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被害者の心理 3 被害者の心理が起きるのは生きる仕組みであることとなぜ過剰な反応が生まれるか(心と環境のミスマッチ)、「被害」はいつまでも継続しているということ [進化心理学、生理学、対人関係学]

前回と前々回に述べた被害者の心理をまとめると以下の通りになると思います。

・被害を受けると人間は感じ方や行動パターンが変化する。
・些細な刺激で自分が攻撃されていると感じてしまう
・このため一つ一つのことを聞き流すことができず逐一反論してしまう
・理不尽な攻撃に対する反撃ということから、感情の抑制が難しくなる
・完璧に反論しようとして、仲間に対する要求度も高くなり
・要求度に達しない仲間に対しても攻撃的になる
・仲間や相手の心理状態については合理的な考察ができなくなる
・自分が受けている攻撃が客観的な評価以上に大きく強い攻撃だと感じる。
・このためにさらに強い疎外感を感じる。

以上です。これらの反応は本能的に起きるもので、生きる仕組みです。私たちの祖先はこの生きる仕組みで、子孫を遺すことができたわけです。

例えば今から200万年前、サルから人間に代わろうとする時期の危険の代表は、野獣に襲われるときだったでしょう。野獣の存在を知ることで、人間は危険が迫っていることを理解し、危険から逃れようとします。ばかばかしいかもしれませんがここが大事です。危険に逃れるために、脳から指令が出され、筋肉を素早く動かすことができるようにホルモンが分泌されたり、心臓が活発に動いて筋肉に血液をより多く流そうとする生理的な反応が起きることはよく知られています。
同時に、脳の機能も変化を起こします。

先ず、逃げることに集中すること。つまり逃げる以外のことを考えられなくするということです。余計なことを考えるというのは気が散るということですから、全力で逃げることができなくなります。これは逃げるためには邪魔になります。逃げることだけを考える、つまり、自分に危険が迫っていて逃げなければ自分の命が終わる、逃げることによって生き延びようということですね。集中できないサルは野獣に食べられて子孫を遺せずに滅びてしまったことでしょう。
逃げることに集中するため、考えることは二者択一的になります。危険から逃げ延びたか、まだ危険が続いているか。逃げるためにはこれだけで十分です。リアルな回避可能性がなんパーセントあるかなどを正確に考えている暇などないわけです。

次に、二者択一的になったら、できるだけ悲観的な判断をすることが、逃げ延びる確率が高くなります。仲間の元に逃げ込むとか、本当に安全だと確信できるまで、まだ野獣が自分を負っているのではないかと感じる方がより確実に逃げられるわけです。逆に楽観的に考えすぎて、簡単に逃げるのをやめてしまったら、身を潜めて追っている野獣に簡単に捕食されてしまうようになったことでしょう。
些細な事情で、例えば風が吹いて葉ずれの音がしただけで、まだ肉食獣が近くにいるのではないかと過剰に敏感になった方が、逃げ続けることができるわけです。また、自分を襲っている野獣は、もしかしたらものすごい力を持っているから、確実に逃げなければ殺されてしまうと思えば、より確実に逃げ切ろうとするので、役に立つ思考パターンです。

ちなみに、このような二者択一的思考、悲観的思考となっていますから、加害者である野獣が何を考えているか等という複雑なことは考えられなくなっています。あくまでもこちらを食べようとしているのだろうと考えればそれで十分だからです。敵や第三者が人間の場合は、人間の心は複雑ですから、それを知ろうとすることは、かなりの能力が必要になるようです。危険を感じているときは、そのような能力を発揮することは不可能だということになるでしょう。
仲間に対しても、自分を安全にしてほしいという絶対的な援助を望むということも無理のないことですし、仲間はその当時、その要求に応えるべく全力を挙げて野獣と戦ったことでしょう(袋叩き反撃仮説)。

今危険があり、逃げなければならないとするならば、被害者の心理は逃げるために必要な気持ちの変化だということがお分かりになると思います。

但しその危険が身体生命の危険ということであれば、この心理変化はとても有利に働くということです。
しかし、現代社会では、被害者の心理は、被害者をますます孤立させ、被害者自身で自分を追い込む結果となるという副作用が大きく、むしろデメリットが大きくなっているということです。

これが現代社会と人間の本能のミスマッチが起きているという言い方で説明されるべき事柄です。

例えば200万年前なら、体を動かすために高カロリーの当分は貴重でした。しかし、糖分を得ることがなかなか難しい希少な栄養素だったので、糖分があれば確実にそれを摂取しようという仕組みが生まれました。糖の甘さを好むようにして、おいしいから食べたくするという仕組みです。ところが、現代社会では、糖が工場で大量生産されるものですから、簡単に入手して摂取することができます。そのため、糖を摂取しようという生きるための仕組みが糖尿病などの成人病を引き起こすというデメリットを生んでいるのです(「人体」ダニエル・リーバーマン ハヤカワ文庫)。

どのような時代変化が起こり、被害者の心理反応にデメリットが多くなってしまったのでしょうか。

被害者の心理変化のデメリットが大きくなったというミスマッチの原因として、どうやら一番大きいのは、人間にとっての危険が、野獣に襲われるなどの身体生命の危険から、対人関係上の危険、つまり自分が仲間の中で尊重されて調和的に生活できなくなるという危険に、起こりうる危険の頻度が変わってきたという事情があるようです。
農耕が始まる前ですから今から1万年前か、どんなに頑張っても2万年は前ではないつい最近のことです。人間は、それまで50人から150人くらいの同じ仲間と一生を過ごしていただろうと言われていました。そのくらいの仲間の場合は、自分と他人の区別がつかず、自分が生き延びようとするのとほぼ同じ感情で、あるいはそれより強く、仲間を助けようとしていたと思います。対人関係上の危険を感じる度合いは現代から比べるとほとんどなかったと思います。だから身体生命の危険の反応を本能的に起こしても、デメリットはあまりなかったはずです。

それから1万年くらいしかたっていないのが現代です。脳の構造が深化するにはあまりに時間が足りないので、心の反応はその時のままなのでしょう。ところが、現代社会は、朝起きてから会社に行くまででも150人以上の人たちと出会います。会社や自宅マンションだけでも150人以上の人がいるでしょう。とてもすべてを個体識別できる人はいないでしょう。また、会社でいい顔をすれば家族に無理を通さなくてはならなくなる等、複数の仲間がいて、それぞれが利害が反する関係にあることも多くあります。家庭、学校、職場、趣味のサークル、地域、その他緩いつながりの社会、国家等という複数の群れに同時に帰属しているということは、農耕が始まる前には想定されていない事態なのです。

だから、例えば、足を怪我したとしても、1万年以上前なら傷が癒えれば傷によるダメージは無くなっていたでしょう。自分の知り合いの全員が傷ついたことを気遣い、できなくなってしまったことを代わりにやってくれたと思います。体は傷ついたけれど、仲間のありがたさに癒されたというわけです。

ところが、現代では足を怪我した場合も、相手がわざと自分を怪我をさせたのではないか、自分に恨みなどがあるのではないかと考えるわけです。また、相手ではない他人に対しても、自分が足が痛いのにどうしてもっと助けてくれないのかというように考えることが起こり始めてきたのではないでしょうか。あまり人間の付き合いの幅が広いものですから、家族であっても、それほど親身に何もかも手伝ってあげるということをしなくなったのかもしれません。相手への気遣いが、1万年前と比較しても雑になっているのかもしれません。いざとなれば、夫婦でも親子でも家族を解消できるということもなにがしか影響をしているのかもしれません。また被害者からしてみても家族だからこそ要求度が高くなり、攻撃をしてしまうという傾向がうまれたのでしょう。いっそのことお金を落としてなくしてしまうならば、あきらめがついて再出発ができるのかもしれません。同じ金額でも、信じていた人に騙されたということになれば、対人関係的危険を感じ続けて苦しみ、被害者の心理が止まらないのかもしれません。
また、いろいろな不利益の中で、学校、職場、家族など、別離、悪く言えば追放の目にあった場合は、対人関係的危険がなかなか解消されないという事情もあるかもしれません。

このように、人間の能力を超えた人数の人間、多数の群れに同時に帰属しているということから、人間同士の仲間意識が薄弱となり、自分以外の他人が、絶対的な仲間と感じられなくなるでしょう。このため、その仲間から攻撃される危険を強く感じなければならない事情が生まれたようです。
無条件に人を信じることができなくなってしまい、そして極めて残念なことに、その警戒感は、多くの場合現代人が自分を守るために必要であるようです。
私から言わせれば、人間はもともと他者を攻撃するという性質があるわけではなく、人間はもともと自分の仲間以外と対立する可能性を秘めているということだと思います。そして現代社会は、仲間であって仲間でない人間ばかりが、人間の周囲にいるということ、これが現代的ストレスなのだと思います。

さて、そのような背景はあるとしても、私のお話しした生理的変化(交感神経の活性化など)及び、思考上の変化(二者択一的傾向、悲観的傾向、複雑な思考力が低下する)は、危険が現実に存在して、危険から回避する場面では有効です。しかし、危険が現実化した後ではあまり意味がありません。身体生命の危険の場合で考えると、例えばけがをしたけれど野獣が仲間に追い払われるなどして危険が去った後でいくら筋肉に血液が流れても、もはや走って逃げるということはありません。襲われた直後は、動悸もするでしょうし血圧も上がっているでしょうが、しばらくすると落ち着くわけです。
ところが、対人関係上の被害の場合は、例えば裏切りがあって何年たっても、そのことを思い出すと血圧が上がったり、恨みつらみの感情が沸き起きたりします。一方の親に子どもを連れ去られてた他方の親は、何年経っても葛藤が去ることはないでしょう。性的暴行を受けた人も、警戒感や不信感そして恐怖感が何年も続くことがあります。対人関係上の被害は、それが起きたときから少なくても心理的には長期間被害者であり続けるわけです。つまり、被害は過去のものにならない、現在でも継続しているということです。
人間は、その性質上、人間の中で生活する必要があります。しかし、一度人間の中に信頼することができない、自分に加害行為をする人間が現れると、およそ人間というものが信頼できないという心理になるということが一つの理由でしょう。特に前触れなく起きた被害、性的暴行や連れ去りなどが典型ですが、そういう被害の場合、どうやって防げばよかったかについて考察することが難しいです。記憶の仕組みからすると、そのような形の被害はなかなか記憶のファイリングに収納しきれないため心理的に昇華することができず、いつまでも現在する危険として忘れられない存在になるようです。悪夢につながりやすくなるようです。

また、対人関係的には、危険が続いているということなのかもしれません。

例えば性的暴行を受けた人は、自分が性的暴行を受けたという事実を抱えてしまって、それが自分の身近な人間に知られてしまったら自分が身近な人間たちから否定的な存在と思われるのではないか、あるいは、過度に気を使われる必要のある人間だとして扱われてしまい、これまでの仲間とは扱われず特別扱いされてしまうのではないかという不安があるようです。防衛手段を尽くさないという非難を受けることもあるのではないかと考えてしまうのかもしれません。実際はそのような対応を周囲がしない場合でも、大きな不安があることは間違いないでしょう。

例えば妻に子どもを連れ去られた男性は、家族から追放されたという行為自体は過去のものだとしても、孤立している自分が継続しているわけです。その後の家事手続きにおいて、当たり前の主張がことごとく排斥されて、自分の孤立が裁判所などで追認されてしまうのですから、少なくとも家事手続きが進行しているうちは被害が継続しているというか新たな被害が生じていることになると思います。被害者の心理の負の側面が多く出ることは自然なことなのだと思います。例えば、いったん引いて、別居を認め、自分ができることで家族に貢献して、少しずつ立場を回復していくという手段が早い段階で選択して、実行できればある程度の再生が図られるケースがあるのですが、それは自然と受け入れられる作戦ではないのも当然です。
家事手続きは終わりがあります。一応の区切りはつけられることになります。しかし、理由がわからず連れ去られた挙句、子どもには一切会えない。生活を圧迫する養育費は長年にわたって負担し続けなければならない。そういう状態になれば、被害が過去のものになるはずがありません。毎日新たな被害に苦しめられるわけです。

しかし、被害感情というのは、前回、前々回にお話しした通り、被害者自身を必要以上に傷つけて追い込んでいくものです。より正確な情報分析ができないために方針を誤る危険も高いですし、改善する行動に向かわないでより事態を悪化させる行動を引き起こすこともあります。仲間や第三者を攻撃してしまうこともあり、つい攻撃的な振る舞いや緊張感の高いあるいはテンションの高い言動が多くなり、自分を孤立させる要因になることも多く見られます。せっかくの才能をもった人たちが孤立していく姿を多く見ています。

なかなか自分が被害感情を抱いていて、自分を追い込んだり損をさせたりしているということに、被害者自身が気付くことが難しいということは、これまで述べてきた被害者の心理から承認しなければなりません。
周囲が、実際は「あなたが思うほどは悪い状態ではない。」、「自分で自分を追い込むことをやめて、正確に情勢を分析して、これ以上事態を悪化させることを防止しましょう。」とアドバイスして拡大被害を防止することが必要不可欠ということになるでしょう。
しかし、どうしても支援者は、目の前の被害者に対してできるだけ共感しようとするし、被害者以外の人たちに責任を求めて一緒になって攻撃をしてしまいます。これも、善意や正義感で行われていることなので、自分の行動を制限しようというきっかけがありません。支援感情の駄々洩れが起きているように思われます。それが結果として被害者をさらに苦しめてしまう。被害の回復から遠ざけてしまうという逆効果を生んでしまうという悲劇があるように感じます。

このことについて、さらに考え続けてみたいと思います。



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