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【なぜ最近間接間接交流に誘導されるのか】裁判官も誤解している東京家裁面会交流プロジェクトの運営モデル 2 「ニュートラルフラット」という言葉が誤解のポイント 本来どうするべきか [家事]

・はじめに 前回の記事の要約
・ニュートラルフラットという言葉自体の問題点
・ニュートラルフラットという言葉の現実の効果
・そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか
・調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合
・同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合
・ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき調停運営
・もう一つだけ、人間は変化するものだということ

<はじめに 前回の記事の要約>

前回の記事で、東京家裁PTの論文が誤解されているということ、その原因の根本が、これまで東京家裁とその支部のごく一部という極限的な場面でしか行われなかったであろう、直接交流一本やりという調停実務があり、同居親の感情を無視して直接交流を押し付けてきたという反省を、無限定的に行った。ところが圧倒的多数の家裁調停実務は直接交流原則主義など行っていないのに、ますます同居親の感情を調停実務の重要要素として取り上げるようになり、その結果子どもが別居親と会う直接交流が減少していく誤った実務運用となっていると批判しました。今回はその続きです。

<ニュートラルフラットという言葉自体の問題点>

東京家裁PTの提言の冒頭部分で出てくるのが「ニュートラルフラット」という言葉です。PTは、この言葉に二つの意味を持たせており、1)同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、2)ひらすら子の利益を最優先に考慮する。そういう立場だと定義づけています。結論から言って、実務的にはニュートラルフラットという言葉は2)の意味が軽視される傾向に誘導する効果があるようです。ネーミングに原因があることは明らかです。
なぜならば、言葉の意味から、2)は当然に出てこないからです。さらに、提言自身が、提言の次の部分で、1)の意味でニュートラルフラットという言葉を使用しているからです。子の利益を最優先するということを強調しようとしたあまり、1)の意味で言葉を使ってしまっているように読めるということです。
どうして、「同居親、別居親の主張よりも、家庭裁判所の後見的立場から子の利益を最優先して考える」と明確にできなかったのでしょうか。世間的には、こういうと反発されることを考慮したのだとは思います。しかし、概念があいまいになり、誤解を作り出した原因になっていると感じます。

<ニュートラルフラットという言葉の現実の効果>
改めて1)の文言を再掲しますが
同居親及び別居親のいずれの側にも偏ることなく、先入観を持つことなく、
というのです。

これまでの実務で、あまり別居親に偏られた調停があったということは経験ありません。これは、別居親が男性、女性にかかわらずです。別居親が先入観、偏見を持たれたという経験ならあります。典型的には、同居親が女性で、事実に反するDVや精神的虐待を主張されて、別居親が調停委員会や裁判所によって妙に警戒されたという経験はあります。事実調査も何も行わないで同居親の言い分だけで、インカムをかぶった裁判所職員が別居親を見張っていたのです。しかし、一部の例外を除いて、概ね偏りなく扱われているように感じています。ただ、全国の当事者の方々からの相談では、同居親に偏った運用がなされているような相談を受けています。私も、面会交流調停の代理で他県の家裁の支部で、別居親が面会交流の目的はなんだと調停の冒頭で調停委員から詰問された経験があります。
 そういう意味からは、別居親にとって、ニュートラルフラットは歓迎するべき言葉になるはずなのですが、実務は違っています。提言の解説において、同居親から直接交流一本やりだという批判があって、それに対して改善を提言していると読めることが原因です。あたかもこれまでの家裁実務では、会わせたくないという同居親に、先入観をもって直接交流を押し付けてきたという反省をしているように受け止める人が少なくないのです。しかし、圧倒的な実務運用は、このような直接交流一本やりをしていません。それでもこれまでを改めて、ニュートラルフラットだといわれてしまうと、ニュートラルフラットという言葉は、会わせたくないという同居親への説得を自粛させる方向にしか働かないようなのです。

<そもそも調停実務においてニュートラルフラットという言葉は必要だったのか>

私も裁判所や弁護士会で調停委員の役割を担当していますが、あえて「どちらの当事者にも偏らず、先入観を持たない」ということを裁判所が提言することは必要だったのかということに、自分が言われる立場として疑問があります。

これ、裁判所が誰に向かって言っているかということなのです。言われているのは調停委員の人たちなんです。実際は、裁判官に対して、調停委員会をこういう風に運営しろということなのですが、主に反省を促しているのは、調停委員だということになります。当事者と直接やり取りしているのは、多くの事件で調停委員と調査官です。だから、偏っているとか先入観を持っているといわれているのは調停委員だということになるわけです。少なくとも調停委員からすればそう受け止めてしまいます。

しかし、私の実務上の経験からは、調停委員の方々は、むしろ当事者の心情に配慮して偏りがないことを第一に調停運営をされているような印象を受けます(これは必ずしも積極的に支持されることでなく、子の利益の最優先よりも親の感情を優先しているのではないかという感想なのです。)。言葉は変ですが、調停委員は本能的に、偏りのない調停運営を心掛けるという特質があります。自分の価値観を優先するような調停委員は、通常はいません。1)の意味でのニュートラルフラットな立場に立っています。
それを超えて、少なくとも別居親の立場に偏った調停委員がいるということは今まで聞いたことがありません。もしそういう実例があるならば、具体的に例示するべきだと思います。そうでなければ、もともとニュートラルフラットを心掛けている調停委員に対してあまりにも配慮を欠きすぎた提言になってはいないかという疑問があるわけです。調停委員をお願いしている立場の裁判所の言い方としては、あまりにも無礼だろうと思ってしまいます。もっとも調停員に反省を促しているとした場合のことですが。
もしかしたら、ここに裁判所の調停委員に対する誤解があるのかもしれません。もう少し検討してみましょう。

<調停委員がニュートラルフラットを逸脱するように見える場合>

調停委員が、客観的に見れば、偏りとか先入観に基づいて公平を逸脱する場合があります。それは当事者の感情に過剰に共感しすぎてしまう場合です。一方当事者が弱い立場であるとか、追い込まれて苦しんでいるとか、おびえているとか、本能的に味方にならなければいけないと感じてしまい、つい肩入れしてしまう場合です。この場合、その当事者に対して、範囲を限定するならば思う存分に共感を示すということは問題ないと思います。しかし、一方に肩入れしてしまった結果、他方に不利な対応することは厳しく戒められなければなりません。その人の感情と発言が万人からみて根拠があっての感情と発言だとは限りません。感情があるから原因があるでは調停ではなくなります。
もう一つ、偏りがうまれてしまう場面は、一方当事者が感情的になりすぎて収拾がつかず、合理的な解決に向かうことが不可能だと思うときです。こういう場合は、調停の行方に関する重要な事情ですから、事情を他方当事者に告げて進行についての意見を求めるべきです。事実を告げないで、感情的な当事者に沿う形で調停をまとめようとしてしまうことは、調停委員の都合で調停の方向を決めるということであり、これもしてはいけないことです。
そもそも、一方当事者が調停委員会に対して感情的になる場合は、その当事者の主張が実現しそうもないという事実に対して憤るという場合よりも、調停委員会が、自分にはわからない事情によって相手に偏った運用をしている、不公平な運用をしていると感じられる場合だということはよく考えてほしいと思います。
ここは調停委員会の事実認定の問題にも関連するところだと思います・

<同居親から見て面会交流調停で偏った運用に見える場合>

同居親の批判である、直接交流一本やりで強引に調停が進められたという批判には、そのような事実がないのにそう感じるだろうということは、実務家ならば理解できるところです。
子の利益を最優先として考えるならば、条件が許せば直接交流が一番望ましいということは、あまり争いがありません。そのためには、本来代理人は、双方の当事者の葛藤を高めることなく、落ち着いて両当事者が子の利益を優先して考えることができるような環境を作っていくことが求められるわけです。話し合い自体でも、無駄な争いをせず、相手の意見を尊重しながら子の利益を優先するように相手方を誘導することが求められます。また、面会自体も方法を工夫して、子どもがより安心して面会できるように同居親の安心感を構築してく努力が必要だと考えています。仙台弁護士会では、同居親の代理人の弁護士、同居親を安心させて子どもの利益を最優先するために、ボランティアで休日をつぶして面会交流に協力している人たちがいます。頭が下がります。
しかしながら、一定割合で、客観的には面会交流が制限されるべきではない事案でも、感情的に面会をさせたくないと主張する同居親が多くいます。会わせたくない理由としてあげられることは支離滅裂なことがほとんどで、子の利益からは会わせない理由がないことを隠そうとすらしない場合もあります。つまり、自己制御ができない状態であり、子どもの利益を考慮して意思決定することが不能な心理状態の同居親の場合です。それなりに理由をつける場合がありますが、簡単にそれが事実ではないことがはっきりする場合が多いです。つまり別居親(通常は父親)に、DVもなく、児童虐待もなく、精神的虐待もなく、連れ去りの危険すらない場合です。別居親からの同居親に対する敵対感情は強くなく、一方的に同居親が感情的になっている場合です。
 こういう場合、子の利益を最優先に考えた場合、同居親に対しては、理由なく子どもの面会を拒否していると調停委員会は受け止めることになるでしょう。そうすると、調停の大部分の時間は、同居親への調停委員会の説得に費やされます。事実私の代理人となっている面会交流調停期日の大部分は、待ち時間です。調停委員会は、時間をかけて同居親だけを説得するというのが毎回の調停となるわけです。同居親からすると、調停委員が自分にだけ注文を付けるのですから、「直接交流ありき」、偏った調停運営と感じるのはありうることです。これは、東京家裁PTのニュートラルフラットな調停運用の結果こうなるということが正確なのです。だからと言って問題もないのに、別居親との調停の時間をいたずらに取ったところで、面会交流の内容を下げろという話にしかならないわけです。これは、子の利益を最優先するというそもそも論から見れば本末転倒な話です。
 同居親からの批判の事実関係は、こういう流れではないかと考えることが私の実務体験(代理人実務、相談実務)からは自然のことです。だから、こういう場合、つまり同居親が理由もなく面会を拒否しているので説得されている場合でなければ、どういう場合なのか事例を上げなくてはなりません。あえてニュートラルフラットなどという言葉を使って誤解を招き、子の利益を最優先で考えられなくなるような提言をするべきではないのです。東京家裁PTは、全国の家裁運用をミスリードしないように、誤解を含んだ形での影響力が生じることを看過してはならないということを自覚するべきでしょう。

<ニュートラルフラットの本当の意味、あるべき説得スタイル>

私のブログでも何度も言っていることなのですが、意思を持つ人間の何らかの行動を求める場合は、強硬に結論を押し付けても失敗するのであって、その結論に誘導していくことが求められることだということです。提言は、システム論にこだわりすぎて、わかったようなわからないようなものになっています。ここでPDCAサイクルみたいな話をしても仕方がないのですが、若い裁判官には理解した気になる論法なのかもしれません。
 要は、まず、「同居親が別居親に子どもを会わせたくないということは、特に理由がなくても当然生じうる感情だ」というリアルを承認することから始めるということです。感情だから仕方がないと割り切るところから出発するべきです。危険だとか子どもが心配だとか言うことではなく、面白くない、不愉快だ、子どもの心を奪われたら怖いということは、普通の人間の感情だと思います。こういう感情があること自体は積極的に承認してよいと思います。こういう感情さえも否定されたら次に進みません。
 その感情を他人が否定すると、その感情主体は自分を守るために感情が生まれることには合理的理由があるということを述べなくてはならなくなります。そこに嘘や大げさな言葉が必要になる理由があります。そうではなくて、「離婚した夫には子どもは会わせたくないよね。」と始まった方が、その後スムーズになると感じています。
 ここで、調停委員から「でも子どもにとっては会わせた方が良いのだ」とか、「そんなことで子どもに申し訳ないと思わないのか」という説教が始まれば、同居親はへそを曲げてしまうし、あることないこと主張が始まって収拾がつかなくなります。調停が長期化してしまい、何も責任のない子どもが別居親に会えない状態が続いてしまいます。会わせたくないというものだということを他人から言われることで、同居親は、自分の感情が承認されたという安心感を獲得できるようになります。自分の素直な感情を話しても否定されないという安心感です。これが調停委員に対する信頼感につながるわけです。同時に、わかるけれどじゃあ、調停終わりということにならないことから、同居親は「どうにかしなくてはならないのだな」という考えが生まれる可能性が出てくるようです。
 ここで調停委員は、「会わせたくないのはわかるけれど、子どものためには会わせなくてはならないのよ。」と先を急いでしまうと、せっかくの負の感情の承認の効果がなくなってしまうかもしれません。今回の提言の良いところは、急がない、時間をかけるということです。むしろ、子どもの成育状況、母親としてのかかわりを話してもらうとか、父親に対する感情を聞き出すという回り道をするべきなのだと思います。提言にもそれらしいことが抽象的には述べられているのですが、母親の会わせたくない感情に、合理的理由があるはずだという前提に立って、調停において先々検討するいわゆる6つの課題の聴取をするようなことを述べています。これでは、面会交流阻害事由があるという主張をさせるように誘導してしまっています。ニュートラルフラットの手法とは言えません。
 徐々に、会わせたくないとはいっても、もし会わせるとしたら、どういうことを条件とするかということを考え出してもらう工夫をすることが求められると思います。つまり、無条件に会わせるわけではなく、自分が少しでも納得する形で会わせる、会わせ方をコントロールできるのだという安心感を持ってもらうということです。
 この時同時並行で別居親と話をしているわけですから、別居親に対して、同居親の安心感につながるような発言を引き出していくことが大切です。そうして、その発言を同居親にフィードバックしていくという作業が必要になるでしょう。つまり、人間には弱い部分があり、離婚をしたとしても、子どもがいる場合は、双方が親として相手の弱い部分をカバーしあうという協力関係を持つことが求められているとして、この協力関係を子の利益のために双方に努力してもらうということが調停のあるべき姿だと私は思います。
もちろん、面会交流を禁止するべき事情がある場合は、事実認定ができるか否か双方から主張立証をしてもらうことが必要となりますが、今考えているのは圧倒的多数の面会を禁止する理由のない場合です。また、偶然起きたような、人格に基づかないような行動や、主張が曖昧過ぎて事実認定ができそうもない事情しか主張されないような場合は、まずは協力関係の構築の努力をするべきであろうと私は思います。
現代の調停は、逆に、双方の非難合戦を仲介しているとみられる場面があります。これと違って、あえて主張の全部を告げないで、協力関係を形成していくためには、何が調停の方向に影響のある事実であるか、ただ調停委員は聞いておけばよいだけの事実か見極めて、調停委員会の合意が確立していなければなりません。裁判官の強いイニシアチブが必要になる場面です。
また、調停委員と当事者との間の心理学でいうところの信頼関係、ラポールの形成をもう少し意識してよいのではないかと思われます。そうでなければ、人生の一大事について、当事者が見ず知らずの調停委員に対して心を開くということはないと思います。この際注意しなければならないのは、双方に公平な関係を維持するということです。これは実際は難しいことではなく、申立人と話しているときは申立人の感情を承認し、相手方と話しているときは相手方の感情を承認するということで解決できます。両方にえこひいきするという手法です。私は昭和の時代の小学校の先生から伝授されましたが、心理学でも確立している手法のようです。双方が感情が対立しているとしても、どちらかの感情に共感することが他方の感情に共感することと矛盾しないことがほとんどですが、矛盾したとしても気にしなくてよいと思います。

<もう一つだけ、人間は変化するものだということ>

今述べたような調停運営がなされて、当事者双方が安心していくと、当事者双方は安心感を獲得することができるようになります。そのような調停に立ち会うと、人間が変化していく様子を見て感動することがあります。
だから、調停の一時点をとらえて直ちに、面会交流の方法を決定することには抵抗があります。面会交流調停は急がないというのであれば、少しずつ面会交流を始めていくことで、様子を確認して、さらに子の福祉のためにより良い方法を検討していくことが適切だと思います。一方で、過大な面会条件としないために馴れという経験が双方必要だということと、他方で、子どもにとって不十分な面会を永続化しないためです。もう一つ、無駄にお互いに不信感を抱き続けたり、景観間をもっておびえ続けなくするという効果も期待できます。

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