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裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 誤解されるポイントと誤解の理由 1 現状分析についての誤解 [家事]

 
<この記事を書く動機というか必要性>
<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

<この記事を書く動機というか必要性>
面会交流については、近時、今後の実務の方法について、家庭裁判所関係者から提言された大きな二つの論文があります。
・家裁調査官研究紀要の27巻 「子の利益に関する面会交流に向けた調査実務の研究」小澤真嗣他
・家庭の法と裁判  26号 「東京家庭裁判所における面会交流調停事件の運営方針の確認及び新たな運営モデル」東京家庭裁判所面会交流プロジェクトチーム
です。
それぞれ、最初に私が読んだときは、私の考えている運用論が家庭裁判所からも支持されるようになったと、すんなりと受け止めていました。しかし、実務的には、これらの二つの論文が、昨今、子の利益よりも大人の利益を優先しようとする実務運用に使われているという実感がわいてきてしまいました。
一つは、子どもに別居親を会わせたくないという同居親に寄り添って、会わせないための調停での方法を指南している弁護士が何らかのマニュアルを書いているとのことで、その論文の中で面会拒否のテクニックとして二つの論文を指摘しろと言っているというのです。論文を読まないで都合の良いことを言っているのかなとその時は素通りしたのです。
しかし、その後、家庭裁判所で面会交流の事件をしていたら、若い裁判官から、「最近は、直接面会を裁判所も必ずしも認めない流れになっている。」というような発言がありました。どうやら、東京家裁PTの論文のことを言っているらしいのです。論文を読みもせずに雰囲気だけを拾い取っていたり、誤解をしている誰かの話をうのみにしていたりして、東京家裁PTの論文を誤解している可能性がありそうです。裁判官ですらこのありさまなのだから、弁護士やユーザーも同じように誤解をしているのではないかと心配になりました。
以下、東京家裁PTの提言の何が誤解されているのか、どうして誤解されているのかということを検討しようと思います。

<実務運用分析の誤り。極限的な実務運用がスタンダードとされて分析がなされているように読めることが原因。そしてその弊害>

1)論文の実務に対する二つの批判
論文では、これまでの実務運用が改められるべきだと述べられています。まとめると
・直接交流一本やりで同居親に配慮を欠き批判された。
・面会交流の内容が貧弱であること、実際に履行されないことを別居親から批判された
というものです。
2)同居親からの批判についての改善の提言
同居親の批判に対しては、同居親に対して説教や命令をするだけでなく、心情をくみ取ったうえで、面会交流の子どもにとっての必要性と、面会が禁止される場面があることを丁寧に説明していくという改善を提言しています。
3)分析が例外的な実務運用を一般化したこととその弊害
 この分析は、面会交流調停について全国の家裁実務を調査検討したものではありません。私の仕事は、東北地方中心ではありますが、北海道から関東まで、結構多くの家庭裁判所で面会交流事件を担当してきました。また、全国の当事者の方々から電話などで相談が寄せられています。直接交流一本やりで、面会交流調停が行われているという体験もありませんし、当事者からの報告もありません。東京家裁の事件でも同様です。同居親からの批判としてあげられた内容については、ジャンダーフリーを主張する弁護士から、直接交流一本やりの家裁実務の批判を見聞きしたことはありました。しかし、特定の政治的立場からの感じ方だろうと高をくくっていました。しかし、当の東京家庭裁判所が自分たちは配慮に欠ける強引な調停をしていたというのですから、そういうこともあったのでしょう。なんとも不思議な話です。
 少なくとも、私が相談を受けた事案の調停実務の問題点は、会いたい、会わせたくないという当事者間の争いが「どっちもどっち論」になってしまい、子どもの利益が最優先とはされない調停が進められているというものばかりです。私が担当した事案の調停でも、直接交流一本やりで、強引に同居親を説得するという運用は皆無で、会わせたくない心情を解きほぐして一緒に考えていくという運用がなされています。そうでなければ、面会交流は、現実には行われないからです。もし、直接交流一本やりの調停があったとしても、それは東京家裁とその支部の極一部の事件で行われたものだと、私の実務経験からは考えざるを得ません。
 このような、調停実務の極めて情緒的な分析が、提言の誤解の根本原因になっています。つまり、全国の家庭裁判所は、東京家裁が反省しているのだから、自分たちも同じように反省して、運用を改めなければいけないと機械的に思うようです。そもそも、東京家裁の傾向を敏感に反映した実務をしていないくせに、自分たちも同じ誤りを犯しているのだと感じるようです。これまで、子ども利益のためには、できるならば直接交流を実施した方が良いと考えて、いろいろ同居親に働きかけてきたけれど、それ自体が悪かったと誤解するようです。東京家裁の反省するべき実態が示されていないために、自分たちの実務が同居親に冷たかったとした、受け止められないわけです。しかし、二つの論文とも、直接交流が条件が許せば一番子の利益に最も効果があるといっているのです。ところが東京家裁PTの「反省」によって、他の裁判所ではこの根本が落ちてしまうようです。ますます同居親へ配慮しなくてはならないということだけが結果として見えてきてしまいます。結果として、「子の利益を最優先して調停を運営する」という根本的価値観よりも、同居親への寄り添いが優先されるという結果が起きてしまっています。
4)別居親からの批判についての改善の提言
別居親の批判に対しては、現実の課題や問題点を克服していきながら、自主的な解決を実現することも視野に入れて調停を運営するという改善方法が報告されています。
5)提言の改善ポイントについての誤解とその原因
別居親の、「調停や審判事項が守られない」という批判にどう答えるかということがあいまいだと批判されるべきでしょう。間違っているわけではないけれど、あいまいだから誤解されるのです。別居親の批判は、子どもに会いたいということが根幹にあり、「調停や審判で会えることが決まったのに会えない」という批判です。これに対して解決方法は二通り考えられます。Aは、実現不可能な取り決めをしないで、実現可能な範囲で調停、審判を行う。Bは、調停や審判を家裁の手続きが終わっても同居親が自主的に履行するように、同居親の心に働きかける調停を行うということです。PTの結論はBであることが読めばわかります。私から言わせれば、同居親の自主的な面会協力を後押しするように別居親も自分のふるまいを考えるということも大切です。しかしながら、どうも裁判所というのは、自分たちの関与に批判が来なければよいと思っているのでしょうか、Aの解決方法を、おそらく無意識に志向してしまうようです。つまり、実現可能な範囲で面会交流の方法を低くとどめようとする実務傾向が最近見られています。つまり、直接交流が守られそうもないなら、初めから間接交流で決めればよいやという安易な考え方です。子どもの利益を最優先する考えが消失しているだけでなく、当事者の利益よりも裁判所の自分が批判されないという利益を優先しているようにさえ感じられることがあります。
二つの論文とも、「子の利益を最優先する」という根本価値を繰り返し述べているのですが、どうやらそれは、読んでいる裁判所では、意味が入ってこず、枕詞のように扱われているのかもしれません。
6)この分析の現実の実務的効果
 この分析の部分の実務的効果は、先ほどのBのような選択肢が取られる理想的な調停実務が展開されるのではなく、単に同居親の感情に寄り添って、同居親に積極的に働きかけることを自粛し、「嫌なものは仕方がない。できる範囲で間接交流でまとめるか、時期尚早で面会を認めないか。」という傾向になりつつあるのではないかという危機感を感じています。

<ニュートラルフラットという言葉の弊害>
 提言の冒頭に出てくる「ニュートラルフラット」という言葉の弊害については、次回また述べたいと思います。

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