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夫婦仲を壊し、再生を妨げるのは「正義感」かもしれない つい家族を攻撃してしまう人の心理 家庭の中に敵が生まれるとき2 [家事]



この一つ前の記事で、出産をしたり、特定の病気になったりすると、自然と夫婦仲が壊れやすくなることについてお話ししました。
その壊れ方を加速させる問題として、家庭の中に正義感が持ち込まれることの害悪についてお話をしたいと思います。
正義感についての考察については前に書きました。
「正義を脱ぎ捨て人にやさしくなろう。」
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2019-02-18

今回はこれの家族版ということになります。

典型的なのは、子どもを妻に連れ去られて離婚を突き付けられている人が、家族再生を目指す場合にも、つい相手の行動が許せなくなって責めたり批判したりしてしまうということがあります。
ある日仕事から帰ったら妻子が家におらず、荷物もなくなっている。連絡も取りようがない。妻の実家に行ってみたら、大勢の警察官に取り囲まれてしまった。というような事案です。通常、例えば私なら、子どもを奪われたということや、自分の人間性にダメ出しを食らったということで、怒りに任せて行動するところです。それでも、そういう状況にあってもなお一定の方々は、自分にも修正するべきところがあるとして、専門機関にレクチャーを受けに行ったりして、何とか家族やり直そうと努力する方々がいます。これ自体とてもすごいことです。私も、何とか力になりたい、また、何とか子どもをもう一人の親である父親に会わせたいという思いで、取り組んでいます。
大体の妻が出ていく原理と心情がわかってきて、どうやら、妻は、夫と一緒にいると安心できない気持ちになる。その理由の大まかなところは前回の記事でお話ししました。問題は、妻の心が離れかけているのに、つまり夫から攻撃されていると感じやすくなっているにもかかわらず、火に油を注ぐ様な行為を夫がしてしまうということのようなのです。妻の心が離れるにあたって夫の暴君的な心理的圧迫が先行する事例というのは、現代では少数になっていると感じます。実数として多いのは、前は気にしなかったことを妻が気にするようになっているということから心が離れ始めていると感じています。
そうだとしても、もしかしたら、夫の対応を修正することによって、妻の安心できない心情がそこまでエスカレートしなかったのではないかという思いもあります。

そうすると家族再生を目指す場合の方法というのはわかりやすいです。新たな攻撃と受け止められる行為をすることをせず、過去の攻撃と受け止められた行為を自ら否定評価し、感謝と尊敬をきちんと言葉に出していくことで、あるいは妻の心情に寄り添うことによって、家族再生の方向へ向かうと考えることができるはずです。そしてこれができたケースでは、復縁というところまではいかなくても、子どもとの比較的自由な時間を、長く充実したものにできるというケースが確実に生まれ始めていると実感しています。あくまでも私の感覚なので、頼りなくて申し訳ありません。

ところが、家族再生を目指す方々であっても、少なくない割合でこの努力がうまくできません。ついつい、妻にとって攻撃だと受け止められることを、妥協を許さない感情をもってしてしまっています。

これが何なのか、
どうして家族再生と矛盾する感情が生まれてしまうのか、
どうすればそれを抑えることができるのか
について、考えてみました。

<家庭の中の正義感が家庭を壊すメカニズム>

一言で言って「正義感」が問題だと思っています。
正義感の具体的中身としてよく見られるのは、
・前に言ったことと違うことを言っている。
・約束を破っている。
・合理性のない行動や効率の悪い行動をしている。
・不公平な扱いをしている。
・社会常識に反している。
・社会的に要請されることをできていない。
・嘘を言っている。
こんな時に正義感が発動されてしまうようです。

一見すると、そういう場合は何か言って当たり前なのではないかと思われることと思います。問題は、こういう正義に反する行動について、容赦なく批判したり、怒ったり、否定したりして、当初の目的である家族再生を忘れてしまうことなのです。人の価値観ですから、こうするべきだということは言えません。こういうことができない人間とは一緒にいることはできないから、別れると言うならばそれを止めることはしません。私はあくまでも、家族再生という大目的の助力を依頼されているので、その目的に照らして、目的を前に進める言動か、後退させる言動かを述べるだけです。

それでも、家族再生を後退させる言動だと指摘すると、怒りがこちらに向かってくることも少なくありません。私は自分の仕事をするだけですから、口論になることもあるわけです。これまでの私の関わった仕事の中で離婚後の家族再生に一番近い方とは、調停の時間中ずうっと口論していたような気がします。

今家族再生を目標として、色々と学んで反省をして、さあ家族再生だと頑張ろうとしているにもかかわらず、正義感がどうしても優先して出てきてしまうようです。
これは、今何事も無いように結婚生活を送っている人でも、覚えがある人が多いのではないでしょうか。もちろん自分にも覚えがあります。
例えば
子どもを幼稚園に送り出すときに、子どものお着替えを妻が担当していたのに、夫がたまたま仕事の途中で家に立ち寄ったら、ズボンもシャツも脱いだままに丸まって床にそのままになっていた。だらしないからきちんとしろと言ってしまう。
本当は、自分がたたんで収納すればよいのです。それで終わりで良いはずです。何らかの事情があって服を収納する時間がなかったのだろうなと想像すればよいのです。それをしないで責めてしまう。これ、服のことならやりすぎだとはっきりわかるのですが、食べ物の管理がだらしないとなると、相手を責めたくなる気持ちが出てくる人が多いのではないでしょうか。
例えば
週末に家族でドライブに行くという約束をしたのですが、妻が自分の服のバーゲンセールの情報をゲットしたので、買い物に行きたいと言い出した。子どもも楽しみにしていたので、それはないだろうと責める。ここまでの事案ではないにしても、突然の心変わりは結構あるようで、回転寿司に行こうと約束していたのに、今はそういう気分でないからイタリアンレストランに行こうと言われるとか。それだけの話なのに約束と違うからと怒る場合もあるのではないでしょうか。
では、あなたはセールに行きなさい。私は子どもが楽しむところに行くと行動を分けるということも1つの解決方法ですね。時間帯をずらすということもありうる話です。そういう発想はなく、約束を破ったことに腹を立てる。本当は炙りしめさばなんてそれほど食べたくなかったに、ぐずぐずとハンバーグの生あたたかさに文句をつけ続けるとか。
例えば
出張などでホテルに泊まる場合、日にちが決まっているので、何日か前に予約すれば色々特典もあってお得なのに、ぐずぐずしていたために少々割高で、特典ももらえなくなった。大したことがない景品だったり割引率なのに怒る。
怒ることはないわけです。まあ、この場合、必ずしも怒っているわけではないのですが、言われた相手からすると、やるべきことをやらなかったと真顔で指摘されますし、得するところを得しなかったということは客観的事実ですから、何となく罪悪感を与えられてしまうわけです。自分が何かとてつもない間違いをしてしまったような気持ちにさせられます。また、逃げ場を与えられないということもポイントですかね。それから、ぐずぐずしていたことには、なんらかの理由があるわけで、そういう理由をすべて否定されてしまうと、今後は機械的に動かなければならないというようなことを命じられているような感覚になって、苦しい気持ちになるのかもしれません。

失敗や不十分なことは、本当はとても些細なことかもしれません。でも、約束違反、不合理、非効率的な行動があれば無条件に正義感が沸き起こってきて、相手を批判してしまうようです。特に子どもに与える影響を感じるとなおさら、つい反発する心がわいてきてしまい、相手からすれば容赦なく攻撃されていると感じるような行動をしてしまうようです。

<正義感の生まれる場所>

指摘する方は、指摘して当然だという意識がありますから、それを言わないとか、言い方を考えるという発想をなかなか持つことができません。

ところで、この「正義感」は本当に当然でのこと、自然な感情なのでしょうか。

私は、場面に応じて、人間関係の内容に応じて区別するべき概念だと思っています。家族など、いわゆる仲間の間では、正義感よりも相手の感情を優先させるべきで、相手がどう思うかということを基準に行動するべきだと考えています。詳しくは前掲の記事に書きました。また、「正義」感は有害であり、あまり正義感は振りかざすべきではない。道徳や法律も、あくまでも他人同士を縛る概念であり、家庭の中に持ち込まれるべきではないと別のところで考えています。
親は子のために隠す、夫は妻のために正義を我慢する。論語に学ぼう。他人の家庭に土足で常識や法律を持ち込まないでほしい。必要なことは家族を尊重するということ。
https://doihouritu.blog.ss-blog.jp/2015-05-11

正義とか道徳とかは、人間が生物としての人間の脳の能力を超えた人数の人間と関係してから、つまり仲間ではない人間とも関係を持たなければならなくなったために必要に迫られて作り出されたものだと考えています。かけがえのない仲間の中であれば、自然に持つような感情ではないはずです。これが家族の中に持ち込まれているのは、やはり人間がその脳の能力を超えた人間と関わり合いを持たなくてはならないので、つい仲間ではない人間を規律する論理を仲間である家庭の中に持ち込んでしまっているという、環境と脳のミスマッチを原因として起こる現象だと考えています。これは別の機会で少し説明を詳しくしたいと思います。

この正義感を持ち込む理由は、育ってきた経験ということもあるでしょう。この合理性や効率性も含めた「正義感」を大切にして、受験競争を勝ち抜き、就職競争も勝ち抜いてきたし、会社でもこのような「正義感」でもって、他者と関わってきたために、どうしても自然と私たちの心にしみこんでしまっているのだと思います。学籍の高い人、国家試験をクリアして原職にある人、専門性の高いお仕事をしている人等に、家庭の中でも正義感が強い人が少なくないように感じています。だから、現代人は、放っておくとつい正義感が何よりも優先されてしまうし、正義感を満足させる行動は極端な話何をしても許されるような感覚になってしまうような感じもします。

身についた正義感が発動してしまうため、ついつい、離婚調停の段階で、後に調停から裁判になったとしてもそれを認めても何の影響もないような話でも、ムキになって否定し、訂正を求めていくのだと思います。また、新たな約束違反や不合理な言動に対して攻撃してしまうのだと思います。

<正義感によって容赦が無くなる様子>

同居期間中の時も、あるいは仕事で自分がこんなことをすると大変なことになるという感覚そのまま妻を批判してしまうのでしょう。まるで自分が上司から言われているみたいにということなのかもしれません。職場などでの緊張感を家庭でも持てと言っているような感覚です。
その感覚で、どうしてこんなことをするのだろうという気持ちをもち、そのまま言葉に出てしまうわけです。
どうしてこんなことができないのだ。
これをしてしまえば、こういうことになることにどうして気が付かないのだ。
こんなことをしたら、相手はこういう気持ちになるだろう。
こんなことをするなんて信じられない。
こんなことができないなんて信じられない。

そして相手が、自分と同じ気持ち、つまり、「ああ自分はとんでもないことをしたんだな」と見てわかる様子が無いと、つまり自分に賛意を示さないと、それが示されるまで攻め続けたりしてしまいます。

相手方は、自分のその行為だけを責められているとは感じにくく、全人格的に否定されたと感じる事でしょう。言い方の問題です。本当は色々事情があってのことなのに、それをどう言っていいかわかりません。夫の中では自分に対する評価が決定的に下がっているのだなあと感じていることは確実です。
自分の立場を気にしない人はいませ。ある人はむきになって頑張ってできなくて益々心理的に追い込まれるか、別のタイプの人はもう夫と自分は価値観が違う、性格の不一致があると割り切るようになるのは当然かもしれません。少なくとも、自分を守ってくれる人ではないと強烈に感じていることでしょう。

夫は、自分は正義に基づいて発言しているという感覚がありますから、まさか妻がそんなことを考えているとは想像すらしません。正義の役割はここにあります。

しかし、そんなにムキになって妻を責める必要性のあることなのか、冷静になって考えると疑問がわいてきたリ、不確かなことが多いのではないでしょうか。もしかしたら、結果として実害がなかったことかもしれません。何らかの失敗や不十分なことがあったとしても、冷静に将来に向けて注意を促せば足りることや、スルーしたりフォローしたりする方が、失敗が防げるという実益が上がることが多いかもしれません。でも、妻が夫から攻撃されたと感じた場合には、確実に自分を夫が仲間として見ていないと感じるデメリットが蓄積されていくというもののようにつくづく感じています。実は、費用対効果を考えたときに、無駄な損を生み出していることが多いのかもしれません。

そもそも、家族の間で、特定の家族の特定の行為を、誰か別の家族が評価して、その人を裁くということ自体が、本当に妥当なのだろうかということも考えなければならないと思います。夫は妻の上司ではありません。教育する立場でもありません。正義を言い訳に人を批判するときは、どうやらそういうことも忘れてしまうようです。しかし、家族は批判すればよいのではなく、実質的に将来の危険を除去する等、結果を出さなければなりません。正義感をぶつけるという方法はあまり効率的な行動ではないようです。一緒に考えて、不足の部分があったら他の誰かが補うのが仲間です。

<対策として頭に入れること>

知らないうちに身についていた考え方で、自分でも自覚していな考え方の対処はなかなか難しいでしょう。口で、正義感の優先から相手の感情優先に切り替えましょうと言っても実際には難しいと思います。
つい言ってしまうことも当然出てくると思います。今の家庭には、「そんなことをムキになって言うものではない。」とたしなめる年配者はいません。不安定な自分の立場にたちつつ、正義だけを頼りに生きているという人が多いかもしれません。だから、家庭の中ではそれを出すなと言われてもなかなか難しいのは当然かもしれません。

少しずつ変えていくことが大切なのだと思います。

先ず、正義感がかえって家族の中では悪さをしているということを頭にとどめておくこと。これはやらなければなりません。そうすることによって、大きな声を出しそうになる時、あるいはしつこく話そうとするとき、自分をセーブすることができるかもしれません。

次に、もし言ってしまっても、ごまかして謝ることができるということを頭に入れておきましょう。言い過ぎた、ごめんということは誰でもできることです。

そして、自分が相手を責めているときの相手の悲しそうな表情、感情を失ったような表情、こういうことを思い出しましょう。「言われた相手がかわいそうだ」という気持ちを持つことはとても有効だと思います。正義感や怒りは、相手がかわいそうだという感情を奪うためのものです。自分を頼りにしてくれる人を自分が心細い思いにさせたということを良く感じ取りましょう。この相手の表情は絶対に忘れてはなりません。

言ってしまった後は、十分なフォローをしましょう。自分が相手を尊重していることを言語化、あるいは、行動で示しましょう。

既に紛争になっている場合は、自分の正義感を抑えてくれる人を近くに配置しましょう。

家事分担など、相手に任せたことについては、絶対文句を言わない。これは、日本の様式美でもあります。男女で炊事の役割分担があったときに、男子厨房に入らず、出された食事に文句を言わないという掟はこういう意味だと思います。

また、家庭の中では、どうでも良いことのカテゴリーを増やしていきましょう。家族が努力していることならば、その結果が悪くても怒らない。努力していなくても、何か理由があるのだろうと先ず推測する。何とか力になりたくても、求められないなら、自分は力になれないと思うようにする。求められた全力で力になる。それでも家族として尊重することは止めない。むしろ、積極的に対等の仲間だとして、尊敬をもって接する。


どうでしょう。なんか窮屈な感じがしますか。家庭の中なのだからもっと気ままに、自分の感情に任せて行動すればよいのではないかという感想を持たれる方もいらっしゃるでしょう。なお、正義感を後退させるなんて許されないと思う方もいらっしゃるとも思います。

最近感じるのは、家庭の中だから、家族に対しても自由に感情を示してよいのは、子どもだけではないかということです。子どもと大人の違いは何かと言うと、楽しい家族の恩恵を受けるのが子どもで、楽しい家族を作っていくのが大人なのだと思います。現代社会の複雑さや大量の人間とのかかわりは、本来無関係の人間関係の在り方を身に沁みさせてしまいます。その結果、本来無関係の人間関係が家族とのかかわりの中に滑り込んでしまうわけです。家族も希薄になっていくのだと思います。このことを良く自覚して、本来の家族の在り方を理性的に探り出し、家族が家庭に帰ってきたらリラックスできる家庭を作る。これが大人の仕事なのではないかと考えるようになってきました。そしてそういう家庭を作ることは、何よりも自分にとってメリットが大きいことだと思うのです。もちろん、滑り込んだ価値観がひょいと表面化してしまうことが多いと思います。それはある程度は仕方がないので、フォローを頑張るということが前向きな対象方法だと思います。私自身年齢だけは重ねてきましたが、まだまだ人間ができていないようです。自分でもできないことを発表することは気が引けるのですが、このことが頭の片隅にあることで、壊れなくても良い家族が壊れてしまうことを防げたらという思いで、自分の心に棚を作って書いているわけです。

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