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妻の子どもの連れ去り事例にみる、DVを感じる妻の心理構造と結果を出せない逆効果を招く夫の訴訟態度、目的遂行主義(職場)コミュニケーションを克服する必要性 [家事]



始めに断っておきますが
客観的に見て夫が悪いから妻が連れ去るというケースはあまりありません。
典型的な暴力や意図的な精神的虐待事案も多くはありません。
どちらかというと、妻が不安をあおられ
その不安が夫にあると思い込むケースが多いと思っています。

だから、良い、悪いという二項対立的なものの見方や
間違っていないのだから不利益を受けることはあってはならない
という非科学的な、古代宗教的な発想では
家庭の中では実際に何も解決しないと思っています。
それらは結果を出せない間違った思考ツールだと思います。

これからお話しすることはこのことを理解した上で
必要だと思った人だけに読んでほしいと思います。

まだ別居が起きていない人に対しては別居予防のヒントですし、
別居が起きた後の人には事態を悪化させないためのヒントとなると
私は思っています。

加えて女性が
どうしてこうなったのかということを理解するヒントになるのであれば
なによりの幸せであります。

<出産を経験した女性は多かれ少なかれ不安が生まれる>

出産前は天真爛漫な少女のような妻も
出産後は、おや?どうしたのかなと思うほど
物事を悲観的に見るようになるとか
くよくよするようなことを言ったりすることがあります。

それと同時に、家事のいくつかが苦手になることがあります。

実際は子育てしながらですから、
物理的に、時間的にできない場合もありますが、
特定の家事、特に片付け、掃除をやろうしなくなるように見えることが
かなり多くあります。

もちろんきちんとなされる方もいらっしゃるわけで
個性の違いはあるのでしょうけれど
多かれ少なかれ、このように何かをやるエネルギーが
足りなくなってしまったようになることがあるようです。

では夫がやればよいのですが、
例えば妻が片づけをやらないので
夫が片付けや掃除をしてしまうと
妻が逆上してしまうということも多くあって、
包丁を持ち出して片付けをやめさせようとした事例もあります。
良かれと思ってやったことで恨まれるわけです。

教訓としては、相手の心は難しい。
確認しながらやらなければならない
ということがまずあります。

この時点で私が何を言っているのだと反発する方は
つまり、片付けしないでごみ屋敷になっているのに
妻の顔色を見ながら行動をしなければならないということは間違っている
そんな妻なら、さっさと離婚して
正しく、衛生的な生活を送るべきだ
子どもが妻に連れていかれても、
再婚の可能性が高まるからよいではないか。
というお考えの方は、ここから先は読むのは時間の無駄だと思います。

精神面の調子によって
今までできていたのにどうしても、自分でもわからないけれど
できなくなってしまう、ということはあることです。
それなのにやらないことは間違っているので、それをしろということは
足を骨折したランナーに根性で走れというコーチみたいなものだ
という場合があると思っています。

その人の人格に関わりなく
精神面や行動面の負変化が生まれることがある
ということを理解することが必要です。
そしてそれは珍しいことではないということです。

自分の母親や姉妹、知人女性と比べてしまい
他の女性はそんなことはなかったということは
単なる知識不足です。
実際はラッキーなだけだったのだと思う必要があります。
人によって出方は全く違うけど
それは程度の違いに過ぎないのだと
そう考えた方が良いと思います。

<不安というフィルターを通してみるとしんどい夫の言動>

出産前、あるいは何らかの病気になる前だと
夫が同じことをしていても、
妻も「はいよ。」、「わかったよ。」と打てば響いていたことも、
不安というフィルターを脳にかけられてしまうと
悪く悪く考えるようになっていきます。

物事一般に安心することができない状態になってしまいますから
夫婦の関係が円満に続くかどうかの自信もなくなっているわけです。

ここで女性どうしだと
本能的に上手なコミュニケーションをとって
不安を最小限にとどめることをしているようです。

男性的コミュニケーションは目的遂行型ですから
一言で言えば指示命令です。
例えば職場で、指揮系統で上司が部下に指図をしても
もともとそういうものだという馴れもあるでしょうし
そうすることで効率よく利益を上げることができるし
無駄なコミュニケーションは一切排除する
という一つの理想形があるのだろうと思います。

私の言う女性的コミュニケーションは、
外向きの目的を優先しないコミュニケーションで
仲間を安心させることを目的にした内向きのコミュニケーションです。

これは会話をするというルーツが二つあることに由来しています。
一つの会話のルーツが、
危険を知らせて仲間を逃がしたり、
獲物を確実に獲得するために攻撃を指図するというルーツです。
これが目的遂行主義的コミュニケーションの由来ですね。

もう一つの会話のルーツは
サルの毛づくろいに由来するというルーツです。
サルはお互いを落ち着かせるために(安心感を与えるために)
お互いに毛づくろいをします。
しかし、人間に毛がなくなることが先か
あるいは仲間が増えすぎてしまったので
毛づくろいをしていると時間が無くなるという事情が先かわかりませんが、
会話をすることによって効率よく仲間を安心させる
これが会話のルーツだと唱える進化生物学者がいらっしゃいます。
とても有名な学説です。  ロビン・ダンバー先生

女性に多く見られる会話は、
仲間を大切にすることが目的のコミュニケーションですから、
本当は人間らしいコミュニケーションだと言えると思います。

今から200万年前の狩猟採集時代のサピエンスの先輩方も、
群れに帰還すれば、女性的なコミュニケーションをしていたはずです。

ところが、現代男性は知らず知らずのうちに
職場での目的遂行主義的なコミュニケーション方法に慣らされてしまって、
家の中でも、同様の会話、発想になってしまうことがあるようです。

家族で団らんする、リラックスする、安心させる
という内向きな目的を持とうとする発想が無くなり、
子どもを進学させる、正しく育てる、
規律正しい生活を送る
常に清潔にする、栄養を偏らないようにする
みたいな、どこかで聞いてきたことを実行しなければならないと思ってしまう

また、目的を持たない会話は無駄だなどと
TPOをおきまえないとしか思えない発想になるようです。
職場の発想からすると
何も生まない家族の会話はイライラしてしまうことなのかもしれません。

職場と家庭は目的が違うということをしっかり認識しなければなりません。

<目的遂行型コミュニケーションとは何か>

目的遂行型コミュニケーションは、
目的がより効率的に達成できるため
無駄を排除し、最短距離で目標を達成しようとするためのものです。

職場では、何を目的とするかの暗黙の了解があるのだと思います。

このため、職場のコミュニケーションは
やるべきことを明確にして指摘する。
具体的やり方は省略して求める結果だけを提示する。
間違いや不足を明確に指摘し、改善を要求する。
改善を確実にするために、反省を要求する。
同じことを繰り返して言わない。

上司の一方的指示または
上司の求めたことだけを部下はフィードバックするという形の
実質的には単方向的なコミュニケーションになりがちです。

相手の感情や状態について配慮しない。
あっても不動文字で予め印刷してある。
自分が指示したことを
相手がそれを遂行してもいちいち感謝は言わない。
やることは当たり前だから称賛するということもない。
できて当たり前ということですね。

間違い、失敗、不十分点は見逃さない。
間違い、失敗、不十分に対する反論は
ずるい言い訳であると感じる。

それはやるべきことだから
やるのが当然でやらないのが悪だと思っている。

どうでしょうか。極端にお話ししましたが
思い当たるところはありませんか。

これを家庭に持ち込まれてしまったならば
生活に潤いがなくなりますね。
職場コミュニケーションは緊張を強いるということも理解できると思います。
夫がいれば、家族は緊張を強いられるということになってしまいます。
緊張が持続することに、人間は耐えられません。
一緒にいることに喜びが感じられません。
どうして一緒に生活する必要があるか
金銭だけの関係になっていく危険がここで生じるのかもしれません。

良心的な方の中には、もう聞きたくない方もいらっしゃると思います。
そういう方は、ここからさらに苦しくなるので、
今日はここで終わりにされた方が良いかもしれません。

<目的遂行型コミュニケーションの最大の犠牲者は妻かもしれない>

それでも、子どもとの関係だけは
目的遂行型コミュニケーションが緩和されます。
本能的に子どもをかわいがる男性は多くなりました。
元々日本人は、つまり欧米の影響が生まれる前までは
今よりももっと子どもをかわいがっていたようです。

このかわいがるとはどういうことかということなのですが、
弱い仲間を守ろうとする人間の本能だと考えると
話は分かりやすくなります。

もう一つ理解していただきたいことは
人間の脳は同時に複数のことをすることができないということです。
それなので、
みんなを平等にかわいいと感じることは本能的にできることではない
ということが言えると思います。

誰かをえこひいきすることで家族の外の誰かを傷つけないためには、
理性が必要なのだということです。
考えなければならないということです。
自然体ではだめだということです。

自然体でいてしまうと
一番弱い者だけをかわいく思えてしまい、
それ以外の人をかわいがるということができなくなる
となるわけです。

だから、小さい子が生まれてしまうと
お兄ちゃん、お姉ちゃんに愛情を持ちにくくなるのは
自然の原理なのだと思います。
だから、理性を使ってかわいがらなければならないわけです。

こういう弱い仲間を守らなければならないという感情は、
責任感、正義感の強い人、真面目な人ほど強くなります。

その結果、子どもが二人も生まれてしまうと
末っ子ばかりがかわいくなり
そのお姉ちゃん、お兄ちゃんがそれほどでもなくなり、
自分以外の家族の構成員で一番弱くない妻に配慮することが
おろそかになる傾向になってしまう
ということになるのではないでしょうか。

悪意ではないのです。
人間の能力の限界ということになるのですが、
理性を働かせないというところに問題があるとも言えるでしょう。
でも誰からも教えてもらえないですし
誰からも「さあここだ。今こそ頭を使え」
と言われることはありません。

特に小さい子を守ろうとすると
小さい子に対してのみ共感力が働いてしまい
その結果、大人に対する共感力が薄れてしまう
という脳の構造の問題もあります。

こうなってしまうと
小さいものを守らなければならないというフィルターを通してばかり
妻の行動を見てしまいますから
小さい子のために、あれをしなければいけないこれをしてはいけない
という意識が強くなってしまうわけです。
妻の足りないところ、間違っているところだけが
目に入ってくる(脳内で認識してしまう)ようになってしまうということです。

加えて人間は仲間を守る行動をしているという意識があると、
怒りが沸き上がるという特質があります。
(この性質があったため、仲間が野獣に襲われても
 無鉄砲にみんなが集合して反撃して人間は絶滅を免れた
 と私は考えています。(袋叩き反撃仮説))

仲間を守らなければならないという意識は、
仲間に害を与える人間を本能的に敵視してしまうのです。

相手が憎いから怒るというよりも
目の前の仲間を助けようとする気持ちが
怒りとして表れてしまうと考えるとちょうどよいかもしれません。

子どもを連れ去られたご経験のある方は
同じ思いをされていると思いますのでよくわかると思います。

だから、相手の個性である能力の限界、その時の相手の様々な条件、
あるいはその時の状況ということは捨象されて
一番弱い者の状態だけで
相手に対する感情が決まってしまうのです。

子がいる家庭では
子どもを守ろうとして
大人同士が相手の行動に干渉し、
子どもの立場を想定して
相手に対して過酷な要求をすることが多くなり、
配慮も遠慮もしない言動がなされることがあります。

(これは無意識に、子どもの理解者は自分だけであり
 子どもは自分に懐くべきだという
 客観的には、家庭内の子どもの取り合いに発展することがあります。)

怒って行動すると軌道修正ができなくなる
ということもあると思います。
引っ込みがつかなくなるのです。
つい言いすぎるということはこういうメカニズムです。

子育てが終わるころになってようやく気が付くのですが、
あんなにムキになって主張した子どもへのかかわり方の
大部分は実務的に意味のないものでした。
どっちでも、子どもの成長にとってあまりかかわりのないことで
そこで生まれた夫婦の軋轢こそ
全くの無駄なものだったということです。
無駄に相手を傷つけてしまったという懺悔だけが残ります。

<目的遂行型コミュニケーションにさらされた者の心理>

さて、目的遂行型コミュニケーションと
子どもを守る意識と無意識の敵視
こういう行動をとる家族と同居している者の心理を想像しましょう。

しかも、ここには下地となる
理由のわからない不安があるということを忘れないでください。

そもそも、漠然とした不安がある
夫婦という関係もいつまで続くのだろうという不安も
その人が持っていることもあるかもしれません。

そんな中で、ふと気が付くと夫との会話は
最後に入った者が風呂を洗うという約束があるのに果たされていないとか
どうして食器を食べたまんまにして洗って片づけないんだとか
冷蔵庫の中の食材の賞味期限が切れているとか
使いもしない物を買ってくるなとか

確かに言われた通りなのだけど
やらなくてはならないことだけど
忙しかったり、他のことをしなくてはならなかったりとか
あるいはどうしてもやりはじめる気力がわかないとか
やろうとしてもできない。

忘れただけことをそこまで言うの?ってくらいしつこく言う。

はたまたしょっちゅう言われる自分こそどこかおかしいのだろうか。

それでも頑張ってやっているのに
感謝なんて望んでいないけれど
嬉しそうな顔をすることもない。
せっかく作った料理もおいしいのだか何だかわからず
テレビを観るついでで食べているようだ。

料理がおいしくないのだろうか。
自分の作り方が悪いのだろうか。

また、うっかりしていたことを指摘された。
子どもの前で言われることが辛い。
子どもが慰めてくれることが救いだ。

私と一緒にいることが嫌なのだろうか。
でも子どもがいることが救いだ。
子どものために頑張ろう。耐えよう、我慢しよう。

(しかし、緊張が持続すると、ミスをしやすくなります。)
(自分の行動のコントロールが難しくなります)
(どこでミスをするのか、どうして失敗するのか
 わけのわからない状態になります)

うっかりしていると夫から指摘されてしまう。
夫が帰ってくると、悪い指摘だけがおそってくる。
わけのわからないところから攻撃を受けるから
攻撃を受けないことは不可能だ。
夫は私を攻撃するためだけに生きているのではないか。

そういう意識が持続していくと
夫は自分を敵視する存在であり
夫と同居していると自分を守れない
という無意識に危機感を抱くようになります。

この無意識の危機感は、嫌悪感、恐怖感として意識されるようになります。
夫がいると常に緊張状態が持続してしまい
夫の帰宅時間が近づいたと思っただけで
脈拍が増え、血圧が高まるようになります。

街で買い物をしているときに夫の背格好と似ている男性を見ると
凍り付いて動けなくなるということが起きるころになってしまいます。

妻は夫が自分に敵意がないということを
理解することができなくなっているようです。

このような不安や緊張を感じると
人間はいち早く緊張や不安から解放されたいとするようです。

この持続がさらに継続すると
不安解消要求もさらに強くなってしまい、
この緊張や不安から解放されるならばどんな方法でも良い
とにかく解放されたい
という意識になっていくようです。

これを誰かに相談すれば
相談を受ける方は
そんなに異常なほど不安や緊張状態にあることはおかしい
おそらく夫のDVがあったはずだという先入観が生まれます。
(マニュアルの構成からそう誘導されています)
とにかく不安と緊張に苦しんでいる目の前の人間を
助けたくなるのが人間の本性ですから
実際は何が起きているのか分からなくても
仲間を守るためにその相手を敵視するという行動パターンで
「あなたは悪くない。それはモラハラです。」
などと無責任な発言をしたくなるわけです。
実際は相談担当者自身の聞いていることによる苦しさを
軽減しようとするためです。

こう言われたら妻は夫に対する怒りを持つことができます。
怒りを持てば不安感情は後退します。
一時的に不安を感じなくてすむようになります。

あとは「皆さんもそうしてますよ。」という形で
子どもを連れて別居という不安解消方法を
しないという選択肢は無くなってしまうわけです。

別居して離婚して不安がなくなる人もいるでしょうが
多くの人は不安を持続させています。
元々の不安の原因は放置されてしまうからです。
全部夫のモラハラで終わりになってしまうからです。

夫に怒りを持つことで不安を解消する。
こうやって離婚後も葛藤の強い人間が作られていくわけです。

<別居後に続く目的遂行型コミュニケーションの行動>

いま述べてきたことは妻側の心理を推測したものです。
しかし、夫の見える風景は全く別物です。

夫は何も「間違った」ことを言っていません。
心の中では妻に感謝している人も多いのですが
それを外に出さないだけの人も多くいらっしゃいます。

自分の行動が間違っていないのだから
言われた妻も理解していることだという感覚しかないでしょう。

結婚してから別居まで
一貫した行動をとり続けているという意識であろうと思います。
おそらく誰しもそうでしょう。

おそらく多くの男性が妻に対して行なっている通り
ご本人も行なっていただけでしょう。
ただ、奥さんは、不安を感じやすい状態になっていた。
その知識も発想も気づきもないのは
現状ではやむを得ないことかもしれません。

しかし、結果として妻は子どもを連れて出て行ってしまった。
どうしてそうなったのか理解できないということが通常でしょう。
また、連れ去られた夫の少なくない割合で
妻に対してもそれなりの配慮をしていて
仕事で疲れていても、旅行や外食に積極的に参加して
車を運転しているのです。

その写真には仲良く笑っている家族が写っています。

それなのに
妻側の弁護士の作成した文書を読むと
身に覚えのないDVをしていることになっているし
精神的に虐待していることになっている。

思い当たる出来事もあるけれど
事実は全く違っている。
例えば、犬の毛を処理するために
ペット用のハサミをもってペットを呼んでいたら
ハサミを家の中で振り回して大声で怒鳴られた
ということになっているわけです。

あまりにも理不尽なことを妻から言われて
あまりにも不合理な気持ちになったので
むしゃくしゃしてゴミ箱を蹴っ飛ばしたら
ゴミ箱を子どもに向けて蹴っ飛ばして
危うく子どもが大けがをするところだった
ということになっているわけです。

それはお怒りになることは当たり前でしょう。
役所も警察も自分が暴力夫だと思っていると感じると
自分は社会の脱落者にされたと感じるのも当然でしょう。

同じ出来事でも
夫と不安を持っている妻とでは
感じ方がまるっきり違うようです。

価値観が目的遂行至上主義コミュニケーションから
協調第一主義コミュニケーションに切り替えなければなりません。

目的遂行至上主義は
目的を遂行するためのルールが設定されていて
ルールに従うことが当然の約束事になっています。
不合理なことは是正されなければならない約束事になっています。

これが裁判所や法律に幻想を抱く要因だと思います。

不合理は是正されなければならない
ルールを逸脱するということはあってはならない
権利は実現しなければならない。

この考え方が間違っているとは言えません。

特に、連れ去り別居の後は、
裁判所が関与するわけです。
裁判所は法律によって行動するのであるし
法律は不合理を正すためにある
そういう思い込みを持たれることはやむを得ません。

しかし、法律は完ぺきではありません。
裁判所も同様です。
不合理が是正されるとは必ずしも言えない。

子どもに会うことも、裁判所を通してやってもなかなか実現できない。
子どもを会わせない親に対して裁判所は厳しくいってくれない。
自分の権利が実現されない
と感じている当事者の方はかなり多いのです。

それにも関わらず、
親なのだから子どもに会う権利がある
子どもを会わせないのは憲法違反だ
居場所を教えろ
勝手に出て行ったのだから生活費なんて払えない。
言ってることは全てでっち上げだ。嘘つきだ。

と「正しいこと」を堂々と主張してしまいます。
間違っていませんけれど決定的な問題は
それを言ったところで結果はでない
ということなのです。

むしろ、それを言われた妻は
夫は相変わらずであり、
このまま子どもを預けたらそのまま連れ去るのではないか
顔を合わせたらまた何か言われるのではないか
近くにいると何か良くないことが起きるのではないか
と、
遠心力だけが働いてしまいます。
どこまでも遠ざかろうという意識だけが高まっていくわけです。

目的遂行至上主義は
家庭問題では役に立たず、逆効果ばかりが生まれてしまいます。

それでも正しいことを言って
正義を貫いて
敗訴なら敗訴で仕方がない。
こう割り切ってもらえるなら代理人としても楽でしょう。

自由気ままに、自然な感情のまま
相手の不合理さを責めたてていながら
元の家族に戻りたい
というのは、これは実際は矛盾しているのです。
職場コミュニケーション的に言えば
結果を出せない方法論だということになるでしょう。

だから、はっきり目標を定める必要があります。
法律論で裁判所に賛同をもらい勝つことが目標か
(このために相手の心はさらに遠くなっても構わない)
法律論、裁判の結果はともかく
相手方と少しでも歩み寄って
家族として再生する方向にしたいのか。

局面局面でどの選択肢にするのか
実は大変難しい問題で
子どもためにも敗訴を恐れず
正々堂々と主張を尽くさなければならない時も
実際は存在します。

また、子どもの将来のためにも
妥協できるところとできないところは見極める必要もあります。

いたずらに、妥協をしまくることをお勧めしているわけではありません。

しかし、家族再生の方向を目指すという場合は
目的至上主義コミュニケーションという思想から
一度離れる必要があります。

やらなければいけないのだからやれ
義務は果たさなければいけない
私の権利は実現されなければならない
相手の気持ちなんて考える必要もない
という発想を離れなければなりません。

どうすれば相手は対話をするようになるのか
相手が自分を拒否する理由はどこにあるのか
今自分には何かできることがあるのかあるとすれば何か
子どもを会わせないという気持ちを緩める方法はないか。
つまり結果を押し付けることをやめて
「結果を誘導してあげる」という発想が必要です。
童話の「北風と太陽」のこずるい太陽の発想です。
真面目な人はどうしても北風になってしまうようです。

大ざっぱに言えば相手を安心させる
という方向に向かって方法を考えるということだと思います。

子どもの連れ去りがある時に
調停や裁判を起こせるということ、あるいは起こされるということは
実はまだ救いがあります。

最も悲惨ケースは
子どもを連れ去って、どこにいるかわからず
裁判や調停すらなく、生きているか死んでしまったのかもわからない
こういうケースだと思います。

裁判や調停があるということは
それなりのコミュニケーションが取れるということです。
うまく利用すれば、相手を安心させることもできるかもしれません。

針の穴を通すような無謀なことかもしれませんが
面会交流が実施されて自由度が拡大していくケースは
これが成功しているケースです。

それでも復縁まではなかなか難しいことが実情です。

でも、相手を安心させることが成功することは
最終結果が出なくても
安心感の記憶が少しずつ定着していくことになることは
間違いありません。
将来に向けた安心のコミュニケーションの下地になります。

このためにもご自分の気持ちを制御する必要があります。
子どもを連れ去られて、ありもしないことを言われて
それでも金を支払えと言われれば
誰だって逆上したくなるわけです。
でもそこで逆上して
俺は悪くないということで終わってしまったら、
子どもたちは親に会えないまま自己形成をしていかなければなりません。

家族の中の誰かが、
家族全体のために自己の感情を犠牲にしなければならないのだと思います。
それが子どもであってはならない
そう思うのです。

自分の感情を制御すること
当たり前だと思っている価値観に反しない行動に対する不利益
それを受けるときに自然に湧き上がる感情を制御するということは
普通自発的には出来ないことだと私は思います。

どうしても、それは、他人の支援が必要です。

その他人は、あなたの感情に寄り添ってはなりません。
あなたは悪くないと言われてしまうと
自然の感情のまま相手とコミュニケーションをとってしまい
逆効果にしかなりません。
あなたの目的のため、あなたの感情を結果的に否定する
そういう人でなければなりません。

それがあなたの弁護士であれば
本当は一番良いのでしょう。
私がそれがうまくやれるかと言われれば
自分こそ自然感情放出型という自覚もありますから
なかなか手を挙げることはできないでしょう。

しかし、こういう発想を頭では持っている。

こういう発想の下で、
家族再生の方向を目指す当事者の方が
全国で増えてきているようです。

当事者でありながら
そのような志を持たれるということに
最大限の敬意を感じざるを得ません。
頭が下がります。

しかし、そのような方が多くなったにもかかわらず
そのニーズにあわせた弁護活動をする弁護士が
(実際は多くいらっしゃると思うのですが)
なかなか見つからない。

できれば、ご指導いただく心理士の先生やお医者様も
当事者の方に紹介したいし、教えも請いたい
一緒に家族再生のノウハウを向上させたい
と思っているのです。

どうしたらよいかわからない。
内弁慶のようにブログを亢進するしか能がない自分を
申し訳なく思っている次第です。

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