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怒ると、容赦なく攻撃してしまう理由 家族を怒りの対象にするべきではなく、これは人間の脳と現代社会の環境のミスマッチによって起きる間違った現象であること、家庭の中に敵が生まれる理由3 [進化心理学、生理学、対人関係学]


煩わしかったり、別のことをやっていて面倒くさくてぞんざいな扱いをしたりするということまで問題にしているのではありません。しかし、例えば大きな声を出して抗議したり、目を吊り上げて注意したり、物にあたったり、執拗に相手の落ち度を責めるということは、本来人間が家族に対して行うべきではないようです。ひとたび怒りの対象を家族に向けてしまうと、自分では手加減しているように思っても、対象とされた家族は容赦なく攻撃されていると感じて、大変恐ろしいようです。前回お話しした正義や道徳という言い訳があると、ますますそのギャップに気が付くことはありません。
人に怒りを向けるということは、日常よく起きることですが、大変怖いことのようです。自分では気が付かないうちに、相手を恐怖におとしいれ、相手が自分を仲間だと思わず去っていく原因に十分なりうるのです。
このことについて説明します。

昔は、人間は群れの仲間に対して怒りを持たなかった。

昔というのは、今から200万年ほど前から数年前という約200万年のことです。なんでそんな昔のことが関係するのかというと、人間の脳や心が完成したのが200万年前なんだそうです。脳や心については200万年にわたって、さしたる進化は無いそうです。頭蓋骨の分析からそういうことが言えるらしいです。しかし、200万年前と今では生活様式は全く違うわけです。私たちの生活の不具合は、200万年の変化を調べてみれば見えてくるかもしれません。
私たちの脳や心が完成したということは、200万年前の生活様式(自然環境)に適合していたということです。適合していたからこそ生物種として生き残ってきたわけです。しかし、その環境が全く違うとすると、現代社会には適合していない可能性があるということになります。わたしは(対人関係学は)、これこそが、つまり脳と環境のミスマッチこそが、現代社会の社会病理の原因だと考えています。家族の問題もここから始まっていると考えているのです。

(面倒なときはこのカタマリは読み飛ばしてください)
その200万年前というのは、人間30人程度のコアの群れとそれが数個で構成される150人くらいの緩やかな集合体で生活していたと考えられています。生まれてから死ぬまで原則として30人で生活していたということになります。人間は戦闘能力が低い動物なので、頭数が少なくなれば群れ全体が弱い存在になり、肉食獣の餌食になりやすかったと思われます。ヒトという比較的対抗の高い動物が一定の頭数で固まっていることによって、肉食獣が襲いにくく、襲ってきても数を頼みに反撃をして頭数の減少を食い止めていたのでしょう。また、ある程度安定して食料を調達するにしても、その狩りのスタイル(どこまでもみんなで小動物を追い詰めて熱中症にして捕まえる)から、一定の人数の狩猟チームを構成することが必要だったようです。頭数を確保は、人間が生きるために不可欠の条件でした。その頭数を確保する方法というのが、群れの中にいることで安心する感覚を持っていること、群れからはずされそうになると(追放されそうになると)不安でたまらなくなり、自分の行動を修正していたことということになります。そのためには自分以外の群れの構成員が自分をどのように感じているかを共感力で感じ取る能力が必要になります。逆に言うとこれらの能力の無かった人間の先祖は群れを作れず、生き抜くことができなかったと思います。だから、生き残ったのはこういう性質を持った人間だけだったということになるはずです。つまり私たちの先祖はそちらの都合よくできている方です。

(読み飛ばしても良いですが、少しわかりづらくなるかもしれません)
30人の群れは生まれたときから運命共同体でしたし、特定の構成員が気に入らないからと言ってチェンジをすることはできませんし、人間の能力は言っても向上することがあまりありませんでしたから、そういう能力の仲間だと割り切って共同生活をしていたことでしょう。できないことはできない、それを前提として仲間として生活するしかありません。何よりも頭数が大切です。また、共感力が発達して相手の感情は手に取るようにわかりますから、相手が悲しいと自分も悲しくなります。自分と相手の区別があまりつかなかった運命共同体ということになるでしょう。このため相手を差別することなく平等に扱っていたでしょう。さらには、弱い個体から死ぬ可能性が高いですから、頭数を守るために、弱い個体を特に大切にしたと思われます。典型的には赤ん坊です。なんの知識が無くても、赤ん坊は可愛いから大事にしようという感情があれば大切にできるわけです。このかわいいという感情は今も受け継がれているところです。

(最初の結論部分です)
この結果、200万年前ころは、群れの仲間に対して怒りを覚えるということはなかっただろうということが結論です。かなり思い切った結論だと思います。でもこう考えることは合理的だし、次の話題との関係で都合の良い仮説なのです。
200万年前は誰も差別的にも扱われないし、誰かが失敗をしてもその失敗した本人と同じ感情を共有していたので責めるということもなかったことでしょう。失敗を原因に仲間から追放するという発想もなかったわけですから、怒りを感じるということはなかったと思われます。仲間の行動によって自分に多少の危害が加わるということがあっても、それはそれなりの理由があったことだと思ったことでしょう。また、その理由もよくわかるほど密な関係だったはずです。厳密に言えば、子ども同士は喧嘩することがあったと思われますが、大人は止めたでしょうし、誰かが庇ってくれたでしょうから、後々まで残る争いということは起きなかったと思われます。
これが正しいとしたならば、怒りという感情は、人間にとって仲間に向ける感情ではなかったということになります。そして仲間以外の人間と出会う確率が極めて低かった時代は、怒りはおよそ人間に向ける感情ではなかったということになると思うのです。

では、200万年前は、誰に向かって、どういう時に怒りを感じていたのでしょうか。

それでも怒りは遺伝的にあるきっかけで生じる人間の反応です。200万年前だからといって、全く怒りの感情がなかったと考えるのは非科学的です。怒りはあったはずです。但し、それが人間に向かわないで別のものに向かっていたということなのだと思います。

ここで怒りについて説明しますが、怒りは危険を感じたときにおこる感情(情動)です。危険の原因を攻撃することで危険を除去するという無意識の選択をした時に起きます。危険を感じた場合、普通の動物はおそれを感じて逃げます。逃げることと怒り攻撃することは全く別のように見えますが、逃げることも怒って攻撃することも、同じ脳の仕組みで、脳から副腎等への信号の流れが生じ、脈拍を増加させ、血圧を上昇させ、筋肉に血液が回るようになり、走って逃げることにも、相手を叩きのめすことにも都合がよい生理的変化で、自然に備わっている共通のものです。ではどこで逃亡と闘争の選択の境目があるかというと、動物共通の要素としては、勝てると考えたときに怒りと攻撃モードとなり、勝てると思わない時に逃走モードになると思われます。

但し、哺乳類や子育てをする鳥類などの場合は、子が危険にさらされていて子を守らなければならないと感じると、勝てるかどうかにかかわらず怒りの攻撃モードが出現するようです。母親が子どもを守ろうとしなければ、一般に無防備な子は殺されてしまいます。そうすると子孫が残りませんのでその種は絶滅してしまいます。子育てをすると言う本能は子どもを守るという強い感情を伴うもののようです。母親が頑張ればなんとかなる可能性も高いので、このように怒りを感じて無謀な攻撃を仕掛けるという仕組みは、種の残る可能性は格段に高くするでしょう。

この場合、怒りは自分のかけがえのない子育て中の子どもの敵に向かうことになります。こんな敵に対して容赦をする必要など何もありません。相手が立ち去るまで、あるいは相手が死に絶えるまで、つまり子の危険が解消されるまで怒りを継続することで攻撃を継続する、これが危険から子どもを守るために最も有効な行動パターンだということになります。

これに対して人間の場合は、母親に限らず怒りを持ち、守るべき対象も赤ん坊に限らなかったようです。仲間を守るために肉食獣に立ち向かっていたはずです。小動物からすれば強い人間も肉食獣からすれば単体では勝ち目がありません。他の動物は色々な防御能力から母親が子どもを守っていれば種はつながれていったのだと思いますが、人間は母性だけでは種を残すことはできなかったのではないでしょうか。仲間に対しても守るという感情が必要でした。都合の良いことに、人間は比較的大柄な動物でしたし、肉食獣からすれば自分に反撃する動物もあまりありませんから、反撃されること自体が脅威だったはずです。また、群れという多人数で攻撃しますので、肉食獣からすれば防御を整えていることはできませんし、防御に力を入れてしまえばえさを確保することがおろそかになってしまいます。人間を食べることはあきらめざるを得ません。やがて、人間を襲うことは効率が悪いと考えるようになったのではないかと想像を巡らせています(袋叩き反撃仮説)。

人間は仲間を守ろうとしたときに、怒りを感じるという特質があるということになるでしょう。そして怒りは、そもそもは人間ではないものに対しての感情でした。敵に対して共感も容赦も起こることはなかったでしょう。脅威がなくなるまで、おそらくその野獣が死に絶えるまで攻撃をやめないということが多くあったはずです。野獣の牙や毛皮が勇者のあかしとされることが多いのですが、それは力が強いということに対する評価ではなく、仲間を守ったことに対する評価だったのではないでしょうか。わたしは、このように仲間を守る場合に起こる感情が怒りであり、その場合は勇気であると思うのです。しかし、誰かの力が大きく貢献したとしても、1人で野獣と闘っていたわけではないと思います。必ず他の仲間も自分を助けて一緒に攻撃してくれるという仲間に対する信頼があってこその行動だと思います。誰かが野獣に襲われた時、自分が襲われた感覚になり、その襲われた人がこうしてほしいということを自然に行う。それができるのは、仲間が自分と同じに攻撃参加してくれるという信頼があり、経験があるから。自分の背後に仲間がいるという意識や群れが一体として反撃しているという意識は、古典的な怒りのパターンである、「勝てる」という意識も生まれるのだろうと思うのです。

怒りが人間に対して向かい始めた理由

さて、このように仲間に向かわないはずの怒りが、現代では友人や家族に対してまで向かうようになっています。どうして人間に怒りが向かうようになったのでしょう。

これを考える前に、最初の人間に向かった怒りというものがどういう風に起きたのかを考えてみましょう。今から1万年、せいぜい数万年前のことだと思います。

これは、人間なのだけど、仲間ではない人間とかかわりを持つようになったからなのだと思います。

先ほど言ったように、200万年前から数万年前は、人間は30人程度の群れで生活していて、せいぜい150人程度の緩やかな集合体だけで一生の関わる人間のすべてだったはずです。定住せず、移動をしながら狩猟採集をして生活をしていたと言われています。この時までは、怒りは人間に向いていなかったと思います。

このような少人数の狩猟採集生活も、農業が始まることで終わりになります。農業は、狭い地域に共同作業を求めていましたし、定住により人は農業の適した地域に集まってきたものと思われます。農業が始まり定住生活となると、比較的に近い地域に150人を超える集落ができてしまうわけです。

この150人という数字がたびたび出ますが、これは人間の脳が個体識別できる他者の人数の限界値が平均するとこんなもんだということなのです。他者の個体識別の限界は、どうやら脳の構造(大脳新皮質の大きさ)によって決まるようです。農業が始まると、150人どころではない人数が近くに住み始めます。個体識別ができない人間とのかかわりが嫌でも生まれてしまいます。そうすると人間同士の利害対立が生まれます。誰しも自分の群れの中で平等に扱われて不自由なく暮らしたいと思います。例えば用水の水量に限りがある場合など、どちらが水を野内に利用するかで争いが生じ、他の群れが自分の群れの利益を脅かす敵だと感じたことでしょう。多少の逸脱をしてでも自分の群れの農地を潤したいと思うことは人間の脳の限界から仕方がないことだったと思われます。こうして、仲間と感じられない人間が生まれ、人間の中にも敵が生まれたのだと思います。

しかし、そうやっていがみ合っていると、肝心の農業もうまくいかず、常に闘いにおびえて生活しなければなりません。これでは人間は絶命してしまうでしょう。だから争いをやめる方法が欲しくなります。もともと人間の形をしているものに対しては強く共感をしてしまうのも人間ですから、相手を容赦なく痛めつけてしまうと後味が悪くなる感情も抱くと思います。放っておけば争うのですが、争えば争いをやめたいという感情も起きるわけです。パンドラの箱のような話だと思いませんでしょうか。
そこでなんとなく、社会的ルールあるいは群れどうしの取り決めというものが自然発生してきたのでしょう。これがない人間の群れは、やはり滅びたものと思われます。この取り決めは「正義」と言っても、「道徳」と言っても良いと思います。世界中で人間が生きていく必要に迫られてこのルールを作ったのだと思います。
ひとたびルールができれば、ルールを守ってさえいれば自分が不利益を受けないと感じるほかはありません。自分もルールに従わざるを得ません。自分の感情を制御しなければならないのですからこれはかなり不自由な人類の発明品です。だから、自分が守っているルールを守らないものに対しては、容赦なく怒りの感情が生まれるのでしょう。ルールを破ること自体が、理屈抜きで自分に対する攻撃だと感じられるようになったのだと思います。そしてルールがある限り、自分の背後には圧倒的多数の味方がいると感じるようです。ルールを破る者に対して、ルールを盾に取る自分は「勝てる」と思うのだろうと思います。

それまでの狩猟採集時代は、人間=仲間ですから、およそ人間に対する怒りというものは感じなかったということが私の仮説です。ところが、おそらく最初は仲間を守るための怒りだったのでしょう。これまでは人間は全て仲間ですから、人間である以上不利益を与えないということをしていたのですが、脳の能力の限界を超えた相手の人間ですから共感もできず、人となりを知らない相手だとなおさら許す要素も思い当たりません。容赦のない感情を向けても罪悪感もないでしょう。さらには、そのよく知らない人間の行為によって、自分の仲間が不利益を受けてしまうということになれば、戦わなくてはならないし、勝てるという意識も生まれてしまうということになったのだと思います。

ひとたび「人間」に対して怒りの感情が向けられると、人間に対して怒りを向けるということが、人間の心に解禁されてしまったのだと思います。人間の脳は、そう都合よく、同じ人間だけど仲間の人間と敵の人間がいて、その違いによって感情をコントロールするということが上手にできなかったのだと思われます。

現代社会は人間関係がさらに複雑になってしまいました。封建時代までは圧倒的な人口を占める農民は、やはり生まれてから死ぬまで同じ群れで暮らしていて顔見知り同士で生きてきました。これが徐々に学校に行くようになり、別の地域の職場に通勤するようになり、生活上の群れとは異なる群れに所属するようになりました。今では学校の中や職場の中にも、小さな群れにわかれているようなありさまです。家族の利益だけを考えていても、それだけだと生きていくことも難しい状態なのではないでしょうか。学校や職場のことを家族に秘密にしたり、友人を家族よりも優先して考えたりということはよくあることです。そうして複数の群れに所属しているうちに、家族を大切にしなくなるようになるのではないでしょうか。家族の相対化、希薄化という現象が起きていると思うのです。これは人間の脳が複数の群れに帰属することに対応できないために起きているのだと思います。

本来ならば職場で嫌なことがあったり、大きなピンチがあったり、自分が人より劣っていると感じるときこそ、家族に親切にして自分の役割を再認識することが様々な良い効果があがるのです。しかし、職場で言われたことを言われたように家族に向かって言ってしまう。家族を大切にすることが人間として自分を守る基本であるのに、そうは思えなくなってしまっていると思います。家族が替えの利かない、かけがえのない存在だとすれば、このように家族に八つ当たりをすると言うことは無いと思います。現代社会では人間は家族でさえも替えが利くと思ってしまっているのではないでしょうか。

家族と他の群れを区別できないという言うことは、結局、自分の大切な人に対する接し方がわからないということです。家族だったり、恋人だったりという関係でさえも、相手の心に共感して、相手が楽しい、嬉しいと思うことをして、嫌だと思うことをしないということが行動原理にならなくなってしまう温床がここにあるのだと思います。そうして他人同士を規律するはずの、法律、道徳、社会的要請、あるいは常識に違反すると、あたかも自分の利益を奪われたかのような怒りを感じてしまう。怒りは容赦のない攻撃をするための感情(情動)ですから、ひとたび怒ると、相手をかわいそうだと思わなくなり、自分の怒りの行動を制御できなくなってしまう。攻撃は正当で悪いのは相手だということになってしまう。

家族に対してさえ、このように怒りを向けるのです。名前しか知らない相手が道徳的に逸脱する行為があるとすれば、自分の応援する人間が多数であるという意識を持ち、勝てると思い、怒りを公的に表明するでしょう。怒りが増えれば増えるほど、安心して怒りを表明することがさらにできるようになります。これがネット炎上でしょう。

いじめも、最初は何かしらの正義が言い訳になっていることが多いです。学校のルールを破った生徒だったり、自分との約束を破った生徒だったり、味方だと思ったのに自分を攻撃したことの復讐だったり、社会的に求められる謙虚な行動をしなかったり、どんどん自分なりの攻撃のための正義の概念が大きくなっていくようです。

パワーハラスメントで利用される正義は、会社の利益ですね。パワハラの対象となる人の事情は通常考慮されません。家庭の中、夫婦間は、この人前の記事で書いた通りです。

家族にルール違反があったとしても、怒りをぶつけることは間違っているということを結論とするべきだと思います。間違いをしてしまうと、家族は、自分が仲間ではなく仲間を害する肉食獣などの敵だと扱われたという感覚を持ちかねないのです。そうやって怒りを向けられるということはとても苦しむようにできているわけです。
もし怒りの理由が道徳違反、あるいは約束違反などのルール違反であればそもそも、ルール違反に対する感情は敵に対しての制裁のつまり怒りの感情を呼び起こしますから、ルール違反の程度と制裁の程度は、常に制裁の程度の方が大きく、強くなります。元々は人間に向けられた感情ではなく、死ぬまで攻撃をやめないで危険を解消するための情動だったわけです。自分の制裁(攻撃、批判)に対する相手の表情は、制裁をした者を後々長きにわたって苦しめるでしょう。
怒りという感情は、このようにして生まれ、人間の仲間同士を苦しめ、仲間を壊す感情だと考えるとそういう結論になりました。

まとめ
怒りは、そもそも他者、人間以外のものに対して向かう感情だった。
相手を亡き者にするため容赦を無くして攻撃を遂行する目的を持っている。
怒りの程度をコントロールすることはそもそもできない。
怒りは自分が害される危険がある場合、あるいは仲間を守ろうとする場合、もしくはルールや道徳が破られた時に発動する。
家族に怒りが向かうのは、人間の能力を超えた人間関係を強いられている社会と人間の脳とのミスマッチが原因である。
家族は代替不能な存在だと認識できれば怒りを持たなくても済むかもしれない。

そうはいっても、環境の中で私たちの行動や感情は、私たち自身ではコントロールがしにくいのも確かです。気が付く前に怒りの行動をしてしまっているもののようです。
ただ、怒りというものがこのようなものだということを頭の中に入れていれば、
怒りがわいてもそれを相手に伝える前に行動を制御する可能性も高くなるでしょう。
また、怒りを相手に伝えてしまった後でも、謝ったり、自己否定したり、ごまかしたりするなどのフォローができる可能性も高くなるでしょう。
かけがえのない家族に対しての接し方をご一緒に考えていきませんか。
私も努力しようと思います。


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