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日弁連のDV法の保護拡大の意見書に反対する3法律的議論の枠組みがなく人権感覚に乏しいということ [弁護士会 民主主義 人権]

日本弁護士連合会は、2020年(令和2年)10月20日に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律の改正を求める意見書」を発表しました。
https://www.nichibenren.or.jp/.../2020/opinion_201020.pdf


意見書の目玉は、表題の法律(以下「配偶者暴力防止法」と略します。)に、
「DVが社会における性差別に由来する力の格差の下で生じるという構造的 な問題であること」
を明記しろというものです。
この外、
警察の支援措置を身体的暴力に限定している現行法を改め、精神的暴力の場合にも拡大しろという意見
保護命令ももっと認められやすくするべきで、精神的暴力の事案も保護命令の対象としろという意見が出されています。

私は、この記事の前々回、そもそもDVは性差別に由来するということ自体が非科学的であり、同時に実務感覚にも反しているということを述べました。前回の記事では、現状のジェンダーバイアスがかかった法運用の弊害が益々増大するということも述べました。

 今回は、このような主張が、実は法律家に求められる理性を用いておらず、弁護士に求められる人権感覚も不十分に過ぎる主張であることについて述べたいと思います。

1 法律の要求されるバランスを無視した極端に偏った主張であること

法律は、抽象的な文言で全国民に対して規範を示すものです。そのためなかなか行き届かないことが出てくることは当然です。誰かを保護するために法律を制定しようとすると、別の誰かの権利を制限するかもしれないという効果がつきもののように出てきてしまいます。わかりやすい例で言えば、電車内の痴漢の防止法の検討をするとします。痴漢の真犯人がわからなくても、被害女性が自分の近くにあった手をつかんで、「この人に痴漢をされました。」と訴えれば、必ずその人を強制わいせつ罪で懲役刑に処さなければならないという極端な法律を制定しようとしたとします。一方で必ず刑務所に収監されるということになれば、電車内での痴漢行為は減るかもしれません。しかし、女性の勘違いや、女性の悪意で何もしていない人が刑務所に送られたとしたら、極めて深刻な被害が生まれてしまいます。このために、女性保護と冤罪被害の防止のバランスをとる必要がでてきます。特に犯罪の認定をして罰を与えるためには厳格な手続きを経なければなりません。無実の人が犯人として処罰されないようにするということは、法律の出発点でもあります。法律は女性保護を実現しようとする一方で、同時にその弊害を回避するための方策をとってバランスをとるのが法律だということになります。
法律家の人権感覚としては、無実の人に不利益を与えないようにすることが第一に考えられなければならないことがらなのです。

ところが現在の配偶者暴力防止法や関連法では、DVがない事案においても女性を保護する実務運用がなされてしまうことに歯止めをかけにくい構造になっています。この結果、DVがない事案においても男性が子どもに会えないとか、警察や行政から不当な扱いを受ける等の被害が多発しています。確信犯の女性が制度を目的外使用したということについても判決で指摘されることがありました。配偶者暴力防止法についてどのような問題があるかについては前回述べました。ここでは繰り返しません。問題は配偶者暴力防止法に弱点があることについて、弁護士の集まりである日本弁護士連合会が知らないということはあり得ません。家事事件を担当すればありふれて目にする問題だからです。
それにも関わらず、日弁連の今回の意見書は、女性保護という一方の問題の所在を強調してさらにその傾向を拡大しようとして、そのデメリット、不可分一帯の落ち度のない男性の保護を一切考慮しないという態度をとっていることになります。意見あるいは思想の違いの問題ではなく、一方の利益だけを追求して他方の不利益を考慮して、問題点に対する手当をしないということは、法律論の枠の中に入らないということを申し上げたいわけです。どこかの政治団体や思想集団が述べるならともかく、法律家である弁護士の団体がこのような法律の枠外の意見を出すということに落胆しているということなのです。

2 国家権力の私生活に対する介入に無防備であること

古典的な人権論というのは、国家による人権侵害を防止するということと同じ意味でした。現代社会では国家に比肩する大企業が現れたり、インターネットの問題が生じたりして、人権の問題が複雑化しています。しかし、人権問題の基本は、国家からの自由を確保するということには変わりありません。
ところが、日弁連の意見書は、女性保護を強調するあまり、この点の人権意識を無防備に欠如させています。身体的暴力だけでなく、精神的暴力についても警察の私生活への介入を要求しているのです。
現状の配偶者暴力防止法が、警察の介入を身体的暴力があった場合に限定した理由は、当の警察庁の平成25年12月20日付通達で自ら明らかにしています。それは、警察は犯罪に対する専門家であるが、夫婦の問題は必ずしもよくわからないので、警察が介入することが必ずしも適切な結果を保証するものではないこと、及び、あまりに広範囲に警察が私生活に介入すると過度の干渉になるということです。警察は、きちんと人権感覚を持っているようです。
警察が、現状の配偶者暴力防止法のもとでも、女性保護のバイアスがかかって、男性に対する不当な扱いをしているということはこれまで述べました。これまで、不当な不利益を与えないための訴訟や調停制度で身分関係やその状態を決めていたのに、警察権力が介入することで取り返しのつかない問題がこれからさらに拡大する危険があるわけです。
また、現在の香港の例を見てもわかりますが、これは日本国家ではないので全く同列には論じられませんが、いろいろな口実を持ち出して、民主派の人間たちを拘束し、拉致しています。仮に現在の内閣が自由を重んじていたとしても、政権交代がおこり組織優先の政治が行われてしまったら、反対派が配偶者暴力防止法容疑で拘束されてしまうということを考えなければなりません。民主主義国家はどんな政党のもとでも法律が国民の自由を守る武器にならなければなりません。過度な介入は、多くの人権侵害の温床になります。
おそらく「そうはいっても現実の女性の権利の侵害を守らなければならない。そのために警察権力が必要だ」という論調なのでしょう。もしそうならば、一方の利益だけを考慮する偏った議論であり、およそ法律の議論ではありません。
とても情けないことは、権利擁護を権力に依存しているということです。何度も繰り返しますが、これがNPOだとか、思想団体だとかの主張ならばそれも否定する話ではないと思います。問題は、人権課題に取り組むことが職業上の氏名である弁護士会がこのような感情的な議論をするところにあるわけです。人間関係の解決の引き出しが少なすぎるということです。弁護士会であれば、もっと世論形成を行うこと、どうしてDVが起きるのか、防止のためにはどうすればよいのかということを幅広い専門機関の連携の中で解決するという発想を持たなければならないはずです。それらの過程を全く踏まないで権力に依存するということは発想が貧しすぎるし、真の解決を考えていないと私は思います。

3 保護命令の件数を増やすことを自己目的化する主張

現状の保護命令は身体的暴力が存在し、将来的に生命身体に重大な危険があると認められるときに発動されます。命令を受けた者は、申立人やその家族に近づくことさえ許されません。一定の場合は自宅を長期間退去しなければなりません。実際に存在する命令では、自宅周囲を散歩することも禁じる命令まで出されています。著しく行動の自由が制約されますし、自宅からの退去を命令されれば財産権も制約されますので、重大な不利益を伴う命令です。これを精神的暴力の場合も行えという乱暴な議論をしているのが日弁連意見書です。
精神的虐待からの保護は確かに必要です。しかし、実務的に言って、どこまでが精神的虐待か市井の夫婦のいさかいかかなり曖昧なのです。特に精神的虐待を主張するこれまでの例からすると、私などからするとそれは国家が介入するほどの精神的虐待とは言えないのではないかという事例や、妻側の夫に対する精神的攻撃の方が精神的影響は大きいという事例でも主張されています。これまで実務経験からすると精神的暴力の内容はどこまでも拡大解釈される危険が払しょくできません。
どうして日弁連はこのような主張をするのでしょうか。その理由の一つとして、日弁連意見書は日本の保護命令の件数が特定の外国と比較して少なすぎるということをあげています。単純に数の問題を理由としているのです。しかし、保護命令の多い国と日本では、風土も違いますし、国民の意識も違います。DVの実態も違うはずです。それらの違いを考えずに単純に数の問題で論じることはできないはずです。その数の意味を論じずに、数だけで決めるということは、あたかも国の予算措置のようです。とにかく相談件数だけ増やして、相談件数が多いから予算をつけろという主張と重なります。
実際のこれまでの保護命令事件を見ると、身体生命の重大な危険がないばかりか暴力自体がないケースでも保護命令を申し立て、保護命令が出されたりしています。なぜ、裁判所が出した保護命令が事実にもとづかないと言えるかというと、それが抗告で取り消されたり、再度の保護命令を裁判所が申立人に申立てを取り下げさせたりしているからです。極めて弛緩した運用がなされているのです。
一つつけたしをしますと、保護命令が少ないということも権力に対する依存の弊害なのです。DVが危険であるのは、夫婦の一人が孤立化している場合が顕著です。誰にも相談できず、また、行動を改めるべき人間が相手ではなくて自分だと思い込まされている場合です。つまり、警察にも行政にもNPOにも相談できないケースが最も深刻なケースなのです。ところが、権力に依存する思想の前提が、被害を受けている場合は自分で援助を求めるべきだというところにあるわけです。だから、声なき声の掘り起こしをするという発想がなく、上げた声を全部救えという乱暴な議論に終始するわけです。これでは本当に保護、救済が必要な人が保護、救済されにくい制度になってしまいます。大事なことは裁判所や行政の権力行使を拡大することではなく、身近な虐待を虐待と感じて話し合いやめさせるという風土が先行させることです。そういうきちんとした前提事実を積み上げる努力をせず、要件を緩和していくばかりだから、目的外使用をもくろむ人間が使いやすくなるばかりだというわけです。国家に法律を変えろということは簡単ですが、法律が真に被害を受けている人を救済するためには前提事実を積み上げることが必要だということなのです。
私は、本当に微々たる力ですが、その前提事実を構築することを目標に、このブログを作成しています。

4 弁護士として求められる人権感覚に反する

それにしても、なぜ、男性が不当な不利益を受けることを何ら考慮することなく、女性保護の表面的な拡大ばかりを主張できるのでしょう。これまでの議論をまとめると、日弁連意見書は、「保護すべき女性がいる。この保護すべき女性を救済するために、多少の目的外使用や無実の男性が不利益を受けてもやむを得ない。だから法律のデメリットは手当てしない。」と考えているように思えてなりません。無実の男性の人権や子どもの健全な成長という人権を「多少」侵害しても、救えるべき女性が救えるならそれでよしとしているように感じるのです。
これは私の憶測なので真意はわかりませんが、もしそうならば大変恐ろしいことです。何かの正義のために犠牲をいとわない。これこそ戦争の理論だと思います。
また、そこで犠牲になる少数者の人権を擁護することこそ、本来弁護士こそがおこなうことなのです。そもそも弁護士は、刑事弁護をする職業だから弁護士と呼ばれるわけです。民事は代理人で、刑事が弁護人と呼ばれます。刑事事件の本質は冤罪を防ぐことだという考え方の人もいますが、私は罪を犯した人の人権、つまり人間として扱われることを実現することこそが刑事弁護の本質だと思っています。つまり、世界中の中で誰もが非難する犯人を、その犯人の弁護人だけは味方になり人間性を守るということが仕事のはずだと思っています。悪い人を悪いと非難することは誰にでもできます。通常の感覚通り行動すればよいだけです。そこで、理性を働かせ、どんな人であっても人間として扱われるべきだという姿勢をつらぬことが弁護士に求められていることだと思うのです。
初めから犠牲を容認した法律を制定するなんてことは、その少数者の人権擁護のための職業である弁護士の求められている要請を全く理解していない意見だと私は思います。

この日弁連意見書は、法律家としての議論の枠組みが踏まえられておらず、弁護士としての人権感覚も欠如しているという観点から、私は弁護士の一人として反対いたします。

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