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どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「死にたいと思っても、死ぬことが怖くて死ぬことができないはずだ
それにも関わらず、どうして命を絶つことができるのだろう。」

この疑問に真正面から取り組んだのが
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」です。
この理論は、自死のメカニズムを探求するというための理論というよりも
今生きている人が自死を行う危険があるのか
あるとすればどの程度危険性が高いのか
という危険性の評価方法を構築して自死を予防する
という実務的観点から構築されています。

ジョイナーは、
リストカットや自死未遂という行為を繰り返すことによって
あるいは戦争などで人間が死ぬことを目撃して
死ぬことに慣れていくのだと考えました。
これをジョイナーは自殺の潜在能力が高まるという表現をしています。
つまり、通常の人間は死ぬことが怖い
うつ病であっても死ぬことが怖い
しかし、人間の命が尊重されない現実を体験していく中で
少しずつ、死ぬことに馴れていくということなのでしょう。
外科医であっても自殺の潜在能力が高まることを指摘しています。

ジョイナーによれば
この自殺の潜在能力の高まりとともに
自殺願望(所属感の減弱、負担感の知覚)がそろうと
自死の危険が極めて高くなるというのです。

自死リスクの評価を、
できるだけ客観的な個別事情によって評価しようとする試みは
極めて画期的で、
高い評価を受けています。

私も自殺の対人関係理論は強く影響を受けているというか
繰り返し勉強させていただいている理論ですし、
評価事項を作る上でとても有効な理論だと思います。

ただ、
自死の心理的メカニズムというものをもっと探求できるのであれば
それを知りたいという気持ちはあるわけです。

後付けの言い訳ですが、
もう少し心理的メカニズムが解明できれば
自死リスクの詳細で多岐にわたる評価項目を
もっとすっきりできるのではないかと思うのです。

専門的機関では、詳細な調査で自死リスクを評価するとしても
その専門的機関につなぐために
自死の危険性を、例えば家庭、学校や職場などで
簡単な要素で専門的評価や専門的な介入が必要だと
判断できるようになると
もっと有効な自死予防、自死介入ができるのではないか
と思うのです。

学校や職場は、自死の危険性を評価するための機関ではないかもしれませんが
もし、危険に気が付き、専門機関につなぐことができれば
かなり自死予防の効果が上がるのではないかと思うわけです。

心理的メカニズム、自殺行為に至るプロセスに焦点を当てた理論としては
日本の精神科医の張賢徳先生の「解離仮説」
というものがあります。
主としてうつ状態からの自殺の場合は、
自死行為の実行時、当人は解離状態にあるというのです。
解離状態とはどういうことかというと
Wikipedia(寄付をすることによって存続を呼びかけられています)
によると
「無意識的防衛機制の一つであり、ある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまう事である 。抽象的に表現するならば、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素が「私の体験」「私の人生」として通常は統合されているはずのもののほつれ、統合性の喪失ということになる 。」
とあります。
要するに、自分が自分でなくなっていて、自分の人格の発言として行動しているわけではない。わけのわからない状態。
ということなのでしょうか。
極端な例が二重人格の状態です。二人目の人格がはっきり確立していない場合が通常の解離状態だということでしょうか。

この解離仮説が、私の考察の出発点でもありましたから、
私にとっても大切な学説だということになります。

では、この解離状態はどういうメカニズムで起こるのか
あるいは解離状態の直前の状態とは何なのか
という疑問が出てきます。
自死を完遂できる場面というのは
他者に目撃されない場面ですから
その前の状態がわからないと自死は予防できないことになりそうです。

また、実際の自死のケースを後追いに見ていた場合
解離ということで説明がつくのか
(私の解離の理解が不十分である可能性は大いにあります)
という疑問も生まれしまいます。
どうも、冷静に、自死という行為を選択するケースも多いのではないか
遺書には、遺族に対するあふれんばかりの
愛情と謝罪が書かれていることが多く
こういう場合、少なくとも、わけのわからない状態というわけではないように
思います。

つまり、自分には死ぬ他に選択可能な方法がなくなったと
冷静に(この言葉は難しいですが、少なくとも静かに、興奮しないで)
判断しているという印象を受ける自死が比較的多いのです。

張先生は、
解離仮説に親和する考え方として、焦燥感や不安感が高まっている
という考え方を指示されているようです。
この点は、私も常々そのように感じていました。

では、焦燥感や不安感とは何か
それがどのようにして死の恐怖を凌駕させるのか
ということについて、まとめたいと思います。

もっとも自死の完成に至るプロセスは人それぞれ異なります。
しかし、これまで後追い的に自死を見てきて、
これから述べるプロセスは、
大きな柱となる典型的なプロセスであると考えています。

自死が起きる場合は、
実際に何らかの悩みがある場合が多いと感じます。
悩みの多くが対人関係的なもので、
学校や職場、家庭などで
自分が仲間として尊重されず仲間から追放されてしまう不安
仲間の中で顔向けできずこれまでの関係を維持できなくなるという不安
つまり仲間から離脱する不安
という形で不安を還元できると考えています。

(もちろん身体的な悩みを主たる悩みとして
自死リスクが高まるケースもありました。)

但し、精神的な不安定が明らかに先行しており、
口に出した不安の内容が荒唐無稽の場合もあります。
過敏になり、客観的には妄想的不安を抱いている場合ですね。
つまり確たる理由がないにもかかわらず、
不安や焦燥感が出現してしまう場合もあるということです。

人間は(本来人間に限らないかもしれない)
不安を抱くと、不安を解消したいという要求が生まれるようです。

犬が怖い人が、自分が進む先に犬がいる場合、
回り道をするとかですね。
危険の認知と回避行動との間に
危険に対する不安と「不安解消の要求」という
心理過程があると仮定してお話を進めます。

不安解消要求にもとづいて簡単に不安が解消できれば
不安は解消されます。
しかし、不安解消要求が発生しているのに
不安を解消されない場合はどうなるでしょうか。

不安解消要求は維持されたままになります。
そして不安が解消されなければ
不安解消要求は高く強く変化していくようです。

不安解消要求が高度に変化するとは、
なんとか不安を解消したいという想いが強くなると同時に
早く不安を解消したいという想いが生まれてきて強くなります。

感情が強くなるため、理性的な思考力が後退していきます。
理性的な思考力が後退するということは、
複雑な思考ができなくなるということです。
具体的には、
・二者択一的な思考になる
・悲観的な思考になる
・将来的な派生問題、因果関係の把握が難しくなる。
・他者の気持ちについて考えることができなくなる
・結果として視野が狭くなっている
ということです。

これは逃げる場合にとても都合の良い思考変化です。
但し、それは例えば文明ができる以前の
狩猟採集時代の場合において都合の良い変化でした。
このころの危険は、自然現象や野獣でしたから
何も考えないで逃げるという方法が一番有効だったのでしょう。
その時代から現代はせいぜい2万年くらいしかたっていないので
脳が対応できていないわけです。

だから、このような不安解消要求が持続してしまうと
人間の脳は、今生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められている
というような極端な危機感を感じたように
動き出してしまうようです。

このため、ますます出口が見えなくなるわけです。
例えば途中で、
だれか他人に救出してもらいたいという意識が芽生えることがあり、
それ以外に方法が考えられない状態になりますから
その人に対する依存度、要求度も大きくなるわけです。
そして、その人から援助を拒否されると
絶望を感じやすくなることが多くあります。
つまりこの人だけが私を救ってくれる
その人が私を助けてくれない
では、解決方法はすべてなくなった。
という具合です。

さらにさらに、不安解消要求が大きくなります。
早く解決したいという要求も高まっていきます。

早く解決したいという気持ちは、
脳が勝手に生きるか死ぬかという場面だと勘違いして
それにふさわしい脳の活動をしているわけですから
外のすべての要求よりも不安解消要求を優先してしまうわけです。
今は生きることができればそれでよい
あとはどうなっても良いという心理です。
これが焦燥感です。

既に、不安の原因を除去、修正しようというような
論理だてをした思考をすることは、そもそもできない
発想としても生まれてこない状態になってきます。
不安が解消されればそれでよいという姿勢に一貫されるようになります。

そして早く不安を解消したいという悲鳴が生まれてきます。
元々は、がむしゃらに何も考えないで逃げるためのシステムでした。
おそらく人類の多くがこのようなシステムによって
野獣などから逃げ延びて、我々が生まれてきたのだと思います。
しかし、生きるためのシステムが、生き延びる方向と
反対側の行動を促し始めます。

何かを行って不安を解消できていればよいのですが、
アルコールやドラッグで不安を一時的に感じなくしようとしたり
自傷行為で不安の感覚を消そうとしたりする行為がみられてきます。

その究極の不安解消要求に基づく不合理な思考が
「死ねば不安から解消されるのではないか」
という希死念慮の芽生えです。
じっくりと不安の原因を探求して解決を目指す
という姿勢はなくなっています。
そういう気力が無くなっているという表現がリアルかもしれません。

この早く解決したい、しかし方法はない、しかし早く解決したい
という堂々巡りが焦燥感です。
焦燥感が大きくなっていくと
ますます思考力がなくなっていきます。

さらに、解決するという方法ですら思い浮かばないにもかかわらずに
早く解決をするという方法までを探さなければならなくなるため
ますます解決の可能性が狭まっていくわけです。
そうするとさらに絶望しやすくなってしまう
なんでもよいから不安を解消したいということになりますから
死ぬことを考えると、
長いトンネルの出口が見えたような少し明るい気持ちになるそうです。

また、
不安と向き合う時間は、初期は短く、
眠れば忘れるほどでしょうけれども
どんどん長い時間不安にさらされるようになります。
眠れなくもなるようです。
これがさらに思考力を奪います。

自死すれば死ぬということの意味も十分把握できず
つまりデメリットを正しく評価できなくなり、
不安が解消されるという結果だけが意識に上るようになります。

取りつかれたように自死行為を行う
という事例もありましたが
こういう状態だったのかもしれません。
多くの事例では、
自死というアイデアが生まれ、それを決行する日時を予定すると
静寂の気持ちを取り戻し、
遺族に対する謝罪と感謝をつづった遺書を記したりするようです。

既に死は恐怖ではなく、
安らぎ、温かいイメージ、明るいイメージになっています。
むしろ自死行為を取りやめるということが
不安に苦しめられる時間に戻ることですから
恐怖を抱くのかもしれません。
なかなか思いつくことも難しい状態になっているようです。

死ぬことを思いついて
冷静になっているように見えますが
意識は確実に死ぬことだけを目指しているようです。

この状態で家人などに発見されて
自死を思いとどまるように説得されると
本人は、確実に死ぬことしか考えていませんから
説得を受け入れたような態度を見せ、安心させ、
すきを見て自死に至るという例も複数ありました。
一見冷静に見えますが、
既に、絶望の果ての強固な自死の意志が生まれているわけです。
私は、そこには自由意思はないと思っています。

この状態で自死を思いとどまった事例で私が知っているのは、
自分の周囲に対する感謝や愛情ではなく、
憎しみや敵意のようです。
「死んでまで相手を喜ばせることは許せない」
という怒りが不安を握りつぶして自死を思いとどまった事例が
実際にあります。

なお、自死が失敗に終わって救急搬送され、入院しているときは、
自死の原因を作った不安から一時的に解放されていますから
例えば、2週間以上の入院が確約されている場合は
不安の源から離れることができるために
一時的に自死の意志が弱まっていることが
多く観察されます。
思考をする余裕も出てきます。

この時期に適切に、適切な人材がかかわることによって
不安の原因について考察をして、
必要な人間関係の状態を改善することで
自死リスクを解消することができる場合があります。

つまり本人の考え方(認知)を変えるだけでなく、
退院後に本人を取り巻く人間との関係が改善されることが
とても大切なことだと思います。
私がかかわった事例では、親の力が有効でした。

オープンダイアローグ的な発想が有効だと思います。

対人関係的な不安で私が強調したいことは
一つの人間関係、例えば職場で自分が追放されると感じた場合、
本来離脱しても人生において大した不利益にならない人間関係で
他の人間関係、例えば家族などにおいては
尊重され、大切にされていたとしても
職場での孤立感、疎外感によって
世界中から自分は孤立しそうになっているという不安を
脳が感じてしまうようだということなのです。

おそらく、人間がチンパンジーと別れて600万年前、
農耕集落ができるまでの2万年前
この間、一つの群れだけで一生を終えていたことの
脳の名残なのだと思います。

このように人間にとって群れとは、
水や空気のように、生きるための不可欠な要素だと
脳が思い込んでいて、進化できていないようです。

自死をする人たちは、必ずしも自傷行為をしておらず
アルコール依存症にもなっておらず
突然自死する場合があります。

ただこういう場合でも、多くのケースで

自分を取り巻く人間たちから
自分が尊重されていない、仲間として認められていないという
いじめやハラスメントが繰り返されていることがあります。

おそらく人間が生きるということは
生物学的に生きるだけでなく
自分の周囲の仲間の中で尊重されて生きるということなのでしょう。

仲間の中で尊重されない体験は
自分の体を傷つける自傷行為や戦争のように
自殺の潜在能力を高めているのだと思います。

また、自死前に社会的な逸脱行動をする場合がありますが、
(自分の評判を落とす行為を理由もなくやってしまう)
それはある意味自傷行為と同じなのかもしれません。

それでは、以上のまとめの中から
直感的に自死の危険が高いと判断する要素を抽出してみます。

自殺未遂は、当然高い自死の危険があるわけです。
一見冷静になったように見えても、
冷静にこちらをだまそうとしている可能性があります。

原因がどこにあるのか分からず、
何ら不安解消要求が解消される出来事が無ければ
自死リスクが極めて高い状態で維持されていることは当然です。

衝動的な行為が目立ち始め
特に刹那的な理由での行為で
社会の評判が落ちることを気にしないような行為
しかし、落ち着くとどうして自分がこういうことをしてしまったのだろうと
激しく公開するような態度を見せる場合はかなり危険だと思います。

解離状態に近いとうことになるでしょう。

衝動的な行為に暴力が伴う場合は
不安解消要求が自分では収拾つかなくなっている状態ですから
とても危険です。
特に暴力の対象が他者に向かわず、
自分に向かっている場合、自分の持ち物に限定して向かっている場合は
自分がなくなってしまうことによって不安が解消されるかもしれない
という感覚が生まれていると考えた方が良いでしょう。

仮に確定的に自分が死ぬ意図が無くても
「死ねたら死のう」みたいな感覚で、はたから見たら事故のように
死ぬ危険のある行為を行うことが若年者を中心として見られます。

また、いじめだけでなく、クラスや同僚から受け入れらなくて孤立し、
多数派から侮辱されたりからかわれたりすることが続くと
行き場のない気持ち、解決不能の気持ちになりやすく
自殺の潜在能力が高まりますから
何らかの解決が必要です。

先ずは家族など支援的仲間があることを
強く意識付けすること
次に問題のある仲間をチェンジすることです。

自分は悪くないのに転校しなければならないのか
転職しなければならないのか
という気持ちはわかりますが、
そのようなこだわりよりも命が大切だと思います。

そして最近つくづく思うのですが、
私の依頼者の方の何気ない発言で衝撃を受けたのですが、
変な行動をしたら、心配する
という仲間として当たり前の気持ちをもつことが
自死予防のすべての出発点になりそうです。

面倒くさいな、けむったいなと思われる行動を
衝動的に行ってしまうのが
自死リスクの高い状態です。
迷惑をかけるわけです。

そのときに心配になるということは
家族でも難しいかもしれません。
でも心配して、その心配を本人に伝える
ここから始めるということが
大前提になるようです。

変な行動をしていたら理由を聞いてみたくなり聞いてみる
これが自死予防の第1歩かもしれません。

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【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だとすれば、ポール・ブルームの「反共感論」は、福音となる。(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)心と環境のミスマッチ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だという結論に対して、ポール・ブルームの「反共感論」(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)は、福音となる。心と環境のミスマッチ。

性善説、性悪説という言葉ありますね。
人間の本性は、善であるか悪であるかという議論です。
これは、単純な理由で性善説を指示するべきです。

その理由としては、もし、人間の本性が善でなければ
文明ができる前の脆弱な動物としての人間は
群れをつくることができないために
とっくに死滅していたからです。

そして、善とは
仲間の痛み、喜びに共感し、
仲間と平等に分かち合い、
仲間が困っていたら助け合い、
特に一番弱い仲間を助けようとする
ということにあると思います。

証拠は、私たちの心にあります。
他人が痛い思いをしたら、
ああ、痛いだろうなあと目を背けたり、顔をゆがめたりしてしまいますよね。
誰かが、抜け駆けして、自分一人が得することをしようとすると
反感を抱いたり、怒りを感じたりしますよね。
誰か困っている人を助けたりすると
安心したり、感動したりします。
弱くて小さいものを見ると、かわいいという感情が起きるでしょう。

こういう本性を持った人間だけが
群れをつくり、自分たちを守り
子孫を遺してきたわけです。
実に単純です。

性善説と性悪説の対立は
既に文明が生じてからの人間を固定的なものととらえるところに
思考方法の間違いがあったのです。

それでは、どうして本性が善であるのが人間ならば
身近ないじめ、虐待、ハラスメントがなくならず
犯罪や自死に追い込まれることがなくならず
戦争を次々と切れ目なく起こすのか
ということが疑問となると思います。

これも最近の科学によってある程度明らかになってきています。

人間(ホモサピエンス)が、その能力を超えた人数の人間と関わるから
本性が善であっても、他の人間を傷つける行為が止められない
ということにあるようです。

1説では、人間の脳が個体識別できる人数は
150人程度、多くても200人を超えるくらいと言われています。
このくらいの人数ならば、善を貫くことができるのでしょう。
元々というか2万年以上前までは、
人間は一生のうちこの程度の人間とだけ交流があったとされているようです。
そして通常は数十人単位で生活していたようです。

群れの頭数が維持できることが人間として生きる条件でしたから、
誰かひとりが苦しむと、頭数が減り自分の生存も危うくなりますから、
平等に分け合い、抜け駆けをせず、特に弱い者を守ろうとする心であることは
どうしても必要だったわけです。
逆にこういう心を持たない群れは、簡単に滅びたのだと思います。

多少自分が損をしても
弱い者を助けようとしたのだと思います。
誰かの失敗も、不十分なところも、みんなでカバーしたのでしょうし、
それは当然のことだったはずです。
誰かが獣に襲われたら
夢中になってみんなで反撃したでしょう。
個体としては弱い人間も、
こうやって他の動物から恐れられるようになったのだと思います。

人間の本性が先ほど言った善であることは
人間の始まりの頃にはとても都合が良かったのは、
人間が自分たちの能力に見合った環境にいた
ということも言えるでしょう。

ところがおよそ1万年位前から農耕が始まり、
人間が一生涯に会う人間が飛躍的に増えていきました。
文明が発展するたびにその人数は増えていきました。
今や、自宅のマンションだって既に200人を超えた住民がいる
ということも珍しくないでしょうし、
自宅から勤め先まで移動する間に
何千人という人間とすれ違うかもしれません。

そして厄介なことに、すれ違うだけの人とも
利害関係は衝突するわけです。
典型的なことは交通事故です。
見ず知らずの人と事故を起こし、
相手がお金が無くて困っているからと言って
重大な事故を起こしたり死亡したりした場合、
「いいからいいから」と笑って済ませることはできないわけです。

損害賠償の金額の折り合いが悪ければ
そのことに対しても
相手に怒りを覚えることは当然でしょう。

特に、自分の家族が犠牲になる場合は
その負の感情が強くなります。

しかしそれは、仲間を守ろうとするという側面から見れば
まぎれもなく善の心なのです。

子どもを厳しく育てる親は、
自分が社会の荒波の中で苦労をしていて
大人になる前に身につけておけばよかったと思うことが
たくさんありすぎたのかもしれません。
子どもを社会について行かせようと思う親心も善でしょう。

もし、家族がけがをしても社会全体が保護してくれるならば
相手に対する追及はそれほど厳しくならないかもしれません。
もし子どもが学校について行けなくても、
社会的に尊重されて、生活に追われることなく
良き伴侶を得て自尊心高く生活できるならば
それほど子どもに厳しくならないで済むかもしれません。

しかし、現実の社会は
他人と生存競争を戦っている状態があるわけです。
仲間ではない人間に囲まれているわけです。

人間の中にいるからと言って必ずしも安心できるわけではありません。
この不安定さ、あるいは不安な心ゆえに
もしかしたら、太古の人間よりも
仲間に対して、多くのものを要求しているのかもしれません。
そして、仲間と仲間ではない人間との間に
厳しく深い線が引かれているのかもしれません。

ただこれは客観的な利益状態ではなく
見知った人は仲間で、見知らぬ人は敵、すなわち人間ではないという
意識が自然と生まれているのでしょう。

ネット炎上等がその典型例です。

プロレスラーの木村花さんが、テレビ番組の演出を理由に
インターネットに攻撃的書き込みをされた事件で
先日、特に悪質な書き込みを送検したというニュースが流れました。

そこには、なぜ死なないで生き続けているのか、いつ死ぬのか
という趣旨の文面があったそうです。

そんなことを言われて平気な人はいないでしょう。
けれども、この書き込み者は、善の気持ちで書き込んだのだと思います。

テレビ番組の花さん以外の共演者を仲間だと無意識に感じてしまい、
仲間を攻撃する木村さんを敵だと線引きしてしまい、
敵である以上人間ではないですから
その人格や家族などその人の仲間の存在を一切捨象することができて、
思う存分攻撃をすることができたのでしょう。

そういう感情的になって正義を振りかざす人間は
少数であり、例外的だという人もいるかもしれません。

でもこういう、人間を人間と思う能力には限界がある
限界を超えると人間を人間扱いしなくなるという現象は、
自治体や警察でも行われています。

女性が夫からDVを受けたと相談すると
その女性の言っていることが真実か否か夫から事情を聴くことがなく、
女性は、公的に「被害者」として扱われます。
当然夫も、公的に「加害者」という名称で呼ばれるようになります。
そして夫は何の反論をする機会もないまま
妻と子どもたちを知らないところにかくまわれ、
子どもとも会えなくなります。

別居が開始され、収入の少なくない部分の支払いが強制されます。

そこまで抵抗する方法を奪われて
弁解の機会も与えられずに不利益を受ける原因があったのか
疑問が大きいケースが多いです。

ここでも、仲間と敵の選別が行われています。
目の前で、苦しんでいる様子を語る女性については
なるほど保護をしたいという善の心が自然と生まれるわけです。
夫に対する怒りの感情も生まれることでしょう。

一瞬で見ず知らずの夫は敵とされてしまい、
夫がどんな苦しみを抱こうが
人間を襲ったクマをみんなで串刺しにするような正義感で
夫が苦しむ行為を躊躇なくするわけです。

「加害者」は、人間扱いをされていないということを
理屈ではなく実感するため
メンタルをやられてしまうわけです。

しかし、加害者扱いをするのですが
何が本当であるか全くわからないというべき段階で
心情的に敵対的な感情を簡単に持つのが人間です。

どこかの思慮分別の無い人間が行うのではなく、
税金で給料を得ている公務員が
こういう状態なのです。

いじめも同じような始まりを持つことが多くあります。
最初は1対1の喧嘩でも
泣き出して、友達にアッピールすることができる人が
多くの仲間を獲得して
本当は悪いかどうかわからないもう一方は、
多くの同級生から攻撃を受けます。
多くの同級生は泣いた子どもを助けようとする
善の気持ちで行っていますから
容赦がなくなります。

もしかしたらパワハラも
会社の効率を、部下の人格よりも上に置いてしまい
効率を優先させるために行われるということが
きっかけであることが多いかもしれません。

戦争であっても
色々な立場から戦争を推進するのでしょうが
正当化する口実は
仲間の救出、保護ということが挙げられます。

局面においては善の気持ちで戦争を推進する人がいるのかもしれません。
善の気持ちが利用されていることは間違いないでしょう。

なぜ、見ず知らずの人と争い、
人を人とも思わない扱いをするか

多くの場合、人間の本性が善だからだと思うのです。

もちろん誰かを守るということよりも
自分を守るために紛争が起きることが多いのですが、
それとしても、自分の立場が主張の不安定であるために
自分が攻撃されているかもしれないという
過敏な感覚を持つことが原因の大多数だと考えれば、
人間が多すぎる世の中は、人間が暮らしにくい世の中なのかもしれません。

それでは、人間の本性が善である限り
人間は人間と争い、不安を抱き、苦しみ続けるのか
これを解決する方法が無いのか
ということが問われるわけです。

私は、これまで、漠然と理性という解決方法を考えていました。
ただ、理性をどのように使うべきかということは正直
具体的に思い当たらない状態でした。

この混迷から救ったのが
ポール・ブルームの「反共感論 社会はいかに判断を誤るか」(白揚社)
です。
この本は書店の社会心理学のコーナーで見つけました。

ブルームは、いま言った私の「善」の部分を「共感」と置き換えて
共感を否定しようと呼びかけています。

心理学の立場から共感が害悪を生むメカニズムとして
共感が当たるスポットライトが狭い範囲に限られるとして
その弊害を述べています。
自分の共感しやすい人は、自分の身の回りの人であったり
自分と同質性のある人なので、
客観的に支援が必要な人よりも、共感した人に支援が偏る不公平がある
というのです。

そして、「共感は、他の人々を犠牲にして特定の人々に焦点を絞る。また、数的感覚を欠くため、道徳的判断や政策に関する決定を、人の苦痛を緩和するのではなく引き起こすような方向へと捻じ曲げる」と指摘しています。

但し、ここからがブルームの主張の本質なのですが、
それらの否定的すべき共感と、あるべき共感と、
共感には二種類あるというので。
「情動的共感」と「認知的共感」です。

情動的共感とは
その人が感じているであろう感覚を追体験してその人のために何かをしようとする感覚です。
認知的共感とは、
「他者が何を考えているのか、何がその人を怒らせたのか、他者が何を快く感じるのか、その人にとって何が恥辱的で何が誇らしいのかを理解する能力」
としています。

そして、
「他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、時に満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果分析を行使したほうがはるかによい。」と結論付けています。

ここには道徳の本質というところと議論が重なり合っているのですが、
詳細は別の機会にいたしましょう。
既に対人関係学では、
道徳という規範は、人間の自然感覚とは別のもので、
人間の能力を超えた関りが求められるようになった
農業開始の頃に起源を求めていることだけ触れておきます。

道徳・正義・人権 | 対人関係学のページ (biglobe.ne.jp)

また、ブルームのいう情動的共感が妥当する人間関係もあるという
ことを主張しておきます。
これが家族です。
ただ、この場合、純粋な情動的共感を抽出する作業が必要で、
そのためには、相手に対する寛容が前提なのかもしれません。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)

誰かのために活動をする人、誰かを支援する人
それを職業やボランティアとしている人は
ブルームの反共感論を特に読むべきです。

自分のしている善で、善良な誰かを不当に苦しめているかもしれない
そういう視点は大切です。

もう一つブルームが言っていたことを付け加えます。
情動的共感によって、他者を支援する場合の弊害として
自分も同じように苦しんでしまうことによって
メンタルを消耗してしまう危険があるということでした。

真面目な人ほど、認知的共感を使う
ということを意識して追及するべきだと思いました。

他者への共感力(情動的)の低い人こそ、
他者を支援すべき人なのかもしれません。
それは現代に生きる人間としては
とても重要な資質かもしれません。

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