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会話の本質は仲間を安心させるということ、文字に置き換えられる情報伝達だけでは心の交流ができないということを認知症患者さんから教えてもらいました。リモート社会、SNS社会の何が不完全なのか [進化心理学、生理学、対人関係学]

私のような乱読者の最大の欠点は
記憶している文章があってもその出典を示せない
というところにあるような気がします。

今日も、どこかで読んだ本を紹介するところから始めなければなりませんが
何の本だったのかわかりません。
その本では、認知症の患者さんの施設で、
入所者の高齢の3人の御婦人方の会話の描写がありました。

お三方は、日の当たるロビーのソファに腰かけて
仲良さそうにニコニコしてお話をしていたそうです。
遠くから見る分には、それぞれ自分の順番を守って話をしているようで、
上品なご婦人がたのおしゃべりにみえたそうです。

近くに行って話の内容を聞いて作者は驚いたそうです。
三人が三人とも全く自分勝手なお話をしていたというのです。

ある人は、施設の待遇についてお話ししていて
ある人は、自分の子どものことについての自慢話をしていて
もう一人の人は、自分の趣味の話をしていたそうです。

それでもお三人は、順番を守って、他人の話を遮ることもなく
おしゃべりを楽しんでいたそうです。

実際話している内容を聞かなければ、三人が認知症であるとは
思いもよらない光景だったそうです。

そしてある日、
三人の中のおひとりが、施設にクレームをつけていたようです。
別のおひとりが、その人の名前を読んで
「つまらないことはやめて、また三人でおしゃべりしましょうよ」と
話しかけてくれたそうです。
それをきっかけにクレームを述べていた人も
また楽しいおしゃべりの輪に加わった
という話だったと思います(細部は脚色しているかもしれません)。

この話を読んでいたときは、
「認知症は不思議だな」と思っただけでした。

何年かしてに、ロビン・ダンバー先生の学説を読む機会に恵まれ
「人間の会話の起源はサルの毛づくろいの省エネ化だ」というお話を聞いて
つまり、お互いをなだめあい、集団でいるストレスを軽減させる
ということらしいということで、
徐々にこのお考えを理解するようになっていきました。

このブログなどでもダンバー先生のお話を紹介していたのですが、
それから何年かして、はたと3婦人のお話を思い出したのです。
ダンバー先生のおっしゃる毛づくろいは、
この認知症のご婦人方の会話そのものなのではないかということです。

本来の会話の目的が相手を安心させることだとすれば
そこに言葉の意味や、言葉による情報伝達などは
元々は必要事項ではなかったのではないかと考え始めているのです。

三人のご婦人は、
明らかに会話をして楽しそうにしていらしたということです。
一緒にいて楽しくするというが会話の本来の目的なのかもしれません。
ここで一緒にいて楽しいというのは
一緒にいて会話をすることで安心できるということなのではないでしょうか。

認知機能が衰えると、当たり前のことがわからなくなり
不安が増えていくようです。
不安解消行動で、徘徊が起きるという話を聞いたことがあります。

穏やかに楽しく過ごすために、お三方の会話は立派に機能していたのでしょう。

それから、クレームを言って感情穏やかでないご婦人は
三人での会話をすることによって
感情が鎮まった。

これも不安に基づく怒りという感情を
会話をすることによって鎮めた、つまり
会話が不安を鎮めたということなのではないでしょうか。

不安を鎮めること自体が会話の大切なこと、会話の本質なのだと思うのです。

一つは仲間意識が持てて楽しい
もう一つは、感情を鎮めてくれる。
それでよければすべてよしなわけです。
なにも、相手の言葉の意味をきちんと理解して
話を合わせる必要なんてないわけです。

ここに会話の本質があるということを言いたいわけです。

会話や言葉の本質についての議論で、
この考え方と違う見解というのは、
「会話というのは言葉や会話に付随するコミュニケーションによって
情報を伝達することに本質がある。」

私は実はこれも本質だと思っているのです。

私の考えは矛盾しているように見えますが、
会話とは
「緊張を和らげて、仲間意思を持つことによって安心すること」
「情報を伝達すること」
という二つの源流があるという考えなのです。

おそらく先に発生した会話は前者で
言葉もない時代に群れを形成するために
無くてはならない人間の行為だったのだと思います。

その後、その初期会話によって形成された信頼関係を基礎として
(遺伝子レベルの無意識の話なのですが)
農耕の始まりによって他の群れとの近接がきっかけとなることと相まって
情報伝達の必要性が増えてきた
言葉の意味の存在と意味の明確さが求められていった
という順番なのではないかなと考えているわけです。

そう考えると冒頭で例に挙げたお三方は
とても人間らしい営みをされているということになるのです。

お互いを楽しい気持ちにしようと行動しているし
無駄にお互いを批判することをしない
お互いが話すことによって安心することができる
攻撃的感情も会話によってなだめている
こういうことです。

私たちは、
情報伝達ということに力点を置きすぎていて
会話の大切な目的、機能を忘れてしまっているということはないでしょうか。
それは人間性というものを失うということなのかもしれません。

インターネット社会、SNS社会、そしてリモート社会も
人間の会話の本質からすれば
極めて不十分なコミュニケーションなのかもしれません。


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