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それでも逃げろと私が言う理由。いじめの被害者の方が転校することは確かにおかしい。しかし、だからと言って逃げないということは、極めて危険なこと。命を守るのは理屈ではないということ。 [自死(自殺)・不明死、葛藤]

テレビドラマで、いじめの体験をしたという役の人が
いじめられていた時に、誰も「逃げてよいのだ」と言ってくれなかった
というセリフを言ったところ、主人公が
「いじめの加害者が学校に残って被害者が転校するなんておかしいだろう。どうして被害者が逃げなければならないのだろう。」という趣旨の発言をしました。

インターネットの商業記事でこの発言が肯定されて拡散されているのですが、大変心配になってしまいました。

どんな心配かというと
転校して新しい人間関係を形成して円満な人生が送れる可能性があるのに、
正義に固執して、いじめられている環境に子どもをとどめておいて
子どもが逃げることができなくなり、
さらに心理的に追い込まれるということが起きるのではないか
逃げたいのに、逃げられなくなってしまうことによって
自死が起きる事態になるのではないか。
という心配です。

確かに被害者が、いじめの被害を受けた挙句に転校という
さらなる不利益を受けることは不合理です。
いじめ被害は転校だけではなく、
不登校、引きこもりという損害も生まれますし
学校に出てきても「またあの時のようにいじめられるのではないか」
というようなトラウマの損害も見られます。
学業の遅れということもよく見られる損害です。

これらの損害について、いじめ加害者が弁償するということは
ほとんどないと思います。
いじめを受ける被害は、実際は莫大な損害であり、
生まれてきた喜びが失われるほどの被害を受けることもあります。
最悪の事態に自死があるわけです。
だから、「加害者が転校して、被害者が学校にとどまるべきだ」
という考えは理屈ではその通りだと思います。

しかし、いじめ及びいじめ被害という事象はそう単純ではありません。
1)何がいじめか、どちらが悪いのかということを、速やかに学校等が認定するということは、現実には期待できません。
2)仮に加害者が転校すれば、被害者は大手を振って元の学校で快適に暮らせるのでしょうか。もしそんなことを考えているのであれば、いじめやいじめ被害について何もわかっていないといわなければなりません。
 いじめで被害者がどうして傷つくのか、心理的に重い負担を受けるのかというところですが、いじめられて痛いとか苦しいとかということは想像しやすいのですが、それだけではありません。同級生などの前でいじめを受けることによって、自分が友達の一員としての立場がなくなる、顔をつぶされる、配慮をしなくてもよい人間だと思われるなどの対人関係的危険を感じます。この危険から脱したいと思うのですが、その追い込まれた心理として、自分の仲の良かったはずの人間が助けてくれるはずだという援助希求が生まれ、追い込まれれば追い込まれるほどこの援助希求が大きくなっていきます。そういう友達が何らかの援助をしていることがほぼ必ずあるのですが、追い詰められた本人の援助希求は肥大化して、「今この危険を除去してほしい」という結論を求めてしまうので、それが援助だとは感じられなくなっています。そして孤立無援、危険除去の不可能感を抱いて心理的に追い込まれていくわけです。
そうすると、少数の加害者が転校させられたとしても、自分に対するいじめを黙認していたと被害者が認識している圧倒的多数の「傍観者」がすべて在校し続けているわけです。そんな人間関係にとどまって、被害者は癒されるのでしょうか。そんなめでたしめでたしにはならないような気がします。加害者が転校すれば解決だというのは、いじめの現実を知らない人の理屈に過ぎないと思います。ただし、例外的に、職業的加害者がいて、その被害者だけでなく、圧倒的多数の子どもたちが被害にあっているような場合等で、多数者が傍観者と言えないような場面があるとすれば、その時に加害者の排除によって、被害者の平穏が実現するという可能性は否定できないでしょう。
 さらに、現実に起きているいじめでは、加害者と被害者がはっきりしていると、圧倒的多数の傍観者は感じていません。実際には被害者が一方的にいじめられているとしても、傍観者たちは、傍観をしている自分を正当化しようとします。ここでよく起きる傍観者の心理は、「被害者にも落ち度がある。加害者の感情も理解できる。」というものです。現実の学校や職場のいじめで、傍観者たちはこういう言い方をするのです。そしてだから、いじめではなかったというわけです。
そういう意識のままで、加害者が転校させられてしまうと、傍観者たちは加害者が転校した事態を受け入れるでしょうか。「どうして一方的に、あの人たちが加害者だと決めつけられて、学校からいられなくなったのだ。おかしい。その原因を作ったのはあいつだ。」と被害者に対して敵対的感情が起きる原因がここにあります。そんなところに被害者がとどまって、健やかに学校生活を送ることができるでしょうか。
 確かにこの現実は不合理です。不合理な現実は変えなければなりません。それはそうだと思います。しかし、これが現実なのです。不合理が是正できるまで、この現実の中で被害者を放置して、死の危険にさらし続けることはできないと私は思います。
 一体誰が、不合理だから、理屈に合わないから転校を拒否するというのでしょうか。
 被害者が精神的に追い込まれてしまっているならば、転校を拒否したとしても転校をさせるべきだと思います。もっとも精神的に追いこまれて危険な場合は、転校をして今の危険から逃れることができるというアイデアを拒否する精神力は残されていないことが多いと思います。
 親ならどうでしょうか。自分の子が被害を受けているのに、さらに転校しなければならないとなると怒りを覚えるのはよくわかります。転校に伴う諸手続きの時間や費用、転校後の例えば通学等の時間や費用、さらなる心配など、様々な負担が生じます。何よりも、自分の子どもの将来の制度設計が成り立たなくなってしまうことは大きな打撃です。それはよくわかりますが、考えなければないことは、子どもの気持ち、現在の学校にとどまるとした場合に起きるわが子の精神的負担なのだと思います。わが子の心理的圧迫を継続しないということを第一の行動原理としなければ、子どもはさらに追い込まれていくことになるでしょう。特に子どもが逃げたいという意思表示をしているときに、親の正義感で子どもの願いを否定するということは、子どもに絶望感を与えてしまう大きな危険があると思います。
 しかし、子どもの気持ちなんてかかわりなく、自分の正義感を振りかざして、子どもやその親御さんに合理的な行動を強要する人たちというのは必ずいます。善意なのですが、考えが足りないために、子どもを追い込んでしまう人たちです。親は、子どもの命を最優先して、外野に耳を貸さないようにする必要があると思います。
 いじめを受けた段階で、被害はすでに生じています。これを無かったことにしようとすると被害が拡大していく危険があるわけです。すでに生じている被害をいかに拡大させないで、最小限にとどめるのかという発想こそが必要だということになります。意地や正義を貫いて被害を無かったことにしようとして、子どもがさらなる被害を受けては悔やんでも悔やみきれません。

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