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怒り依存症 怒ることで幸せになれる条件と、怒り続けるしかないことになってしまう不幸を産むメカニズム [進化心理学、生理学、対人関係学]



<怒りが幸福を呼び込んだ事例>

怒りという感情も人間が生きるために必要な感情だと思います。

ある人間関係に関する事件で、
私の依頼者にも落ち度があって、
そこを攻撃されて落ち込んでしまい、
立ち直れなくなって、うつ状態になって通院していました。

ところが、怪我の功名みたいな出来事があり
突如、相手方に対して怒りが込み上げてきて
相手方と気持ちの上で決別することができるようになりました。

怒りを持てるようになった結果、
ストレスを感じ続けていた人間関係から
自分の意思で離脱をすることができました。
その結果ストレス自体が無くなったのです。
現在は、健康で、穏やかに、楽しく人生を謳歌されています。

この仕組みというのは以下のように説明ができると思います。

私の依頼者は、自分の失敗が原因で、
自分と相手の人間関係がダメになってしまいそうだ
自分がその人間関係から追放されてしまいそうだ
という感覚になっていたのだと思います。

相手方はその失敗を執拗に責めてきたわけです。
私の依頼者はますます、
その人間関係から追放されるという危機感が強くなりうつになりました。
追放されたらどういう実害があるかということをかんがえたわけではなく、
ただ、人間関係からの追放ということに危機感を感じさせられていた
ということになると思います。

しかし、怒りによって、相手を責める気持ちを持つことによって
危機感を感じることが中断したのだと思います。
だいぶ気持ちが楽になったのだと思います。

おそらく、追放の予期不安が苦しかったのですが、
実際に自分でその人間関係からの離脱を決意したとたん
離脱による実害が実はたいしたことがなく
予期不安の苦しみよりもよほど楽だった
ということを実感したということだったのだと思います。

ここでいう不安、危機感というのは
その人間関係から自分が外されそうになっているというもので
何とか外されまいとしがみつくので余計苦しいのです。

外されてしまうと考えると
何かとてつもなく悪いことが起きてしまうのではないか
ということが不安の正体のようです。
ところが、実際その関係から外れてみれば
(厳密には、自分から外れようと決断をすれば)
「なんだこんなものか。こんなものなら恐れることはなかった。」

と別離という危険が現実化したことによる危険の実態を把握できたことで
予期不安から解放されたということなのだと思います。

このケースは怒りによって危険の感覚自体が喪失したケースなので
まさに怒りが人を救った事例でした。

<怒りが依存症のようにやめられなくなってしまう事例>

危険の状態が変化がなければ怒りによって人は救われない
さらに、怒りは放っておいてはなくならないので
ずうっと怒りが持続してしまうということを
それは危険の感覚も持続して精神的に消耗するということを
今回はお話しします。

人間に限らず動物は
危険を感じた場合、3種類の方法をとります。
逃亡(flight)
闘争(fight)
凍結(freeze)
このどれかの方法を自動的に(本能的に)とることによって
危険から身を守っているわけです。

逃亡と闘争については、生理的反応が一つです。
つまり、感覚野から扁桃体に信号が出され危険を把握し
扁桃体から副腎皮質等に指令を出して
筋肉を動かしやすい血流変化を起こして
逃げたり戦ったりしやすい体の状態にするそうです。

逃亡時の感情が、恐怖の感情ということになり、
今は安全ではないと感じ続けることによって
いつまでも逃げ続ける心理状態という便利な感情が作られるようです。
簡単に安全になったと思わないので、逃げ切ることができやすくなるわけです。

闘争時の感情は、怒りの感情ということになり、
いつまでも攻撃し続けることに便利な感情になるわけです。
相手を完全に叩きのめすまで攻撃をやめないから
確実に相手を倒すことができるからです。

感情と行動は切っても切り離せないようで、
逃げるから怖くなるという順番もあるし(ウイリアム・ジェームズ)
攻撃するから怒りもわいてくるという順番もあるようです。

そうすると冒頭の例では
自分の失敗とそのための人間関係の切断が怖くて逃げてばかりいたから
逃げることばかり考えていたために益々苦しくなってうつになっていった
という側面もあるのかもしれません。
そして、怒りに転じたことで、怖さを感じなくなった
という説明もありうるのではないでしょうか。

幸いなことに、冒頭の例では責める相手と縁が切れたので
責められることが無くなり、
恐怖も怒りも必要が無くなり
穏やかに生活することができるようになった
と説明できるのではないでしょうか。

これに対して
怒りが苦しさを軽減するという事例をまず挙げて
そのメカニズムとイメージを持っていただき
怒りが持続していくという事例を順に説明していきます。

例えば
職場で自分がミスをして上司に叱責された場合、
自分が悪かったと感じるだけだと
自責の念が生まれるだけですから
職場における自分の評価がずうっと低いままかもしれないと
危機感に襲われるだけです。

これが例えば、上司の指図の仕方が悪かったのだとか
同僚に足を引っ張られたのだとか
他人に原因があるとして、他人を責めると
自責の念が少し軽くなるようです。

また、夫婦間では、
妻が夫から落ち度を指摘されることがあり
自分に対して、夫から否定評価されるという危機感に対して
「そんなことを落ち度だと思う夫が悪い」
と逆切れをすると、逃げ場がないという意識は解消されるようです。

つまり、逃亡は、逃げなければならないという意識を作り
「危険がある」という危機感に加えて、
「逃げなければならない」という
もう一つの危機感や負担感を持つようです。

逃亡の意識から闘争に意識を転換し、
感情も恐怖から怒りの感情に転換することによって
このもう一つの「逃げなければならない」という負担感から
解放されることになるようです。

これはとても精神的負担を減らすようです。

ネズミとして逃げるよりも猫として追う方が気が楽でしょう。

職場の問題と夫婦の問題と例に挙げましたが、
人間の心理はもう少し複雑なようです。
職場で、同僚が大きなミスをして会社にいられなくなり
上司からパワハラのような叱責を受ける出来事があるとします。

仲の良い同僚であればあるだけ
自分が何とかしてやらなかったかとか
これから自分がフォローしてやらなければならないのではないか
とかつい考えてしまうわけです。

どうやら人間は仲間に貢献できなかったということを感じても
危機感を感じるもののようです。
貢献できないということで自分の評価が下がる
という危機感を感じるのでしょう。

でも、実際は自分が何もしてやれないと思ったり
「気にするなよ」などと声をかけてしまったら
今度は自分が上司から目を付けられるのではないかという
現実的な、新たな危険もあります。
かばわないことで同僚に対して後ろめたさも感じるでしょう。

とにかく危険を回避しようとするのも人間のようです。

この危険を感じることを回避しようとする方法として
怒りを発動させるわけです。

つまり怒りによって
自分の危機感を感じなくさせるわけです。
「同僚が、不真面目に仕事していたから悪かったのだ」とか
「やるべき手順をしない単純ミスをするなんて
プロとしてあまりにも失格だ」とか
同僚を責めることで、
自分を責めることをしなくてすむことになります。

怒りが負担を減らすということを知っていてやるというのではなく
怒りを持ってみたら少し楽になるという学習をするのでしょう。

学習効果が高い人は、何か困ると
すぐに怒りを他者に向けるようになってしまうのかもしれません。

似たようなことはいじめでも起きます。
いじめられている子がいるとします。
当初は一人ないし少人数の主犯者グループだけがいじめているのです。

周囲の子どもたちは、いじめられている子がかわいそうですから
あるいは、正義に反することですから
いじめを止めなければならないと自然に感じます。

いじめられている子どもと近しい関係だったりすると
あるいは感受性の強い子だったりしても、
いじめられている苦しさや恐怖、強烈な孤立感に
共鳴してしまい、さらに苦しくなってしまいます。

もちろんいじめを止めたりすると
今度は自分がいじめられるという
新たな危険が来ることがわかっていますし
それは予期不安なので、
実際の不利益よりも大きな不利益を
漠然と予想してしまいます。

この場合怒りを加害者に向けることが合理的なのですが
加害者と自分の力関係を考えてしまうと
怒りは加害者に向かいません。
怒りは、勝てると感じる相手にしか向かいません。
例外的に自分の仲間だと感じる場合に
負けても仲間を守らなければならないという感覚になったときだけ
加害者に怒りは向かいます。

いじめが悪化する場合には
そこまでいじめられている子どもを仲間だとは感じないのでしょう。
あるいは加害者も被害者も仲間だと感じているのかもしれません。
いずれにしても怒りは加害者に向かいません。

いじめを止めない別の子どもに怒ったり
いじめられている子どもに怒りが向かうようです。

いじめられていることは、いじめられる理由があるからいじめられる
というようなことを心の中の言い訳にして、
さらに、いじめられている子どもを心の中で責めるわけです。
部活をさぼるとか、借りたものを返さないとか、調子に乗っているとか
そうして、いじめに加担しないにしても
いじめられている子どもに怒りを持つわけです。

怒りを持つことによって、その場をしのぐことができます。
怒りを持たないで自分を責めているような場合に比べると
とても楽になります。

でも怒りを感じ続けているということは
危険を感じ続けているということなのだと思います。

自分に危険を感じない場合は
怒りを感じる必要がないからです。

危険が去れば怒りを感じなくなるはずです。
怒りという感情もエネルギーが必要ですから
怒り続けるだけでとても疲れてしまいます。
しかも根本的に危険を感じ続けているのですから
この観点からも精神的な消耗が起き続けることになるのでしょう。

人間関係の紛争を見ていると
どうも怒りを感じ続ける理由となる
過去の危険があったことは間違いないのですが
いろいろな理由で怒りだけが継続してしまい
感情の収拾がつかなくなって
精神的に追い込まれるという現象があるように思えてならないのです。

怒り、恐怖、あるいは焦燥感などは
自分を守るための感情のシステムです。
人間の心が成立した今から200万年前は
危険といっても生命身体の危険でしょうから
こういうやみくもに危険を回避する方法が
一番有効な方法だったのでしょう。

ところが、現代は人間関係が複雑になってしまいました。
逃げたり戦ったり焦ったりという危険回避のシステムは
人間関係をさらに悪化させるという逆効果になることがあっても
有効に危険を回避することから遠ざかってしまうようです。
現代の人間の不安を解消するためには
理性を働かさなければ解決しません。
それどころかより大きな不利益を受ける危険があります。

過度の苦しみから逃れる方法としての怒りも
怒っている以上、精神的に消耗していきますし
危険から逃れられたという感覚を持ちにくいものです。

特に相手を叩きのめしたという実感がない限り
怒りは解消することができない
怒りが解消できない以上危険から逃れたという感覚を持てない
こういうデメリットがあるように感じられます。

人間関係については、決着がついてしまったのに
(それは不合理な決着であることが多い)
いつまでも、怒りを持続して、
危機意識を反芻しては、また怒るということを
延々と継続しなければならない怒りスパイラルに陥る
そんな不幸があふれているように感じられるのです。

漠然とした不安を感じている人に対して
不安の原因が特定の個人にあるということで
その特定の個人に対しての怒りをあおることをもって
「支援」だという人たちがいます。

確かに怒っているときは、
精神的負担が幾分軽減されて楽になるかもしれません。
しかし、怒りが継続していくと
終わったはずの危険意識も継続してしまい
場合によっては
怒りなのか恐怖なのかわからないような感情が
長年継続してしまう事例もたくさん見られます。

間違いなく不幸だと思います。

こういう解決しない支援をするのは
「当面の解決をすれば後は支援は終わり」
という支援がほとんどだからです。

まるで、昔の童話みたいに
王子様とお姫様が結婚してめでたしめでたしみたいな
そんな印象を受けるときもあります。

現在の感情ばかりを考えて、将来のその人を考えず
とりあえず不安を解消すればよいやというような
刹那的支援が横行しているように思います。

しかし、それでは不安が解消しているわけではなく
不安が怒りに姿を変えて継続しているだけなのではないでしょうか。
危険を解消し、怒らなくて済む状態に向かう
こういう発想の、人とのかかわり、解決の方向を
考えていかなければならないと私は思います。


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