SSブログ

どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]



「死にたいと思っても、死ぬことが怖くて死ぬことができないはずだ
それにも関わらず、どうして命を絶つことができるのだろう。」

この疑問に真正面から取り組んだのが
ジョイナーの「自殺の対人関係理論」です。
この理論は、自死のメカニズムを探求するというための理論というよりも
今生きている人が自死を行う危険があるのか
あるとすればどの程度危険性が高いのか
という危険性の評価方法を構築して自死を予防する
という実務的観点から構築されています。

ジョイナーは、
リストカットや自死未遂という行為を繰り返すことによって
あるいは戦争などで人間が死ぬことを目撃して
死ぬことに慣れていくのだと考えました。
これをジョイナーは自殺の潜在能力が高まるという表現をしています。
つまり、通常の人間は死ぬことが怖い
うつ病であっても死ぬことが怖い
しかし、人間の命が尊重されない現実を体験していく中で
少しずつ、死ぬことに馴れていくということなのでしょう。
外科医であっても自殺の潜在能力が高まることを指摘しています。

ジョイナーによれば
この自殺の潜在能力の高まりとともに
自殺願望(所属感の減弱、負担感の知覚)がそろうと
自死の危険が極めて高くなるというのです。

自死リスクの評価を、
できるだけ客観的な個別事情によって評価しようとする試みは
極めて画期的で、
高い評価を受けています。

私も自殺の対人関係理論は強く影響を受けているというか
繰り返し勉強させていただいている理論ですし、
評価事項を作る上でとても有効な理論だと思います。

ただ、
自死の心理的メカニズムというものをもっと探求できるのであれば
それを知りたいという気持ちはあるわけです。

後付けの言い訳ですが、
もう少し心理的メカニズムが解明できれば
自死リスクの詳細で多岐にわたる評価項目を
もっとすっきりできるのではないかと思うのです。

専門的機関では、詳細な調査で自死リスクを評価するとしても
その専門的機関につなぐために
自死の危険性を、例えば家庭、学校や職場などで
簡単な要素で専門的評価や専門的な介入が必要だと
判断できるようになると
もっと有効な自死予防、自死介入ができるのではないか
と思うのです。

学校や職場は、自死の危険性を評価するための機関ではないかもしれませんが
もし、危険に気が付き、専門機関につなぐことができれば
かなり自死予防の効果が上がるのではないかと思うわけです。

心理的メカニズム、自殺行為に至るプロセスに焦点を当てた理論としては
日本の精神科医の張賢徳先生の「解離仮説」
というものがあります。
主としてうつ状態からの自殺の場合は、
自死行為の実行時、当人は解離状態にあるというのです。
解離状態とはどういうことかというと
Wikipedia(寄付をすることによって存続を呼びかけられています)
によると
「無意識的防衛機制の一つであり、ある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまう事である 。抽象的に表現するならば、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素が「私の体験」「私の人生」として通常は統合されているはずのもののほつれ、統合性の喪失ということになる 。」
とあります。
要するに、自分が自分でなくなっていて、自分の人格の発言として行動しているわけではない。わけのわからない状態。
ということなのでしょうか。
極端な例が二重人格の状態です。二人目の人格がはっきり確立していない場合が通常の解離状態だということでしょうか。

この解離仮説が、私の考察の出発点でもありましたから、
私にとっても大切な学説だということになります。

では、この解離状態はどういうメカニズムで起こるのか
あるいは解離状態の直前の状態とは何なのか
という疑問が出てきます。
自死を完遂できる場面というのは
他者に目撃されない場面ですから
その前の状態がわからないと自死は予防できないことになりそうです。

また、実際の自死のケースを後追いに見ていた場合
解離ということで説明がつくのか
(私の解離の理解が不十分である可能性は大いにあります)
という疑問も生まれしまいます。
どうも、冷静に、自死という行為を選択するケースも多いのではないか
遺書には、遺族に対するあふれんばかりの
愛情と謝罪が書かれていることが多く
こういう場合、少なくとも、わけのわからない状態というわけではないように
思います。

つまり、自分には死ぬ他に選択可能な方法がなくなったと
冷静に(この言葉は難しいですが、少なくとも静かに、興奮しないで)
判断しているという印象を受ける自死が比較的多いのです。

張先生は、
解離仮説に親和する考え方として、焦燥感や不安感が高まっている
という考え方を指示されているようです。
この点は、私も常々そのように感じていました。

では、焦燥感や不安感とは何か
それがどのようにして死の恐怖を凌駕させるのか
ということについて、まとめたいと思います。

もっとも自死の完成に至るプロセスは人それぞれ異なります。
しかし、これまで後追い的に自死を見てきて、
これから述べるプロセスは、
大きな柱となる典型的なプロセスであると考えています。

自死が起きる場合は、
実際に何らかの悩みがある場合が多いと感じます。
悩みの多くが対人関係的なもので、
学校や職場、家庭などで
自分が仲間として尊重されず仲間から追放されてしまう不安
仲間の中で顔向けできずこれまでの関係を維持できなくなるという不安
つまり仲間から離脱する不安
という形で不安を還元できると考えています。

(もちろん身体的な悩みを主たる悩みとして
自死リスクが高まるケースもありました。)

但し、精神的な不安定が明らかに先行しており、
口に出した不安の内容が荒唐無稽の場合もあります。
過敏になり、客観的には妄想的不安を抱いている場合ですね。
つまり確たる理由がないにもかかわらず、
不安や焦燥感が出現してしまう場合もあるということです。

人間は(本来人間に限らないかもしれない)
不安を抱くと、不安を解消したいという要求が生まれるようです。

犬が怖い人が、自分が進む先に犬がいる場合、
回り道をするとかですね。
危険の認知と回避行動との間に
危険に対する不安と「不安解消の要求」という
心理過程があると仮定してお話を進めます。

不安解消要求にもとづいて簡単に不安が解消できれば
不安は解消されます。
しかし、不安解消要求が発生しているのに
不安を解消されない場合はどうなるでしょうか。

不安解消要求は維持されたままになります。
そして不安が解消されなければ
不安解消要求は高く強く変化していくようです。

不安解消要求が高度に変化するとは、
なんとか不安を解消したいという想いが強くなると同時に
早く不安を解消したいという想いが生まれてきて強くなります。

感情が強くなるため、理性的な思考力が後退していきます。
理性的な思考力が後退するということは、
複雑な思考ができなくなるということです。
具体的には、
・二者択一的な思考になる
・悲観的な思考になる
・将来的な派生問題、因果関係の把握が難しくなる。
・他者の気持ちについて考えることができなくなる
・結果として視野が狭くなっている
ということです。

これは逃げる場合にとても都合の良い思考変化です。
但し、それは例えば文明ができる以前の
狩猟採集時代の場合において都合の良い変化でした。
このころの危険は、自然現象や野獣でしたから
何も考えないで逃げるという方法が一番有効だったのでしょう。
その時代から現代はせいぜい2万年くらいしかたっていないので
脳が対応できていないわけです。

だから、このような不安解消要求が持続してしまうと
人間の脳は、今生きるか死ぬかの瀬戸際に追い詰められている
というような極端な危機感を感じたように
動き出してしまうようです。

このため、ますます出口が見えなくなるわけです。
例えば途中で、
だれか他人に救出してもらいたいという意識が芽生えることがあり、
それ以外に方法が考えられない状態になりますから
その人に対する依存度、要求度も大きくなるわけです。
そして、その人から援助を拒否されると
絶望を感じやすくなることが多くあります。
つまりこの人だけが私を救ってくれる
その人が私を助けてくれない
では、解決方法はすべてなくなった。
という具合です。

さらにさらに、不安解消要求が大きくなります。
早く解決したいという要求も高まっていきます。

早く解決したいという気持ちは、
脳が勝手に生きるか死ぬかという場面だと勘違いして
それにふさわしい脳の活動をしているわけですから
外のすべての要求よりも不安解消要求を優先してしまうわけです。
今は生きることができればそれでよい
あとはどうなっても良いという心理です。
これが焦燥感です。

既に、不安の原因を除去、修正しようというような
論理だてをした思考をすることは、そもそもできない
発想としても生まれてこない状態になってきます。
不安が解消されればそれでよいという姿勢に一貫されるようになります。

そして早く不安を解消したいという悲鳴が生まれてきます。
元々は、がむしゃらに何も考えないで逃げるためのシステムでした。
おそらく人類の多くがこのようなシステムによって
野獣などから逃げ延びて、我々が生まれてきたのだと思います。
しかし、生きるためのシステムが、生き延びる方向と
反対側の行動を促し始めます。

何かを行って不安を解消できていればよいのですが、
アルコールやドラッグで不安を一時的に感じなくしようとしたり
自傷行為で不安の感覚を消そうとしたりする行為がみられてきます。

その究極の不安解消要求に基づく不合理な思考が
「死ねば不安から解消されるのではないか」
という希死念慮の芽生えです。
じっくりと不安の原因を探求して解決を目指す
という姿勢はなくなっています。
そういう気力が無くなっているという表現がリアルかもしれません。

この早く解決したい、しかし方法はない、しかし早く解決したい
という堂々巡りが焦燥感です。
焦燥感が大きくなっていくと
ますます思考力がなくなっていきます。

さらに、解決するという方法ですら思い浮かばないにもかかわらずに
早く解決をするという方法までを探さなければならなくなるため
ますます解決の可能性が狭まっていくわけです。
そうするとさらに絶望しやすくなってしまう
なんでもよいから不安を解消したいということになりますから
死ぬことを考えると、
長いトンネルの出口が見えたような少し明るい気持ちになるそうです。

また、
不安と向き合う時間は、初期は短く、
眠れば忘れるほどでしょうけれども
どんどん長い時間不安にさらされるようになります。
眠れなくもなるようです。
これがさらに思考力を奪います。

自死すれば死ぬということの意味も十分把握できず
つまりデメリットを正しく評価できなくなり、
不安が解消されるという結果だけが意識に上るようになります。

取りつかれたように自死行為を行う
という事例もありましたが
こういう状態だったのかもしれません。
多くの事例では、
自死というアイデアが生まれ、それを決行する日時を予定すると
静寂の気持ちを取り戻し、
遺族に対する謝罪と感謝をつづった遺書を記したりするようです。

既に死は恐怖ではなく、
安らぎ、温かいイメージ、明るいイメージになっています。
むしろ自死行為を取りやめるということが
不安に苦しめられる時間に戻ることですから
恐怖を抱くのかもしれません。
なかなか思いつくことも難しい状態になっているようです。

死ぬことを思いついて
冷静になっているように見えますが
意識は確実に死ぬことだけを目指しているようです。

この状態で家人などに発見されて
自死を思いとどまるように説得されると
本人は、確実に死ぬことしか考えていませんから
説得を受け入れたような態度を見せ、安心させ、
すきを見て自死に至るという例も複数ありました。
一見冷静に見えますが、
既に、絶望の果ての強固な自死の意志が生まれているわけです。
私は、そこには自由意思はないと思っています。

この状態で自死を思いとどまった事例で私が知っているのは、
自分の周囲に対する感謝や愛情ではなく、
憎しみや敵意のようです。
「死んでまで相手を喜ばせることは許せない」
という怒りが不安を握りつぶして自死を思いとどまった事例が
実際にあります。

なお、自死が失敗に終わって救急搬送され、入院しているときは、
自死の原因を作った不安から一時的に解放されていますから
例えば、2週間以上の入院が確約されている場合は
不安の源から離れることができるために
一時的に自死の意志が弱まっていることが
多く観察されます。
思考をする余裕も出てきます。

この時期に適切に、適切な人材がかかわることによって
不安の原因について考察をして、
必要な人間関係の状態を改善することで
自死リスクを解消することができる場合があります。

つまり本人の考え方(認知)を変えるだけでなく、
退院後に本人を取り巻く人間との関係が改善されることが
とても大切なことだと思います。
私がかかわった事例では、親の力が有効でした。

オープンダイアローグ的な発想が有効だと思います。

対人関係的な不安で私が強調したいことは
一つの人間関係、例えば職場で自分が追放されると感じた場合、
本来離脱しても人生において大した不利益にならない人間関係で
他の人間関係、例えば家族などにおいては
尊重され、大切にされていたとしても
職場での孤立感、疎外感によって
世界中から自分は孤立しそうになっているという不安を
脳が感じてしまうようだということなのです。

おそらく、人間がチンパンジーと別れて600万年前、
農耕集落ができるまでの2万年前
この間、一つの群れだけで一生を終えていたことの
脳の名残なのだと思います。

このように人間にとって群れとは、
水や空気のように、生きるための不可欠な要素だと
脳が思い込んでいて、進化できていないようです。

自死をする人たちは、必ずしも自傷行為をしておらず
アルコール依存症にもなっておらず
突然自死する場合があります。

ただこういう場合でも、多くのケースで

自分を取り巻く人間たちから
自分が尊重されていない、仲間として認められていないという
いじめやハラスメントが繰り返されていることがあります。

おそらく人間が生きるということは
生物学的に生きるだけでなく
自分の周囲の仲間の中で尊重されて生きるということなのでしょう。

仲間の中で尊重されない体験は
自分の体を傷つける自傷行為や戦争のように
自殺の潜在能力を高めているのだと思います。

また、自死前に社会的な逸脱行動をする場合がありますが、
(自分の評判を落とす行為を理由もなくやってしまう)
それはある意味自傷行為と同じなのかもしれません。

それでは、以上のまとめの中から
直感的に自死の危険が高いと判断する要素を抽出してみます。

自殺未遂は、当然高い自死の危険があるわけです。
一見冷静になったように見えても、
冷静にこちらをだまそうとしている可能性があります。

原因がどこにあるのか分からず、
何ら不安解消要求が解消される出来事が無ければ
自死リスクが極めて高い状態で維持されていることは当然です。

衝動的な行為が目立ち始め
特に刹那的な理由での行為で
社会の評判が落ちることを気にしないような行為
しかし、落ち着くとどうして自分がこういうことをしてしまったのだろうと
激しく公開するような態度を見せる場合はかなり危険だと思います。

解離状態に近いとうことになるでしょう。

衝動的な行為に暴力が伴う場合は
不安解消要求が自分では収拾つかなくなっている状態ですから
とても危険です。
特に暴力の対象が他者に向かわず、
自分に向かっている場合、自分の持ち物に限定して向かっている場合は
自分がなくなってしまうことによって不安が解消されるかもしれない
という感覚が生まれていると考えた方が良いでしょう。

仮に確定的に自分が死ぬ意図が無くても
「死ねたら死のう」みたいな感覚で、はたから見たら事故のように
死ぬ危険のある行為を行うことが若年者を中心として見られます。

また、いじめだけでなく、クラスや同僚から受け入れらなくて孤立し、
多数派から侮辱されたりからかわれたりすることが続くと
行き場のない気持ち、解決不能の気持ちになりやすく
自殺の潜在能力が高まりますから
何らかの解決が必要です。

先ずは家族など支援的仲間があることを
強く意識付けすること
次に問題のある仲間をチェンジすることです。

自分は悪くないのに転校しなければならないのか
転職しなければならないのか
という気持ちはわかりますが、
そのようなこだわりよりも命が大切だと思います。

そして最近つくづく思うのですが、
私の依頼者の方の何気ない発言で衝撃を受けたのですが、
変な行動をしたら、心配する
という仲間として当たり前の気持ちをもつことが
自死予防のすべての出発点になりそうです。

面倒くさいな、けむったいなと思われる行動を
衝動的に行ってしまうのが
自死リスクの高い状態です。
迷惑をかけるわけです。

そのときに心配になるということは
家族でも難しいかもしれません。
でも心配して、その心配を本人に伝える
ここから始めるということが
大前提になるようです。

変な行動をしていたら理由を聞いてみたくなり聞いてみる
これが自死予防の第1歩かもしれません。

nice!(0)  コメント(0)