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予防政策を減速させてしまう、二方向の「被害者の落ち度論」 [故事、ことわざ、熟語対人関係学]




自死でも、虐待でも、いじめでも、性犯罪でも、
予防政策を進めるにあたって、その足かせになってしまう二つの
二つの「被害者の落ち度論」があります。

<一つ目は、被害者(および加害者)の特殊人間論です。>

前もブログで書いたことがありますね。
ニュース報道だけで、何も事情が分からないくせに、
被害者にも悪いところがあったから、被害にあったのだという決めつけです。
ネットでの書き込みなどでよく目にします。

この被害者の落ち度論を言う人の心理というのは、
一言で言えば、被害に動揺して、自分の不安を鎮めたいというものです。
つまり、
「被害者は特殊な人間だから被害にあったのだ
(あるいは特殊な加害者に偶然関係したために被害にあった)
私は普通の人間だから被害にあう可能性は著しく低い
だから自分は大丈夫だ。」
と思いたいわけです。
そして誰かに肯定してもらいたくて
ネットに書き込んだり、友達とそんな話をするのです。
そうだねと言ってくれれば、安心できるからです。

しかし、実際は、自死でも、虐待でも、いじめでも
被害者が特殊な人間であることはありません。
(加害者であったとしてもどこにでもいるような人間
である場合がほとんどです。
登場人物はどこにでもいる普通の人間であることが通常です。)

特に被害者については、被害を受けやすい属性のようなものはなく、
全くの被害者であることが通常です。
理不尽で絶望的な被害を受けるのです。
つまり誰しも被害に合う可能性があります。
だから、予防の方法を構築することが大切になるわけです。

根拠がなくても安心を求めるのは、人間の常です。
自分だけがそう考えて、安心していればよいのですが、
「被害者が特殊なだけだから、対策なんていらない。
被害者の行動をしっかり修正すれば被害にあわない。」
ということになってしまえば
対策を講じれば予防できたはずの被害も
対策を講じられなくなり、予防できなくなります。

予防政策を立案するにあたっては
普通の人が被害にあう構造をよく理解することが
第1歩ということになると思われます。

<二つ目は、被害者に被害の原因を求めるなというものです>

具体例を挙げて考えてみましょう。
深夜、1人で帰宅中の女性が痴漢にあったという例で考えてみます。

一つ目の特殊な被害者論の論者たちは、
被害女性が、肌の露出した服を着て歩いていたから目をつけられたのだ
とか、
1人で深夜歩いていることが悪い
というように被害者の落ち度を強調して
自分は大丈夫と安心しようと思うわけです。

これに対して被害者に原因を求めるなという立場からは
深夜に一人で歩いていようと露出の多い服を着ようと
犯罪でも不道徳でもない
犯罪を行った加害者が悪いだけであり、
被害者の行動をとやかく言うことはおかしい
ということになるでしょう。

分かりやすくするためにどちらも極論をあげてみました。

善悪論で言うならば後者が正解でしょう。
深夜に一人で歩いても、犯罪にはなりません。
仕事帰りだったり、何かの事情で、
どうしても夜中の道を一人で歩かなければならない事情があった
ということを想像するのはそれほど難しいことでもありません。

犯罪被害にあってもやむを得ないという理屈は
全く出てこないことはその通りです。

また、露出の多い服を着ているから犯行を思い立って実行した
ということは、私の弁護や損害賠償実務の経験ではあまりなく。
どちらかというと、かなり前から犯行を思い立ち、
自分が捕まらないような場面と、ターゲットを物色して犯行を行いますから、
その時の服装というのは、あまり決め手にはなっていないようです。
(被害者の心理としては、自分が前々から狙われていて、
自分の行動を監視されていて、その結果襲われたと考えがちです。
しかし、実際は行き当たりばったりの犯行が多く、
加害者は被害者がどこの誰だかわからないことが多いです。)

但し、
犯人がターゲットを探しているときに二人の候補がいる場合、
露出の多い服を着ている方がターゲットに絞り込まれやすいし、
犯行を決行するかやめるか迷っているときに
露出の多い服が背中を押すということはありうることかもしれません。

被害にあった人も悪くないのですが
これから被害にあうかもしれない人も悪くないのです。
そうだとすると、
ちょっとの工夫などで被害にあわないで済む、
あるいは被害にあう確率が著しく低下するなら
その工夫を明らかにして、一般的に広めるべきだ
ということになるのではないでしょうか。

おそらく冷静に考えれば、あまり批判されないことだと思うのですが、
被害にあわないように行動の修正を提案すると
(例えば夜中に一人で歩かない等)
「被害者に落ち度があったと言っているようなものだ。
被害者を苦しめるからけしからん。」
(一人で歩いた被害者が悪いと言うのか)
というような極論を言う人たちが出てきてしまうわけです。

路上の痴漢行為という犯罪に関しては
加害者と被害者がきれいに分かれるわけですが、
他の社会病理に関しては
例えば家庭の中の問題等継続的な人間関係の問題に関しては
加害者と被害者ときれいに分かれる場合だけではありません。
相互作用の問題として考えて対策を立てた方が
関係者の今後の幸せに大きく貢献するという場合も多いような気がします。

こういう場合は、行動の修正を提案された方が
「悪かった」から被害が起きたのだと言っている
と受け止められると対策を立てにくくなります。

良い悪いではなく、
被害にあわないためにどうするかという視点は
受け止め方によっては冷たい視線になるようです。
被害者に寄り添っていないということになるらしいです。

言い方の問題で解決できる問題なのかもしれません。

考慮しなければならない要素は
・被害を出さないこと
・すでに被害にあわれたかの気持
ということになろうかと思われます。

予防策は、あくまでも、被害にあう確率を少しでも下げるための方法論だ
ということを徹底しなくてはなりません。

そうすることが悪いわけではないけれど
被害にあわないためにはこうするべきだ
ということを自由に言えるようになることは
被害予防政策の立案にとっては
極めて重要なことだと思います。

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