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【草稿】深刻ないじめが発覚しない原因 いじめ対策、若者の自殺対策が理解していないこと なぜ若者がSOSを発することができないか [自死(自殺)・不明死、葛藤]



1 本人の自覚

リアルタイムに深刻ないじめを受けているという自覚を持つことは実は難しい。第三者によって言語化されることによってはじめて気が付くことがある。さすがに深刻ないじめが完成した後では、いじめだと認識できても、軽微な段階からリアルタイムで自分は今いじめを受けているということを認識することは実は少ない。
ではどう感じているかというと、なんとなく苦しいと感じているが、自分が不当な扱いをされているために苦しいということはなかなか自覚できない。何が起きているかよくわからないということが実感に近いようだ。だから誰かに言葉に出して相談することができない。
これは大人のパワハラも同じである。
自分に原因があると責めること、誰かに相談することで行為者を窮地に陥らせるのではないかと心配すること等から、行為者に対する配慮のため深刻ないじめを受けていることを口に出せないことが指摘されているが、実ははっきりと自覚していないということで説明できる。
自分が何らの原因もないのに、不当な扱いを受けるということは、解決の方法がないという絶望につながる発想なので、何か理由を見つけようとすることも人間の本能である。絶望回避の思考をしてしまう。

友人や知人などから、「それはいじめじゃないの」と言われて、深刻ないじめを受けているということをはっきり自覚できる。但し、その後も解決の方法が見つからない場合は絶望感を抱くことになる。

2 本人の自分に対する言い訳

理由なく深刻ないじめを受けているということを自分でも認めたくない。そのため、攻撃を受けていると感じても、それは攻撃ではなく最近はやっている遊びであり、行為者には自分に対する敵意がないと思い込もうとする。友人であり、仲間としての扱いだと思い込もうとする。このため、自ら相談しようとする行動がとれない。

3 いじめのさらなる深刻化

行為者は、ターゲットがいじめを拒否しない場合、さらに加害行為を強める。これも人間の本能である。行為者の不満や不安のはけ口になるのである。行為者のその不満や不安は、通常ターゲットとは関係がない。自分の進路のこと、自分の家庭などの境遇のこと、兄弟や友人など自分の人間関係のこと等である。不満や不安が強い場合、誰かを攻撃することによって、不満や不安を感じない時間を作ることができる。攻撃とは怒りの情動を伴うが、この怒りの情動にはいくつかの特徴がある。
・不満や不安がエネルギー源になる
・不満や不安を与える根本原因に対して必ずしも怒りは向かわない。
・怒りは、自分より弱い者、戦えば勝てる者に対して向かう。
つまり怒りには八つ当たりがつきものである。

ターゲットが行為者の加害を拒否しないで受け入れるということは、行為者にとっては、ターゲットに対して確実に勝てるという確信が深まるだけである。ターゲットとは関係がない不満や不安がある限り、無抵抗なターゲットの存在は怒りを増幅させるだけである。行為者は自らの怒りに支配され、加害行為をやめることがなかなかできない。
だからいじめはさらに深刻化する。

さらに深刻化する要素としては、ギャラリーがいじめに参加することである。ギャラリー自体が不満や不安を抱えていること、攻撃しやすいターゲットが存在すること、複数の行為者の一人であればこちらに反撃してくることが考えられないことから、怒りの法則によってターゲットが怒りの対象となりやすくなる。

4 深刻ないじめの理由は何でもよい 通常は行為者の正義である

  上記のとおりであり、深刻ないじめの場合も、ターゲットに深刻ないじめを受ける理由がないことが多い。しかし行為者は、他者を攻撃している自覚があるため、それを正当化する言い訳をしている。複数人のいじめの場合は、特にその傾向が強く、言い訳を共同化することによって、深刻ないじめをすることが正当であるという一種の規範意識を醸成している。
  例を挙げてみる。
 ・ スポーツ推薦で入学を狙っていて、学校では品行方正にしなければならず、それなりの成績をとらなければならない生徒が、発達障害疑いのある生徒がそのような精神的緊張なく学校生活を送っていることから、発達障害であることを揶揄したことやその他の加害行為をした事例。
 ・ 毎日ハードな部活動を送っている生徒たちが、部活動を休んでいる生徒に対して、SNS等で仲間はずれにした事例
 ・ スポーツもピアノもよくできて、学校からも称賛を受けている生徒を、本人が自慢しているわけでもないのに、不道徳にも自慢しているとして執拗に嫌がらせをした事例(これは自分がターゲットから攻撃を受けているという感情を持った可能性もある)
  ターゲットは、自分なりに普通に生活しているにもかかわらず、行為者が苦労して環境に適応しようとしている場合、そのような苦労を否定されたような感覚になるようである。「あいつばかりずるい(正義に反した振る舞いをしている)。」という感覚を持ってしまうと、人間は相手に対して容赦がなくなるようだ。

5 それでもSOSを出せない理由、受け止められない理由

 1) ターゲットは周囲の大人を信用していない。ひとたび救助要請行動をすると事態はさらに悪化することを予想している。
ターゲットの過去の学習としては以下のものがあげられる。
<かつて、別の問題で親等に相談したら>
親がパニックになり学校に怒鳴り込んで、自分が学校での立場が悪くなったことがある。逆に友達が引いてしまった。
相手の子どもに対して直接怒鳴って変な親だと思われた。
些細なことで感情的になり、自分を守ってくれない。
教師に言ったところ、行為者と握手をさせられて、終わりにされた。それ以来行為者から嫌味を言われたり嫌がらせがエスカレートした。
  (大人が解決の手段方法を持っていて、華やかに解決して見せることによって、子どもは大人を信頼する可能性が高くなるようだ。)

 2)大人も深刻ないじめではないと思いたがる。
   自分が受けている行為を相談しようとしても、気にするなとか、気持ちの問題で処理しようとする。自分が攻撃を受けているわけではないから、相手の心に対するアクセスを中断すれば世界は平和になる。別の案件に没頭することができる。
   驚くことに、いじめ自死の事案の多くで、ターゲットは出来事を担任に報告している。担任も苦しそうにしていることは確認している。しかし、深刻ないじめであるという自覚をリアルタイムでは持てていない。SOSは受け止める側の問題である。
   ボーダーラインが、深刻であるために自死につながるいじめか、自死までには至らないかという線であり、その線は大人の忙しさによって高くなったり低くなったりする。

 3)そのような大人も自分の仲間であると思うことがSOSを発信しない理由
   「自分はいじめられている」ということを言うは、「自分は人間として否定されるべき人間だと思われている」という心配を持つようだ。それを言ってしまうことで本能的に心配することは以下のとおりである。
   ・自分が家族や学校から、一人の仲間として見られなくなるのではないだろうか。
   ・自分は特別扱いされてしまい、今までのように普通の仲間として扱われなくなるのではないだろうか。
   ・自分の居場所がなくなるのではないか。
   例えば家族の場合、子どもであろうと大人でも、学校や職場で辛い思いをしていても、家に帰れば家族として普通にいつも通りに接することができるという想いを頼りに家に帰ってくる。それが、かわいそうな子、普通ではない子、社会でやっていけない子として特別扱いされてしまうと、家族が仲間ではなくなってしまう。
   うつを家族に隠す人たちは、なぜ隠すのかという問いかけに対して、「家族が自分の最後の砦だから」と回答する。それは、こういう意味なのではないかと考えている。

6 SOSの発信と受信とは何か

  若者の自死対策として、国は、SOSの出し方教育を掲げる。私は、その意味がまるで分からない。せめて、何がSOSなのか、いつどうやってSOSを受け止めればよいのか、それだけでも説明してもらいたいが、対策をどう実行したかについても報告は極めて少ない。
  上記の説明から、既に深刻ないじめが完成した後でSOSを出させようとしても、無理と言わないまでも極めて困難であることが理解されたと思う。
  先ず、深刻ないじめを防止するためには、きわめて早期に不当な攻撃を受けているということを言語化し、自分が不快な気持ち、悲しい気持ち、寂しい気持ちになっているということを表現させる必要がある。この段階であれば、行為者の側も修正は容易である。それをさせる大人も深刻に考えないですむ。
  早期に異変を口に出させるためには、異変であろうとなかろうと情報の提供を受けることが最も大切である。普段会話がないのに、いじめの話だけを提供しろということはどだい無理な話である。幼稚園、保育所から小学校高学年までは、親は我が子の友達の名前を記憶して、説明抜きの話を聞く習慣を持つべきである。そのためには、幼稚園、保育所の時から、子どもが親に話をすることが楽しくなる時間を習慣化することである。
  楽しい会話のためには、話を遮らないこと、興味を持って聞くこと、感情を共有すること。レスポンスが楽しいこと等である。子どもは、人間のプロトタイプであり、また相手の家族のことも分かってしまい、なかなか興味深い。
  それでも深刻ないじめのごく初期であっても、子どもの心はとても傷つく。いったん深刻ないじめが解消されたとしても、数年たって、些細なことで、「あの時のように、またいじめられるのではないか。」と、必要以上にと思われるほど過敏、過剰な反応を見せる。
  また、時期が遅れたとしても、SOSは受け止めなければならない。SOSは言葉で発信されることはあまりない。表情、感情の乱れ、行動、特に逸脱行動や怒りの行動、破壊的な行動が起きる場合がある。いつもと違う場合には、話せる環境を整えてあげる必要がある。動揺しないこと、特別な珍しいことではないこと、どんな時も自分が子どもの見方であり、子どもの不利益になることはしないことを示す。また、子どものいやがる行動には出ないことを表明してあげる。そして、普段通り、これまで通りの対応を継続する。特別に庇護するとか、はれ物に触るような態度をしないこと。
 (自死はいじめがなくても起きる。いじめがないことで安心してはならない。)
  そして子ども本位に考えて行動すること。よく親は深刻ないじめを子どもが受けていると、怒りの感情が強くなる。相手を制裁しなければ気が済まなくなる。それはそうだ。しかし、それをすることで子どもの立場や子どもの感情をさらに侵害してしまう危険性が高い。親は、どんな場合でも、生命身体の危険に対しては身を挺してでも子どもを守ろうとするが、社会的な危険に対しては自分の感情を優先し、子どもの感情を顧みようとしなくなる。このことはなかなか自覚することができない。子どものためと口で言っても、実際は自分の感情を大切にしているだけのことがとても多い。怒りに任せて子どもを通学させることは、結局子どもを自分の所有物としてしか見ていないことになる。自分では自覚できないことなので、辛口の評価をしてくれる友人、家族は極めて貴重である。
  子どもが今日は学校にいけないというのであれば、それはチャンスである。登校できないのはそれだけの理由があるからである。それでも学校に行かないと言えば親から叱られると思っている。だから、欠席をしたいと言うことはよくよくの勇気が必要なことである。このことを先ず評価するべきだと思う。そうして、欠席を許す。但し、子どもの年齢に応じて、今欠席してしまうと、ますます学校に行けなくなるよということを言って、子どもの意思を最終確認しよう。明日は必ず行くからという言葉が出て欠席を許した例(中学生)では、翌日から出席することができた。親が自分のできないことを承認した。親は自分を理解し、信じてくれたということがその子にとって自信につながったのではないかと考えている。

7 教師、親がいじめを止められないならば

  教師や親は、これまで述べてきた通り、残念ながらそれほど力があるわけでも解決能力があるわけでもない。実際にいじめを解決した事例では、狭いグループ内のいじめを、少し広いグループ外の子どもたちが主として解決した事例が多い。」
  実際の深刻ないじめの事例でも、ほぼ必ず、深刻ないじめを受けている子どもに手を差し伸べる子がいる。そして、深刻ないじめを受けている子はそれを事実として記憶している。しかし、様々な理由でそれが手を差し伸べているとは評価することができない。
  どんなに社会的地位が高い人であっても、学校との関係では、孤立していれば極めて無力である。そのような手を差し伸べる子の親に相談することは大切である。最終的には一緒に行動してもらいたいが、最初は相談で終わらせる。そして、手短にこちらの行動の報告を受けてもらう関係ができてから協力をお願いするのがコツである。最初から相手が協力を申し出てくれたなら、それは大歓迎、大感謝するべきである。
  そのためにも行為者に対する敵対感情は、極力隠すという戦略を身に着けるべきである。
  再度述べる。目標は、親の感情、ポリシー、常識、生き方を満足させることではなく、子どもが楽しく過ごすということにするべきだと考える。

本記事で言う深刻ないじめとは
暴力を伴ういじめ、集団でのいじめ、執拗ないじめ等
自死につながる深刻ないじめという意味で使っています。
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警察官と役所の職員がその人の自死の決意をひっくり返したメカニズムとは何だったなか。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

その人は、自死をするためにと自分で決めた最後の場所に向かって人気のない道を進んでいたという。
自死をする人の多くがそうであるように、その人も真面目で責任感が強すぎる人だった。自分が死んだ後で迷惑を少なくするために、家財道具を全て処分した。人目につかないような場所も選んで自死が決行されるはずだった。
その人が死のうとしていたことを私に打ち明けた時、一緒に話を聞いていた医療系の人は、精神科医につなごうと思ったようだ。私はその人の理由を聞いて、「全く正常な精神状態だからこそ死のうと思ったんだよ」と言いたかった。
その人が自死の行動に出る経緯は、誰にでも起こりうるものだった。
能力の高いその人はバブル期に、とある会社に途中入社して、どんどん出世をしていった。そのためには、過労死基準を遥かに超える残業も、断らなかった。むしろ、それを誇らしげに感じていたらフシがある。自分がこの会社を回しているのだと自負していたようだった。ところがリーマンショックで会社の事業が縮小され、他ならぬ自分の部署が切り捨てられた。関連会社に出向になり、元の部署に戻される見通しがなくなり、その人は会社をやめた。自分は何のために命を削って働いてきたのかわからなくなったらしい。それでも真面目で責任感の強いその人は、別の職種に移って働き出した。但し、個人プレーが中心の仕事だった。誰かと日常的に関わり続けるのは、怖かったという。あんなにチヤホヤされていたのに手のひらを返すとはこのことかというように、自分などいないような扱いを受けたことが消えないカサブタのようにその人の心を覆っていたようだ。順調に仕事は続いた。また続くはずだった。ところがこのコロナ禍で彼の会社の業務量が激減した。会社は、これまでの貢献ではなく、若い人を優先的に扱ったとその人は感じた。給料は3分の2になった。その時、その人に声をかける職場があり転職することにした。しかし、その職場はもう若いとは言えない年齢になったその人にはつとまらなかった。そのころ、家庭の問題でも事件があり、その人は孤独を強く感じる出来事があった。そして両親も亡くなった。職場でも家庭でも、その人はひとりぼっちであることを強く突きつけられた。
その人は、自分が何のために生きているのかわからなくなったという。ただ食べて、排泄して、寝る。それだけのことに何の意味があるのかと。私はもっともなことだと思った。それだけその人の話はわかりやすかった。
その人のその感情が作られていったのは、むしろ健全な精神状態を示しているとしか考えられなかった。誰でもその人の状況に置かれたらそういう感情になるだろう。正確に言えば、感情をなくしてゆくだろうと。
但し、その人には抑うつ状態の症状が出ていたことも間違いない。古典的なうつ病の概念である全精神活動に向かってゆくということをその人は次のように見事に表現した。
うつ病の患者さんは何かをやろうとする気が持てなくなるという。その人はトイレ掃除をしなくなるとのことで自分の異変に気がついたと言う。掃除をしようとする時、どうやら人間は、どういう道具を用意して、どういう順番で、どういう体勢をしてというように、様々なことを考えてから始めるようだ。しかし、そもそもうつ状態になると、その考えることからがおっくうになってしまう。頭を使うこと自体がひどく疲れるために出来なくなってしまうのだ。その様子をその人は、トイレの様子で私に可視化して見せたわけだ。もちろん仕事を探すなんてことはできるわけがない。他人と関わるということは、かなりの精神活動をしていて、そのためのかなりのエネルギーが使われていることはもっと研究されるべきだと思う。
かくしてその人は、「何のために生きているかわからない」という思いから抜け出せなくなり、わずかに「死ねばこのような辛さから解放される」という考えに救いを求めて、死ぬ準備に相当のエネルギーを使い込んだ。能力が高く、真面目で、責任感の強いその人の自死は完璧に成功するはずだった。
人気のあるはずのない場所をその人は最後の場所に決めていた。誰にも見られていない自信もあった。しかし、おそらく極めて低い確率の偶然が起きてしまった。巡回中のパトカーに見つかり、警察官の職務質問にあってしまったのだ。最初は誤魔化していたが、警察官の真剣な問いかけに負けてその人は死のうとしていたことを認めざるを得なかった。警察官はその人をおそらく生活安全課の職員に引き継いだ。
この職員の話というか態度というか、対応が秀逸だった。「警察も自殺をとめる権限はないかもしれないが、でも放っておくこともできることではない。そうでしょう。」と切り出して、次の日役所の係を教えて、ここに相談に行くことを約束させた。
その人はなにせ真面目で責任感が強いため、約束してしまうと守ることしか考えられなくなる。その人は約束通り役所に、相談に行った。
役所の職員も素晴らしかった。あまり精神論的なことを言わず、問題を一つずつ解決していった。最後に残った問題を解決するために、弁護士の元に行かされて私がその人の話をきくところとなった。その問題は極めて簡単に解決することなので彼の悩みは10分余りで無くなってしまった。
その相談の時はその人は口数が少なかったが、問題が解決して安心したのか、それからはむしろ話すことに喜びを感じているようにさえ感じた。そうして話してもらった話が今までの話である。
さて、警察官と役所の職員は、どうしてその人の死の決意を止めることができたのだろう。その人は今生きている意味を無つけたのだろうか?
ここからは私の考察である。
その人は今は死のうとは考えていないと言う。今死んだら、自分のためにあんなに熱心にしてくれた職員の方に申し訳ないと思う。裏切ったことになる。そう言う意味のことを話した。真面目すぎるその人は言葉も一つ一つ吟味しながら話す。
先ず、「あなたを死なせたくない」というストレートな気持ちが伝わったことは、間違いない。倫理とか正義とか法律とかそういうことではなく、その人を死なせたくないという思いが一番大切なのだろうと思う。
次は、死なないという結果を出すためには、どうしたら良いのかを真剣に考えていたことがよくわかる。だから、死んではいけないなどと結果を本人に求める近道を通らなかったのだ。警察官も職員もかなり勉強をされていて敬服する。
三番目も関連するが、指図を、一切していないこと。その人は警察官も職員も、事務的な話をしないことに感銘を受けていた。ずいぶん久しぶりに人間として扱われたと感じたのだろう。そして、一緒に考えてくれたと感じたのだろう。これも素晴らしい。人が命をたとうとするのだらか、よっぽどのことがあったのである。命を大事にしろというのは、軽はずみな人にいうセリフである。真剣に生きようとしている人に言うことではない。真剣すぎるために死のうとするしかなくなるのだ。その人は、警察官や職員に、自分が仲間として扱われたと感じた。だから、仲間を裏切ることで悲しませることができなくなったのだと思う。
私は、生きる意味なんて考えることは出口のない迷路を歩くようなもので、益のないことだと確信している。生きる意味を見失ったのではなく、「この状態で生きていることが辛い」と言うことの表現なのだと思う。生きる意味なんて考えるよりも、「どうすればもう少し楽しく生きられるのか」こそを、考えるべきだと考えている。だから、考えるべきことは、「どうして彼は生きることがつらくなり、どうしてその状況から脱したのか。」である。
とても単純化すると、「人間は、仲間から離れて孤立すると不安になる。生きることが苦しくなる。」ということである。
だから、
苦しみを和らげるためには、その人のマイナス面から目を逸らさずに、否定せずに、どうやってフォローするかを一緒に考える仲間を作ることである。
群衆の中にいることで孤独感は際立たされるる。こんな世の中なので役所に期待される役割はとてつもなく大きくなっている。その人に関わった警察官、役所の職員の方々は、奇跡的なファインプレーを敢行した。心より敬意を表すために今回記事にさせてもらった。
しかし、役所は、一時的な、仲間である。それは否定的にとらえる必要はなく、むしろそれだからできることが多い。
次は、その人の恒常的な仲間づくりである。この流れを太いものにすることが自死対策なのかもしれない。

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子の父親は誰かを決める民法の規定が改正されつつあるようです。 [家事]


現在親子関係の民法改正が流行っているのですが、
父と子の関係を定めた規定の改正も進められています。
現状、夫婦の間の子は夫の子だとの定め、
夫の子だということを争うのは夫に限ってみとめられるが1年以内にしなければならないという定め、
離婚後300日以内の子は婚姻時の夫の子だと推定される定め
があります、
これらの改正がタイムテーブルに乗っています。

改正の理由は、無戸籍児を減らすということだそうです。
離婚していないで産んだ子、
あるいは、離婚から300日を経過しないで生まれた子を
夫の子どもにしたくないから出生届を出さない
このために戸籍のない日本人が生まれてしまうようです。
ここまでは法務省も確認しているようです。

しかし、どうして夫の子どもとして届けたくないかについては
私の調べた限り、統計調査はないように思われます。
法改正を推進する人たちは、
夫のDVから逃れた妻が、
別のパートナーとの間に子どもを作ったから、
夫の子どもとして届けたくないのだ。
あるいは居場所を知られたくないからだ
等と説明しています。

確かにそのようなルポもあります。
恐らくそういうケースもあるのだと思います。

しかし、今私が担当している事件もそうですが、
だいたいDVを理由に連れ去りする事案は、
配偶者暴力のない事案が多いです。
裁判で決着がついた事案の多くは、
客観的には配偶者暴力が認められない事案です。

つまり、DVは、言い訳にされている。
単純な不貞も、突如DV被害者だという主張が始まるわけです。

といっても、
私はこの改正に反対しているわけではなく
特に、父親の子ではないと争う手段は
増やすべきだと考えています。

前に担当した事件では
外国人同士の争いだったので、
その外国の法律で決めればよかったのでそれほど悩みませんでしたが、
事案は、
確かに離婚して
10年後に再婚し、再婚後に子どもが生まれたのですが、
アクシデントがあり離婚したことが証明できなかった事案でした。

私の型破りな方法論と
国(検察官)と裁判官の親身なご協力によって
無事に解決したのですが。
母親あるいは子どもにも父親を争う手段を残しておく必要があるなと
強く感じました。

さて、冒頭上げた3つの定めがどうしてあるのか
ということは、なかなか理解されないところです。
民法ができた時代は、実は、
父と子の血のつながりというものを
現代ほど厳密に考えていなかった
と考えるとようやく理解できると思われます。

「結婚した以上、結婚相手が産んだ子は夫の子にしなさいよ。
 多少疑わしいとしても、つまんないことを争っていないで
 いち早く子どもを夫の子と確定して
 夫によって子どもが養われるようにして
 夫が死んだときは子どもに相続させることにしなさい。
 結婚とはそういうものだ。」
みたいな思想があったわけです。

日本の皇統だって、
結局は三種の神器を持っている者が血筋だと
生理学的にあまり関係の無いところで決められているのも
このようなおおらかさの表れだと思います。

疑っても決めようがないのですから
このようなおおらかさは自然の流れだった
と思います。

ところが現代では
遺伝子研究が進んでしまい、
親子関係を争うことが可能となりました。

そのような背景から
子どもの父親が誰かについて
神経をとがらせてしまうような
風潮がさらに強くなってしまったのかもしれません。

さて、民法改正が成立した後に
無戸籍者が減るならば
それは改正したかいがあるというわけですが
少し、心配も残るように思っています。


補論
実は一夫一婦制の現代の夫婦制度は
日本においては比較的新しく、
1000年もたっていないようです。

一昔前は女性がお嫁さんに入るというのが
多数だったように思われますが
これは嫁入り婚と呼ばれ、鎌倉時代に始まったようです。
その前は婿入り婚が主流で
さらにその前は妻問い婚が主流だったようです。
平安時代の貴族などの記録は文学作品からうかがえます。
(女性にちょっかいかけているうちに
 女性の実家につかまってしまったのだと思うと
 おかしいです。)
(さらに時代が遡って、形式ばってことが行われ、
 女性が男性宅に入って行ってその家の主人公になる
 というのがどうやら実態ではないかと北条政子なんて見ていると思うわけです。)

妻問い婚は、
あまり夜這いと変わらないような婚姻形態というか
出産形態ですね。

そうすると、元々は
子どもの父親なんて疑い出せばきりがなかったのでしょう。

もっともこれらは日本の人口のごくわずかの割合の
支配層だけの分析だと思います。

大部分の日本人は
かなり最近まで(地方によっては戦後直後ぐらいまで)
父親が誰かということを
厳密には考えられない習俗の中で暮らしていたのではないでしょうか。

ちなみに現代は
嫁入り婚という入る家庭がない
孤立婚であると私は特徴づけられると考えています。


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