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現在の男女参画のDV政策の問題点が働くシングルマザーにしわ寄せされていること。1年近く母子が引き離された事件があぶり出した男女参画政策の二つの問題構造【考え方の一つとしてでも良いから理解してほしい】 [弁護士会 民主主義 人権]

今朝、嬉しい写真がメールに添付されて届けられました。
女児が、撮影している母親に向けて、満面の笑顔を見せている写真です。
この写真が撮影できるようになるまで、1年近くの時間が必要でした。
女児は、親権者母親の監護の下で生活していたのに、監護権のない身内に連れ去られて、約1年も母親から隔離されていました。しかし、1年近くの空白の期間があっても、母子はすぐに1年前の仲良し親子に戻っています。このようなことが繰り返されないために、ここに記録します。

仲の良い親子が、1年近くも引き離され、司法からも行政からも放置され続けるというおぞましい事態を招いたことには男女参画のDV政策に原因があると考えています。「本当のDV被害者」の保護は必要ですが、現在の政策の方法論には重大な弊害があるということです。大事なことは、「支援者の支援の考え方」が、本当のDVの場面だけ限定で徹底されるということはなく、他の案件でも同じ発想で処理してしまうという、人間の脳の問題を看過しているところにあります。今回の事件は、「母親は父親から子どもを連れ去っても良い」という限定された発想は貫かれず、「親から子どもを連れ去っても良い」という発想に拡大されていて、子どもが親から引き離されて教育を受けられなくても、仕方がないという発想に繋がりました。男女参画の方法論が、今回の事件の地ならしをしていたということです。どうしてそうなったかということをお話しします。

根本には、親子を引き離すことを容認する日本の風潮にあります。フランス人のビンセントさんが日本人妻によって子どもを連れ去られて、会うことも拒否されている問題で、パリの裁判所は連れ去った妻に逮捕状を出したと報道されています。日本において報道はされていませんが、同種事案では、アメリカの裁判所が多くの日本人妻に逮捕状を出しています。日本は拉致容認国家であるというのが、欧米の日本に対する一般的な見方なのです。日本では封建的な考え方が支配的で、日本では「子どもが母親の所有物だと扱われ、子どもには独立した人格が認められていない」と思われているのです。ECからの抗議もほとんど報道されません。日本国内での同種問題は無数にあり、なぜか国もマスコミも問題にしていません。日本の人権感覚は世界的には孤立しています。一部の虐待事件などに対する報道の効果もあって、日本では親権がないがしろにされています。これは法律的に言えば親権ですが、人間的に言えばわが国が親子の関係を大事なものとしていないということです。

今回の引き離された母子のケースから、裁判所、警察、地方自治体の男女参画関連部署の、DV支援的発想による処理の具体的な問題点2点を指摘したいと思います。

第1 最初にキーワード(DV,虐待)を言った者の勝ちという政策構造

今回の事件で、行政などが連れ去った身内に寛容だった理由は、その身内が、母親の子どもに対する「虐待」があったと主張して連れ去ったことにあります。
これは、現在の男女参画のDV保護政策と見事なまでに重なります。現在のDV政策は、最初に妻がDV相談をするところから始まります。そうすると総務省の用語では、このDV相談をした人は行政によって「被害者」と呼ばれるようになります。行政文書などで、「被害者」と呼ばれるわけです。そして、被害者の夫等は、「加害者」と行政文書に記載することになっています。総務省は平成25年10月18日の事務連絡で、ここでいう「加害者」とは、被害者に危害を加えた人を言うのではないとわざわざ断っています。それならば用語を改めるべきです。日本の国家が、日本語の意味と違う意味を持たせて言葉を用いることは、理解ができません。そしてこれは確実に自治体に印象操作をしています。
具体的内容がわからないのに、「虐待」、「DV」という言葉で、行政や司法が態度決定をしてしまうということが問題なのです。この結果、妻に不具合があれば、それがことごとくDVの証拠ということになってしまいます。金属アレルギーの皮膚反応、自分で転倒したときの臀部の痣、全般性不安障害や婦人科、ないしは内分泌異常による精神不安、これらはなんら関連がないのに、バイアスで関連付けられ、DVがあったことの証拠とされてしまいました。妻の統合失調症も夫のDVが原因だとされたことがありました。これが現在のDV保護政策の結果なのです。
虐待問題も全く同一の構造があります。虫歯さえも虐待の証拠だと真面目に議論されたのは裁判所においてです。
しかも、不可思議なことに、本件のケースで裁判所が虐待はないと判断した後も、警察、裁判所、区役所、一部医師、児童相談所、子ども園などは、母親の虐待を疑い続けたのです。どの機関も、「毅然として法律を執行する」という態度がありませんでした。それにしても不思議です。身内によって、子どもが母親から引き離されているのですから、明らかな児童虐待が起きているわけです。その虐待には目をつぶり、ありもしない(行政的にはあるかどうかも分からない)親の虐待に備えようとしているのです。この理由として特に行政はマニュアルが整備されていないと行動できないようです。子どもの親からの引き離しが虐待だということは当たり前すぎてマニュアルから落ちているのでしょう。虐待は親がするものだという固定観念があるようで、親以外の大人の子どもに対する虐待は行政任務の外にあるという冷酷な態度に感じました。(最終的には、警察署が極めて常識的な対応をしたので子どもは母親の元に戻ることができたことと、児童相談所が裁判所に対して極めて客観的な態度を示したことが母子再生に役に立ったことだけは、プラスの側面として報告しておきます。心から感謝しています。)

 余計な話ですが、このようなマニュアル行政は、日本型労務管理の弊害を如実に表しています。ほうれんそう(報告、連絡、相談)という、労働者が自分で考えて判断するということを極力避けるためにマニュアルを整備して、マニュアルの範囲外のことをやらせないという労務管理の手法が、行政改革以来公務員に浸透してしまっているわけです。新日本型労務管理の思想(問題を起こさないという守りの管理思想)は、労働力の質の低下を招き生産力を低下するだけでなく、このような弊害ももたらしています。利潤原理で行動する企業と、行政サービス、福祉の原理で行動する自治体と同じ原理で行動するということの愚かしさを指摘する人をあまり知りません。

虐待、DVという「言葉を言った者勝ち」という、いかにも低レベルな発想が国家や自治体という私たちの税金で報酬を賄っている役人の発想となっていることを私たちは心配するべきです。戦争時の、「鬼畜米英」という言葉で、アメリカ人やイギリス人が鬼のような人間たちだと思わされたことと容易に重なってくるわけです。その思考節約の割り切った考え方で、人生を台無しにされた人たちが日本に無数にいるということを強く言いたく思います。

第2 加害者とされた人に事情を聴かない。アンタッチャブルな人間にされてしまう政策構造

DV政策において、行政が妻に向かってアドバイスをすることは、「夫に知られないように子どもを連れて身を隠すこと」です。この時点で、夫は加害者だと誰も認定していないことに注意してください。
本当はDVなんてない事案でも、真実がどうなのかということを問題にされません。夫は対策を立てる方法もなく、突然妻と子どもが忽然と姿を消した家に帰ってきて、ことが起きたことを知るわけです。本当にDVがある事案で、妻の身体、生命、精神が破綻するという場合で夫に改善の余地がない場合には、このような方法が必要な場合もあるかもしれません。ただ、考えてみてください。単に妻がDVだというだけで、夫はなすすべなく、妻と子どもから引き離されるわけですよ。実際はDVが無かった事案も、多数含まれる可能性があることは、お分かりになると思います。つまり、妻が不貞相手と再婚しようと企ててDV保護を申し出ても、それが通ってしまうということは制度上に理由があることなのです。読まれている方は、保護を訴えた以上、妻の全員が全員とも本当に夫からDVを受けていると言い切れる根拠が何かあるでしょうか。
女性保護のためには仕方がないという方もおられるでしょうが、最大の被害者は子どもたちなのです。

DV政策では、事前にも事後にも、加害者とされる夫から事情を聴いて、支援を見直すという手続きがないことが特徴です。妻の身体生命の安全のために緊急措置であるから、多少の見切り発車は必要だということを百歩譲って認めたとしても、DVがあったことが証明されない場合は、夫の利益は回復されるべきだと思うのですが、それはありません。DVが無かったことが証明されても夫の子どもとの関係は容易に回復されません。私は、明らかに憲法31条、13条に反する行政行為だと考えています。

今回の母子引き離し事案でも全く同じ構造が踏襲されました。

区役所の保健担当の公務員は、身内が言った「母親が統合失調症であり、近々強制入院の手続きをとる」という架空の話を真に受けて、わざわざ母親の主治医に電話で情報提供を行いました。母親と面談して確認することもなく、もちろん情報提供の同意をとることもなく、虚偽の情報の提供を独断で行ったのです。これを真に受けて主治医の治療方針が変わってしまったらどうするつもりだったのでしょうか。この情報提供は病院のカルテにも記載されていますが、私は情報提供をした区役所職員本人と電話をして確認しました。個人情報保護の観点からも大問題ですが、区役所の保健
担当の職員でありながら、精神病者には同意が不要だという差別意識が背景にあるように感じてなりません。統合失調症ではないことは完全に立証されていますし、母親は普通に営業職としてノルマをこなしている有能な労働者です。このあたりの常識というか、基本的な医学知識も行政や司法では欠落しているということを痛感しました。行政窓口には「DV相談があった」という情報しかないのに、その夫が相談に来ると、血相を変えて「あなたと話すことは何もない」と「毅然」とした対応をするようです。DVをするような人間は、クレーマーみたいな人間で、話を聞いたら最後、いつまでも居座られれて怒鳴り続けられると思っているようです。自分の身体の安全も脅かされていると思うようです。勝手に、過酷なDVをする人間だという印象操作がされているのです。夫の弁解を心理的にも聞こうとしない構造が生まれているわけです。

要するに、虐待、統合失調症という言葉に過敏に反応してしまい、本人に会って確認することが「怖かった」ということなのです。自分を守ることを最優先して、罪もない人に不利益を与えるという構造もDV保護政策と共通する構造です。

警察も同様だったので、私は本人を連れて二つの警察署を訪問しました。実際の目的は、こちらの味方になるということではなく、中立になってもらうということでした。この方針は正しかったと思います。但し、母子再生に協力していただいた警察はこの二つの警察署以外の警察署の方々でした。

某行政から「児童相談所を交えて議論しないか」ということを提案されましたが、お断りしました。子どもが親から引き離されているという虐待があるにもかかわらず、なんら現在継続中の虐待に対応しない児童相談所には不信感しかありません。これは正しかったようで、児童相談所の関与を拒否した情報は身内に流れていたようです。

情けないのは、裁判所です。詳細は控えますが、連れ去った身内の意見(母親に対する悪口)をなんら裏付けもなく真実だとして扱っていました。真実として報告した原因は、「身内はこう言っているけれど実際はどうなの」という問いかけを母親にする機会をもうけなかったということです。不利益を受けるのは子どもと母親なのに、母親の弁解する権利ということに不案内なようです。
子どもが通っていた子ども園からも事情聴取をしていましたが、子ども園が直接体験したことと身内から聞いた話が裁判所の中で未整理な状態になっていました。もちろん、母親に対する確認の事情聴取はありませんでした。しかし、この報告書を子細に読んでみて、母親に対する子ども園が持っていた敵対意識が身内から植え付けられたものだということがはっきりしました。

この点、児童相談所は、身内から一方的に話された内容として、裁判所に報告書をあげて、直接体験したことと区別して報告していました。この報告には感心しましたが、眼前で継続している児童虐待に児童相談所として何ら対応していないことには批判をし続けなければならないと考えます。

問題が大きいなと思う職業は医師です。医師という難しい職業は、おそらく、医師になるには言われたことを素直に吸収して勉強していかなければならないのだろうと思うのですが、事件の中で出てきた医師は、母親に対して確認するという作業を一切しないで母親を攻撃する意見書を書いています。例えば、「行政の働きかけを母親が拒否した。」という一文があり、それは行政からの情報だと記載していました。行政と外部委員の情報共有に関しては私は知識がありましたので、その情報の取得経緯には無理がある、つまり嘘だとすぐにわかりました。そして情報源とされた行政に確認したところ、やっぱりそのような事実は確認できませんでした。医師が過剰に母親を攻撃していたのです。

これは常々感じることです。医師は目の前の患者さんを治療することが仕事だということに原因があるのだろうと思うのですが、目の前の患者さんを守ろうとした自分の行動が、「罪もない人を不利にする」ということに無頓着すぎるということをたびたび経験しています。そして、医学的なことは専門家以外は知らないだろうと思うのか、かなり無茶苦茶な診断や意見書を作成することがあります。目の前の人を救おうとする素朴な正義感からなのでしょうが、真実に反すること、医学的知見に反することは、絶対にしてはなりません。特に診断書に関しては、虚偽内容の診断書を作成すると、医師に限っては公務員でなくとも刑法犯になることを改めて考えていただきたいと思います。それだけ医師は国家から信頼され、公正中立な態度をすることを期待されているということなのです。

この医師の素朴すぎる、つまり大ざっぱな割に強い感情を伴う正義感は、私たち国民の感情の象徴だと思います。

私たちは、なぜか、「他人が悪いことをした」ということを必要以上に信じる傾向にあり、悪い人に制裁を与えたいという感情になるようです。そして、良い悪いの判断が極めて大ざっぱです。つまり、誰かがその人は悪いと言えば、それを疑うことなく、その人は悪いので制裁したいと思うようです。妻が夫のDVがあったと言えば、裏付けがないにもかかわらず、夫は「過酷な」DVをしたと思い込み、夫から子どもを奪うことは正当だと考えるようです。夫の言い分は聞こうともしないで、私たちのこころは事実を確定してしまいます。近所の人や児童相談所が虐待があったと言えば、子どもを何年も親元から引き蓮ことは当然だと考えるようですが、別の事件では実際親が何をしたか言える人は、当の児童相談所にもいませんでした。一度虐待の認定をすれば、親からの事情聴取によって見直すということはしませんでした。親が虐待を認めなければ保護を継続すると言っている本人がどのような虐待が実際あったかを言えないわけです。社会から孤立している親(外国人、シングルマザー、うつ病者、被災者)の子が保護をされやすいと感じています。

そして不思議なことはまだまだあります。悪いことをした場合に、解決策として「制裁」しか出てこないということです。あるいは、家族を解体するという方法論しかないということです。予防や家族再生という発想はこのブログ以外であまり見かけることがありません。社会が家族を守り育てることをしないで、不具合があったら家族を解体するという論調に、奇妙なまでに統一されていると感じます。私は、国を守り発展させる礎に、家族を据えなければならないと考えています。これに反して我が国のリーダーたちは、家族よりも、何らかの機関で子どもを育てるべきだと考えているように思えてなりません。とても自由と民主主義の国家とは思えない政策が横行していると思えてならないのです。

現状の政策が、最も弱く苦しい立場であるシングルマザーが子どもを奪われるという事態として現れた、その政策の問題点がどこにあるかということについてお話しさせていただきました。


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