
どうしてもやってしまうということは
子ども時代の自分を考えると
ありうるような気がします。

つい、教室の中で授業中に勝手に席を離れてしまうとか
つい、友達に乱暴なことをしてしまうとか、
(相手の痛みを想像することができない子どもの攻撃は
常軌を逸していて大変危険であることがあります。)

親の言いつけを守らないで、雨降りの河川敷で遊んでいたり、
知らない人について行ったり等
子どもの命の危険を防止するということも必要です。

もちろん、暴力を使わないで
子どものしてしまったことの深刻さが伝えられれば
それに越したことはありません。
子どもが体罰抜きでそれを理解できればそれに越したことはありません。

しかし、伝わらない、理解することができない場合
それでも、伝えなければならない、理解しなければならないときがあります。

体罰も含めてしつけは家庭の問題です。
国家が介入することは慎重にあるべきだと思います。

それはともかく、
つい、つい、だめだと分かっていても
おとなも子どもに手が出てしまうことがあります。

あまりにも体罰はしてはならないということを強調してしまうと
体罰をしてしまった自分が
極悪人のだめな毒親のような気がして
落ち込んでしまう人もいるのではないでしょうか。

落ち込んで反省して、叱り方を研究すればよいのですが、
そんなに都合よい情報は検索しても出てきません。
むしろ、自分はダメな親だと開き直って
体罰を気にしなくなってしまうことが心配です。
誰にも相談できないで体罰が繰り返されることも心配です。

一つの方法として覚えていていただければ
役に立つのではないかということを最後にお話ししてみます。

体罰をしてしまったとき気にするべきは
子どもが「自分は親から嫌われているのではないか」
「親から見放されるのではないか」
「これからは一人で生きていかなければないか」
というような心配を言葉にできない状態で不安になっているということです。
そういう子どもの心を気にするべきです。

叩いた場所をさすりながらでも良いし
手を握ながらでも良いし
抱っこしながらでも良い

叩いたことを率直に詫びながら
例えば
「そういう乱暴なことをしないでみんなと仲良くしてもらいたいんだ」
「もう大丈夫だよ。学校の先生の言うことを一番にしようね、」
とか、
どうして体罰をしたのか合理的な説明をすることが一つです。
もう一つは、
「あなたが一番大事だよ」
というメッセージを、わざとらしく、くさく、繰り返すこと。
脈絡を気にしないでよいのです。

この二つのフォローすることによって
体罰があっても子どもの心を傷つけないのではないか
ということです。

これは子どもにとってのフォローなのですが、
体罰をしてしまう親にとっても
再発防止に役に立つ自己暗示の一種になると思っています。

最後に、単なる親のイライラのはけ口で子どもに八つ当たりをすることは単純な虐待であり、ここで考えている体罰とは関係がないのでご注意いただきます。

その点についてもまとめの途中ですのでもうしばらくお待ちください。




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