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片親疎外の作り方 とある団体の公式見解に最大限の抗議をする。子どもに自分の親に会いたくないと言わせてはいけないこと [家事]


離婚や別居で、子どもが一方の親とだけ同居している場合、
子どもが、もう一人の一緒に住んでいない親に対して
「別に会いたくない。」
という現象があります。

ちょっと考えてみればわかるのですが、
自分の親ですから、会いたくないわけはありません。
両親が喧嘩をしていても
子どもはもう一方の親とも
仲よく遊んだり、普通に話をしていたというケースが
ほとんどです。

ではどうして会いたくないというのでしょうか。
詳しくは考えたところを既にお話ししていますので。
調査官調査に対して子どもが別居親に「会いたくない」と言う理由
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-01-29
こちらを参考にしてください。

簡単に言うとこういうことです。

子どもは、今まで一緒に暮らしていた片方の親が
突然自分の目の前からいなくなっていますし、
その原因が十分理解できていません。

このため、親は突然いなくなるかもしれない存在だ
という不幸な学習をしてしまっていることになり、
今一緒にいる親も突然いなくなるのではないか
という不安におびえて精神的に不安定になっています。

また、ちいさい子どもは、
自己中心的にしか物事を認識できませんから
自分が悪い子だから、何か自分に落ち度があるから
もう一方の親は自分に会いに来てくれないのだ
と考えてしまうようです。

これは親を過労死で亡くした子どもも
同様の苦しみを見せることがあります。

ただでさえ、子どもは親の顔色を窺って成長していくものですが
一方の親と会えない子どもは
この傾向がいやがうえにも高まる場合があるわけです。

そうすると、親の意向に沿う自分でありたい
という感情が自然と強くなります。
一緒に住んでいる親をつなぎとめておきたいと
かわいそうにも思ってしまいます。

同居している親が、一緒に暮らしていない親を悪く思っていて
子ども会わせたくないという強い気持ちになっていることは
子どもは簡単に見抜いています。親子ですから。

また、親が子どもに対して、自分の味方になるよう要求する場合もあります。
自分の味方になるということは、子どもからすれば
一緒に住まない親と自分と同じように敵対しろということと同じ意味です。

子どもは、自分が、
一緒に住んでいない親と会いたいと言うと
同居親を悲しませたり、失望させたり、怒らせたり
場合によっては自分を嫌いになるのではないかと
色々な思いで、
「別に会いたくない」と言っているわけです。

少し子どもの年齢が高くなると
そういう感情的になる同居親が煩わしくなって面倒くさく
「別に会いたくない」という場合もあります。

それでも一緒に住んでいる親も
子どもが会いたくないと言っていても
本当は会いたいだろうなと気が付いているようです。
親子なので、子どもが無理していることは気が付きます。
しかし、
「支援」者たちは、その子どもに対する愛情なんてありませんから
子どもが「会いたくない」と言ったというそれだけの事情で
子どもに一緒に住まない親と会わせることは
子どもの意思を無視した「面会の強制」だというのです。

科学も、人情もない人たちが実際にいますし
そういう子どものことを考えていないことがはっきりしている見解を
得意になって正式に公表している団体もあります。
恥ずかしい限りです。
醜悪です。

それがどのように罪深いかが今回のテーマです。
どうか耳をふさがないで聞いていただきたいと思います。

子どもが会いたくないということは
一緒に住んでいる親の気持ちを感じ取って言っているだけで、
もう一人の親のことまで考えて言っているわけではありません。

しかし、会いたくないと口にした後で
自分の「会いたくない」と言った声が耳から聞こえてきます。
記憶に残ってしまいます。

年齢や性格によってもだいぶ違うのですが、
子どもは、もう一人の親の気持ちを想像してしまうことがあります。
一緒に住んでいない親と同居中に一緒に遊んだときなどの、
楽しい思い出を思い出しているとき
その親が笑顔で自分に優しく話しかけている時を思い出したとき、
自分の「会いたくない」という声が聞こえてくるわけです。

自分はなんてひどい人間なのだろうと
自己嫌悪になると同時に
申し訳ない気持ちになるようです。

もう一人の親に会えない理由は自分が悪いからだという
罪悪感に苦しめられることがあるようです。

人間の心は、その罪悪感に耐え続けるようにはできていません。
それなのに耐え続けてしまったら
だんだんと
自分はなんてひどい人間なんだ
こんな自分は価値のない人間だ
幸せになる資格がない人間だ
という自己評価が低くなってしまう危険があります。

人間は、本能的にこのような絶望を回避する
心のメカニズムがあるようです。
ちょうど熱いものに触ったら反射的に手を引っ込めるようにです。

どうやって罪悪感を感じにくくするか
それは、
自分が悪いのではなく、
一緒に住んでいない親が悪い人間だからこれで良いのだ
という正当化、合理化です。

一緒に住んでいる親の言うとおりだ
あの親は、一緒に住んでいる親を散々苦しめたのだ
自分が会う価値のない人間だ
自分と会って楽しむ資格のない人間だ
と一緒に住んでいない親を繰り返し否定していくことです。

親の前でも家裁の調査官の前でも
積極的に一緒に住んでいない親の悪口を言うようになります。
どんなに自分が苦しめられたか
記憶を変容させてありもしない事実を
さもあったかのように告げる子どもも少なからずいます。
(客観的事情から虚偽だったことが証明された事案だけでも驚くほど多い)

本当は些細な出来事だったのに
自分が泣いたという記憶と
別居後に作り上げた親の悪性格を
無理やり記憶の中で結びつけるわけです。
そしてそれが本当に起きたことだと
記憶を変容させるようです。

そのような虐待や悪感情が無くても
同居中に厳しくしつけられていれば
親が自分のことを想ってやっていたことでも
親の悪性格が原因で不必要に厳しく当たった
つまり虐待だったというように記憶を変容させるのです。

これは自分を守るために行う自動的に進行するプログラムです。

では、罪悪感を解消できたのであれば
めでたしめでたしでしょうか。

とんでもありません。
もしかしたら罪悪感に苦しみ続けるよりも
悪影響が出てくるかもしれません。

つまり、罪悪感を感じなくするために
新たに罪悪感の理由となる行為を上書きしていくわけですから
最初の罪悪感が消えても
上書き行為の罪悪感が新たに加わるからです。

それでは、
罪悪感を感じなくなるまで
一緒に住んでいない親を否定しきったらどうでしょう。

これまで述べてきたことは
「片親疎外」という現象が現れるメカニズムです。
この片親疎外の最大の問題(子どもが受ける深刻な影響)が
親を否定しきるということなのです。

ちょっと考えればすぐ気が付くことですが、
自分(この場合子ども)という存在は
半分はその親の遺伝子を受け継いでいるわけです。
(昔は血を分けたという言い方をしていましたね)

自分のルーツの半分を否定しまったとすると
「自分とは何か」ということ考えるようになった場合、
自分が極めて不安定な存在だということなり、
自分とは何か分からなくなってしまうとされています。

自分は、完全に否定するべき親と
全面的に支持し助けなければいけない親という
完全に対立する性質を持つ親の子どもだ
ということになってしまうからです。
じゃあ、自分は何者だということが分からなくなることは
想像しやすいのではないでしょうか。
これが起きる時期は15歳ころだとされています。

他人は、「人は親がすべてではない」と簡単に言いますが
本人は、そう割り切ることはできません。
当たり前だと思います。
他人や支援者は、ちょっと考えればわかることを
考えようとしません。
子どもと一緒に暮らしている親の「支援」で頭がいっぱいだからです。

片親疎外が完成してしまうと
自分というものが何だか分からなくなり
自信を持てなくなり
自分が幸せになることはできないのではないか
自分が生きている価値があるのだろうか
という感覚になる危険があるわけです。

15歳くらいから引きこもりがちになり
20歳前で精神科病棟に入退院を繰り返すお子さんたちを
何人か見てきました。

しかし、病院は、片親疎外という知識がありませんでした。
あったとしても、少なくとも治療の方法を身に着けていないようです。
なかなか良くなることはありません。
統合失調症、人格障害などと病名をつけていたところもありました。

そのうちのおひとりは一緒に住んでいない親御さんと
交流をすることができるようになり
就職ができるまでに回復しました。
一緒に住んでいた親御さんも
もう一方の親との交流に頑張って協力されたことがわかります。

その他の事例はその後連絡が取れなくなっているので
お子さんが社会復帰できたのかわかりません。
大変心配です。

子どもは、体が成長するということはみんな知っていますが
心も成長するということは
あまり意識されることがないようです。
自分の振る舞いで子どもの心の成長を阻害することに
一緒に住んでいる親は気が付きません。

子どもが自分を思いやって
一緒に住んでいない親の悪口を言っても
「あなたの親なのだから悪く言うのはやめなさい」
という方は必ずしも多くないように感じています。

自分の心を守ることで精いっぱいだからです。

子どもは成長するものだということは、
今子どもに問題が生じなければそれで良いというわけではない
ということなのです。
このままでいると子どもが何年後かに悪い影響が出てきてしまう
という今は見えないけれど、
将来の子どもの成長を見通して
子どもがどうあるべきかという考えをもつことが
なかなか家庭裁判所でもできていないと今日も実感しました。

子どもは自分で自分の将来を見通すこともできませんし
両親が仲良くしていてほしいという
当たり前の希望も、
自分の胸にしまってしまい
自分でも気が付かないふりをしているわけです。

「子どもの意思を尊重する」と
さも、もっともらしいことを言って
子どもに「会いたくない」と言わせて
ほらだから会わせないんだ
強制はするななどということが
いかに愚かしく、子どもに対して残酷なことか
少しでも多くの方に理解していただきたいです。

子どもの一番言いたいこと
「お父さんとお母さんと仲良く笑って安心して暮らしたい」
という意思を
誰も尊重しようとしないではないですか。

自分達に都合の良いときだけ
子どもの意思を尊重するという大人たちに
強烈な嫌悪、憎悪を覚えます。

片親疎外の悪影響を受けることは
子どもの自己責任ではありません。
両親、裁判所をはじめとする法律家という大人の責任です。

片親疎外はお子さんの性質や
一緒に暮らしている親御さんのふるまい
親以外の人間交流によって
影響が出るお子さんと出ないお子さんがいます。
それは間違いないようです。

ただ、一緒に暮らしている親御さんと
一緒に暮らしていないもう一人の親御さんと
両方から養育されて、愛情を感じているお子さんには
確実に片親疎外は出ません。
簡単に防止できることだと言えます。

子どものことを何も知らないで
勉強もしないで
ちょっと考えればわかりそうなことも気が付かず
つまり人間の心、情を忘れて
冷酷な意見表明をしている人たちは、
子どもを危険にさらしていることに
生まれてきた意味を見失う子どもたちが生まれることに
どうやって責任を持つというのでしょうか。

わからないことは黙っているべきだと思います。
物言わない子どもの利益を全く考えない考えを
心から軽蔑します。


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第20回 意見が違う時の歩み寄りの方法 コロナ禍を活かした家族メンテナンスのヒント20 [家事]

新婚時代は意見が違えば無条件に相手に従うわけです。
対立は起きません。

しかし、しばらくすると
相手はいつも自分を優先してくれなくなりますから
(母親と赤ん坊の関係ではないので)
本当に自分は愛されているのかしらと
疑問に思うことが少しずつ増えていくわけです。

自分の意見に反対されると
自分をないがしろにしているように感じてしまうわけです。
だから、自分を守るために自分の意見を通したくなるようです。

第三者から見ると
どうしてそんなくだらないことにこだわるのと思うことでも、
その時は自分を守る戦いになっているから必死です。

例えば、週末は海に行こうねと言ったのに、
疲れているから外出したくないと言われれば
以前なら「それは休んだ方が良い。ゆっくり寝ていてね。」
と言えたはずなのに、
自分が愛されているという自信がなくなると
せっかく楽しみにしていたのに、
自分がないがしろにされている
と瞬間的に被害的に考えてしまうわけです。

自分との約束なんてどうでもよいということかという意識になるようです。

確かに、約束は守らなければならないということが道徳でしょうが、
家族の中には約束よりも相手の体調、場合によっては気分を
尊重することが真の道徳だと思います。

前のように、「じゃあ今週の週末は家でのんびりしよう
私がランチを作るよ」というようなことを言えば
相手も体調を整えて次の週末に海に行けるのですが
争いになってしまうと
海に行くこと自体がうっとうしくなるし
お互いの関係もしっくりこなくなることがあります。

まず考えるべきことは家族を怒らないという鉄則です。

家族の意見と反対の意見にこだわる理由になりそうなことは
約束、合理性、道徳、あるいは常識、正義、権利法律ですから、
これらの言葉が自分から出た場合は特に気を付けましょう。
そして、むきになって意見を言っている自分に気が付いたら
「自分」が「相手」から被害を被っているという考えは極力捨てて
「二人は」、「私たちは」どうするべきか
という発想で考えてみるようにしましょう。

約束を破る方は、家族ですから遠慮しなくてよいのですから
身構えず、
楽しみにしていたのに申し訳ないと
ヘロっと謝るくらいの心の余裕を持った方がうまく行くでしょう。
相手はあなたから尊重されないと感じたから怒るのだから
しっかり謝るとか、代替案を提案するとか
相手のことを自分は尊重しているということを分かってもらえればよいわけです。


千字式は、今回20回目でいったん終了します。
また思いついたら、突拍子なく第21とか言いながら始めるかもしれません。
一家族でもより多くの家庭が安心の場所になりますように
お祈り申し上げます。
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