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新型コロナの自死に及ぼす影響の試論 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


1 今年の日本の自死者の動向

我が国の自殺者数は、小泉政権の頃をピークとして、それ以来減少を続けていた。第一次緊急事態宣言が出されていた6月までは、毎月の自殺者数は近年もっとも低かった前年比でも減少を続けていた。ところが7月に前年比増加となり、8月は女子中学生、女子高生での顕著な増加がみられるなどさらなる増加が見られた。それ以降の前年比は、明らかに増加している。それでも9月までは、平成27年とほぼ同様の自殺者数であったが、10月は極めて高い数字になり、11月には、平成27年と同様の自殺者数に戻ったが、近年では高い値を示している。特に女子高生の自殺者数は、例年一ヶ月あたり数件程度であったが、今年は8月以降は二桁の月が多い。女性の自殺者が増加しているという特徴があるが、前年代で見ると、男性の自殺者の方が多いことは例年通りである。

2 1月から6月までの自死者の減少

1月から6月までは、近年の最も自殺者数の低かった前年を下回る自殺者数であった。すでにコロナの問題は大きくなっており、緊急事態宣言も出された。マスクなどの予防グッズは品薄になり、入手困難となった。志村けん氏や岡村久美子氏の死亡も報道され、コロナの恐怖も現実的になったはずだが、自殺者数は減少した。
この理由については、ある程度、国も把握しており、大規模災害の際は、連帯感や帰属感により、自殺者数が減少するという現象が指摘されていると報告している。東日本災害の前からこの見解は実証的に証明されていた。東日本大震災の際も同様であった。
この事実は、自死の原因として孤立感が大きな要素であることを示している。
この時期には、多くの人達が、同じ思いでいるということを実感していたと思う。人々は理屈抜きに、繁華街から足を遠ざけたし、マスク不足を嘆いていた。政府に対して批判をしていたし、定額給付金も受給できていた。自分だけが苦しいわけではないということは、孤立感を解消し、自分が社会の一員であるという意識を醸成するという効果があったと思われる。
これに対して、政府のコロナ対策の政策が自死者現象の要因ではないかという指摘が主として政府筋からなされているようである。これも否定する必要はなく、社会の一体感を醸成することに一役買っていると評価して良いと思われる。大事なことは、そうであれば、今後も定額給付金の支給など6月までになされて有効だった政策を今後も行うべきだということになる。

3 7月と10月の自死者の急増とウエルテル効果

7月8月と10月に自死者が急増した理由は何であろうか。指摘されているのは、7月に俳優の三浦春馬氏の自死の報道があり、9月末に女優の竹内結子氏の自死の報道があったことである。有名人の自死が起きると、連鎖的に自死が増えるという理屈である。いわゆるウエルテル効果があった可能性を否定できない。
しかし、ウエルテル効果という言葉だけで説明を終えることには疑問がある。ウエルテル効果で終わってしまえば、自死の予防方法は報道のあり方の対策だけになってしまうし、結論としてあまり有効な対策がないということになってしまいかねない。
有名人の自死が引き金となる自死は、有名人が死亡したことで希望を失って自死が起きるという単線的な話ではない。例えば、有名人が病死をした場合は、連鎖自殺はおきにくい。元々自死の要因があり、最終的に、有名人の自死が最後の一押しとなり自死が起きたという分析がなされることが通常であろう。
問題はどうして最後の背中の一押しとなるかにある。
考えられることの一つは、有名人はテレビなどに露出する機会があり、日常的によく目にする存在である。心理的に、自分の仲間とか、身近な存在だと錯覚してしまう効果が生まれてしまう。その身近な存在が自ら命を断つということで、死の恐怖が軽減されてしまうという効果が生まれてしまう。人は、苦しみ悩むことがあっても、死ぬことは恐怖である。このため自死ができないという構造がある。しかし、その恐怖を打ち破って自死をしたものが身近な者である場合は、あるいは同じ苦しみを抱いていたと感じている者の場合は、死の恐怖を軽減させる効果があるようだ。考えられる理由の二つ目は、自分の抱いている不安を解消する方法が見つからない場合、自死という方法で不安から解消されるというメッセージを受けてしまうことだ。これは自死の方法が具体的に示されれば具体的なほど、メッセージは強いものになる。不安の解消方法が見つからずに精神的恐慌に陥っている場合、具体的な不安解消方法が示されてしまうと、それを行わないで自分を押しとどめる力が弱くなってしまうようだ。若年の自死者の多くが、自殺の方法が掲載されているインターネットのサイトを閲覧しているようだ。精神的に追い込まれているものにとって、具体的な自死の方法をテレビや新聞で知らされることは、苦しみから解放されるためには、こうすれば良いのだよという悪魔の誘惑となっているということなのだろう。
ただし、自死の原因はさまざまであり、連鎖自殺、群発自殺があったからと言っても、本来であれば、追い込まれた原因はそれぞれのはずである。しかし、今回、コロナという大きな出来事があり、この問題と自死の問題を関連づけないわけにはいかない。

4 前提としての個別事例の調査の必要性

現在のコロナと自死の原因の検討に対して、マクロ的な視点はあるものの、ミクロ的な視点が検討されているということがあまり聞かれない。つまり、実際の自死者がどのような背景の中で自死したのかという事情の調査が行われたという話を聞かない。
統計的にコロナが自死の原因になっているだろうという推測は可能であるが、では、どのように自死と関係があったかという具体的な事情は不明のままである。
このため、それぞれの立場に都合の良いように、コロナと自死を関連づけている見解が目につく。コロナ禍に便乗して自分の主張を展開しているかのような者も残念ながら目につく。

とはいえ、私の以下の試論も同じようなものである。どうかそう言う目で私の考えも読んで欲しい。

5 対人関係学と自死のメカニズム 不安解消要求の肥大化

自死のメカニズムについては、先日のべた
どうして死の恐怖によって自死行為をやめようとしないのか。自死のメカニズムのまとめ 焦燥感の由来 何に気を付けるべきか

ごく大雑把に要約すると
対人関係問題、健康問題など解決不能の問題に直面すると、人間は合理的に思考する力が低下していく。思考力の低下は、複雑な思考の低下、二者択一的思考の傾向、悲観的傾向、因果関係や他者の感情把握の困難性などの具体的な現象となる。不安が解決しなければ不安解消要求も大きくなり、解決不能感がさらに持続していくと不安解消要求も肥大化してゆき、更なる思考力の低下と相まって、不安解消要求が最優先課題となってしまい、表面的には生存要求をも凌駕してしまう。通常時の死の危険からの解放を求める衝動的要求と同程度の強い自死への衝動により自己抑制が効かなくなり、自死に至ってしまう。
と言うものである。

6 コロナ不安と自死のメカニズムの親和性

コロナ禍の現状は、このような絶望を抱きやすい不安が存在する。
人類が体験してこなかった事態である。これが当初は、良い方に作用した。気温の上昇とともに、収束に向かったかのように思えたと言うこと、おそらくこんな感染力のあるウイルスはこれまでなかったのだから、今回も一時的なものであり、時期が来れば収束するであろうと言う期待を持つことができた。それまでの辛抱だという希望があった。しかしそれは根拠のないものであった。
収束するかと思われたにも関わらず、収束しなかったと言うことは大きなダメージである。ふわりと浮いてから地面に叩きつけられたようなものである。落差効果も生まれてしまった。その後、気温低下とともに、これまでにない蔓延が起き、絶望が起き始めた。その時々の芸能人の自死は、元々あったコロナの精神的ダメージによる効果に、自死による衝撃を上乗せさせた形になった格好なのではないかと推測している。
コロナの問題は、目に見えない感染ということで、不安を抱かせる。しかし、その解消方法は見つからず、収束に向けた動きも見えない。思考力の低下、悲観的思考傾向への誘導が起きやすい事情である。症状や後遺症の内容も曖昧なところがあり、治療法も確立されていない。漠然とした不安を抱きやすく、不安の解消が困難であるという極めて危険な不安形態である。つまり、自死の背景になりやすい不安なのである。

7 不安と個性 そして女性

人の反応は一様ではない。コロナ問題が解決しなければ、不安が増加する人もいれば、馴化してしまう人もいる。つまり慣れてしまうと言うことだ。心配をしても、自分にとって悪いことが起きないと言うことが続くと、不安を解除してしまう性質は自然のものである。防犯グッズを集めて防備を固めた人もいれば、第一波の時は外出しなかったのに感染者が増大しているのに忘年会などに出席することに抵抗がなくなってしまった人もいる通りである。
生まれつきの性格ということもあるだろうが、どうやら人間は他者との関係で心理的な変化をするようだ。それにも個性があり、仲間が怖がっているときに無条件で自分も怖がる人、仲間が怖がっている姿を見て逆に冷静になり合理的な行動をしだす人もいる。どうやらこういう群れの中のランダム化、結果としてのバランス化が人類の強みだったようだ。
このため不安の性差は分かりづらくなっているが、どちらかというと身体の一体性や安全性に神経質になりやすいのは女性の方ではないかと感じている。男性の方が多少怪我をしてもやるべきことがあればやってしまう人が多いような気がする。男性の方が向こうみずの者が多く、馴化しやすい者が多いのではないだろうか。
もしそうだとすればということになるが、コロナ不安の影響を受けやすい人間は、女性の方が多くなるのではないかという推論が可能となる。

8 自死の予防に向けたコロナ対策

感染が目に見えない。感染すると命の危険があり、後遺症もあり、他者にも感染させてしまう危険がある。自分だけが気をつけても、知らない間に感染している可能性がある。感染の危険が減少するどころか、現在は増加傾向にある。底が見えてこない。
これらの事情は、コロナ不安を起こしやすい事情である。しかし、どこまでその不安が合理的なものかについては、争いがあるようだ。
ただ、自死予防の観点で必要なことは、客観的事実のありかではない。不安は主観的なものであり、合理的な思考によって不安が解消される人もいれば解消されない人もいる。自死予防で想定されるべきモデルは後者である。
もっとも大切なことは、他者の不安を否定しないことである。不安をコントロールするべきだという議論は、一見合理的に見えるが、心理的な実情からすれば極めて乱暴な議論なのである。自分が落ち着いているのは、そばにいる人が不安になっていることの逆説的効果なのかもしれないということを意識するべきである。

第二波の女性の自死者の中で、同居家族が多い人の割合が多いと言われている。即時に家庭内暴力に結びつける論調がある。これがコロナ便乗の主張の典型である。母数を考慮する必要がある。一人暮らしをしている女性と同居者のいる女性ではそもそも圧倒的な差異があるはずだ。もし、同居者のいる女性の方が、一人暮らしの女性よりもそもそも人数が多かったならば、同居者のいる女性の自死者が多くなることは当然のことである。また、このような乱暴な推論は、自死の理由を同居者にあると主張するものであり、遺族を鞭打つ主張となる。

但し、もし私の推論が正しければ、つまり、女性は男性よりもコロナ不安に敏感であるにもかかわらず、男性は女性のように不安を感じていないという構造があるのであれば、それが自分が家族から攻撃を受けていると感じることの要因になっている可能性がある。そしてその不安格差を是正する方法もあるということになる。

何よりも、他者の不安を尊重するという態度である。それは他者の不安を否定しないということである。不安をバカにしたり、不安になっていることを責めたりする場合もある。こういうことをしないことを意識することである。
不安の否定、嘲笑や叱責があると、不安を抱いている者は、ことさら自分を否定されたと思いやすくなり、自分の理解者がいないということで、孤立感や疎外感を感じやすい。自分を理解してくれる仲間を外に求めることができればそちらに向かってしまう。また、表面的な共感を渇望してしまう傾向になる。それらの外部での不安の緩和方法がなかったり、外部の相談機関がクライアントに共感することに夢中で、家族を否定する回答することにためらうことがないならば、家族の些細な言動が、自分に対する精神的虐待だと感じやすくなってしまう。
家族は、自分以外の家族の不安をきちんと受け止めることが肝要だということになる。過敏な不安に追従する必要はない。意見が違う場合でも、相手を否定しないでじっくり聞くことはできるはずだ。否定の結論だけが示されてしまうと、不安は減少せずに焦燥に変わりやすくなる。思考力の低下が進み、悲観的傾向が強くなる。否定されないで、むしろ共感を示されることによって、悪循環が絶たれて、思考力が回復し、漠然とした不安から合理的な対応へ変化する道も切り開かれる。「心配する必要ない。」と言うよりも、「あなたは心配しているんだね。心配の種は尽きないね。」という方が、不安は減少するということを覚えるべきだ。
コロナが原因で家族が崩壊するということを避けるという発想から、コロナを機会に家族力を育むという発想が明るい気持ちになれるのではないだろうか。不安に対応することが意識的に行われれば、それは対人関係を強化する。

社会的には、コロナの科学的な解明とそれを分かりやすく伝えるということが必要だと思う。コロナの問題だけは、政治的な立場や自分の主義主張による便乗をできるだけ排除しなければならないと考えている。また、科学的なことをわかりやすく伝える努力があまりにも欠けているように私は感じているが、どうだろう。わかりやすく説明するためには、メリットデメリットや、各対策の限界についてもごまかさず伝えていかなければならないだろう。
例えば、第三波とも言える令和2年11月からの感染者の爆発的増大であるが、政治的な失敗が多く指摘されている。そういう側面もあるかもしれないが、私は、ウイルスの性質もあるのではないかと考えている。つまり、第1波の収束は、気温と湿度の上昇およびマスクの効果により、飛沫感染が起こりにくくなったことによるもので、11月からの増大は、気温の低下と湿度の低下により、飛沫感染が起きやすくなったということは考えられないだろうかということである。もしそうだとすると、必要なことは3密とマスクだけでなく、湿度管理、水分補給ということを意識することという視点も強調されるべきだ。もちろん、冬は飛沫感染が起こりやすくなっているのであるから、マスクをしても密集、密室、密接は感染リスクを高める。夏に感染を起こさなかった行為も、冬は感染を起こしやすいのである。後ろ向きな政治的な失敗を指摘し続けることは、本当に今しなければならないことの行動提起が疎かになる危険があるように思われる。現政権を批判するよりも、国民が望んでいるリーダーシップを取ることの方が、政権の帰趨により現実的な変化を与えるだろう。

また、コロナの対策の科学的検討を国をあげて推進するべきであろう。特に重症化を防止するための方策と重症化からの回復の方法の検討を行うことが不安の増大化を防ぐために効果的ではないかと思われる。そしてこれらの研究、検討は、途中経過をどんどん報道するべきだと思う。大規模に検討しているということを知ることが、希望につながる場合も少なくないと考える。

そうやって、国民の対立をできるだけ縮小する方向に国は誘導するべきだと思う。国にいる全員が利害共同体なのだから、みんなでコロナに向かっていくという一体感を作り出す方法を積極的に取り入れて行くべきであろうと思う。

今やってはいけないことは、個人を分断させることだと思う。コロナ警察という社会現象も、コロナ不安によって感情的な意味合いを増強させている。不安は、社会に対しての公正さを強く求めるようにさせるのである。政策に、不平等を感じなくさせるように努力することが必要になるだろう。そして、不安を解消させる方法、他人を責める方法に変わるエレガントなやり方を具体的に提示するべきである。そのためには和やかな議論は必須だと思われる。相手を否定しない議論のサンプルを示すことはとても有効だと思う。また、自分の意見を社会が受け止めるという仕組みづくりも有効だと思われる。

今回色々と私見をごちゃごちゃと述べさせていただいた。今後、自死の分析が進む中で、さらに様々なことがわかってくると思われる。そのためにも、できる限り個別事情にあたることが必要となるはずである。その基盤がないことと、社会の未成熟、民主主義の未成熟がコロナ不安を増強させているような気がしてならない。
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