SSブログ

「ホワイトフラジリティ」を勝手に解説 内なる差別を認めなければ差別を解消できない。差別解消に最も邪魔なものは、過剰な正義感と自己防衛本能。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



仕事上差別についての勉強を深める必要があり、ホワイトフラジリティ(明石書店)をはじめとして、差別というか社会心理学の本を三冊緊急購入しました。その最初の本がこれ。本書は、白人のアメリカ人の著者が、レイシズムはアメリカという社会制度に構造的に存在しており、その中で育った白人にはレイシズムの考え方は見についており、必ず存在するということを、ダイバーシティ研修などの実務的経験から述べています。
私は、レイシズムに関わらない差別についての学習という観点から、本書を読み解き、以下の点を学びました。
1 差別意識、差別的思考は、意識に上らない段階で社会制度の等の環境から生まれるものであり、誰にでもあるものである。
2 差別的行動を行わないためには、自分の差別意識、差別思考を自覚し、行動に移る前に修正するしかない。
3 そのため、内なる差別意識、差別思考を認める必要があるが、真面目な人ほど頑迷にこれを認めない。
4 内なる差別意識、差別思考を認めない理由は、二項対立的思考にもとづく過度の罪悪感、自己防衛意識である。

順に勝手に解説していきます。

1 差別意識は誰にでもある。―――人間の本能に根差すという意味

それが良いことか悪いことかという議論は少し脇に置いておきましょう。
差別意識は、緻密かつ分析的な思考の結果生まれるものではなく、反射的に感覚的な反応として生まれるということから説明を始めましょう。
社会心理学の教科書を読み直していたところで、「内集団バイアス」という概念が出てきました。人間は自分の仲間の利益を図ろうとして、そのためなら仲間以外の人間の不利益によって利益を図る傾向にあるということらしいです。また、同じ行動をとっても仲間に対しては好評価を行うという、つまりえこひいきをする傾向があるようです。その集団は、何かの必然性のある仲間ではなく、ある日ある時、誰かが勝手に配属した場合でも、自分が所属する仲間に対して起きてしまう感情、意識のようです。そして、自分の所属しない集団に対して敵対的な感情持つことも多いようです。

私は、これが、人間が持って生まれた本能的な意識傾向だと考えています。人間は、今から1万年以上前では、30人くらいの小集団を作り、小集団は全体で150人くらいの緩やかな集合体を作っていたようです。この状態が約200万年前から続いていたようです。言葉の無いころから集団を作ってきたことになります。どうやって集団を作れたのでしょうか。私は、仲間を作る感情を持っていたのだろうと考えています。逆に言うとそういう感情を持った人間たちだけが群れをつくる子ができて、子孫を作ることができたということです。どのような感情かというと、
仲間の中にいないと不安でたまらなくなる。
仲間から外されないようにしたくなる。
仲間に貢献したくなる。
仲間の中の弱い者を守りたくなる。
というような感情です。こういう感情があれば、お互いに自然に助け合って、協力して、生きていくことができると思われます。当時は生まれてから死ぬまで一つの仲間ですから、どんなに仲間と助け合っても、誰にも迷惑は掛からなかったでしょう。仲間の中では実質的平等原理が働いていたようです。当時の自然環境を考えると、これはきれいごとではなく、それで初めてギリギリ生きてこられたといういべきだろうと思われます。
ところが、現代社会では無数の人と関係を持ちますし、複数の群れに人間は所属します。家族、学校、会社、趣味の集まり、地域、国等々です。200万年前は、仲間以外の存在は、人間ではなく野獣などですからよかったのですが、現代は仲間以外にも人間がたくさんいるわけです。一つのグループをひいきすると他のグループから恨まれるということが簡単に起きてしまいます。
しかし、人間の脳は200万年前と大きさや構造がほとんど変わっていないとのことです。どうしても、自分の仲間をひいきしたくなってしまうようです。自分の仲間以外は、仲間と考える能力が弱く、他者に対する共感力、配慮も失われてしまうようです。そうして自分の仲間をひいきした結果、仲間以外の人間との軋轢が生まれてしまうわけです。結果的に差別が起きる第1の原因がここにあります。

第2の原因も脳にあります。
人間の意思決定は、何となく感覚的に決めてしまうということが、自覚しないのですが、多くあるようです。分析的に緻密に考えることもできるのですが、私たちがよく経験しているように大変疲れてしまいます。この労力を省エネするために、何となく決めてしまうのです。例えば、選挙に行くか行かないか、行くとしてだれに投票するか、あるいは対立している人間関係から遠ざかるか、巻き込まれるか、巻き込まれた場合どちらに味方するか。例えば就職や結婚相手に関しても、分析的に緻密に考えるというより、運命などという言葉を使って勢いに任せて決めてしまうということがあると思います。特に、言葉に弱いという特徴があるようです。例えば「DV」という言葉を聞けば、具体的事情も知らないのに奥さんに同情をしたりし始めています。「虐待」という言葉を聞けば、子どもを守るべく親を制裁しなければならないと感じ始めてしまいます。「いじめ」と聞けば、やはり加害者を制裁しようという意識が出てきたりします。具体的にどのような行為があったのか、それはどういう背景で起きたことなのか、誰にどのような責任があるか等ということはあまり考えません。報道の範囲での情報だけで、加害者と思われる人間やその家族などへのネット攻撃が始まります。
仲間と仲間以外を瞬時に、何となく決めてしまって、仲間に対しては優遇し、仲間以外に対しては不利益も仕方ないと思うし、攻撃的気持ちまで出てくる。仲間以外は敵だという感覚にいつの間にかなってしまう。
差別なんて簡単に生まれてしまいます。

だから、肌の色は目で見てわかることですから、うっかり、自分と同じ肌の色の人間は仲間だと決めてしまったり、違う色の人間は仲間ではないと感じてしまったりすることは、よくあることなのです。

本書ホワイトフラジリティでは、レイシズムを取り上げていますので、社会構造が白人の支配を前提に作られてきたため、この構造によって白人はレイシズムを生まれたときから染みつけられているという言い方をしています。

2 差別意識を認めることが差別解消の必要条件

それでは差別は無くならないのか。差別をなくするためには人間の集団を150人に制限しなくてはならないのか。そんなことを考える必要はありません。
最近のトレンドの考え方は、例えば行動経済学もそうなのですが、人間は失敗をするということを当たり前に認める、自覚するということを前提に、どういう場面でどういう失敗をするかということを予め知っていれば、その場面で必要な対処をあらかじめ想定できるので、そうやって誤りを未然に防ぐという方法が提案されています。
これを差別問題でもやればよいということになります。

そのためには、自分は差別をする人間であるということを認めなければなりません。どんな時にどういう差別をするかというレクチャーを受ければ、それほど分析的に緻密に考えなくても、差別という失敗を回避することができます。
しかしながら、自分が差別をしない人間だということで頑張ってしまうと、せっかく対処の方法があったとしても聞く耳すら持たないので、対処ができません。みすみす差別行為をしてしまい、相手を傷つけてしまう。殺伐とした社会にしてしまうということになってしまいます。
どういうことで差別的意識を認めないのでしょうか。

3 差別的意識を認めない理由としての二項対立的発想からの過度の罪悪感

内なるレイシズムを認めない人のタイプは、真面目な人、リベラルな人、道徳的な人、宗教的な人と言った人が多いようです。そしてこの世のすべての行動は善と悪で区別されているという二項対立的な価値観を持っていることが多いようです。このため、自分が差別的意識を持っているということを認めてしまうことは、自分が忌み嫌っているはずの差別主義者という悪の烙印を押されてしまうという強烈な不安というか拒否反応を起こすようです。
そこには、差別という意識は、悪の人格、不道徳な人格によって生まれる許されないことだという思い込みがあるようです。

これは日本においても同じようなことを見ます。差別に対する裁判で、差別をしたと主張された方は、それは差別ではないと差別を訴えた相手の主張を否定します。自分には悪意はない。それが相手を傷つけるとは知らなかった。業務の必要性という理由のある言動だ。例えば障害者差別の裁判では、私は「障害者」という言葉も使ったことがないと本当に言っているのです。このような主張を見ると、ああ、この人はまた同じことをするなと思ってしまいますし、このような主張してくる団体は信じられないなと思ってしまいます。差別行為を解消しようとする意思も、合理的配慮をしようとする意思も感じられません。明確に方向が間違っています。

それが差別か否かは、差別行動をした人の主観はあまり関係がありません。差別行動を受けた方の立場に立って考えられなければならないことです。

1つ解決のヒントがここにあるのではないかと考えています。それは、差別意識、差別的思考というその人の内面の部分と、差別的行動、言動という相手に伝わる部分を切り分けるということです。あくまでも伝わった相手の問題なので、このように切り分けることができるでしょう。どんなに差別主義者であったとしても、例えば取引上、取引規則に従って公平公正に取引を行い、相手に不利益を与えなければ、とりあえず相手は傷つかないし損もしません。ここが大切です。もちろん差別的感情は生まれないに越したことがありませんが、優先順位は相手に伝わる行動、言動に置くべきなのです。そして、行動、言動を修正していきながら、そこから逆に差別意識、差別的思考を修正していくということが最も合理的な方法だと思います。

4 差別意識を認めない理由としての自己防衛意識

真面目な人、リベラルな人、道徳的な人、宗教的な人が自分の差別意識を認めない理由として、自己防衛意識が強すぎるということを本書では指摘していて、差別をなくすためには自己防衛意識を弱めるということも一つの方法だということを提案しています。
結論はその通りだと思うのですが、解説が必要だと思います。
元々差別は、人間が群れをつくる本能があって、群れの中にいたい、群れから尊重されたいという意識が高まって、勢い、自分の仲間を優遇してしまう結果として自分の仲間ではないと感じた相手に不利益を与えたり、低評価をしたり、攻撃をするという側面があります。自分を守ろう、群れにとどまろうという意識が強い人は差別になじみやすくなります。こういう意識が強くなる時は、自分が群れから尊重されていない、仲間から低評価を受けている等の危機感がある場合が多いです。自分を守ろうという意識が強くなればなるほど、他者への配慮が欠けていくという関係になるようです。
これは自分の仲間全体が攻撃を受けるときも同じです。自分の仲間集団を守ろうとする意識が強すぎて、仲間を攻撃する人や仲間以外の人に、組織の論理で攻撃しようとしてしまいます。自ら敵を作っていくということになります。
自分の内なる差別意識を認めようとしない理由も、これを認めてしまったら仲間から低評価を受けてしまうという意識が反映しているのではないでしょうか。自分が仲間から認められるために、真面目でなければならない、リベラルでなければならない、道徳的、宗教的に敬虔でなくてはならないという意識が強まっているわけです。
このような状態のとき、人は色々な誤った行動を起こしてしまい、ますます人間関係を悪化させてしまうことが多くあります。考えてみれば、差別を理由に訴えられた人はこのような状態にあるのだから、ますます自分の差別行動を認めたくないことは当然かもしれません。

それにしても、自分を大切にしすぎないということは、私も家族問題で提案したことがありますが、なかなかその意味を伝えることは難しいし、賛同を得られにくいと感じました。本当は相手を差別しないことによって、人を傷つけないこと、それが自分を本当に大切にすることなのです。

自分を大切にしないという提案よりは、意識や何となくの思考は、反射的な反応だからあまり気にしないと割り切ることが実践的ではないでしょうか。要するに影が動いたことにおびえて後ずさりしたら自分の影だったみたいなもので、間違いが起きることは仕方がないという割り切りですね。そして先ほど言ったように、実践的な修正を積み重ねていったところに高潔な思考、感じ方が約束される・・・かもしれないということですね。まあ、こういう考え方自体が著者によるところの自分を大切にしすぎないということかもしれません。

補論 差別を受ける側の危険性

ホワイトフラジリティは、白人側の説明ですから、差別を受ける側の心理、その危険性については、また別の人が記載すればよいのですが、差別を行う人間の心理が、そのまま差別被害の心理、危険性を説明しているので補論を述べます。

差別をするのは、人間が、仲間の中にいたいという本能的な要求に根差していると言いました。仲間から外されることに不安を感じてしまい、何とか仲間に貢献することによって仲間にとどまりたいという感情を持ち、反応をしてしまうということを述べました。
差別というのは、仲間から外される、仲間から低評価を受けるという人間の不安を掻き立てられる最たるものです。そんな奴初めから仲間じゃないと思えればそれほどダメージはないのですが、人間は他の人間に無条件に仲間として認められたいと感じやすい動物のようです。なんといっても人間の脳は200万年前から発展していませんから、仲間でもないのに野獣以外の動物である人間を、うっかり仲間であると感じてしまう傾向があるのです。だから社会の中で差別行為を受ければ、自然と「仲間から外される」という危機感を強く持ってしまいます。そしてその原因が、自分ではどうしようもないこと、努力しても修正できないことであれば、絶望感を抱くこともあります。差別行為を受けることによって極めて危険な心理的影響を受けてしまいかねないということを述べておきたいと思います。また、差別は、自分の不安を解消するために相手により大きな不安を与えることだという構造を持っていることも付言したいと思います。

nice!(0)  コメント(0)