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家庭の中の敵が生まれるとき(仮題)妻は二度夫を品定めをする。一度目は結婚するとき、二度目は子どもが生まれたとき。 [進化心理学、生理学、対人関係学]



夫婦間紛争に携われば、夫婦が双方感情をぶつけながら争う場面を目にすることになります。紛争が進み、私たち弁護士が選任された段階では、多くのご夫婦はすでに別居しています。ただ、離れて暮らしていても、紛争の様子を見ていると、家族内の紛争だという感覚を持ちます。子どもがいる場合は、全くの他人として今後の人生を歩むことは難しく、関りを100%絶つということは不可能だと思います。これまでの家族というユニットとしては解体されると同時に、客観的には新しい家族の形のユニットが生まれるという二つのことが同時に起きているのですが、当事者がそれを理解することは実際は難しいことだとつくづく感じています。

夫婦間紛争を第三者として見ていると、家族の中に味方ではない敵がいるという状態に見えてしまうのです。

味方とは何か、敵とは何かについては、色々な切り口で説明できるでしょう。ここでは単純に考えて、「味方」とは自分に利益をもたらすもの、「敵」とは自分に損害を与えるもという意味から出発します。ここで使っている利益とか損害とかいうものは、経済的なものに限りません。むしろ、精神的なものの比重が高いように感じます。
ここでいう利益とは、
・自分を援助してくれること、
・自分をフォローしてくれること、
・自分ができないことをしてくれること
(かなり抽象化して言っていますので、想像で補っていただければ幸いです。)

こういう利益があって、そのために味方に対しては
・一緒にいて安心できる
・その人のために自分が役に立ちたいと思う
・その人が喜ぶと自分もうれしい等の感情の共有
という心理的効果が生まれ、

・いつまでもずっと一緒にいたい
という意識にさせる。
これが味方ではないでしょうか。

これに対して敵についても考えてみましょう。要するに味方とは逆のパターンを考えればよいわけです。
損害とは、
・いつも身近にいてほしいのに自分を放っておく。
・自分が失敗したり窮地に立っていても助けてくれない。
・自分ができないこと、不十分なことを責めたり嘲笑したりする。

こういう損害があって、そのためにそういう人物に対しては
・一緒にいて安心できない
・その人のために自分が何かをしようとは思えない
・その人の感情は無関心ないし自分に対する敵愾心の表れただと感じる
という心理的効果が生まれ

・一刻も早く遠ざかりたい、無関係になりたい
という意識にさせることになります。

敵か味方かなんて極端な人間関係ばかりではないと思う人もいらっしゃることでしょう。大事なことはその人との「距離」だと思います。自分の人生の時間に関係ない人、距離の遠い人はその他大勢の風景です。無害であるため敵か味方かを区別する必要はありません。しかし、自分の人生の時間に関わってくるという意味で近い距離の人間は、敵か味方かどちらかという判断を、人間はどうしてもするようです。しかもこれは一瞬で判断してしまいます。人間も動物である以上、自分を守ろうとします。そして動物一般がそうするように、敵だと感じれば逃げたり攻撃したりする行動をとり、味方だと認識したときは群れを形成するための心理が生まれます。じっくり考えていたのでは逃げられないので、一瞬で判断するようにできているのでしょう。これは人間が生きるための遺伝子に組み込まれたシステムです。

夫婦という密接な距離に存在する他人については、無意識に敵か味方かを判断せざるを得ないというのが人間なのだと思います。

但し、長年一緒に暮らしていけば、「馴れ」が生まれます。馴れてしまえば敵だとは思わなくなるということはありうると思います。だから、通常は密接な人間関係を続づけていけるものなのですが、この「馴れ」が消えてしまうことがけっこうあるということを人間関係の紛争を見ていて実感します。典型的には認知症で記憶力や見当識が弱くなる場合です。自分の子どもでさえもどこの誰だか分らなくなり、自分が今いる場所も分からなくなり、確認しようと付近を徘徊してしまうということのようです。いささか極端ですが、馴れがなくなるということがどういうことかわかりやすいと思います。私の実務でよく見るのは、出産というイベントを経験した母親です。出産を経験した後、一番身近にいる夫が自分の敵なのか味方なのかわからなくなってしまったような思考傾向をされる方が多くいらっしゃるようです。いったん馴れが解消されても、また、馴れが始まることが実際には多いのだろうと思います。しかし、馴れを再構築できず、どうしても一緒にいることが我慢できなくなっていくということもあり、これが離婚の本当の原因になっているように感じることが少なからずあります。また、内科疾患や薬の副作用で馴れが消滅してしまい、相手に対する原因不明の不安が生まれて、それに伴って馴れが消えてしまうということも見ています。本人はそのことに気が付きません。ずうっと連続した時間を過ごしていることを疑いません。夫からしても、馴れが消えた本当の原因は自分にはないので、自分が妻の理由のない不安の対象になっているという事実に気が付かないのは当然かもしれません。

馴れが消失してしまうことはある意味自然の摂理なので仕方のないことです。馴れがリセットされたのであれば、本来ならば新たに「味方意識を上書きしていく」という作業をすればよいはずです。この時、馴れの結晶である子どもの存在は、かつて味方の関係にあったということを思い出させる切り札にもなります。しかし、再構築ということの意識がない場合は、子どもの存在がかえってお互いを敵だと認識させることを推進してしまう原因にもなるようです。

体調の関係や生理的問題から、相手を味方だと認識できなくなることは不幸なことです。しかし、生きるためのメカニズムのためやむを得ないということが最近の内外の脳科学の研究は示しています。即ち、生まれてきた赤ん坊の命を確実に維持するために、母親は赤ん坊の状態に共鳴しやすくなるように脳の活動の形が変わるらしいのです。内外の研究は、「母親」の変化として研究発表をしています。
(しかし、これはおそらく、ホルモンバランスによる変化というより、人間の本能的な性質ではないかと私は疑っています。即ち、父親もこのような脳の活動の変化が起きる場合があるということです。また母親も父親も変化が起きない、あるいはわずかな変化しか起きないということはありうると思います。母親のホルモンバランスの変化は、このような脳の活動状況の変化を引き起こしやすくするわけですが、それだけで変化が起きるわけではないと考えているのです。ちょうどサックスやクラリネットが、オクターブキーやレジスターキーを押しながら吹くと、同じ指の抑えをしても1オクターブや1オクターブキー高くなりやすくなることと似ていると思います。これらのキーを押しても実際は必ずしも高くならないで、息のスピードを変化させることによってはじめてきちんとした変化が生じます。逆にオクターブキーなどを押さないでも息の吹き方を変えると高い音を出すこともできるわけです。)

いずれにしても、こうやって人間は赤ん坊が泣いていれば、泣き方に共鳴して、赤ん坊の空腹とか、不快とか、痛みとかを聞き分けるということになります。だから適切に対処することができるわけです。但し、大人の側が赤ん坊の問題を解消してあげたいと思う感情がなければ、聞き分けることも難しいし、聞き分けても対処しないということもありえます。

夫婦にとっての問題は、その共鳴力、共感力が赤ん坊の方に主として向いてしまうあまり、成人の方に対しては向かいにくくなるということなのです。人間の脳は万能ではありません。同時には一つのことしかできないようになっています。赤ん坊への共感力が働くようになると、大人への共感力が後退せざるを得ないようです。大人の仲間を援助する感情が起きにくくなるのはこういう仕組みです。どうしても哺乳類の生きる仕組みから、大人は後回しにならざるを得ず、これは脳の活動の変化によるものだから仕方がないのです。つまり感情に任せたまま行動してしまうと、どうしても赤ん坊が最優先になってしまいます。

大人同士が仲間であることを安定的に維持するためには、感情に任せた行動以外の行動原理が必要です。つまり、理屈、理性で行動することが必要だということになります。心は不要です。心を求めることは自然摂理に反することを要求することで過酷なことです。相手が心地よくなる行動をするということは理性の力があればよく、かつそれが必要だということになるわけです。何をするべきかという知識と知恵があればよいということが正解だと思います。

母親が赤ん坊にだけ共鳴しやすい脳の状態になっていることは間違いないようです。その反射として、父親に共鳴することや、父親のために何かしたいという感情が著しく減少することになります。この結果、父親との出産前の楽しかった記憶も色あせていることも多いようです。つまり、いつも一緒に生活し、ごく身近にいる男性に対して、共感することができない、つまり何を考えているかわからないという状態になっていることになるようです。記憶が薄れるという言い方も当たらずしも遠からずのようです。安心の記憶、楽しかった記憶が失われる、夫に対する感じ方、馴れがリセットされるということになるようです。自然の摂理であると割り切る必要があるのだと思われます。

出産によって母親の馴れはリセットされているのだから、出産後の時期は、母親が夫が敵か味方かを改めて判断を迫られている時期だということになります。仲間だと受け容れられる自然な感情は、赤ん坊にだけ向かいやすいので、父親にハンディキャップがあります。またこの時期は、母親にとって子育てという肉体的にも精神的にも激務を強いられているときです。夫が子育てに役に立つか、邪魔にしかならないかという新たな判断基準が生まれやすくなっています。また、母親が子育てをすることに被害意識を持つと、父親の行動を正当に評価することは難しくなります。父親が何をどう奮闘しようと、「ちっとも足りない。やっていない」と必ず感じます。父親の立場に立って考えることはできません。母親にとって必要な行動がなされているか否かという結果だけを評価するようです。そして子育ての役に立たないと感じられる父親はますます味方だと感じられにくくなりがちだということになります。

味方ではない近距離の他人は、敵として警戒するのも生物の仕組みです。多くの哺乳類では、子どもの出産後は、父親は子育てに関与しません。子育てにはあまり哺乳類のオスは役に立たず、邪魔者扱いをされているようです。しかし、人間は、父親が子育てに関与しています。人間の父親は子育てに大いに貢献していたか、あるいは、母親に自分は敵ではないということをうまく伝えていたのか、どちらかということになります。私は人類のオスは両方の努力をしていたのだと思っています。

母親が父親を自分の仲間なのか敵なのかを判断するにあたって大切な要素となる母親の求める利益は、みんな共通ではありません。多くの母親が切実に希望する利益は、「安定した生活」ということが多いようです。安定した生活は、不安のない生活です。借金(住宅ローン)の無い生活、低収入を得る職業、浮気をしない夫、そして身体生命の安心ということになるようです。本来それらの要求を満足させるから(あるいは妥協できたから)結婚したはずなのですが、出産によってこの合格評価はリセットされています。子育てをするという条件が付加された形での安定の評価となりますから厳しくなります。そして必ずしも正確な見通しでもないようです。住宅ローンが何十年も続けばそれだけで逃げ場のない苦しい思いを強いられているように感じるし、夫が自由業であれば定収入のある勤め人になってもらいたいと感じるようです。出産前の考えもリセットされているようです。このため夫からすれば、あっと驚くところに不安を感じてしまうようです。妻の不安や不満は、ますます理解できないことになっているようです。

いずれにしても、母親は、一度は結婚するときに夫をパートナーとして満足できる(妥協できる)存在かどうか品定めをしますが、出産後も別の評価基準で品定めをすると考えるとわかりやすいのかもしれません。

ところが、夫は致命的な失敗をしがちです。それは一言に尽きます。「出産前と何ら変わらない対応を続けた」ということです。

夫はいくつものことを既に忘れています。交際を始めたころは、将来の妻となる女性に対して極めて慎重に、ていねいに働きかけていました。そして自分の働きかけに対する相手の一挙手一投足の反応に一喜一憂していました。女性の歓心を得るために、一生懸命考えて、相手が喜びそうなことを行い、お金も使っていました。自分の利益よりも相手の利益を優先していたはずです。相手が嫌がりそうなことはもちろんやらないようにしていたはずです。その後、このような努力が実を結んだからこそ結婚できたわけです。

その後長く一緒にいる中で、緊張を解き始め、声が大きくなり、自分の都合を優先することも出てきて、痛いところを突かれると乱暴な言葉を発したりしていくわけです。都合が良いことに妻も馴れが生じるために、結婚前ならば恐怖を感じていたかもしれない夫の言動も、自分を攻撃しているわけではないということを理解できるようになり、味方だと感じ続け、そして出産に至ります。こんなことを結婚前にやっていたら結婚できなかったはずの行動も、結婚後にそれをやっても結婚が維持されていたのは、すべてこの「馴れ」のおかげなのです。

気を使って自分を守らなくても良いのだ、緊張しなくてよいのだという学習こそが「馴れ」なのです。

女性も馴れが生じるとともに、男性も馴れが生じているということになるでしょう。

しかし、出産に伴って、母親の「馴れ」はリセットされてしまっています。あなたが赤ん坊の母親(妻)の近くで大きな声を出せば、それだけで母親はおびえるようになります。乱暴な言葉をつかえばますます怖がるのは当然です。父親が趣味や外の付き合いなど自分(母親以外)の都合を優先すると母親に不信感も生まれるでしょう。母親が困っているのに放っておくことは論外だとしても、生活上の母親の不十分なことをニコニコと自分がやるのではなく、不十分であることを責めるようになってしまえば、あるいは眉間にしわを寄せて、あるいは最上級の恩を着せた態度でやるならば、もはや母親が父親を仲間だと無意識の判断をすることを期待する方が無理でしょう。忘れてはいけないことは、人間も動物も、仲間でなければ敵だと判断することです。

(最近の紛争の形態としては、父親が母親以上に子どもに共鳴力を向けてしまい、母親に対して味方意識が薄れるために生じる類型です。子どもの利益を考える余り、子どもにとって利益であれば、大人は我慢して批判も受けなければならないし、何をさておいても子どものために行動しなければならないという過剰な意識を持ち、それを十分にしない相手を責めてしまいます。やはり、父親も母親の立場に立って考えることができなくなり、結果だけで評価をしてしまいます。しかし、母親にとって「馴れ」は既にリセットされています。責められると母親はますます父親を味方だと思わなくなってしまうだけです。母親は、自分があたかも子どもの奴隷として生きろと言われているような感覚を受けてしまいます。もちろん人によって程度の違いは大きくあるわけですが、自分が子育て以外に自分の価値を見出した母親程このような傾向があるように感じます。逆に言うと、世の中が、子どもを守り育てることに価値評価しなくなったということだと思います。収入をあげることに、人間としての価値が集約されているような歪んだ社会となっているように私には思えてなりません。)

そして、男性は出産ということがありません。馴れが強制リセットされる事情がないので、馴れは継続してしまっています。父親が出産前までと同じようにふるまうことは、むしろ当たり前のことだと思います。そして、母親も同じように出産前と同じ思考をするのだろうという思い込みが生まれています。そこに悲劇が生まれるわけです。この悲劇を回避するためには、理性を働かせて、意識的に、そしてわかりやすく自分があなたの仲間と働きかける必要があるということになります。悲劇を回避する手っ取り早い確実な方法は、産前産後に関わらず、結婚前後に関わらず、レディーファーストを徹底して、女性を最上級に扱うということなのだろうと思います。これはとても優れたシステムではないでしょうか。少し女性にとっては後退した方法としては、少なくとも出産後、2年くらいは子どもを産んでもらった感謝を奉るという行動に徹することだと思います。

しかし、通常、このような知識がある男性はいないわけです。その上馴れも係属しているから、丁寧な言葉遣いに改めようというきっかけがありません。妻は、自然と夫が、危険な、不快な、不愉快な、邪魔な存在になっていくわけです。

これまでは、夫も妻もこのような感覚を持っても破綻を回避する方法が用意されていました。それは密接な人間関係です。両親、上司、近所の年配の人、親戚、あるいは学校時代の先生など。「みんなおんなじことを感じてきたのだから、少しだけ我慢するとよい。すぐにまたまったりとした関係になるから。心配しなくてよいよ。あの人には人にない、こういう良いところもあるし。」等の優しく諌める言葉があったのだと思います。

子どもを産んだ母親に対するいたわりと経緯を自然な感情としてもち、それを示さない夫をたしなめるというようなことをするでしょう。子どもが生まれたのだから、安定した生活をするように説教する大人もいたでしょう。馴れのシステムなんてわからなくても、経験で何をするべきかを語り継いでいたはずです。理屈がわからなくても、やってみて幸せになるならやる。とてもシンプルな力強い真理だと思います。習慣とか祖先の知恵を軽視する風潮があったわけです。

今は、子育て世代は孤立の中で、インターネットを相談相手に生活しなければならないようです。この孤立婚が現代人の不幸を加速しているような感覚さえ持ちます。確かにやみくもに慣習などの過去に縛られることは不合理ですが、慣習という自分の先輩たちの実践の中で検証されてきた方法論を軽視してはならないと思います。私は、このような慣習や故事、ことわざなどの合理性を科学的に検討することもライフワークにしています。学ぶべきことが多すぎるということが実感です。慣習や言い伝えの類を排斥し、自由を獲得しても、それが感情のままに行動するということになってしまえば、起きなくても良い紛争が起きるということは当たり前のような気もするのです。

さて、現代の子育て世代は孤立していて、自分の両親の経験も伝わらず、ましてや先祖伝来の慣習も伝わらない上に、妥当しない人間関係になっているようです。横のつながりがあったとしても、あまりにも個人的な経験しか持ちあわせていない同世代からの情報しかありません。悲劇を防ぐ手立てはなく、無防備に危険にさらされている世代だと感じています。

そうこうしているうちに、父親は母親が自分をぞんざいに扱っているのではないかと感じることが多くなります。母親の側は出産前の「今まで通りではなくなっている」からです。哺乳類の子育てモードになっているから、成人男性がどう思おうとあまり気にしなくなっています。自分がこれまで妻にしてきた努力も忘れているような気配もあります。夫の側は妻の自分に対する態度が「今まで通り」ではないので、このような妻の態度に「なんとなく」危機感を感じ始めるのもそれは仕方がないことかもしれません。
ここでいう「今まで通り」とは、
・妻は夫である自分を誰よりも尊重してくれる。
・妻は自分に多くを与えてくれる。食事、時間、労力(掃除、調理、洗濯などの家事等)
・妻は、自分の窮地をいやしてくれる。
・妻は、自分の不十分なことを代わってやってくれる。
危機感とは、このような妻の今までどおりがないことから、自分が妻から見て「仲間として認識されていないのではないか」という危機感です。

これを女性の立場から見ると、母親が父親の行動が出産前の「今まで通り」と感じられるためには、これらの今まで通りを、今まで以上に父親が行うことをしなければならないと考えていると置き換えるとわかりやすいかもしれません。

さて、夫婦に危機が発生することを予防することを第一に考えるならば、父親の「今まで通り」がかなわないことは仕方がないことだとあきらめ、母親の「今まで通りを強化」するということが鉄則になると考えると、やるべきことが見えてくることと思います。

でもこれは、案外幸せな気持ちで、自然に解決する人たちも多いのですよね。子どもが生まれた喜びと、出産の母親の苦労に対する感謝と敬意を抱き、自分の生きる意味を家族に奉仕することに集中できる人ですね。これはしかしバランスが難しく、円満さが長続きしない場合も少なくありません。弱い者を守ろうという正義感の強すぎる人だと、子どもの利益だけを最優先にして、母親の感情を顧みられなくなってしまう人ですね。「ちょうどよく」ということはなかなか難しいようです。母親側からすれば、父親はなかったものと割り切って、邪魔をしなければ良し、家計を入れれば良し、子どもが笑っていて花が咲いていれば幸せだというたくましい母親と、疎外感を感じながらも、家の外で頑張るという父親ならばこのような疎外感は悪い方向に導かないかもしれなかったかもしれません。これはもしかしたら昭和以前の家族のタイプなのかもしれません。現代社会でこれを再現することは不可能でしょう。

多くの事例では、人間の考え方には大きな変化があるという知識も理解もなく、日本の慣習や一世代前の経験もなく、無防備に危険にさらされる家族が多くあるわけです。

父親は、今までに比べて、自分がぞんざいに扱われているわけですから、いつかそのことを相手に文句を言ってやろうと思っていたりします。母親にとって父親は共感の対象ではありませんから、フォローすることは自然体では難しい。多少の父親のアッピールがあってもぞんざいに扱い続けるし、父親をフォローするとか、子どもと平等に扱うとか、そんな発想はありません。共感力が無くなっているから、父親の失敗を責めたり、不十分なところを責めてしまうことができるようになってしまいます。父親は家庭にいることがそれほど幸せに感じなくなることもありうることです。そして、報復感情もあり、母親の失敗や不十分点を見つけると、母親が自分にしたように、鬼の首を取ったように、あざ笑ったり、批判、叱責したりするわけです。母親は、ますます、というか、はっきりと父親が自分の敵だと認識し始めるわけです。

父親は、母親とコミュニケーションをとることが難しいと感じてくるでしょう。何を言っても反応が鈍いし、自分の言っていることを聞いていないのではないか、無視しているのではないかと感じることも多くなってきます。このため、必要以上に、強く、厳しく母親に対して物を言うようになっていきます。また、被害者意識が芽生えてしまうと、母親の何気ない言動が、自分を攻撃する目的ではないかと感じ始めていきます。そのため、自分を守るために、自分を攻撃する行動に対して怒りを持ってしまいます。しかし、それは単に生理的に共感ができなくなっているために起きているだけのことです。

父親はそれがわかりません。父親は母親が嫌な存在だと思うわけではなく、母親の具体的な言動や、無視だと感じる行動に対して抗議しているだけだという傾向が強いようです。

しかし、こういうことが続くと、母親は、常に自分は父親からこのように見られているのだという意識を抱かされるようになるようです。物をきちんと折りたたまないでしまい忘れたりして、父親が帰宅早々眉間にしわを寄せて黙り込むと、父親は自分がだらしない人間だと思っているのだろうと思うようになります。何か口論になり、「ああ、父親は自分に対して、『言い訳ばかりする人だ』と言いたいに違いない」と思うようになり、記憶の中でそう言われたと変貌していくようです。
第三者がいれば、理屈はどうあれ、そこまで言うことはないだろう。もう少し暖かく接しろというかもしれません。しかし、そういうことを言ってお互いをたしなめてくれる人は現代社会にはいません。勘違いの不安に、「寄り添う」という愚かなことをする人ばかりです。
このため、夫婦双方に、相手に対する不信が加速していくということが現代の離婚事情だと私は感じています。いくら母親が父親に共感する能力が減退していたとしても、今まで馴れて許容していた範囲を超えて、父親が自分に対して大きな声で、乱暴な言葉づかいで、怒りの表情をして、些細などうでもよいことに腹を立てているのです。自分が毎日毎日否定されて、フォローされているという実感は全くありません。しかし、近くにいつもいる。毎日家に帰ってくる。また帰ってくると、訳の分からないことに腹を立てて自分を攻撃してくる。という毎日が母親の毎日になってくる危険性が生まれています。父親は、自分の感情や母親に対する言動は当然のことだと感じていますから、母親が自分を嫌悪しているということに気が付きません。母親は、父親が完全に自分の味方ではなく、自分の存在脅かす存在と認識されますので、一緒にいることが危険だと勝手に感じ、不快だと感じていきます。一緒に同じ空気を吸いたくないという感情となることは容易に想像することができるのではないでしょうか。

夫婦すべてがこうだとは言いませんが、多かれ少なかれこういうことが起きています。しかも、その途中経過を認識して、「ああ、このままだと、自分は敵だと思われそうだ。」なんてことに気が付くのは至難の業でしょう。ある日ある時、夫婦は破綻しているということが現代では少なくありません。母親は子どもにしか共感できませんので、子どもは自分の味方です。父親は敵です。子どもを連れ去るという別居形態はこのようにして生まれるのだろうと思います。

そうならないためには以下のことを忘れないようにしましょう。

・人間は時間が過ぎれば、感じ方、考え方が別人のように変わる生き物である。
・特に出産によって女性はほぼ確実に変わる。
・出産後少なくとも2年は、主役は子どもに譲り、父親はわき役に徹する。
・出産後は特に、妻に対しては結婚直前直後の自分の態度に戻す。
・子どもが小さいうちは、妻からないがしろにされることは当たり前のこと。
・出産という行為は、生死を掛けた行為であり、男は生涯かけてやらない行為。
・母親に対して無条件に尊敬の情を示す。
・夫婦、家族の感情的な満足、充足は出産しない父親の役割。
・真心よりも、相手に伝わる言動を優先実行。心は後からついてくる。
・常にねぎらい、感謝の言葉を発すること。

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