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仲良くしたいなら、言わなくてもよいことを言わないことがいかに大切か。夫婦間紛争に見られる言わなくても良いことを言ってしまう現象。共感を示す訓練としてのSNSの活用 [家事]


夫婦問題だけではなく、SNSなんかでもそうですよね。
本当はお互い仲良くしたいのですが、第三者から見て喧嘩を売っているようにしか見えない行動ばかりする人っていますね。そんな発言を自分に浴びせられ、時には衆人環視の下で攻撃を受けていると感じさせてしまう。それでも、言っている本人はそのことに気が付かない。前の前の記事でも書きましたが、自分は正当な行為をしているからやらなくてはならないことをしているという正義感が、人に対する攻撃を可能にするわけです。まあ職業的にやっている人もいるようですが。

例えば、そういうことが積もり重なって、妻が家を出ていくという段階になれば、もはや妻の側が怒りの攻撃モードですから、何の容赦もなく夫を精神的にも踏みにじるわけです。裁判所での離婚手続きでも専門家から見てかなりえげつないことを主張するなということもあります。
でも、同居を始めた段階では、後にそうなってしまった妻も、夫と仲良くしていたい、ずうっと添い遂げたいと思っているものなのです。むしろその気持ちが無ければ、夫からどんなことを言われても傷つくことはないし、利用するだけ利用してちょうどよいときに離婚すればよいやと割り切ることができるわけです。

むしろ、仲良くしていきたいと思うから、夫の些細な言動にも傷つくのです。

これは、第三者としてみればよくわかることです。しかし、おそらく当事者は、結果として相手から攻撃されているという感覚をもってしまっていますから、その結果自分を守ろうとする気持ちが強くなっているために、相手の弱い部分が見えてこないのだろうと思います。こう整理すると、とても当たり前のことに思えるから不思議です。

精神的ダメージとは何か。これは、自分を守れないという見通しを持ってしまうことです(まあそう割り切って考えてみてください)。守れないとはどういうことか、自分の危険を回避することができないということです。自分の危険とは何か。それは一つは身体生命の危険です。もう一つは、対人関係的危険です。対人関係的危機とは、今いる人間関係に安住することができない、追放されるという危険です。人類は言葉がない時代からこの対人関係危険をもち、生命身体の危険と同様に反応して、行動を修正して群れをつくることができたのだと考えています(対人関係学)。

現代の日本社会では、心理的に夫婦関係に依存する傾向があり、自分が夫婦という立場で尊重されていないと感じるととても不安になるようです。「尊重されていると感じ続けないと不安になりやすい」ともいえると思います。仲良く過ごす時間が多いほど、自分の要求が認められやすいほど不安が少なくなります。逆に仲良く過ごす時間が短いほど、自分の要求を相手がかなえないほど、この関係が長続きしないという見通しをもってしまい不安になっていくわけです。
男女差がどこまであるかわかりませんが、事件に現れた限りの共通項として、妻が夫に求める要求が、共感を示してほしいということのように感じます。
そうだね。
あなたの言うとおりだと思う。
おんなじことを考えていた。
そう言われればその通りだね。
その気持ちわかる。
賛成です。
そのセレクト感じよいね。
等々、実は私も共感の示し方は修業中の身です。

まじめすぎる男性に、経験者のアドバイスとしては、

共感を「する」のではなく、共感を「示す」という発想が大切だということです。

夫婦といっても、元々他人ですし、育った環境も経験も違う。だから、性格が一致することありえません。若い頃は幻想を抱くものですが、繁殖期を過ぎる頃は夢見るころを過ぎる頃です。現実に気が付きます。でも知恵が生まれます。経験値も獲得しています。共感を示すこと自体はだれでも比較的簡単にできることです。

共感を言葉にしていくうちに、だんだん自然と共感できていくということもあるわけです。心は後からついていくものです。私なんかが示した共感で相手が安心してくれるならば、なんてありがたいことでしょうか。人間としてこの世に生まれてきた意義を感じるわけです。それでもこれができない。相手に精神的ダメージを与えることを言ってしまう。こういう問題だと思います。

見当はずれの正義感を持つのは良いとしてもそれを言っても何も良いことが起きないことを言うことでどういうことが起きるでしょうか。

相手は本能的に自分の行為を肯定してほしい。共感を示してほしいと思っているのです。つまり仲良くしたいということなのです。それなのに、ついつい言わなくても良いことを言ってしまうことで、きれいともいえる見事なカウンター攻撃をしているわけです。

例えば、
「パラリンピックって感動するね。
 望みを捨てないで頑張ることの尊さを教えられるね。」
という言葉に対して、
「緊急事態宣言下でやるパラリンピックなんて信じられない。
 パラリンピックやめて、医療従事者をコロナ治療に回さないと
 自宅で死んでしまう人が増えてしまうだけだよ。」
という何気ない会話があるとします。

最初の発言者は、純然とパラリンピック見て感動したということを言いたいわけです。発言者からすると感動した気持ちを共有したいことがわかります。しかしこれに対して、パラリンピックの選手の頑張りとは違うことを言い出してもっと別の感覚を持たなければならないと相手の発言を否定して、感覚までも否定してしまっているわけです。後者の発言(政治的な意味ではない)をする男性は結構多く、我が身を振り返ってもそうかもしれないと思うことがあるのですが、あなたが夫婦の会話で正しいことを言ったとしても世の中に何の影響も与えないわけです。世界中で何一つ良いことはおきない。ただ、自分のかけがえのないパートナーが自分を否定された、自分に共感してくれないというもやもやを残す記憶が蓄積されていくだけです。自分に共感をしてくれて、自分の感覚、自分自身を肯定してくれる、つまり、自分を大事にして、いつまでも仲良くいたいという同じ気持ちをもっていてくれるから二人でこのまま暮らしていけると思える、そう思えるリアクションを要求して、せっかく発言しているのに、その要求はこの人には簡単に否定されて、要求がかなえてもらえなかったという記憶が残るだけなのです。特に楽しい気持ち、悲しい気持ち、感動を共有したいということを拒否されたということは強烈なダメージを受けるでしょう。しつこいですがダメージを受ける理由は、仲良くしたいのに拒否されたということからなのです。あなたのパートナーが、「どうせわたしの気持ちなんてどうでもよいと思っている」と割り切っていれば、そういう語り掛け自体が無くなるわけです。「どうせ都合の良いときに離婚すればよいや」と思っていればどんなリアクションしても気にはならないわけです。

離婚訴訟にもなれば、少しでも相手の落ち度を主張して、相手の責任で離婚するしかなくなったと主張したいわけです。そうすると、代理人としては、「こんなに強く離婚したいという気持ちがあるのに、どこからそのような離婚をしたい気持ちが出てきたのか」と何か理由があるに違い無いと思い(こういう発想は大事)、当事者も自分でもうまく説明することがで来ていないなと思われるケースに多く出会います。マニュアルに当てはめようとする代理人たちは、なにか暴力があったのではないか、なにか暴言があったのではないか、虐待事例があったのではないかという視点で聴き取りを行います。そうすると、そういうはっきりした記憶はなかなかない。ただ、大きな音を出されたことを覚えているということで、なにかを倒して落としたという出来事を、自分を威嚇するために重量物を投げたという主張になるし、ハサミで怖い思いをしたということを言われれば、本当はペットの毛を刈ろうとしてペットを追いかけていたことをハサミをもって自分が追いかけられたという主張になるわけです。これ、大げさではないと思います。けっこうリアルな例えです。自分に対して不信感を持ったのではないかと心配したという出来事があれば、不信感を口に出されて侮辱されたという主張になることも良くあります。事実と違うことを裁判所で主張しているのだから、嘘をついているということになり、言われた方もムキになって反論するのは当然のことです。
しかし、私が女性の側の代理人をすると、心が壊れるというか、信頼が壊れるというか、仲間ではなく敵だという感情が育つというか、そういうリアルな過程が見えてくるわけです。それがわからないと、ずいぶん前の暴力だから離婚理由になるのかなという発想でものを考えますが、実際にどうだったかということで主張をすればよいだけと余計なことを考えなくて済むようになります。そうして実際に起きたことを冷静に積み重ねていくことによって、裁判をしないで離婚の話し合いが進むということが多くなるように感じています。マニュアル通りに、判決に有利にしようという発想に基づく活動が、逆に離婚紛争を長期化し、激烈化しているように感じることが多くあります。また立証できない主張をして不利益を受けた人たちをたくさん見ています。

そうやって離婚事件をとらえ直すと、離婚に至るリアルな流れというのは、元々はこの関係を大切にしたいという気持ちが強いために、同居中も自分は尊重されていないのではないか、自分という存在は相手の中で否定されているのではないかという「予期不安」が先行し、そうではないと自分に言い聞かせていながら、自分の不安を裏書きしているような相手の行動が起きてしまう、最終的には衝動的に別離の言葉を相手から聞くと、「ああやっぱり自分という存在が否定されていたのだ」という意識が強くなり、それまでの時間がひどく屈辱的に思えてくるし、相手に対する信頼は無くなり、嫌悪や憎悪が募ってくる。そういうタイプの離婚が実数としては多いように感じています。

それでも、そういう激烈な離婚訴訟を仕掛けられても、なお、やり直しを目指す人たちがいます。私は、やり直したいと思うことはとても素晴らしいことだと思うので、無条件に尊敬します。特に夫婦の間に子どもがいる場合は、少しでも信頼関係を回復することが子どもにとっての利益になります。全力で応援したいと思うのです。
しかし、そういう方々の多くが、つい余計なことを離婚訴訟においても言ってしまうのです。確かに、事実に反することは事実に反するとはっきりさせる必要性が離婚訴訟と保護命令手続きでは特に大きくなります。ただでさえ、相手の発言を否定しなくてはならないのに、さらに余計な、意味のない正義感にもとづいた発言をしようとしてしまうのです。前の前の記事でもこのことを書きました。そういう行為をしたから心が離れたというのに、ついそれを改めて裏書きしてしまうのです。結果的に自分の目標とは逆方向の行為をしてしまうのです。

私、SNSって、このような逆方向の行為をしないための訓練に利用できると思っています。フェイスブックを例に挙げて説明します。

先ず、共感が持てる主張、応援したい人の記事、参考になった投稿には気持ちに応じたリアクションボタンを押す。こういうリアクションがあったらうれしいだろうなと思えばやはり押す。応援したい発言は、それなりのリアクションを選んで押す。
次に、以下のコメント欄への書き込みは善意や親切心であってもしない。
内容が不正確であると思われることの指摘、修正、補足
スレ主と意見が違うという表明、
もちろん批判、反対意見、
スレ主の本当に言いたいことと違うテーマ、自分の興味関心
スレ主が知らないであろうと思われる情報の提供
要するにスレ主が言いたいことに対する共感、肯定以外の書き込みはしない。

すべてのフェイスブックをこう使えとは言いませんが、あくまでも訓練として利用する場合の話です。本当は見ず知らずの人の記事なのに、コメント欄に見当はずれのコメントを敢えてする人って多いですよね。要するにこんな感じのことをやめる訓練というわけです。

自分にも覚えがあります。また、そのテーマで自分で記事を投稿したり、メッセンジャーで連絡をしたりというならまだよいのですが、それもどうしてもしなければならない時に限定するべきだったと今では感じています。ご迷惑をおかけしたすべての方々にお詫びします。

提灯記事みたいな投稿ばかりで馬鹿らしいと思うでしょう。私にはよくわかります。つい最近までそんな感じでした。でも最近気が付いたのですが、案外みんな(一部の人を除いて)こんな感じで利用しているようなのです。フェイスブックで間違いを指摘して是正してよいことなんてそんなにないし、そういう書き込みをしている人の書き込みは的を外れたことが多いようです。誰の需要も満たさない。ただ書きたい人の書きたいという要求を満たすだけ。でも正しい指摘をしたいという要求は無くなってくれません。私とか正義感の強い人は他人が間違ったことをしていたと思うとどうしても指摘したくなるようです。これですこれが問題なわけです。案外多くの人は、そういう相手の言うことを部分的にでも否定することをしたがらないもののようです。

どうも、我々は、いうべきことを言うことを躊躇してはいけないということを誰かに思い込まされているようです。最初はばかばかしいと思うかもしれませんが、これをやっているうちに、だんだんと穏やかな気持ちが加速していきますから、人間関係を修復したい方は是非お試ししてください。

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