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私が「寄り添う」という言葉が嫌いな理由 そこに相手への尊敬が感じられないから 支援者(第三者の)の寄り添いが本人をダメにするパターン。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]


寄り添いという言葉が大はやりですね。誰かから「それは寄り添っていない。」なんて言われると、反論することができなくなってしまいます。ある意味、呪文のようなものだと感じることが多くなってきました。思考停止の呪文です。

寄り添いという言葉は、
「傷ついた感情を肯定し、理解した上で受容し、いたわる」
という意味合いで使われているようです。抽象的には、それは大切なことなのでしょう。しかし、実際には、具体的にはどうでしょうか。

傷ついた人、葛藤が強い人は、面倒くさいから、
言われたことを
『理解できます。』
『もっともですね。』
『当然のお気持ちです。』
『あなたは悪くありません。』
と答えて、刺激しないようにすることだとでも考えているような発言に感じられる場合が時々あるのは、私がひねくれているからでしょうか。

家族とか友人とか、仲間ならそれでもよいのだと思います。その人が仲間ならば、一番ありがたいことは、一緒にいてほしい時に一緒にいてくれて、1人にしてほしい時に1人にしてくれるということだと思うんです。そういう仲間というのは、自分の寄り添いの結果で本人に何か悪いことが起きても、一緒に何とかするという覚悟がある人間だと思うんです。

ところが、弁護士とか行政とかといった第三者の支援者、つまり、その人とスポット的にしか関わらない人が、その人の感情を無条件に肯定して、やるべきことをしないということになると、その人に回復しがたい損害を与えたり、窮地に追いやることが生じてしまいます。その人はスポット的な関りですから、本人に損害や窮地が生じても、責任をとることがありません。
支援者として第三者がかかわるならば、本人が多少傷つく結果になっても、感情を害することになっても、言うべきことを言わなければなりません。それができないならばかかわりをやめるべきです。
もちろん言い方という問題はあるわけです。

仮に第三者としてかかわらなければならない支援者が、「あなたは悪くありません。」を連発したらどうなるでしょう。「自分は悪くない。悪いのはあの人だ。あの人を罰するべきだ。死んでほしい。」と、いささか極端ですが、こういう方向に流れていくとは想像できないでしょうか。自分の行動を修正する契機を失い、その結果、自分のいたコミュニティーに復帰できなくなってしまいかねません。
孤立が待ち構えているかもしれません。また、本人に何らかの要因がある場合には同じ過ちが繰り返される可能性もあるわけです。

例えば、単純な話では、期限が区切られている行動についても、今それどころではないと寄り添っていつまでも放置していて、本当は本人が得られるはずの利益が得られなくなるということもありうるわけです。これはわかりやすいのでめったに間違いは起こさないでしょう。

しかし、少し複雑な話になると、そういう単純な構造も見えなくなるようです。

私の職業柄のためなのか、よくあるのが、傷ついている人に、怒りの感情をたきつける形の支援です。我慢(自制)することが悪であるかのような行動提起をする支援の形があります。

何か衝撃的な出来事があって、生きる気力を失っているとき、そのまま生きる気力が失われたまま何もできなくなってしまうことがあります。そういう時に怒りという感情を持つことによって、感情がリセットされたように、途端に活動的になられるという場面は何度か見ていました。
怒りということも生きるためには必要な感情だと、私は思っています。

しかし、その人の中で怒りが固定化してしまったり、怒りの歯止めが利かなくなってしまうことがあるようです。そういう場合、もとからあった苦しみ、ダメージ、自分自身に対する不安感などは、むしろ残存してしまうようにも思われます。怒りが自分に向いてしまった場合は自死リスクも高まってしまいます。
怒りは自分も傷つけるようです。また、他者とは共有されない怒りを表出し続けてしまうと、他者は本人から離れていくことになります。第三者からは、それがはっきりわかるのですが、本人はなかなかそれに気が付きません。理不尽なことを受けて怒っていたら、仲間だと思っていた人たちが自分から去っていく。二重の理不尽を感じて、さらに怒りが大きくなり、さらに孤立が深まる。怒りのスパイラルとでもいうような状態になるようです。怒りは、対象を亡き者にしない限り収まりにくいという性質もあります。

自分が支援者だというならば、過剰な怒りの表出で孤立する当事者に対して、怒りの程度をアドバイスする必要があると私は思います。本人のためです。そのためには、本人の怒りの原因を本当に理解して、理解を示し、本人が理解されているなと感じられなければ反発されるだけかもしれません。

ところが、支援者は、「あなたが悪くない。怒りは当然だ。」と寄り添うわけです。
あたかも
「苦しんでいる人たち、傷ついているという人たちの心情は
必ず極端な怒り、制裁感情を覚えるものであって、肯定しなければならない」
という不文律があるようなグループを目にするときに強く感じます。

傷ついている人が傷ついているからこそ、冷静な判断ができず、単純な思考で行動を起こしたり、発言したりするわけです。第三者ならば、その言動の派生的効果を考えて、その人がさらに傷つく事態にならないために、「自分はそうは思わない。」とか、「そうではなく、こう考える考え方もあるはずだ。」ということを提起する必要があり、義務があると私は思います。

弁護士として実務的に言えば、駄々洩れのように寄り添っていたら裁判負けるんですよ。

そういう形で寄り添う人たちは、自分の果たすべき役割を意識しないで、なぜ「寄り添い」を優先するのでしょうか。

私は端的に言って、寄り添いが支援者の自己満足の場合があるのではないかと思っています。支援者にとって当事者は、利害関係のない他人なわけです。自分の「駄々洩れ寄り添い」によって、当事者が不利益を受ける可能性があるということに、あまり関心がないのだろうと思います。特に、自分とはかかわりのない場面での、当事者の生活において不利益が生じることはあまり想定していないのではないでしょうか。
例えば、当事者が支援者と別れて自宅に帰ったときにどういう風に近所から扱われるかとか、当面は良いけれど数年後、10年後に例えば今の子どもが成長する段階になったらどういう問題が起きるかとか、そういう自分とは関わらない相手の人生についての想定をしていないのではないかという心配があります。
そういう目に見えないところでの想定をしないから、今の目の前の寄り添いがすべてで、当事者が満足すれば、自分も満足できるわけです。

支援するつもりもないのに、支援をする者のように近づき、無責任に当事者の怒りをあおる典型はマスコミだと思います。

自己満足というと言葉が悪いとすれば、自分が苦しむことの回避でしょうね。当事者の感情を波立たせる話題や意見を避けることは、当事者の絶望を覗き見なくて済むことになります。第三者が本人の苦しみをどの程度理解できるようになるかについては、確かに難しいことがあるかもしれません。しかし、「あなたは悪くない。」と一言で片づけてしまえば、本当に楽な話なのです。これでは法律相談をしていてもストレスを感じることはあり得ないでしょうね。その人が、真摯に自分と仲間の人生の利益のために、本当はどうすればよかったのか、これからどうすればよいのか、そこに望みがあるかということを一緒に考えることをしないで済むという利点があるわけです。当事者の絶望に共鳴しないで済むという利点です。

逆に当事者に共鳴しすぎてしまって、後先考えるべき立場である支援者が怒りの当事者になってしまい、本人が不利益になるかどうかなんて考えないで感情のおもむくままに、例えば訴訟を継続するなんてことになるのは論外です。一部の支援者は、どうやら「共鳴する怒りは強ければ強いほど寄り添うことになるのだ。」とでも考えているような支援をする人たちもいます。これでは、明らかに自分の理屈上の怒りを、本人に押し付けて本人の怒りを先導ないし扇動していることになってしまいます。

本人は、怒りによって、悲しみや落ち込みが感じにくくなったという体験をしていますから、どうしても怒りの方向に同調しやすくなっています。時として、怒りや支援は、麻薬のように作用することがあるのは理由があることです。

何が本人のためになるのかという問題は難しい問題です。本人が決めることなのですが、本人の葛藤が強く、冷静に考えることができないからこそ支援が入るわけです。それでは、第三者の支援者は、どうすればよいのでしょうか。

第三者の支援者が行うことは、当事者に対して選択肢を提示するということだと思います。
裁判の場合で言いますと、当事者が判決とは関係のない立証活動をすることを希望している場合(自分のこだわりを裁判官に聞いてもらいたいという場合)、それによる想定される不利益をきちんと提示して、それでも望まない判決になっても良いという意思が真意として確認されれば、その活動を行うということはあり得ることです。しかし、「それをやることによって、あなたが合理的考えをして行動をしない人だと裁判官に印象付けてしまいますよ」と言わないで寄り添ってはダメだということなのです。

このパターンでよくあるのは、妻が子を連れて別居してしまったといういわゆる連れ去り事件で、「妻を怒らせてしまうと、子どもに会えなくなる。」ということをはっきり言わない弁護士でしょうね。本当のことを言っているのに、それで妻が怒ったら子どもに会えなくなることは理不尽です。しかし、「今の裁判手続きは、理不尽であり、自ら子どもに会えなくしていることになる」ということをはっきり伝える必要があるということです。
決定するのはあくまでも本人です。支援者は選択肢を与えるという役割と、自分ならこう思うというサンプルの提示をするしかないけれど、それをしないで済ませるということはできないはずです。
それをしないで、当事者の感情を駄々洩れのように肯定して追認して、その結果当事者が不利益を被ることは当事者の自己責任だというのでは、人を支援しているわけではないということになるように思われます。

当事者がいかに葛藤が高くても、一人の人格を持った人間ですから、自己決定をする権利があるわけです。しかし、知識が無かったり感情的に高ぶっていたりすると、他の選択肢が思い浮かばないし、どれを選択するかの意思決定が十分な思考をもって行えないという状態なわけです。
きちんと当事者の感情に沿わない選択肢であっても選択肢を提起して、どれを選択するとどのような効果になるかということについて説明を行うということをまずやるべきだということなんです。

そのためには、第三者の支援者の人間観として、
「感情が高ぶった相手も、十分話せばわかってくれるはずだ、十分理解して、後悔しない選択をしてくれるはずだ」
という相手に対する信頼を持たなければならないと思うのです。相手は感情に反することも冷静に考えて結論を出したという尊敬の念を持つのが当たり前だと思うのです。

駄々洩れの寄り添いには、信頼も尊敬も感じられません。どうせ言っても分からないだろうとか、感情が高ぶっている以上は仕方がないというと勝手に考えて支援者が本人抜きに自己完結しているような気がして、とても心配なのです。

私たちは、「イライラ多めの相談者・依頼者とのコミュニケーション術」(遠見書房)という本を今年出版しました。
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この本は、葛藤の高い人に「寄り添う」ための本ではありません。葛藤の高い人も、あるいは病気の人も、自分達と同じ地平にいる同じ人間なのだ、しかし、理由があって特定の行動や思考パターンになっているに過ぎないという考えを基盤として、相手に対する誤解をさけ、支援者側の障壁をなくし、肩を並べて共同作業をするための本です。法律現場でも、大先輩から直々にご感想のお便りをいただきました。しかし、学校現場でも多く読まれているようです。面倒くさい人をどう処理するかということでなく、一緒に歩んでいくことこそが、一番のコミュニケーション術だとご理解されて広まっているのだと勝手に考えているところです。

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