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【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だとすれば、ポール・ブルームの「反共感論」は、福音となる。(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)心と環境のミスマッチ。 [進化心理学、生理学、対人関係学]

【勝手に書評】人間の本性が善であることが紛争を生む原因だという結論に対して、ポール・ブルームの「反共感論」(AGAINST EMPATHY PAUL BLOOM)は、福音となる。心と環境のミスマッチ。

性善説、性悪説という言葉ありますね。
人間の本性は、善であるか悪であるかという議論です。
これは、単純な理由で性善説を指示するべきです。

その理由としては、もし、人間の本性が善でなければ
文明ができる前の脆弱な動物としての人間は
群れをつくることができないために
とっくに死滅していたからです。

そして、善とは
仲間の痛み、喜びに共感し、
仲間と平等に分かち合い、
仲間が困っていたら助け合い、
特に一番弱い仲間を助けようとする
ということにあると思います。

証拠は、私たちの心にあります。
他人が痛い思いをしたら、
ああ、痛いだろうなあと目を背けたり、顔をゆがめたりしてしまいますよね。
誰かが、抜け駆けして、自分一人が得することをしようとすると
反感を抱いたり、怒りを感じたりしますよね。
誰か困っている人を助けたりすると
安心したり、感動したりします。
弱くて小さいものを見ると、かわいいという感情が起きるでしょう。

こういう本性を持った人間だけが
群れをつくり、自分たちを守り
子孫を遺してきたわけです。
実に単純です。

性善説と性悪説の対立は
既に文明が生じてからの人間を固定的なものととらえるところに
思考方法の間違いがあったのです。

それでは、どうして本性が善であるのが人間ならば
身近ないじめ、虐待、ハラスメントがなくならず
犯罪や自死に追い込まれることがなくならず
戦争を次々と切れ目なく起こすのか
ということが疑問となると思います。

これも最近の科学によってある程度明らかになってきています。

人間(ホモサピエンス)が、その能力を超えた人数の人間と関わるから
本性が善であっても、他の人間を傷つける行為が止められない
ということにあるようです。

1説では、人間の脳が個体識別できる人数は
150人程度、多くても200人を超えるくらいと言われています。
このくらいの人数ならば、善を貫くことができるのでしょう。
元々というか2万年以上前までは、
人間は一生のうちこの程度の人間とだけ交流があったとされているようです。
そして通常は数十人単位で生活していたようです。

群れの頭数が維持できることが人間として生きる条件でしたから、
誰かひとりが苦しむと、頭数が減り自分の生存も危うくなりますから、
平等に分け合い、抜け駆けをせず、特に弱い者を守ろうとする心であることは
どうしても必要だったわけです。
逆にこういう心を持たない群れは、簡単に滅びたのだと思います。

多少自分が損をしても
弱い者を助けようとしたのだと思います。
誰かの失敗も、不十分なところも、みんなでカバーしたのでしょうし、
それは当然のことだったはずです。
誰かが獣に襲われたら
夢中になってみんなで反撃したでしょう。
個体としては弱い人間も、
こうやって他の動物から恐れられるようになったのだと思います。

人間の本性が先ほど言った善であることは
人間の始まりの頃にはとても都合が良かったのは、
人間が自分たちの能力に見合った環境にいた
ということも言えるでしょう。

ところがおよそ1万年位前から農耕が始まり、
人間が一生涯に会う人間が飛躍的に増えていきました。
文明が発展するたびにその人数は増えていきました。
今や、自宅のマンションだって既に200人を超えた住民がいる
ということも珍しくないでしょうし、
自宅から勤め先まで移動する間に
何千人という人間とすれ違うかもしれません。

そして厄介なことに、すれ違うだけの人とも
利害関係は衝突するわけです。
典型的なことは交通事故です。
見ず知らずの人と事故を起こし、
相手がお金が無くて困っているからと言って
重大な事故を起こしたり死亡したりした場合、
「いいからいいから」と笑って済ませることはできないわけです。

損害賠償の金額の折り合いが悪ければ
そのことに対しても
相手に怒りを覚えることは当然でしょう。

特に、自分の家族が犠牲になる場合は
その負の感情が強くなります。

しかしそれは、仲間を守ろうとするという側面から見れば
まぎれもなく善の心なのです。

子どもを厳しく育てる親は、
自分が社会の荒波の中で苦労をしていて
大人になる前に身につけておけばよかったと思うことが
たくさんありすぎたのかもしれません。
子どもを社会について行かせようと思う親心も善でしょう。

もし、家族がけがをしても社会全体が保護してくれるならば
相手に対する追及はそれほど厳しくならないかもしれません。
もし子どもが学校について行けなくても、
社会的に尊重されて、生活に追われることなく
良き伴侶を得て自尊心高く生活できるならば
それほど子どもに厳しくならないで済むかもしれません。

しかし、現実の社会は
他人と生存競争を戦っている状態があるわけです。
仲間ではない人間に囲まれているわけです。

人間の中にいるからと言って必ずしも安心できるわけではありません。
この不安定さ、あるいは不安な心ゆえに
もしかしたら、太古の人間よりも
仲間に対して、多くのものを要求しているのかもしれません。
そして、仲間と仲間ではない人間との間に
厳しく深い線が引かれているのかもしれません。

ただこれは客観的な利益状態ではなく
見知った人は仲間で、見知らぬ人は敵、すなわち人間ではないという
意識が自然と生まれているのでしょう。

ネット炎上等がその典型例です。

プロレスラーの木村花さんが、テレビ番組の演出を理由に
インターネットに攻撃的書き込みをされた事件で
先日、特に悪質な書き込みを送検したというニュースが流れました。

そこには、なぜ死なないで生き続けているのか、いつ死ぬのか
という趣旨の文面があったそうです。

そんなことを言われて平気な人はいないでしょう。
けれども、この書き込み者は、善の気持ちで書き込んだのだと思います。

テレビ番組の花さん以外の共演者を仲間だと無意識に感じてしまい、
仲間を攻撃する木村さんを敵だと線引きしてしまい、
敵である以上人間ではないですから
その人格や家族などその人の仲間の存在を一切捨象することができて、
思う存分攻撃をすることができたのでしょう。

そういう感情的になって正義を振りかざす人間は
少数であり、例外的だという人もいるかもしれません。

でもこういう、人間を人間と思う能力には限界がある
限界を超えると人間を人間扱いしなくなるという現象は、
自治体や警察でも行われています。

女性が夫からDVを受けたと相談すると
その女性の言っていることが真実か否か夫から事情を聴くことがなく、
女性は、公的に「被害者」として扱われます。
当然夫も、公的に「加害者」という名称で呼ばれるようになります。
そして夫は何の反論をする機会もないまま
妻と子どもたちを知らないところにかくまわれ、
子どもとも会えなくなります。

別居が開始され、収入の少なくない部分の支払いが強制されます。

そこまで抵抗する方法を奪われて
弁解の機会も与えられずに不利益を受ける原因があったのか
疑問が大きいケースが多いです。

ここでも、仲間と敵の選別が行われています。
目の前で、苦しんでいる様子を語る女性については
なるほど保護をしたいという善の心が自然と生まれるわけです。
夫に対する怒りの感情も生まれることでしょう。

一瞬で見ず知らずの夫は敵とされてしまい、
夫がどんな苦しみを抱こうが
人間を襲ったクマをみんなで串刺しにするような正義感で
夫が苦しむ行為を躊躇なくするわけです。

「加害者」は、人間扱いをされていないということを
理屈ではなく実感するため
メンタルをやられてしまうわけです。

しかし、加害者扱いをするのですが
何が本当であるか全くわからないというべき段階で
心情的に敵対的な感情を簡単に持つのが人間です。

どこかの思慮分別の無い人間が行うのではなく、
税金で給料を得ている公務員が
こういう状態なのです。

いじめも同じような始まりを持つことが多くあります。
最初は1対1の喧嘩でも
泣き出して、友達にアッピールすることができる人が
多くの仲間を獲得して
本当は悪いかどうかわからないもう一方は、
多くの同級生から攻撃を受けます。
多くの同級生は泣いた子どもを助けようとする
善の気持ちで行っていますから
容赦がなくなります。

もしかしたらパワハラも
会社の効率を、部下の人格よりも上に置いてしまい
効率を優先させるために行われるということが
きっかけであることが多いかもしれません。

戦争であっても
色々な立場から戦争を推進するのでしょうが
正当化する口実は
仲間の救出、保護ということが挙げられます。

局面においては善の気持ちで戦争を推進する人がいるのかもしれません。
善の気持ちが利用されていることは間違いないでしょう。

なぜ、見ず知らずの人と争い、
人を人とも思わない扱いをするか

多くの場合、人間の本性が善だからだと思うのです。

もちろん誰かを守るということよりも
自分を守るために紛争が起きることが多いのですが、
それとしても、自分の立場が主張の不安定であるために
自分が攻撃されているかもしれないという
過敏な感覚を持つことが原因の大多数だと考えれば、
人間が多すぎる世の中は、人間が暮らしにくい世の中なのかもしれません。

それでは、人間の本性が善である限り
人間は人間と争い、不安を抱き、苦しみ続けるのか
これを解決する方法が無いのか
ということが問われるわけです。

私は、これまで、漠然と理性という解決方法を考えていました。
ただ、理性をどのように使うべきかということは正直
具体的に思い当たらない状態でした。

この混迷から救ったのが
ポール・ブルームの「反共感論 社会はいかに判断を誤るか」(白揚社)
です。
この本は書店の社会心理学のコーナーで見つけました。

ブルームは、いま言った私の「善」の部分を「共感」と置き換えて
共感を否定しようと呼びかけています。

心理学の立場から共感が害悪を生むメカニズムとして
共感が当たるスポットライトが狭い範囲に限られるとして
その弊害を述べています。
自分の共感しやすい人は、自分の身の回りの人であったり
自分と同質性のある人なので、
客観的に支援が必要な人よりも、共感した人に支援が偏る不公平がある
というのです。

そして、「共感は、他の人々を犠牲にして特定の人々に焦点を絞る。また、数的感覚を欠くため、道徳的判断や政策に関する決定を、人の苦痛を緩和するのではなく引き起こすような方向へと捻じ曲げる」と指摘しています。

但し、ここからがブルームの主張の本質なのですが、
それらの否定的すべき共感と、あるべき共感と、
共感には二種類あるというので。
「情動的共感」と「認知的共感」です。

情動的共感とは
その人が感じているであろう感覚を追体験してその人のために何かをしようとする感覚です。
認知的共感とは、
「他者が何を考えているのか、何がその人を怒らせたのか、他者が何を快く感じるのか、その人にとって何が恥辱的で何が誇らしいのかを理解する能力」
としています。

そして、
「他者の快や苦を自分でも感じようと努めている自分に気づいたら、その行為はやめるべきだ。その種の共感力の行使は、時に満足を与えることもあるが、ものごとを改善する手段としては不適切であり、誤った判断や悪い結果を生みやすい。それよりも距離を置いた思いやりや親切心に依拠しつつ、理性の力や費用対効果分析を行使したほうがはるかによい。」と結論付けています。

ここには道徳の本質というところと議論が重なり合っているのですが、
詳細は別の機会にいたしましょう。
既に対人関係学では、
道徳という規範は、人間の自然感覚とは別のもので、
人間の能力を超えた関りが求められるようになった
農業開始の頃に起源を求めていることだけ触れておきます。

道徳・正義・人権 | 対人関係学のページ (biglobe.ne.jp)

また、ブルームのいう情動的共感が妥当する人間関係もあるという
ことを主張しておきます。
これが家族です。
ただ、この場合、純粋な情動的共感を抽出する作業が必要で、
そのためには、相手に対する寛容が前提なのかもしれません。

親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。:弁護士の机の上:SSブログ (ss-blog.jp)

誰かのために活動をする人、誰かを支援する人
それを職業やボランティアとしている人は
ブルームの反共感論を特に読むべきです。

自分のしている善で、善良な誰かを不当に苦しめているかもしれない
そういう視点は大切です。

もう一つブルームが言っていたことを付け加えます。
情動的共感によって、他者を支援する場合の弊害として
自分も同じように苦しんでしまうことによって
メンタルを消耗してしまう危険があるということでした。

真面目な人ほど、認知的共感を使う
ということを意識して追及するべきだと思いました。

他者への共感力(情動的)の低い人こそ、
他者を支援すべき人なのかもしれません。
それは現代に生きる人間としては
とても重要な資質かもしれません。

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