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内親王殿下の複雑性PTSDの診断に寄せて インターネットの誹謗中傷は極限的な攻撃性を獲得しやすいことと、インターネットの誹謗中傷が人間の精神を破壊する可能性があること [進化心理学、生理学、対人関係学]



医学会においては、複雑性PTSD(complex post-traumatic stress disorder)という疾患を認めるか否か、またそもそもPTSDという疾患を認めるか否かということについて議論のあるところだと聞きます。しかし、私は医学者ではないし、ICD-11ではCPTSDも疾患名として認められたと聞きますので、こういう疾患が認められるということを前提としてお話しします。

何よりもお話ししたかったのは、内親王殿下が中学生くらいから、インターネットで自分に対する悪口を書かれていることを見つけるようになって、CPTSDを発症したとの発表があり、それに対してある精神科医の先生が、「悪口くらいでCPTSDが発症することはあり得ない。」とコメントをされていたことについて、それは違うのではないかということです。

もしこの精神科医の先生が正しいのであれば、もしかすると昨年亡くなった木村花さんは、悪口を言われただけで自死したのはおかしいということにならないだろうかという疑問も出てくるような気がします。もっとも、精神科医の先生は、私なんぞが思いもしないところで整合したご意見を発していらっしゃるのでしょう。しかし、私には、インターネット情報の危険性の方に目が行ってしまうのです。

確かにCPTSDを提唱したJ.L.ハーマンの想定していた精神的外傷(トラウマ)は、夫婦間暴力や虐待等、直接対峙する人間関係に基づく悲惨な体験に基づくものでした。インターネットに書き込まれるということは、それに比べると身体的な侵害はないし、逃れられない継続的な人間関係の中での出来事ではありません。悪口くらいでCPTSDになるということは考えられないとする根拠もここにあると思われます。

ハーマンの「心的外傷と回復」が執筆された時代は、1990年代です。フェイスブック社の創業が2004年です。ハーマンの執筆の当時は今ほどはインターネットが一般化しておらず、その対人関係的弊害が認識されていない時代です。もっとも今は2021年ですけれど、未だにその弊害の深刻さについては十分認識されていないのではないかと思われます。ちょうどよい機会なので、この点についてお話ししようと思いました。

CPTSDを提唱したハーマンは、それまでの通常のPTSDは、戦争やテロ、強姦という、一回の出来事でも誰でもが深刻な外傷体験となる体験、通常はスポット的な体験が念頭に置かれていました。ここで念頭に置かれている強烈な外傷体験は、さすがに繰り返して体験する人はいないだろうと思われます。しかし、それほど強烈ではないけれど、繰り返し長期にわたる虐待事例において、過覚醒、侵入、狭窄という恐怖症状、心理学的監禁状態、社会との断絶などの症状が現れることを観察していました。通常のPTSDではない、慢性の外傷体験(被支配体験)による症状についての診断名が必要だということ、うつや適応障害、人格障害や解離とは症状も治療方法も異なるため新しい診断名が必要だということで、CPTSDを提唱しました。

ハーマンは、CPTSDが発症する外傷体験を
「全体主義的な支配下に長期間(月から年の単位)服属した生活し、実例には人質、戦時捕虜、強制収容所生存者、一部の宗教カルトの生存者を含む、実例にはまた、性生活および家庭内日常生活における全体主義的システムへの服属者を含み、その実例として家庭内殴打、児童の身体的および性的虐待の被害者および組織による性的搾取を含む」
としています。

これを読んでしまうと、なるほど、虐待と言えるような激しい攻撃が必要で、かつ、直接的に対峙する人間関係の相手方の行為であることが必要であるように感じてしまいます。
しかし、インターネット、特にSNSの弊害を考えると、SNSによって、CPTSDが発症するという流れがあるのではないかと考えるのです。

ハーマンは、「精神的外傷と回復」の中で、CPTSDの本質は社会とのつながりを奪われることにあると述べていると私は読みました。だから、治療方法は、人とのつながりを再生することだと言っているわけです。
どうして、先ほどの外傷体験があると社会とのつながりが絶たれるかというと、それらの外傷体験は、加害者の支配によって被害者は加害者以外の人間から孤立するからだということになろうかと思われます。全体主義的支配という意味は、そういう意味で、具体的に強制収用や、慢性的な虐待という「逃げ場のない状態」にあることを診断のために必要だとしたのでしょう。

心的外傷と回復の中で、私が一番感動したのは、人間における自己の概念というのは、単体で生きていて形成されるものではなく、自分のつながりの中での自分の在り方を意味するのだというところです。このため、自分が生きていくうえで必要な人間的つながりが絶たれてしまうと、人間は自己概念を維持できなくなり精神的破綻に向かうと私なりに理解しました。

つながりの自由が奪われること、つながりの自己コントロールが不能になることは、人間の精神に対して深刻な打撃を与えるということがCPTSD理論の中核だったはずです。
私の理論の根拠もここにあります。

つまり、
インターネットの他者の書き込みによって、
現代人は、「自己と他者とのつながり」を
「自分でコントロールすること」が不能になると感じてしまい、
自己概念を維持することができなくなり、
他者とのつながりが持てなくなってしまう。
という弊害があると私は主張いたします。

インターネットの書き込みは、ハーマンの言う外傷体験とは全く異なります。
書き込みをされても、自分の家族、学校、職場においては、変わらずに自分は他者とのつながりを持つことに支障が無いようにも思えます。インターネットに悪意が書き込まれていても、日常生活には影響が無いようにも見えます。そんなことで悩むのは馬鹿らしい、気にしなければ良いだけの話だという人もいることでしょう。

しかし、どうやらそうではないようです。人間はそう簡単に物事を割り切ることができないし、気持ちが強くできてはいないようです。

実際に精神医学の認知行動療法の中に、対人関係療法という体系があります。対人関係学とは無関係の由緒ある医学体系です。この療法の治療の考え方として、
現在クライアントが抱えている対人関係的問題が、自分にとって重要な関係なのか、重要ではない関係なのかということを、ご自分で認識することによって、無用な悩みを、無用であると判断し、精神状態の改善を図るという方法があります。対人関係療法からは、人間は、本来、悩むべき人間関係のトラブルと悩まなくても良い人間関係の不具合とを、簡単に区別ができない場合があるということを示していると思います。

できれば、すべての人間の中で尊重されていたいと思うのが人間のようです。
どうしてこのような無茶な願いをするのでしょうか。それは、人間の心の発生時期の環境と関連すると私は思います。

人間の心が発生したのは、今から200万年位前だとされています。当時は狩猟採集をして生活をしていたとされており、30人程度のコアなグループとそのようなグループで構成される150人くらいの集合体を作っていたようです。このせいぜい200人弱のメンバーが生まれてから死ぬまでに認識する自分以外の人間ということになります。こういう少人数の群れにおいては、自分と他人の区別があまりつかず、利益も公平に分配されていたとされています。誰かが、失敗をしても仲間は責めることはしなかったでしょう。体力的に劣ってもフォローをしていたことでしょう。実際に介護がなければ生きていけなかった人間の人骨も発見され、他の仲間が長年介護をしていたことも証明されているそうです。人類は助け合い、仲間を責めないで、平等に生きていたし、弱い仲間を援助するという性質を持っていたようです。

これはそのような必要性があり、必要性に向かって進化したのだと思います。つまり、人間単体では攻撃能力も防御能力も低く、すぐに肉食獣の餌食になり、食物を発見すれば餓死する危険がありました。仲間を作ることによってのみ、その弱点を克服して現代に子孫をつないできたわけです。それを行うことによって、ようやく環境に適合できたことになります。だから、利他行為は、理屈ではなく、人間の本性だというべきだと私は思います。見返りがなければ他人に利益を与えないという考えは、文明に毒されている考えだと思うのです。

この心は、現代にも続いています。仲間から責められたり、批判されたり、嘲笑されれば、人間の心は傷つきます。助け合う姿に感動するはずです。こころは200万年前から進化していないのです。

では、どうして、現代のようなインターネットの誹謗中傷や、いじめ、ハラスメントが起きるのでしょうか。
詳しくは別のところで書いていますので省略します。大事なことは、接する人数が膨大になり、また、所属する群れも、家庭、学校、職場、地域その他とこれも膨大な数の群れになってしまったという環境的変化がおきているということに原因があると考えます。
同時に複数の群れの構成員、偶然すれ違う人、そのすべての人間と接しているので、すべての人間に仲間意識を持つことができなくなっています。家庭の中でも、例えば友達との関係で、親から注意されれば、心理的な葛藤が生まれます。局面によって、同じ仲間でも利害対立が表面的には起こることになります。また、仲間も死ぬまで同じ仲間ということはなく、入れ替えもあります。家族ですら、離婚等の入れ替えが起きることが珍しくありません。仲間、あるいは人間に対するつながりの意識が希薄になっているわけです。さらには、利害対立が起きた場合に、このような人間関係の希薄さによって、他者の利益を犠牲にしても、自分を守るということが常態化しています。
客観的には、人間の対立は起きやすい環境になっているわけです。
それでも全く利害関係のない、縁もゆかりもない人間からでも、他人から攻撃されれば、大変悲しい気持ちになるわけです。心が環境の劇的な変化に対応していないということになります。

こころは、およそ相手が人間であれば、自分を尊重してほしいと思ってしまう。そして、失敗を責めないでほしいし、弱点はフォローしてほしい、嘲笑しないでほしいという気持ちを持ってしまっているわけです。
しかし、攻撃する側から見れば、相手は自分の仲間ではなく、自分を守るためには相手を攻撃をしても良いと考えて攻撃をします。

しかし、人間は、どうやら、相手を攻撃するときには、その相手の落ち度を見つけて攻撃をしたいようです。その落ち度によって、自分が損害を受けているということで攻撃の正当性を図ることが多いと思います。
相手の落ち度、自分の損害が、相手の社会的ルールに違反していること、即ち正義を口実に相手を攻撃するようです。社会的ルールとは、法律だけでなく、道徳や常識、習慣みたいなものも入ります。自分はそのルールを守って生きている、だから窮屈だ。しかし、相手はルールを守らない。相手がルールを守らないことはルールを守っている自分が損をしている。だから相手のルール違反を理由に正義の観点から相手を攻撃する。
これがネットの誹謗中傷だと思います。

そして攻撃をするときの心理としては、自分が正しいことを承認してくれる他者の存在が欲しくなり、そのように自分の意見を指示してくれる人が出てくると、自分の私益のための攻撃ではなく、自分達社会の利益のための攻撃だという正当性の意識が強固になるようです。また攻撃を支える怒りの性質から、相手の自分に対する危険性を無くさせるまで攻撃の手を緩めなくなり、攻撃はエスカレートする性質があります。誹謗中傷の表現は極限まで高まっていきます。また、攻撃行動の条件として、自分が反撃されないことが必要になります。自分が安全だからこそ、不正義に対して怒りが持てるわけです。自分を攻撃する相手が自分より強ければ、あるいは自分自身にも相当のダメージが加わると思えば、攻撃しないで逃げ出すわけです。

インターネットの匿名性は、自分が反撃されないという条件を満たしています。また、自分が見られないために、怒りが抑制されるきっかけが無くなり、極限的な攻撃的な言動を可能としてしまいます。相手の反応が見えませんので、相手はあくまでもルールを破った人間という特性しかありません。容赦がない攻撃が可能となるわけです。また、自分の仲間にも書き込みが見られるわけではないので、その点からも抑止力は期待できません。

それにしても、インターネットの誹謗中傷は、見ず知らずの人間からの攻撃であるし、実際は暴力が起きるわけではない。また、自分の本当の仲間が、そんな誹謗中傷の影響を受けるわけではないでしょう。不愉快になることは当然だとして、CPTSDを発症させるような恐怖体験ではないのではないかという疑問はなお起きるかもしれません。

先ず、「人間は人間から尊重されたい。」という命題はあるわけです。この要求がかなえられない場合は心身に不調が起きるとされています。我々年寄りでも、「死ね」とか、自分の存在自体を否定されるような書き込みに対しては深い以上の怖さが出てくると思います。殺されるという具体的な恐怖というよりも、どうしてここまで自分は否定されなければならないのだろうという感情は、言い知れぬ不安感を抱くと思います。そのことをきっかけに、悲観的な考え、疑心暗鬼的な不安、安全ではないという感覚を持つようになり、焦燥感もわいてくるということはあり得ることです。特に、その自分の存在の否定に対して、その発信者以外の人間が賛同しているとか、容認する形で肯定していると感じるようになれば、自分が社会から否定されているという考え方になっていくことはあり得ることではないでしょうか。

次に、若者たちには特殊な事情があるようです。SNS等、一般に誰にでも開かれた仮想空間であっても、その中で常連のようなネット仲間がいるような場合は特に、その仮想空間が自分にとって重要な人間関係だと感じるということがあるようです。他者の書き込みによって、自分自身の評価が下げられたときは、自分その人から攻撃されたという1対1の関係での出来事ではなく、仲間の中で顔をつぶされたという感情が伴うようです。誰かが自分を庇わない時は、その誰かからも攻撃された感覚になっていくようです。自分が行っているSNS、例えばフェイスブックだったり、インスタグラムだったり、それがその若者の世界なのだそうです。そこで、自分が完全に否定されるということは、もう自分の世界の中で、自分らしく生きていくことができないというような感覚になってしまうようです。私のような年寄りであれば、フェイスブックやめればいいだろうと思いますが、若者はそれができないようです。やめるという発想を持てなくなるようです。こんなところでも、心は200年前のままのようです。

内親王殿下は、若者ですから、インターネットの書き込みは、かなり重大な打撃を受けたと思われます。SNSをやっているということはないかもしれませんが、影響力は甚大であった可能性が高いと思います。加えて多くの人間から誹謗中傷されることは、逃げ場がなくなるという感覚になったと思われます。また、中途半端に知られている、つまりお人柄などがわからないのに、身分や容姿は知ることができるということから、攻撃の的になりやすかったのかもしれません。

国民についての深刻な話は、むしろここからです。宮内庁が、CPTSDだと発表し、その原因がインターネットの書き込みにあると説明したにもかかわらず、なお、以前に増して、内親王殿下や殿下の大切にしている人に対しての書き込みが後を絶たないという現実です。皇室は必ずしも税金で生計を立てているわけではなく、税金とはかかわりのない独自の収入があるということを知らない人も多いようです。何よりも、本来自分の利害の関係のない人たちのことで、攻撃の心理によって、攻撃がやまないという現状を恐ろしいと私は感じました。

常識、道徳、慣習などのルールを破壊したという正義の名の下の攻撃ということになると思います。

皇族の生活に対する自由な意見(攻撃ではなく)と憲法上の象徴天皇制という法的な問題、及び開かれた皇室ということの不可避的なデメリットの問題は長くなるので日を改めて論じるかどうか検討したいと思います。

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