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いじめの定義を科学的なものにするか、いじめと認定した効果に教育的観点からの働きかけを入れるかしてほしい。いじめの定義は広すぎて改めるべき理由 [自死(自殺)・不明死、葛藤]




文科省のいじめの定義(いじめ防止対策推進法)をご存知の方はどのくらいいらっしゃるでしょうか。定義は以下の通りです。
「児童生徒に対して、当該児童生徒が在籍する学校に在籍している等当該児童生徒との一定の人的関係のある他の児童生徒が行う心理的又は物理的な影響を与える行為(インターネットを通じて行われるものを含む。)であって、当該行為の対象となった児童生徒が心身の苦痛を感じているもの」となっています。

2018年1月18日日弁連は、この定義が広過ぎるという意見書を発表しています。
問題点として4点を挙げています。
① 定義が広く、本来あれもこれもいじめであると認定しなければならないのに、いじめと認定すると否定的な評価を伴うので、いじめと認定せず、いじめの認定を前提とする情報共有が行われないというもの
② いじめを認定すると当事者関係者に与える影響が大きく、第三者委員会でいじめを認定するといじめ行為が一人歩きしてしまい、マイナスの影響が大きくなり過ぎる懸念があること
③ 本来子ども相互の調整によって解決する問題もいじめに該当してしまうので、保護者から対処を求められるとやらなくてはならなくなる
④ 法律を厳守する立場の教員は、いじめに該当するとして杓子定規に懲戒などの厳しい対応をしてしまう。

日弁連の意見書のこの問題意識は全くその通りだと感じています。

いじめの定義を広げることで、学校に対して「いじめを見逃さないという意識」を持たせようとすることは分かるのです。問題は、いじめと認定すれば後は認定された行為をした子どもたちに対しては懲戒などの厳しい処分しか法律は用意されていないという点が問題なのです。
大体、同じ学校で近くにいるのですから、子ども同士でなんらかのやりとりはあるわけです。心身の苦痛を感じることも当然あるはずです。それが全部いじめになってしまい、懲戒という学校の処分しか用意されていないということは極めて不都合です。

例えば、最初にAさんがBさんにちょっかいを出したとしましょう。或いは乱暴な扱いをしていたとしましょう。Bさんは、Aさんに近づくとまた乱暴にされてしまうと思って、なるべくAさんと一緒に遊ばないようにするということはよくあることです。それでも、AさんがBさんに「遊ぼう」と言ってもBさんが乱暴にされることを嫌がって「遊ばない」という態度を続けたら、遊ばないBさんは、一定の人間関係のある他の児童生徒が遊ばない行為によって心理的な影響が与えられるのですから、Bさんの行為はいじめと認定されてしまいかねないのです。Aさんの親御さんが、いじめだからBさんを処分しろと言われると、どうしたら良いのでしょうか。Bさんは、乱暴されることを承知でAさんと遊ばなければならないのでしょうか。

また、例えば、Cさんは仲良しのDさんがいて、Dさんといつも一緒にいることが安心なので、休み時間もすぐにDさんのところに行ってしまうということがあるとします。Eさんは、誰も友達がいないので、一度親切にしてくれたCさんと遊びたいとします。Cさんは、そんなことを知らないので、Eさんを振り切っていつもDさんのもとに行ってしまいます。EさんはDさんが苦手なので、CさんがDさんのところに行ってしまうと近寄ることができません。Cさんが友達のDさんとばかり遊ぶことは、Eさんの心理的苦痛を伴うわけですが、いじめだとして法律が介入するべきなのでしょうか。Cさんは処分されないためにはEさんとも遊ばなければならないということになるのでしょうか。その結論はおかしいと思うのですが、いじめの定義に該当しない理由は見つかりません。
Eさんの親からすれば、一緒に遊んでくれないという部分しか耳に入ってこないので、いじめられていると感じることはありうることです。どうして自分の子をいじめるのかと思うのも自然な流れかもしれません。しかし、その全ての責任をたまたまEさんに気に入られてしまったCさんが一身に背負うということは極めて不合理です。

Fさんは、Gさんから物を隠されたり、机にいたずら書きをされたりして、いじめに遭っていました。HさんやIさんそれを見ていて、いつもFさんを助けていました。Fさん、Hさん、Iさんは、ある日、Gさんを取り囲んで、いじめをするのをやめろと言って、「やめる」というまで家に帰さないと言ったとします。GさんもFさんに対するいじめで処分を受けるとして、Fさん、Hさん、Iさんも処分されなければならないのでしょうか。3人は、Gさんのことを先生に言いつけることが可哀想だと思い、自分たちだけで解決したかったとしても、処分されるのでしょうか。そもそも必要なことは処分なのでしょうか。

今あげた3つのどのケースでも私が良識的だと思う学校の対応は処分をしないことです。でもどうすれば良いのでしょうか。いじめには該当するけれど、処分はしないということが正解でしょうが、真面目に法律を考えるとなかなか難しいでしょう。おそらく、現場ではなんとかして、「それはいじめではありません。」という対応をとるのだと思います。3つのケースはそれで良いのですが、そうやってイジメの定義がグダグダになりローカル定義が横行すると、自死につながるような重大ないじめも見逃したりする危険がでてきます。「あの時も、こういうケースはいじめではないと言ったよなあ」ということが積もり積もって、なんだかわからなくなるようです。
実際の事例でも、生徒がいじめアンケートでいじめられた経験があると回答すると、学校が内容を聞き出して、「それはいじめではない」といってアンケートを書き直させていることがあるそうです。こうなるともう、いじめかどうかは、いじめがあるという結果を学校が出したいか出したくないかということで決まってしまうということになってしまいます。結局、このような学校の自己保身を理由としていじめではなくなり、対応しなければならない生徒の行為が学校によって放置される結果重大な事態が起きてしまうということがあるように思われました。
こうなってしまうと、いじめ防止法があるからイジメが見逃されるという本末転倒な結果になってしまいます。
このあたりのことは日弁連でさえ言っているのですから、とっくに学校現場では分かっている問題のはずです。あまりいじめの定義の問題が学校現場から意見が出されているということを知りません。私が見逃しているのでしょうか。
いじめの解決方法が処分ということだけでなく、いじめは未熟な子どもたちの行動上のエラーだと捉えて、どうすれば良いかということとそのケースごとに大人と一緒に考えていくことが当たり前の方法だと思うのです。未熟な子どもの人格の向上を図るのが学校であるのに、未熟であることを理由に処分するということは学校のあるべき姿ではないと思うのです。
この点は早急に解決してほしいと思います。本気でいじめを減少させるという政策を取るのか、起きてしまったいじめをした児童生徒を全て処分するという政策を取るのか、随分前から判断を迫られていた事柄だと思います。
いじめの定義を変えるか、いじめと認定しても学校に柔軟な対応ができるような建付をするしかないのではないかと今のところは感じています。
「いじめ」という言葉に反応して、処罰を優先させるという世論ばかりを気にしていたのでは、子どもたちが正当な価値観を持てなくなってしまうと心配でたまりません。

追伸として、生徒の自死が起きると、第三者委員会を立ち上げて調査が行わることが増えてきました。私もある委員会に参加しているのですが、この場合も定義が広すぎると問題が起きてしまいます。いじめについて事実関係を把握した例があったとしても、程度が軽かったり、すぐに人間関係が回復したりして、自死とは関係の無いことが明らかになるいじめがたくさんあるのです。私はそんなものは報告しなくてよいと考えているのですが、いじめはすべて報告するべきだと考える人もいます。そうすると、例え、このいじめは自死とは関係ありませんと報告書に記載しても、マスコミが知りえて報道する際には、第三者委員会でこのようないじめを認定したと報道してしまい、それだけ読むとそのいじめで自死が起きたような印象を受けるということがありうるのです。誰がその行為をしたかということは報道されなくても、子どもたちどうしは、それは誰がやったことだとわかるわけです。心配なことは、その子の行為のせいで自死したのだ、あるいは、自分の行為のせいで自死したのだと思うことになることなのです。
早急にいじめの定義を改めるか、硬直な効果を改めていただきたいと切に願います。

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